錬金術師の隠れ家

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映画感想:『映画プリキュア スーパースターズ!』 ※政治的批評につき注意

   今永田町が荒れている。「嘘」という名の暴風雨でボロボロである。公文書の改竄が明らかになったというのもそうだが、その責任を一切認めず、昨日言ったことと全く違う答弁を連発するホラ吹き政治家の醜悪さは子どもでも分かる。嘘をついても許されるなんて、こんなみっともない大人の姿、子どもたちには見せたくないだろう。それよりは、嘘を許さず、しかしかつて約束を破ってしまったことを償うプリキュアの勇姿を応援させた方がはるかに教育的だ。

   『劇場版プリキュア スーパースターズ』をみて真っ先に思い浮かんだ感想はそれだった。本作に出てくる敵キャラは平気で嘘つくやつで、「嘘をついて開き直るなんて信じられない」という台詞がプリキュアの口から出てくるのである。その台詞を今総理大臣や財務大臣の椅子に座ってる面々に聞かせてやりたい、という印象が真っ先に出てきてしまったのである。プリキュアを使って政治的批評をするなんてあんまりしたくはないのだが、むしろ現実の醜悪な政治と比較してみることで春のプリキュア映画の魅力というものが強く認識されるものだと思い、今画面をフリックしている。本記事ではプリキュア映画が「春」に公開されることの意義に注目して論じよう。

 

   手始めに、知らない人のためにプリキュアの映画がどんな形態で公開されるのかにも触れておこう。プリキュア映画というのはなんと一年の春と秋に2本も新作が上映される。秋に公開されるのはその年のプリキュアのタイトルを冠したもので、当然その年のプリキュアが活躍する。他方で春に公開される映画は「カーニバル」や「スターズ」の言葉が多用されることからもわかるようにオールスター映画の性質を持っており、一昨年の『みんなで歌う♪奇跡の魔法!』では、なんと総勢44人ものプリキュアが参戦したのだ。このように春のプリキュア映画は往年のプリキュアファンやへのサービスや、本作をきっかけにメインターゲットである児童たちに過去作に興味を持ってもらおうという側面が強かったのである。

   流石に数が増えすぎたのか、去年からは前年ともう一つ前の2作にゲスト出演作を限定するようになったのだが、このとき春のプリキュア映画は重点が少しずれたように感じる。春の映画が特に要点に据えるようになったのは、前作と現行作の溝を埋めること、言うなれば「引き継ぎ」である。プリキュアが終了するのは例年1月末で、プリキュアの新作がスタートするのは例年2月のはじめ。つまり3月のプリキュア映画には、一つ前のプリキュアシリーズが終了して悲しみにくれている子どもたちに、成長したプリキュアたちの活躍を見せてあげるという側面があるのだ。「成長した」というのもミソで、前作のプリキュアたちは幾多の試練を乗り越えて立派に大きくなっている。そんな先輩の彼女たちが、プリキュアになってまだ一月しか(一部のキャラクターの場合はわずか数日)しか経っていない後輩たちにキラキラと戦う勇姿を見せたり手助けしたりしてくれるのである。『キラキラ☆プリキュアアラモード』が終了してしまい寂しさを覚えていた子どもたちも、キュアホイップたちが新しいプリキュアの先輩として元気に活躍しているのをみれば、さぞ満足することだろう。子どもたちの気持ちの面でも、プリキュア間の関係の面でも、「作品がまるきり変わる」というシリーズを続けていくうえでの避けがたい断絶を和らげる機能が春のプリキュア映画にはあるのである。

(註:もっとも、近年は放映中にこうした「引き継ぎ」を行うことも多くなった。最終回に新作の主人公がゲスト出演するのだ。『スーパースターズ』には主人公の野乃はなが『キラプリ』でのゲスト出演の経験から、キュアホイップたちに助けを求めに行くというシーンがある。世界観レベルでも繋がりを感じさせるようで実に興味深いシーンである。)

 

   テーマについても春と秋とで結構違ってくる。秋の映画は現行シリーズも大分進んで、恒例の新プリキュアや新アイテムも出揃った頃なので、プリキュアもそこそこ成長しているのである。テーマは現行のテーマの延長か補完であることが多く、描かれるのは主に主役のプリキュアや妖精の内面である。それに対して春の映画はお祭りであり、プリキュアもそんなに掘り下げはされていないので、現行シリーズに関してあまり踏み込んだことはできない。そのためかゲストキャラクターの悩みを題材にして、「異質なもの同士の友情」や「親子の愛」といった比較的普遍的なテーマを扱う。本作の「友達との約束を守る」というテーマも当然それにあたり、シンプルではあるが、過去の約束を果たすために過去作のプリキュアと協力して困難を乗り越えようとするハグプリの面々に我々は親しみを覚えるのである。

 

   醜い政治話に話を戻してしまうと、本作が今の政治とあまりにも対照的に見えたのは、まあ時期が重なったのは偶然にしても、春のプリキュア映画が普遍的な道徳をテーマにして、駆け出しのプリキュアと熟練のプリキュアとが協力して殊勝にも苦難を乗り越える、という構図を有する点が、「約束を守る」「嘘をつかない」という普遍道徳を無視し、責任を自ら取ることなく部下や友人になすりつけようとする首相の姿とあまりにかけ離れていたからであろう。拳や技に乗せられるプリキュアたちの勇気と友情、力強さに子どもたちはミラクルライトでエールを送るのである。それは荒んだ大人からすると単なる綺麗事にみえるかもしれないが、今の国会を見てみると実は最も必要とされていることなのかもしれない。というわけで皆さん、プリキュアを応援しよう。そして、プリキュアになろう。

映画感想:『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』

 『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』をみた。去年秋にやっていた『響け!ユーフォニアム』二期の内容を再編集して劇場版にしたもので、本編を再構成することによってかなり徹底してくみあすの話となっている。そのため二年生のしがらみや麗奈と久美子の関係描写はカットされている。その辺のエピソードが好きな人には残念かも知れないが、しかしそれによって、久美子とあすかの関係がより明瞭に見えるようになっている。内容自体は放映版と変わってないのだが、見せる場面がひたすら久美子とあすかのシーンに限定されているため、久美子とあすかが互いに互いの感情をぶつけ合い音を響かせ合う過程が強く印象に残る。
 再編集によって具体的に何が起こったのかというと、久美子とあすかがそれぞれどのような人間関係を抱えているか、それが彼女らの音楽活動にどのような影響を与えているのかが極めてわかりやすくなっているのである。キーは久美子とあすかのそれぞれの肉親(姉と父親)との関係である。
 久美子とあすかの話となっていることは先ほど確認したが、主人公はあくまで久美子である。受験を控えた高校生が担うことになる重責に対してあすかがどう決断するかという物語の中心点が、久美子の視点からみることによって、久美子姉とあすかの姿が、久美子の姉の姿が演奏中にあすかをみた直後フラッシュバックしたり、共通するセリフがあったりすることでだぶって見えるようになっている。しかし直接「あすか先輩って私の姉に似ている」だとか「姉と同じ道を歩んでほしくない」とかセリフで直接示すわけではないところがまた優れていて、映像への信頼とでもいえるものが垣間見られるようだ。先輩は自分の姉と同じく確実に後悔する道を歩もうとしている。それが嫌で、子どもでいいじゃないかと本音をぶつける。こうした麻美子-久美子-あすかのラインが、セリフや映像に無駄のない劇場版の再編成によってより重厚になっているのである。
 あすかと麻美子の姿が久美子の視点から重なるだけでなく、メインキャラクターの肉親であるあすか父と麻美子もまた似たような役割を演じているのがよくわかるようになっている。コンクールなんてどうでもいいと思っていたあすかも、審査員に父がいると知ることで、父に演奏を聴いてもらうことを目的とするようになる。久美子もまた、今まで一度も演奏会に来てくれなかった姉に演奏を聴いてもらいたがるようになる。久美子とあすかは両者ともに音楽を肉親との関係で位置付けるようになるわけだ。麗奈が態度で示すような音楽を純粋目的とする姿勢からは遠ざかるが、そもそも二人が楽器を始める動機が肉親からの影響であったことを踏まえると(これも冒頭にあすかの幼少時代のシーンが新たに加えられることですっと理解できるようになっている)、母親に遠ざけられたり不和を起こしたりで肉親との距離が遠くなった二人の高校生が、音楽を通じて、互いの関係を通じて肉親との距離を少しでも縮めていく、そういう話であることがよく理解できるような構成であった。
 ただこのように話を理解していくと一点だけ不満が残る。コンクール後の久美子と姉の再会のシーンがカットされているのである。確か放映版にはなかった客席に麻美子が姿をあらわすシーンがあったのはよかったが、それで満足したのか久美子が席を外す直後に戻って来てあすかに再会するという体になっている。客席のシーンやあすかとの会話、その後の手紙のシーンである程度久美子と姉の関係の改善という解決は見て取れるが、それでもやや片手落ちの印象が拭えない。私の見立てが大袈裟すぎるのかどうか……

 各シーンの内容や演出は、全体的な編集を除けば、おおむね放映版通りである。しかし元がいいだけに、劇場の音響のよさもあってとても見応えがある。あすかが早朝にユーフォを吹くシーン、職員室での三者面談のシーン、あすか宅の1630以降のシーン、河原でユーフォを吹くシーン、渡り廊下でのダイアログ、愛の告白のシーン、課題曲と自由曲……どれも何度でも見ていられる名シーンである。特に再び注目したいのは光の描写である。マンションのため蛍光灯なり白熱灯なりしか光源がない黄前邸とは異なり、田中邸は吹き通しがよく日がよく差す広い日本家屋である。そのためか、夕陽が差しこまれる時間帯になると、時間の経過とともに二人の心情が段々と彩度を上げて照らし出されることにより、暖色だというのに不安定な感じを醸し出すのである。しかしこの嫌な光も、河原にでていくと一転、消えつつある青空の色と交わることにより、暖色と寒色、さらに藤色がかった柔らかい色を醸し出し、河川敷を優しく彩り上げる。本編ではここで父親の曲『響け!ユーフォ二アム』を吹くのだが、劇場版ではこのシーンは分割され、ラストに演奏シーンがもって来られることとなる。この物語の帰結にふさわしく、優しい音色に優しい風景が調和する、アニメの面目躍如といった名シーンである。
 ただ先ほど音響を褒めたものの、それはテレビと劇場を比較すれば、という話であって、劇場の音響そのものは不完全に思えた。低音はよく鳴り響くのだが、パーカッション、特にシンバルの音がしょぼく聞こえた。今回見にいったのは新宿ピカデリーだったのだが、他の劇場では違ったりするのだろうか、それともソフトの音響設定に問題があるのか。

 総じて、若干不満は残るが、ユーフォという作品のよさを再確認できるとてもよい仕上がりだと思った。ちなみに来場特典はのぞみぞの性愛シーンだった。幕前芝居も二年生だったけれど、そこはなかよし川のいちゃつきがメインであった。

ユリイカに寄稿しました。

   文芸批評誌『ユリイカ』2016年9月臨時増刊号に寄稿させていただきました。

   論文のタイトルは「女性アイドルの「ホモソーシャルな欲望」   『アイカツ!』『ラブライブ!』の女同士の絆」です。

   アイドルアニメの百合の構造分析を行った文章です。よかったら買って読んでくださいね。

キーワード:ジェンダー、百合、女性のホモソーシャル

ラブライブ!サンシャイン!!シナリオ予想(特に終盤)やるぞ

深夜に突然だがラブライブ!サンシャイン!!のシナリオ予想をやってみようと思う。この半年間そればかり考えてきた気がするが、アニメ放送が一週間後の7月2日に迫ってる今、それをちょっと記事にしてみようと思ったのだ。PV2作の傾向からして、キャラクターの性質からして、そしてラブライブ一期の展開から分析的に考えることで、だいたい見当はつくと思う。これは願望というよりは予測だ。もちろん外れる可能性は非常に高いが、しかし与えられた要素を分析すればそうなるはず、というのを示しておくだけである。

物語中盤までは仲間集めの話となるだろう。1stにも描かれてる通り、鞠莉が加入したあたりが山場となるだろう。先行PVでかなマリの確執めいたものが描かれてるあたり、この二人の和解までの筋書きが描かれるはず。だが同時に梨子のことも気になる。1stだと千歌の誘いを一度断っている。しかし梨子のピアノを聴いて将来のメンバー全員が呼び寄せられる演出がある。Aqoursの結成に彼女が重大なところで機能することは確実なのだ。思うに彼女はすぐには加入せず、最初はマネージャーなどのサポート役として入部し、自分がスクールアイドルになることには消極的なのではないだろうか。そう考えるのは、やはり前の高校が音の木坂といういかにも物語を盛り立てる要素があるからである。前の高校が前作の舞台だとすれば、その人物は何かその場所に因縁を抱えているに決まっている。本当はスクールアイドルをやりたかったけど人数過多のため抽選に落ちてなれなかったとか、親友といざこざを起こしてスクールアイドルを辞めたとか。そうした過去の束縛を千歌との出会いによって克服し、Aqoursでスクールアイドルを始める。それだけの大掛かりなストーリーが展開されるとすれば、梨子の加入は鞠莉とほぼ同時か、最後の加入となるだろう。そして1stのラストのように、千歌と梨子は互いに信頼し合う最高の親友となるのだ。

だがこれはあくまで中盤までの展開である。私が予測するに一番面白くなるのはここからなのだ。「幼なじみ」と聞いて、あなたたちは何を思うだろうか。かつては「タッチ」に代表されるように幼なじみは主人公にとり将来の伴侶のようなものだった。ところがここ10年時代は幼なじみに冷たくなった。ギャルゲーやハーレムラノベの世界では幼なじみより、主人公の前に突然現れた謎の美少女の方がメインヒロインとして扱われ傾向が強くなったのである。幼なじみはもはや、その特権的地位を喪失したのである。もっともこれはギャルゲーやハーレムラノベの話であり、百合ではさほど幼なじみの特権剥奪は目立たなかった。だがここ近年とうとうその傾向が百合にも押し寄せてきた。その代表について多くは語るつもりはないが、ただ一言「ドキドキ!プリキュア」とだけ告げておこう。

さて話をラブライブ!サンシャイン!に戻そう。初期の設定においては、主人公の唯一の幼なじみとして松浦果南がその地位を占めていた。だが1stは千歌と梨子のガールミーツガールを色濃く描いたものである。私はそこから松浦果南の「負けフラグ」を明確に察知したものであった。だがこの予測は意外な方向に、しかしあながち的外れでもない方向に向かう。

2ndPVでは千歌と梨子が仲良くなってるところを曜が見つけてどこか疎外感を感じ、逃げ出すという、まさに「負けフラグ」を体現した描写がなされていた。PV公開に前後して、曜にも果南と同じく「千歌の幼なじみ」という属性が与えられていることが明らかになった。要は椅子が果南から曜に譲られたのである。

先行PVの内容も踏まえると、果南に関しては鞠莉との絡みを描くことによって、彼女がなぜスクールアイドルをやるのか、という問題設定が描かれることになるだろう。曜と果南に関しては、雑誌の情報をみても「なぜスクールアイドルをやるのか」がいまいち明確に見えてこなかった。メンバーが仲間との関係のなかでやりたいことを明確にするということが、ラブライブという物語で描かれてきたことを踏まえれば、メンバーの一員の自己実現が物語のクライマックスとなることは容易に想像できるのである。だがそれは果南の役割ではなさそうだ。というのも、果南はおそらく鞠莉との鍔競り合いのなかでそれを見つけはずだからである。

椅子を与えられているのは曜である。千歌は梨子に猛接近して、1stのような二人でセンターにつく曲をまたやろうとして、物語中盤以降ともにいる時間が増えるのではないだろうか。その代償に、渡辺曜は、幼なじみの属性を与えられ、先行PVでも千歌の隣にいる描写がしつこくなされていた彼女は、一人取り残されることになるのではないだろうか。そして2ndと同じく疎外感を感じた彼女は、何か千歌の失敗が原因で、彼女を信じられなくなり、Aqoursを自主的に離脱することになるのではないだろうか。

具体的に予想すると以下のようになる。Aqours結成後、千歌と梨子は一緒にいることが増え、他方飛び込みの大会の近い曜は練習に時間を費やすようになる。昔は千歌がよく応援に来てくれてたけれど、その千歌もアイドル部の練習を優先するようになり、自分との距離が離れていき、曜は寂しさを感ずるようになる。それが最悪の形で爆発するのが飛び込みのインターン予選当日である。予選とAqoursのライブが被ってしまい、曜は予選に出、他のメンバーはライブを行う。千歌は終わった後すぐ予選を見に行くよう約束するが、ライブが長引いてしまい、千歌は遅刻してしまう。曜は千歌のいない中出番を終え、予選に落ちてしまっていた。千歌が来てくれなかったことに怒りと悲しみを覚えた曜は、千歌に絶交を突きつけ、Aqoursを辞めるといって走り去っていく。
ショックで茫然とする千歌だったが、黒澤ダイヤに一喝を入れられる。明後日もライブがあるのに、今のままではライブは失敗に終わる。今すぐ態勢を整えなくてはならないというわけである。しかし泣くだけで何もやる気をなくした千歌は、こんなんでリーダーが務まるわけがないとライブから外されてしまう。ライブを中止するという案もあったが、しかし梨子をはじめ各自ライブにかける想いから、結局ライブをすることに決定する。各自の思いを込めた7人のライブは舞台裏で見ていた千歌や配信でみた曜も涙を流すほど素晴らしかった。二人は自分がなぜスクールアイドルをやりたいと思ったのか、それを見つめ直すことで、やがてメンバーに見守られるなか仲直りをする。次のライブでは曜と千歌がダブルセンターを務め、それとともにラブライブサンシャイン第一期は幕を閉じる。

言うまでもなくこれはラブライブ一期を意識している。メンバーの離脱と苦悩、そこから仲間との関係のなかで希望をみつけ和解し、それを記念したようなライブで結ぶ。新しい物語の門出であると同時に、ラブライブというシリーズを形式的に受け継ぐ形で本アニメは展開されるのではないか、そう推測した。

何度もいうがこれは希望的観測なのではない。それは、これまで小出しに出されていたキャラクターに与えられた性格を分析すれば自ずと導かれる展開なのである。

セオドア・M・ポーター. 藤垣裕子訳『数値と客観性』、みすず書房、2013年

キーワード:数値、客観性、信頼、定量化、没個人性、コミュニケーション、科学者共同体

数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

 

 

 物理学に代表される理想的な科学像は、厳密に操作された実験による再現可能性、数量化による客観的な手続きを想定しているとされる。だが、現実の科学はそれを律儀にこなすものだろうかと、筆者は疑義をつきつける。筆者は科学においてどのようにして知識が生産されるかに着目する。そこでは真なる知識が生産できるとしても、それは社会的プロセスを経ることが不可欠とされているというのである。

 実験室で生み出された知識は他の実験室と共有することではじめて客観的なものと認められるが、そのためのコミュニケーションは難解な内容を伝える必要があるため、論文だけを介することにとどまらずしばし個人的接触をともなう。他方で実験の再現可能性や数量化の手続きは必ずしも必要とされず、それよりも実験室の間で築かれた研究者同士の信頼関係の方が重視されるのである。きわめて閉鎖性が強く、エリート主義の強い類の科学者共同体は、社会の干渉を受けるような性質を有していない限り「強い共同体」にとどまりつづけることができる。

 このように科学者共同体における科学的知識の情報伝達の経路は閉鎖的側面をもつが、科学の発展によるネットワークの拡大や社会に対する応答の必要性とともにコミュニケーションのあり方に変化が生じる。知識を伝達するためには信頼性が獲得されるように、実験対象や科学分野、果ては科学者といった知識の様々な要素が標準化されている必要が生じるのだ。標準化のためのツールとして非常に有効だったのが定量化である。一般に定量化は自然現象を正確に知るための手段とみなされているが、ポーターは自然現象の真の原因を追い求める実在論よりも、数字を用いた自然現象のモデル形成や定量的記述に専念する実証主義の方が科学の発展に大きく寄与したことを数学的統計学の創始者であるカール・ピアソンを引き合いに出し主張している。他者と情報共有するにはあまりに難解な経験的知識より、数値という共有可能な媒体を介した情報の方が科学を推進する力となった。定量化科学は「偶発的なもの、説明できないもの、あるいは個人的なものを平均して切り捨て、広域的な規則性のみを残した」(p.125)のである。

 定量化は単に自然科学にとどまらず倫理的側面をもっていた。定量化は厳密さや中立性という意味での客観性のもとで、ひとを王権によってでなく法則によって支配することを可能にした。ピアソンは科学教育により実験を遂行するための没個人化や自己犠牲を進めることを推奨した。ピアソンの客観主義にもとづけば、「人間主体さえも物としての客体に変えられ、社会の要求に即して形成され、厳密で一様な基準に照らして判断されるだろう」(p.111)。こうして、客観性をもつとされた定量化主義は一種の規範性を帯びるようになり、権力を行使することで人々を規範に従う者とそうでない者とに選別する。定量化は科学の領域だけにとどまらず強い社会性を帯びることとなる。

 なぜ定量化を科学者が採用するのかについて筆者は独自の説を提唱する。本来科学者にとっては定量化よりも実験室同士の信頼関係の方が重視されており、科学者共同体は閉鎖的性格をもっていた。ところが力をもつ部外者が専門性に対して疑いを向けたとき、その適応として定量化が推し進められるのである。その代表としてポーターがあげているのが1930年代のアメリカの会計士たちである。彼らは政府による会社の会計に対する規制から自分たちを守るため、「客観性」の名のもとに手続きを標準化し、エキスパート・ジャッジメントに基づく共同体内の綿密なコミュニケーションを犠牲に、社会から信頼を獲得する戦略をとった。会計や保険数学や費用便益分析の研究における「客観性の追求は、アカウンタビリティ(説明責任)によって弱体化されることはなく、むしろアカウンタビリティによって定義されるのである。厳密な定量化は、これらの文脈において必要とされる。なぜなら、主観的な判断力が疑われているからである。機械的な客観性が、個人的な信頼の代替を果たす」(p.130)。客観性は、その方法を採用しなければ自律性を完全に失っていたであろう会計士たちによってとりわけ推進されたのである。

 このように社会に対し応答責任が生じる性質の強い科学者共同体は「弱い共同体」として、自分たちの手続きを数値を用いて標準化せざるをえなくなる。共同体は閉鎖的なゲマインシャフトであることをやめ、社会構成員との交渉を受け入れるゲゼルシャフト的性格をもつようになる。そして科学の「客観的」な性格を考慮するならば、科学者共同体の本質は「強い共同体」ではなく「弱い共同体」にあると考えた方がよいと、筆者は従来の科学観の転倒を図る。最先端物理学のような強い共同体において営まれる科学分野は「私たちが通常、科学的精神と関連づけているもの––客観性の強い主張、書かれた文書を必要とする主張、厳密な定量化の強い主張––が驚くほど欠けているのである」(p298)。真に現代科学のモデルとして考察すべきは物理学ではなく会計に代表されるような統計学なのだ。

 

 本書の意義の一つに科学のあり方の転換がある。ポーターは科学論上あまり注目されてこなかった会計や費用便益分析に着目した。もし科学が客観性を重んじる学問であるとするならばその模範は先端物理学ではなく統計学であるという主張は、科学のモデルとして物理学を考察してきた科学哲学や科学論のあり方に大きな転換を迫ることになる。科学に対するエクスターナルアプローチへの寄与だけでなく、「科学とはなにか」という問いに重要な示唆を与えることになろう。

 また科学者共同体の倫理を考える際にも本書は役立つ。科学者共同体は一般に、科学の独立性を強調し、外部からの倫理的判断を忌避する傾向があるが、科学者共同体が定量化という方法により社会性を帯び、本来的に外に開かれ、外部への応答の形で自律性を保持していったとするならば、科学者共同体が外部との交渉に応じないのは批判されるべき事柄ということになる。本書は科学者共同体の外部による倫理的判断の正当性にも寄与するのである。

 

 ここで、ポーターの科学論をフランスのエピステモロジーと関連づけてみよう。エピステモロジーは科学の歴史的形成過程における時間や質量などの基本概念の変化や科学的認識を基礎づける根本思想の変遷を解明する学問であるが、しばし社会との関係を考慮せず科学内部のみを研究対象とする内在主義をとってきた、明らかに本書の外在主義の立場と逆の方法論をとる学問である。例えばガストン・バシュラールの科学論だと、科学的知識は歴史とともに順次蓄積されていくのではなく、認識上の切断を経てその理論や概念を一新させるのだが、切断の前後で理論の主観的、もしくは実在論的な性格は薄れていく。想像に基づく素朴な認識から客観的な科学的認識へと精神は変遷をとげるわけだが、ここで前提とされているのは客観的な現代の物理学や化学を模範とし、それまでの科学の歴史に審判を下すという視線である。もし本書が示すように客観的とされる現代物理学はその実科学的精神を欠いているとするなら、この視線は不適切であるという指摘が与えられる。だが他方で物理学や化学に対してしかバシュラールが適用していない「科学的精神」がむしろ社会的圧力により発展した統計的学問にみられるとするならば、内在主義における政治を語ることの不可能性に対して風穴をあけることができると考えられる。

 同時にバシュラールの領域確定性の議論を参照するとポーターの議論の難点が見えてくる。科学的思考の合理性がどのように形成されるかの問題をバシュラールは考える。彼はあらかじめ総体的な合理主義を一挙に語るのではなく、各々の学問領域を確定してそれぞれにおいて完結した小さな合理主義をまず考える。次いで確定した各領域が網の目のなかの結節点のように連合していることを確認するわけがだが、その際彼が注目するのが理論の代数的形式である。例えば、理想気体の状態方程式と水溶液の浸透圧を求める公式は、ともにPV=RTという代数式で表すことができる。異なる合理主義の領域で生み出された理論であっても、代数的形式が類似していることのなかに感覚界を越えた本体界としての根源規定性を見出すことができるのである。それに対してポーターの議論では代数的形式は外部圧力に応じるための手段としての定量化の結果にすぎない。代数的形式が現象の本体的性格を示すというバシュラールの議論からすれば、ポーターの議論は一面的ということにならないだろうか。このとき、客観性の概念は社会的プロセスのなかで形成されたというポーターの主張は弱められる。客観性の概念は結局のところ、社会的プロセスに注目するだけでなく、科学者共同体内部の知識形成プロセスに純粋に注目した研究によっても探究されなければならないのではないだろうか。

日本の同性愛ドラマの問題点について

 最近、渋谷区のパートナーシップ制度や東小雪同性結婚が呼び水となり、LGBTブームなるものが到来しているらしい。ビジネスではLGBT産業に金脈が見出され、それを表現するドラマも増えてきた。『偽装の夫婦』ではゲイとレズビアンが登場し、11月からは義理の姉妹の恋愛もの(『トランジット・ガールズ』)をやるらしい。
 しかし、われわれ百合ストはこうした現在進行形のドラマの試みにどうしても不安を抱いてしまい、期待したくても全く期待できないのである。この記事からは不穏な文字が躍っている。すなわち、「"禁断"のガールズラブ」というフレーズである。われわれがこのたったワンフレーズに不安を抱いているといっても、二次元作品における百合やBLを愛好する習慣のない人たちにはまるでピンとこないであろう。そこで、なぜわれわれがこのドラマに期待できないのか、そこからさらに敷衍して、日本の同性愛を扱ったドラマや映画の多くに共通してみられる問題点を、「禁断の愛」という言説と、作り手と受け手の意識の違いから解説しよう。なお、挙げる例がレズビアン映画や百合ものに偏っているが、自分は百合男子でBLにあまり明るくないのでそうなってしまった。同性愛ものを論じるにあたって必要な教養が偏っていることをおわびしたい。
 
 周知の通り日本のドラマは恋愛ものが多く、ほぼ例外なくヘテロ恋愛ものであった。もっとも最近では有名な俳優やアイドルを主役に投入しても視聴率がとれることがなかなかできなくなり、ドラマの方針の改革が必要なのではといたるところで言われている。最近のLGBTブームの追い風もあり、作り手の側も同性愛をテーマに盛り込んだ新規性のある映像作品を作ってみようという風潮が高まっているのだろう。
 
 だが、出来上がった作品はどういうわけか似通った性質を抱いているように私には思えるのである。①物語のカタルシスを得ようと、「禁断の愛」として同性愛を物語の障害とし、クライマックスにそれを克服した究極の愛を屹立させてハッピーエンドとしたり、逆に心中など悲劇的な結末を迎えたりする。それに②現在放映中の「偽装の夫婦」にみられるゲイとレズビアンにもみられる特徴だが、ゲイはオネエっぽい、レズビアンはかつて男に酷い目にあわされたからそういう性指向なのだというステレオタイプも、LGBTを扱った多くの作品で散見される。さらに③製作者たちは同性愛を問題化しようとするあまり、同性愛差別を具体的に扱ったり、またセクシュアリティの揺れ動きを表現するために、あえて男性とのセックスを描こうとしたりする
 
「禁断」という罠
 ①は先ほど問題視した「"禁断"のガールズラブ」に関連することは明らかだろう。「禁断の愛」からわれわれは何を想起するだろうか。ロメオとジュリエットのように両家の争いの中で生じた恋、つまり「家」という規範から外れた恋だとか、ゲルマン民族の少年とユダヤ人の少女の間の「民族」という規範から外れた恋、また近親相姦という文化的規範から外れた恋もあるだろう。つまり「禁断の恋」という概念には必ず「社会一般が常識として抱いている規範」が伴うわけである。そして「規範」か「恋」のどちらかが間違っているという問題提起が行われる。家同士の争いやアーリア人中心主義は間違った規範として批判され、近親相姦は多くのパターンではたいてい駆け落ちか心中、別離という終わり方を迎え、規範そのものに対する批判や修正が施されることなく規範は保存される。
 
 では「同性愛」はどうなのだろうか。多くの作品が「規範」が間違っているとして問題提起を行おうとするのはいいのだが、同時にこの言葉は近親相姦と同じく物語を盛り上げる要素として「同性愛」という「恋」を誤ったものとして「禁断化」しているのである。もし同性愛が自然なことであると認識していれば、同性愛を「禁断の恋」であるとみなすことは行い得ないはずなのである。こうした禁断化はLGBT当事者からしたら、自らのセクシュアリティを誤ったものとしてレッテルを貼られることであり、まぎれもない差別なのである。
 
 平等主義者が本当に実現したいのは「社会の常識から外れた同性愛であっても許容する寛容な社会」ではなくて、「同性愛が恋愛の形式としてごく当たり前に通用し、異性愛と同等の権利を受けている社会」なのである。つまり「あなたたちは同性愛者だけどわれわれ異性愛者は受け入れてやる」という異性愛者による上から目線な社会ではなく、同性愛者がカムアウトすることに障害を感じることがなく、同等な婚姻の権利や制限の撤廃などが実現されている社会を望んでいる。「禁断」を強調することは「異性愛者と同性愛者が対等であるということはありえない」という言説を再生産することであり、望ましいことではない。
 
意識の高い作り手たち
 ②③は一見正反対に見える。前者は同性愛者に対する偏見を助長している点で作品の質を落としめており、後者は同性愛者のリアリティを描くことで作品の質を高めようとする。だが実のところ、①も含めてだが、「受け手が望んでいないことが多い」という点で共通している。もちろん『アデル-ブルーは熱い色』などの同性愛のリアリティを克明に描いた作品は評価されてしかるべきだが、だがステレオタイプでもリアリティでも、それだけでは受け手が他に見たいものを取りこぼしているのである。もちろん「同性愛は普通のことだ」と明確に主張したり、社会問題として問いかけることにもそれなりに意味はあるのだろうが、それにしても日本の三次元映像作品はあまりにも「同性愛」を「社会問題」として捉えるものが多すぎるのではないのか。
 
 参考として日本のボーイズラブガールズラブのアニメや漫画を見て欲しい。もちろん同性愛を社会問題として取り上げる作品もあるが、ヘテロの恋愛ものと同様に描くものも数多く存在する。つまり、同性愛を社会規範との関係のもとで描くのではなく、片思いや三角関係、友情と恋愛の線引きなどヘテロ恋愛ではごく普通に、しかし魅力的に使われるモチーフで純粋な愛情を描く作品である。『桜Trick』の春香と優の恋愛で描かれるのは、「好き」という感情がそもそも何を意味するのか、二人の間で意味が違っているのではないかという、ヘテロ恋愛ものにおいては古典的な問いだ。だがそれだけでもわれわれは十分に楽しんでいる。ヘテロ恋愛においてエンタメとして普通に享受されているものが三次元作品のホモセクシュアルにおいてはどういうわけか描かれないのである。同性愛を扱うというからにはドラマや映画の作り手はつい意識が高くなってリアリティを追求しようとするのだろうが、社会的な意味でのリアリティだけではなく、社会的なものから解放された恋愛としてのリアリティや受け手が恋愛として楽しめるものも本当は描いて欲しいのだ。
 
 ところで『トランジット・ガールズ』では男キャラも出てくるらしい( http://www.crank-in.net/entertainment/news/39502 )が、これも不安要素である。というのも、物語の途中で男とのセックスをするという描写が多くの作品で散見されたからである(『ジェリーフィッシュ』では男とのセックスは具体的に描写される癖に、女同士のそれは精神的なものが強調され行為をやめてしまう)。「同性愛もの」と銘打っているにもかかわらず男との恋愛描写をいれるのは、リアリティを追求する要素としてはよいかもしれないが、それは「同性愛もの」に期待する受け手が求めるものと食い違ってしまうのではないだろうか。「期待を裏切る」ということは作品に驚きをもたらすうえで必要だとしても、その実そういう作品は多く、愛好家たちはそうした経験を幾度となくしてきたのであり、正直うんざりしている。同性同士の関係「だけ」描くこともそれだけで十分意味のあることなのだ。
 
 エンタメとしての同性愛作品が求められていることは、恋愛を純粋に描く作品だけでなく、同性愛的関係「のように見ることができる」作品や、あるにはあるがあまり発展させることなく描く作品が百合厨や腐女子腐男子に絶大な支持を受けていることからも理解できる(百合の例でいえば、前者は「ドキドキ!プリキュア」や「アイカツ!」「アナと雪の女王」、後者は「ゆるゆり」「ラブライブ!」があげられる)。これらの作品群はたとえ同性愛の社会的な実像を描いていないとしても、うんざりするような偏見要素や「禁断の愛」という用語が一切出て来ない分、エンタメとして気軽に楽しむことができる。またクィアスタディーズの観点から解釈を提供できたり、「異性愛的偏見にとらわれない作品」として評価することも可能である。同性愛のリアリティを追求しようとする作り手はこうした作品群を軽視するかもしれないが、その実こちらの方が「同性同士の関係」の真理に近いということも考えられるのである。
 
まとめ
 ドラマや映画において映像作品についても「禁断の愛」やステレオタイプは求めるべきではないし、社会問題を扱おうとする作品群の供給過多に受け手はうんざりしている。作り手は「エンタメなんて意識が低い」と考えるかもしれないが、異性愛ものでは頻繁にエンタメとしての映像作品が制作されるにもかかわらず、同性愛ものではあまり描かれないのはどうも奇妙であるし、ある意味で偏見を助長しているようにもみえる。そもそも同性愛におけるリアリティは必ずしも社会的規範と関連して形作られるわけではなく、そうした規範の存在しない社会(古代ギリシアや江戸時代、LGBTのコミュニティ、そして将来の異性愛規範のなくなった世界)における同性愛のリアリティを想像して描くことも十分意義のあることである。「同性愛はこれこれこのように描かねばならない」という規範が作り手にはあるのかもしれないが、それは受け手が望んでいるものと食い違っていることがあまりにも多いうえ、実際ありきたりでつまらない作品になりがちである。同性愛を描くからには、一方には異性愛規範を内面化した部門と、他方には異性愛規範から解放された部門とを区別して、後者の存在を意識した方がよいのではないだろうか。

アルチュセール. 今村仁司訳『哲学について』(1995)

 マルクス主義はさっぱりなのだがアルチュセールは好きになれそうである。妻を殺害して投獄された人という妙な知られ方をする人で、マルクス主義研究の面が強調されることが多い哲学者だが、晩年はマルクス主義からは幾分か離れた彼独自の思想を展開させている。いやむしろ、彼の主要な仕事である従来のマルクス主義の解体とマルクス哲学の再構築すら、実際は彼独自の思想にすぎなかったということが批判されており、事実本人も認めてしまっている(p36)。資本論マルクスヘーゲルから完全には解放されていなかったことを、認識論的切断は全面的ではなかったのだ。
 それでもなおアルチュセールの仕事が意義をもつのは、やはり彼の仕事がオリジナリティをもち、古くからの哲学の問題に一石を投じるところがあるからであろう。それに、彼の洞察眼の鋭さには、哲学的思考力を鍛えるための手本にしたいと思えるだけの魅力がある。自分が特に注目したのは次の二つ:偶然の唯物論と、イデオロギー論だ。
 
 プラトン以来唯物論と観念論は互いに論争しあってきたが、実は唯物論と観念論は互いが互いの要素を保有しており、純粋な唯物論や観念論はありえない、いわば双子の兄弟みたいなものなのだ。哲学はすべての反論と攻撃に答えるため、敵を吸収し支配することができるよう前もって陣地を構えるからだ。これら2つはプラトンイデア論に起源をもつため、カップルの根拠となったのは観念論の方だといえる。大部分の唯物論は実は転倒した観念論でしかないのだ。
 観念論/唯物論のカップルから逃れた哲学が存在するとすれば、それは起源と目的の問いから免れた哲学であろう。観念論は起源と終わり(目的)を指示する。それに対してアルチュセールの提示するのが「偶然の唯物論」と呼ばれる哲学である。偶然の唯物論は理論に対する実践の優位を肯定する。実在に従って変化する過程としての実践は、真理を生産するのではなく、それ自身の実在条件の場のなかで、複数の「真理」や真理のようなもの、つまり結果や知識を生産する。それは主体も目的ももたない過程である。アルチュセールは列車を使ったたとえで説明している。観念論哲学者は、汽車に乗るとき始発駅と終着駅を知っている人である。それに対して唯物論哲学者は、走っている列車に飛び乗る人であり、起源も行き先も知らない。起こる出来事はみな偶然のものとして知覚される。
 プラトン以降哲学はすべてを見渡す学問とされてきたが、アルチュセールによると哲学は外部をもつ。つまり哲学による見通しのたたない分野としての現実が存在する。外部における文化的な実践、たとえば科学、政治、芸術のような文化的実践に哲学ははたらきかけるのだ。
 要は、唯物論と観念論の対立の性質に注目して共通するものを取り出し、両者の観念論的性質を暴露しながら、新しい唯物論を提唱する。哲学の進め方としてはよくできていると思う。
 
 (科学や宗教など、個別のイデオロギーとは区別される意味での)イデオロギー一般のはたらきに対するアルチュセールの洞察もまた白眉である。人が真理を認識するのは、イデオロギーを構成する観念が私自身の意識にまるごと呼びかけ interpellate、その真理を承認するように強制する働きによる。人は真実を、イデオロギーを構成する観念の内容と形式をそなえたものとしていうことができる「自由な」「主体」へと構成されるのを余儀なくされる。主体はイデオロギー的主体であり、それは現実に存在するよりも先にあり、主体の現実的存在を生み出す構造の結果である。
 つまり主体はデカルトがいうように所与としてそこにあるものではなく、イデオロギーが提供する構造に適応する形で形成されるものなのだ。通常、構造主義とは主体の死を提唱する思想だといわれているが、アルチュセールにおいてはむしろ社会の大きな枠組みとしてのイデオロギーと人間の主体とがどのように関係するかが問われており、イデオロギー構造と主体との不可分な関係が帰結されるに至るのである。「人間はイデオロギー的動物である」(p85)。
 それゆえ、支配者階級は積極的に支配的イデオロギーを行使するが、逆に革命家の方も、あらゆる矛盾を乗り越えるイデオロギーを作らなくてはならない。つまり「数々のイデオロギーを、真理を握るひとつの支配的イデオロギーのなかに統合することに貢献すること」(p93)が哲学の課題である。
 
 要は革命のためにイデオロギーに関する理論の再編纂を哲学は行えという結論である。結論は今日あまり意味がないかもしれないが、イデオロギーと主体の関係には注目してよい。自分は自由のはずだと信じて生きていても、その信念すら実は自由主義イデオロギーによって構築されたものである、と自己反省するきっかけになる。

 

哲学について

哲学について

 

 自分が読んだのは単行本であったが文庫本もある。

 

哲学について (ちくま学芸文庫)

哲学について (ちくま学芸文庫)