錬金術師の隠れ家

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傘木希美という「作品」ー『リズと青い鳥』を巡って(みぞれとは別の視点から考察する)

危機の存在するところ、救いもまた育つ。(ヘルダーリン)

 

 「物語はハッピーエンドがいいよ」とは、映画『リズと青い鳥』のなかで希美が言った言葉であるが、これは呪いの言葉である。それというのも、物語を楽しむ者は、実際に語られる出来事を無理にでもハッピーエンドにつながる出来事に解釈してしまいがちになるからだ。この呪いは鑑賞者だけでなく、語る本人にもふりかかる。希美はハッピーエンドを欲しているが、彼女が実際経験した出来事はハッピーエンドにつながるものといえたのだろうか。

 

危機

 こんなことは『リズと青い鳥』を最初に見たときは考えもつかなかった。それというのも、二人がハグを重ねた後に挿入される二羽の鳥が飛翔するイメージは、二人の永遠の愛を物語るハッピーエンドを示唆するものに見えたからである。だが、何度も見返しているうちに、その直前のシーンで画面と語調が雄弁に語るのは、とても明るい感情などではなかったと気づいた。

 みぞれが「大好きのハグ」を無理やりにでも希美に行うシーン。このゲームでは抱きしめるみぞれだけでなく抱きしめられた側の希美も相手を抱きしめて相手の好きなところを言わなくてはならない。みぞれが強い意志を抱いて希美を掴んで離さないのとは対照的に、希美はゲームのルールに強制されて手を添えているだけのようにみえる。劇伴はクライマックスを盛り立てるのでなく、二人の成り行きを見守り続けるかのような静かな音である。みぞれが希美の「すべて」を開陳するがごとく笑い方や足音の細部に至るまでを挙げ連ねるのに対して、希美はただ一言「みぞれのオーボエが好き」という。沈黙の後、ごちゃごちゃし出した感情をかき消すかのように笑い出した希美は、「ありがとう」と三回みぞれに語りかける。この「ありがとう」が問題で、かなり含みを込めた言い方になってるのである。

 極め付けに、舞台挨拶やパンフレットでの対談では、次のような証言がある。作品外の情報を参照するのは不粋であるし、作品内から導き出される解釈の妨げになりかねないのであまりしたくはないのだが、これは引用せざるを得なかった。これらの発言、結構気にしている人もいるのではないだろうか。

 

山田尚子:ラストの大好きのハグをするシーンで、希美がみぞれに言う「ありがとう」って、額面通りの「ありがとう」だけではないと思っていて。(パンフレット、p.13

 

東山奈央:未来に向かって進むことを選んだので、希美も前進はできていると思います。ただ、その清々しさって普通のものではないんですね。大好きなみぞれが、無口なみぞれが、言葉を尽くして希美のいいところをあげてくれても、そこに自分が大切にしていたフルートのことは入っていないんですよ。だから笑うしかない。「ありがとう」と告げるシーンも心からの感謝ではなくて、「もう結構です」という意味も込められているんです。だから、希美はあきらめつつ、前進を選んだという感じなのかなと思っています。(超!アニメディア: https://cho-animedia.jp/special/41881/ 2018.05.14アクセス)

 

 抱擁は人間関係を描く作品群のなかで常にクライマックスとして表現されてきた。それは和解の象徴であった。だが、『リズと青い鳥』では和解どころか、冒頭から繰り広げられている、一見仲の良さそうにみえてその実全く交わる様子のない希美とみぞれの二人のずれの延長が描かれているのである。

 これがハッピーエンドにつながるといえるどうして言えるだろうか。

 

救い

 ……と、反語調で本作に対する怨恨を叫ぶ人は多いだろうが、実は傘木希美は上手いことハッピーエンドなるものを導き出そうとしているのが、ハグの直後のシーンを見るとわかる。

 希美はみぞれと別れて一人になってから、みぞれを吹奏楽部に誘った過去を思い出している。その後スーッと息を吸い込み、笑顔を取り戻し、前を向いて歩いていく。後ろ姿をみると、左手で右手を掴んでいる。

 ここで疑問が浮かぶ。先のシーンで希美は欲しい言葉を言って貰えなかったにもかかわらず、なぜ前向きな顔をしているのだろうか。

 このシーンでポイントとなるのは、①過去の回想を入れていること②色彩表現と相乗的な行為、の二点である。

 

 ①について。ここで希美はみぞれと初めて会った時のことを思い出しているが、それだけでも本作でかなり特異なシーンと言える。それというのも、希美による回想シーンは今まで一度も入ってこなかったからである。これは、希美との思い出が頻繁にイメージとして表現されていたみぞれとは対照的である。今まで一度もなかったものがここで導入されることに意義がないはずがない。

 みぞれは文字通り「過去を生きる」人である。「希美にとって何でもなくったって、私にとってはずっと今」という台詞にもある通り、希美と一緒にいる思い出に幸福を覚え、希美が去っていった過去に恐怖する。度重なる回想シーンだけでもよく分かるが、それだけでなく、みぞれが希美と単に顔を合わせるシーンや、離れるシーンだけでも過去が再現されていることがわかる。永遠に繰り返される喜劇と悲劇。それは、彼女の生の混沌を物語っているともいえる。

 それに対して希美は過去を過去として振り返るつもりはあまりない。むしろ、希美の口から二回も発せられる「ハッピーエンド」という未来を志向しているようにもみえる。

 この「ハッピーエンド」なるものが一体なんなのかは知る由もないが、少なくとも例のハグのシーンで希美がみぞれに望んでいたことを「ハッピーエンド」につながるものとみなすことはできる。物語のクライマックスに現れるハグは、和解の象徴であり、したがってハッピーエンドを導くのだから。だが、結局希美が望むところの「希美のフルートが好き」とはいってもらえなかったわけである。ここから希美はどう折り合いをつけていくのだろうか。

 ここで希美が持ち出した戦略というのは、まさしくみぞれが常日頃行なっている「過去を生きる」ことである。みぞれは希美と一緒にいるためにオーボエを続けてきた。みぞれは常に希美との思い出から承認を貰って生きている。こうした生存のスタイルを希美はここで初めて導入する。妬みもし愛しもする音を、自分のために作り上げてきた鎧塚みぞれという人物を音楽の道に誘ったのは、まさしく傘木希美自身であった。みぞれが希美の声によって未来に向けて旅立つ己の実存を呼び覚まされたのであれば、希美の場合はみぞれに声をかけたという記憶そのものが希美自身の実存を呼び覚ます。この回想の直後、希美が前向きになったのは、まさしく自分がみぞれを音楽の道に導いたことを自覚したからではないだろうか。

 ここで生じた感情の名前はなにか。言葉では表されてはいないが、少なくともこのシーンで行われている無意識的な行為の意味をみていくことで推測することはできる。

 

 ②希美が前向きになったことの確証は、本作の色彩表現や登場人物の行為にも現れている。

 本作では希美とみぞれという二人の人物の対照性を表現するために、両者の好きな色であるところの赤と青、暖色と寒色の対比が使用されている。 *1 希美が愛用するピンクの腕時計は本作全体を通じて希美という人物の存在を表象し、みぞれが希美から貰い大切にしている青い羽根は、依存と幸福、自由というみぞれのあり方を示す。また両者の目の色が互いをみているかのように互いを表す色を映しているところに、色彩による対比と相互性が明瞭に現れているといえる。また童話パートでも、青い鳥はいわずもがな、リズも赤みをおびた服を着ており、また赤い実の存在もあって、純色によって赤と青の対比が表されている。

 そして、両者の混色であるところの「紫」は、実は本作ではあまり用いられていない。他の登場人物の瞳が紫色であったりはするが、希美とみぞれの装飾品や背景に紫色はなかなかみられない。また、青や緑、黄色を用いてリノリウムの床を照らし出すことはあるが、紫がかった光景は不思議なくらいみられないのである(童話パートには紫の色相は普通に見られるが、むしろ本編の緊張感を和らげるために多様な色相を使っているとみるべきである)。そして、帰結部ではベン図のイメージで赤と青が混じり合い紫色を形成する様子が描かれる。 *2

 

 このように希美がみぞれと重なり合う色であるところの「紫」に至るために、希美は自分の色であるところの「赤」をどのように使用しているだろうか。注目すべきは希美の印象的なピンクの腕時計である。

 生物学室で希美とみぞれが対話するシーンでは、希美はみぞれに隠すように両手を後ろに回す。この動作が「みぞれが思ってるような人間じゃないよ。むしろ、軽蔑されるべき」という台詞と並行しているとすれば、このとき隠されることとなる希美の腕時計は、希美の存在そのものを表象しているといえる。そして、髪をいじる癖をやめてスカートの裾をしかと握りしめ、希美に思いの丈をぶつけるみぞれとは対照的に、しきりに足を交差したり、腕時計をいじったりと希美の動きには癖が多発する。特に自分の存在を表す時計を右手で思い切り握りしめてしまうのは、自分自身に対する自戒とみなして差し支えないだろう。この強く左手の腕時計を締め付ける動作は、みぞれがハグを強行することで中断させられる。

 回想直後のシーンに移ろう。希美が歩くのを後ろから映すカットであるが、ここでは先ほどとは逆に、左手で右手を軽くつかんでいることが確認される。先ほどの自嘲的な行為とは対称的な動作は、そのまま行為の意味の逆転も意味していると考えるべきであろう。そして、こうした逆転が可能になったのは、過去を思い出すことによる自身の実存の再構成によるのである。深呼吸をして自分自身に息を吹き込むのと同時に、フルートの音を好きといってもらえなかった絶望を、みぞれという存在に関わる別の感情に置き換える。それによって自嘲的な気分から抜け出すことができたとすれば、ここで生じるのはみぞれを音楽の道に誘ったことの「誇り」とでもいえるものだろうか。この誇りによって、自分で自分をしめつける苦しみから解放されるのである。

 

まとめ

 『リズと青い鳥』のクライマックスでは、少なくとも、みぞれが自分の欲しい言葉をくれなかったあのままでは、希美にとってのハッピーエンドになりえなかったのが、みぞれとの出会いを思い出すことによって、上手いことハッピーエンドに昇華できているようにみえる。出会ったときから希美に自身の存在理由を託していたみぞれと同様に、希美もまたみぞれを自分の存在の条件として自己を確立していくことになる。

 これはある意味で、自分という「作品」を作り上げるまでのプロセスであるといえる。希美の一言によって喜劇のクライマックスと悲劇のクライマックスを次々と繰り返すみぞれの生はいつも「最終回」であり、完結性を重んじる作品としては到底成り立たないという意味でも「狂気的」と言えた。それとは対照的に、希美はちゃんと物語の落とし所を物語という枠の終盤に落とし込み、自らの生という「作品」を作り上げるのである。

*1:宝島社の公式ホームページより( http://tkj.jp/info/euphonium/ )。厳密には、希美の好きな色は紫とピンクなのだが、本作では少なくとも希美が紫系のファッションをしている描写はない。

*2:紫色が効果的に使われるのは、「あぁ神様、どうして私にカゴの開け方を教えたのですか––。」と、希美が童話の最後の一説を呟くシーンである。ここでは希美が校庭の藤の木の絡むあずま屋のベンチに腰掛けて外を見ている。このシーンの重要性は、童話のセリフや校庭に一人で出るという行動でもそうであるが、色彩表現にも現れている。まず、希美とみぞれを表すところの赤と青が、ここで初めて、紫がかった空と街並みとして混じり合う。希美とみぞれが互いの立場の逆転を自覚するという仕方で、両者は混じり合っている。このシーンの直後、希美とみぞれの決定的な断絶が明らかになるのだが、少なくともそれを認識するための一歩を両者は共有したといえる。

鎧塚みぞれという「狂気」-『リズと青い鳥』を巡って(前編)

 本稿ではアニメ『響け!ユーフォニアム2』(2016)と『リズと青い鳥』(2018)を題材にして、鎧塚みぞれというキャラクターの性質、ならびにそれが作品において表す機能を考察する。特定人物に対し素朴で重い感情を向けるみぞれの心のあり方が、経験則や作者の意図から判断すると普遍的なものとみられると同時に、作中の言説や同じく経験則からしても異端めいてみえることに着目し、鎧塚みぞれが一つの「狂気」の形象として現れること、それが『リズと青い鳥』の物語を動かすよう機能していることを指摘する。

 

「恋に狂うとは言葉が重複している。恋とは既に狂気なのだ。」(ハイネ)

 
普遍と異端

 私が『響け!ユーフォニアム』の二期第4話の鎧塚みぞれの告白を聞いて抱いたのは、「素朴だ」という印象だった。鎧塚みぞれは百合的に「ヤバい」という前評判を聞いていたし、1話からしてみぞれの面倒をみる吉川と希美の復帰を手伝う中川の立場の違いや、復帰を拒否する副部長の思惑といった政治が繰り広げられていたのもあって、真相は一体どんなものだろうかと身構えていたのだ。しかし、実際放映されたのを見てみると、そこで吐露されたのはさほど複雑な感情ではなかったと思ったのである。孤独だった自分と友達になり、音楽の道に誘ってくれたことから、希美を自分の存在理由としていて、希美とともにいるただそれだけのためにオーボエを続けていた。しかし、一年前希美が部活から去って以降、取り残された苦しみを抱き続けており、希美との絆が切れるのを恐れ唯一残されたオーボエを吹き続ける。優子に喝を入れられて、京都大会で金賞を取ったときの喜びや音楽を奏でることの喜びを自覚させられるものの、3年生になったとき、再び希美との接点を失うことへの恐れから「本番なんて一生来なくていい」と思うに至っている。言葉にするのはなんとも容易い。

 
 こうした特定の他者に抱く強い感情というものは、実際青少年が抱くものとしては普遍的なもののように思われるのである。恋人に限らず、友人や家族などといった相手を大切にしたり依存したりすることは、未成年が自立するうえで実際通過する過程として現れることが多い。現に鎧塚みぞれ役の種崎敦美氏は、『リズと青い鳥』の4月4日の完成披露試写会で、同性の友達に対して強い感情を抱くことがある、という感想を表明していた。製作者が鎧塚みぞれというキャラクターを通して表現したいのは、まさしくそうした普遍的感情であろう。

 
種崎:「みぞれたちと同じくらいの時期にすごく大事な子が私にもいて。それこそ(みぞれと同じように)その子と一緒にいたいがために、同じ高校を選ぶくらい」「一緒にいないときは、その子がいるかもしれない方向を見る、とか」「でも、意外と女子ってそういうところある」(コミックナタリーより https://natalie.mu/comic/news/276562 )

 
 だが、自分が音楽をやる理由がただ一人の人間に帰せられているというのは、いくらなんでも動機付けとしては過剰ではないかという印象もあった。音楽をやる理由は人それぞれであり、もちろん消極的な理由で音楽をやる人間もいるであろう。しかし、音楽そのものが特に好きという訳ではないのに、ただ特定の個人と離れたくないという理由だけで、毎朝誰よりも早く練習しに音楽室に通うというのはとても常人にはできるものではない。あまつさえ、彼女は誰よりも高い演奏技術を身につけたのである。それは、『リズと青い鳥』で「普通の人」の希美が嫉妬を抱くほどの。

 
 実際、告白を聞いた久美子は言葉を失い、「こんな理由で楽器をやっている人がいるなんて、思いもしなかった」と理解不能の旨を示している。本作で相談役としての頭角を現しつつある主人公の久美子でさえ、まともに対応することのできないみぞれの目的は、あまりにも純粋すぎ、あまりにも音楽本来の目的とかけ離れているがために、普遍どころかむしろ「異端」であるということも、本作では提示されているのである。

 


文学的な狂気

   このような「普遍」と「異端」を両立させる鎧塚みぞれの傘木希美に対する志向性は一体何と呼ばれるのだろうか。直観やパンフレットに書かれてあったことを頼りにすれば、それは「」と呼ばれるものだろう。監督と脚本家の対談では「愛」と「恋」の違いが示されている。前者は持続的で、希美がみぞれに抱く感情がそれであり、後者は刹那的で、みぞれが希美に抱く感情がそれであるとされる。みぞれは希美とともにいる時間を瞬間瞬間生き抜いている。みぞれとの初めての出会いを終盤に思い出した希美とは対照的に、みぞれにとっては出会いや別離の記憶が常に現前している。それは刹那的であるがゆえにいつ終わるとも分からない。そんなみぞれの破滅的な生が「恋」の概念に現れている。

 

 だが、「恋」とはいかにも曖昧な言い方である。もちろんみぞれの感情は同性愛的なものと見ることもできるだろうが、それでは本作で意図されている、異性愛者も含む多くの人々が抱くであろう「親友への強い感情」を取りこぼしてしまう。みぞれの感情を同性愛や異性愛に共通するような「恋愛」と断定すると本作の目指す普遍的テーマからややずれるのである。そもそも、同性愛であってもみぞれほどに依存的になるとは限らない。万民に共通し、かつあまりにも程度が強いというみぞれの特性を表す概念としては、もっと別により良いものがありそうである。

 

 私としては、同性愛の可能性すら包括しながらも、恋愛感情に限らず友愛の感情にも幅広く該当し、尚且つこの感情の強さを表現するある一つの概念を提示したい。「狂気」である。

 「狂気」といっても、精神病理的な意味からは離れる。むしろ文学的な意味に近い。ロッテへの恋に狂うたヴェルテルや、信仰に全てを捧げる狂信者を想像してみるとよい。恋愛、信仰、友情の何でもよい。それらを巡る気持ちがあまりにも単純化され、理性とは程遠い見かけを呈するようになり、それが過剰に溢れ出て、破滅へと向かう状態。それは「狂気」と呼んでも差し支えないであろう。鎧塚みぞれに現れているのは、まさしくそうした「狂気」であるように思えるのである。「狂気」とは社会規範からの逸脱なのであるから「普遍」からは程遠いのではないか、という批判もあるであろう。しかし、理性的存在と同じ質料を得た感情的存在が、その理性を消失させ暴走するということはよく見られる事柄である。恋に我を忘れること、篤い信仰により視野が暗くなることは、普遍性をもつはずである。

 
 このように鎧塚みぞれというキャラクターに表れているのは、ある種の「狂気」であると思われるのである。この「狂気」は、久美子や麗奈のように音楽を目的として真剣に取り組む演奏者からは到底理解されるものではないが、それが逆説的にも「青春時代の経験」という普遍的なテーマを表すのである。

 
   次回は、鎧塚みぞれに現れる「狂気」が、本作においてどのような意義をもたらすのかを見ていきたい。

映画感想:『映画プリキュア スーパースターズ!』 ※政治的批評につき注意

   今永田町が荒れている。「嘘」という名の暴風雨でボロボロである。公文書の改竄が明らかになったというのもそうだが、その責任を一切認めず、昨日言ったことと全く違う答弁を連発するホラ吹き政治家の醜悪さは子どもでも分かる。嘘をついても許されるなんて、こんなみっともない大人の姿、子どもたちには見せたくないだろう。それよりは、嘘を許さず、しかしかつて約束を破ってしまったことを償うプリキュアの勇姿を応援させた方がはるかに教育的だ。

   『劇場版プリキュア スーパースターズ』をみて真っ先に思い浮かんだ感想はそれだった。本作に出てくる敵キャラは平気で嘘つくやつで、「嘘をついて開き直るなんて信じられない」という台詞がプリキュアの口から出てくるのである。その台詞を今総理大臣や財務大臣の椅子に座ってる面々に聞かせてやりたい、という印象が真っ先に出てきてしまったのである。プリキュアを使って政治的批評をするなんてあんまりしたくはないのだが、むしろ現実の醜悪な政治と比較してみることで春のプリキュア映画の魅力というものが強く認識されるものだと思い、今画面をフリックしている。本記事ではプリキュア映画が「春」に公開されることの意義に注目して論じよう。

 

   手始めに、知らない人のためにプリキュアの映画がどんな形態で公開されるのかにも触れておこう。プリキュア映画というのはなんと一年の春と秋に2本も新作が上映される。秋に公開されるのはその年のプリキュアのタイトルを冠したもので、当然その年のプリキュアが活躍する。他方で春に公開される映画は「カーニバル」や「スターズ」の言葉が多用されることからもわかるようにオールスター映画の性質を持っており、一昨年の『みんなで歌う♪奇跡の魔法!』では、なんと総勢44人ものプリキュアが参戦したのだ。このように春のプリキュア映画は往年のプリキュアファンやへのサービスや、本作をきっかけにメインターゲットである児童たちに過去作に興味を持ってもらおうという側面が強かったのである。

   流石に数が増えすぎたのか、去年からは前年ともう一つ前の2作にゲスト出演作を限定するようになったのだが、このとき春のプリキュア映画は重点が少しずれたように感じる。春の映画が特に要点に据えるようになったのは、前作と現行作の溝を埋めること、言うなれば「引き継ぎ」である。プリキュアが終了するのは例年1月末で、プリキュアの新作がスタートするのは例年2月のはじめ。つまり3月のプリキュア映画には、一つ前のプリキュアシリーズが終了して悲しみにくれている子どもたちに、成長したプリキュアたちの活躍を見せてあげるという側面があるのだ。「成長した」というのもミソで、前作のプリキュアたちは幾多の試練を乗り越えて立派に大きくなっている。そんな先輩の彼女たちが、プリキュアになってまだ一月しか(一部のキャラクターの場合はわずか数日)しか経っていない後輩たちにキラキラと戦う勇姿を見せたり手助けしたりしてくれるのである。『キラキラ☆プリキュアアラモード』が終了してしまい寂しさを覚えていた子どもたちも、キュアホイップたちが新しいプリキュアの先輩として元気に活躍しているのをみれば、さぞ満足することだろう。子どもたちの気持ちの面でも、プリキュア間の関係の面でも、「作品がまるきり変わる」というシリーズを続けていくうえでの避けがたい断絶を和らげる機能が春のプリキュア映画にはあるのである。

(註:もっとも、近年は放映中にこうした「引き継ぎ」を行うことも多くなった。最終回に新作の主人公がゲスト出演するのだ。『スーパースターズ』には主人公の野乃はなが『キラプリ』でのゲスト出演の経験から、キュアホイップたちに助けを求めに行くというシーンがある。世界観レベルでも繋がりを感じさせるようで実に興味深いシーンである。)

 

   テーマについても春と秋とで結構違ってくる。秋の映画は現行シリーズも大分進んで、恒例の新プリキュアや新アイテムも出揃った頃なので、プリキュアもそこそこ成長しているのである。テーマは現行のテーマの延長か補完であることが多く、描かれるのは主に主役のプリキュアや妖精の内面である。それに対して春の映画はお祭りであり、プリキュアもそんなに掘り下げはされていないので、現行シリーズに関してあまり踏み込んだことはできない。そのためかゲストキャラクターの悩みを題材にして、「異質なもの同士の友情」や「親子の愛」といった比較的普遍的なテーマを扱う。本作の「友達との約束を守る」というテーマも当然それにあたり、シンプルではあるが、過去の約束を果たすために過去作のプリキュアと協力して困難を乗り越えようとするハグプリの面々に我々は親しみを覚えるのである。

 

   醜い政治話に話を戻してしまうと、本作が今の政治とあまりにも対照的に見えたのは、まあ時期が重なったのは偶然にしても、春のプリキュア映画が普遍的な道徳をテーマにして、駆け出しのプリキュアと熟練のプリキュアとが協力して殊勝にも苦難を乗り越える、という構図を有する点が、「約束を守る」「嘘をつかない」という普遍道徳を無視し、責任を自ら取ることなく部下や友人になすりつけようとする首相の姿とあまりにかけ離れていたからであろう。拳や技に乗せられるプリキュアたちの勇気と友情、力強さに子どもたちはミラクルライトでエールを送るのである。それは荒んだ大人からすると単なる綺麗事にみえるかもしれないが、今の国会を見てみると実は最も必要とされていることなのかもしれない。というわけで皆さん、プリキュアを応援しよう。そして、プリキュアになろう。

映画感想:『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』

 『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』をみた。去年秋にやっていた『響け!ユーフォニアム』二期の内容を再編集して劇場版にしたもので、本編を再構成することによってかなり徹底してくみあすの話となっている。そのため二年生のしがらみや麗奈と久美子の関係描写はカットされている。その辺のエピソードが好きな人には残念かも知れないが、しかしそれによって、久美子とあすかの関係がより明瞭に見えるようになっている。内容自体は放映版と変わってないのだが、見せる場面がひたすら久美子とあすかのシーンに限定されているため、久美子とあすかが互いに互いの感情をぶつけ合い音を響かせ合う過程が強く印象に残る。
 再編集によって具体的に何が起こったのかというと、久美子とあすかがそれぞれどのような人間関係を抱えているか、それが彼女らの音楽活動にどのような影響を与えているのかが極めてわかりやすくなっているのである。キーは久美子とあすかのそれぞれの肉親(姉と父親)との関係である。
 久美子とあすかの話となっていることは先ほど確認したが、主人公はあくまで久美子である。受験を控えた高校生が担うことになる重責に対してあすかがどう決断するかという物語の中心点が、久美子の視点からみることによって、久美子姉とあすかの姿が、久美子の姉の姿が演奏中にあすかをみた直後フラッシュバックしたり、共通するセリフがあったりすることでだぶって見えるようになっている。しかし直接「あすか先輩って私の姉に似ている」だとか「姉と同じ道を歩んでほしくない」とかセリフで直接示すわけではないところがまた優れていて、映像への信頼とでもいえるものが垣間見られるようだ。先輩は自分の姉と同じく確実に後悔する道を歩もうとしている。それが嫌で、子どもでいいじゃないかと本音をぶつける。こうした麻美子-久美子-あすかのラインが、セリフや映像に無駄のない劇場版の再編成によってより重厚になっているのである。
 あすかと麻美子の姿が久美子の視点から重なるだけでなく、メインキャラクターの肉親であるあすか父と麻美子もまた似たような役割を演じているのがよくわかるようになっている。コンクールなんてどうでもいいと思っていたあすかも、審査員に父がいると知ることで、父に演奏を聴いてもらうことを目的とするようになる。久美子もまた、今まで一度も演奏会に来てくれなかった姉に演奏を聴いてもらいたがるようになる。久美子とあすかは両者ともに音楽を肉親との関係で位置付けるようになるわけだ。麗奈が態度で示すような音楽を純粋目的とする姿勢からは遠ざかるが、そもそも二人が楽器を始める動機が肉親からの影響であったことを踏まえると(これも冒頭にあすかの幼少時代のシーンが新たに加えられることですっと理解できるようになっている)、母親に遠ざけられたり不和を起こしたりで肉親との距離が遠くなった二人の高校生が、音楽を通じて、互いの関係を通じて肉親との距離を少しでも縮めていく、そういう話であることがよく理解できるような構成であった。
 ただこのように話を理解していくと一点だけ不満が残る。コンクール後の久美子と姉の再会のシーンがカットされているのである。確か放映版にはなかった客席に麻美子が姿をあらわすシーンがあったのはよかったが、それで満足したのか久美子が席を外す直後に戻って来てあすかに再会するという体になっている。客席のシーンやあすかとの会話、その後の手紙のシーンである程度久美子と姉の関係の改善という解決は見て取れるが、それでもやや片手落ちの印象が拭えない。私の見立てが大袈裟すぎるのかどうか……

 各シーンの内容や演出は、全体的な編集を除けば、おおむね放映版通りである。しかし元がいいだけに、劇場の音響のよさもあってとても見応えがある。あすかが早朝にユーフォを吹くシーン、職員室での三者面談のシーン、あすか宅の1630以降のシーン、河原でユーフォを吹くシーン、渡り廊下でのダイアログ、愛の告白のシーン、課題曲と自由曲……どれも何度でも見ていられる名シーンである。特に再び注目したいのは光の描写である。マンションのため蛍光灯なり白熱灯なりしか光源がない黄前邸とは異なり、田中邸は吹き通しがよく日がよく差す広い日本家屋である。そのためか、夕陽が差しこまれる時間帯になると、時間の経過とともに二人の心情が段々と彩度を上げて照らし出されることにより、暖色だというのに不安定な感じを醸し出すのである。しかしこの嫌な光も、河原にでていくと一転、消えつつある青空の色と交わることにより、暖色と寒色、さらに藤色がかった柔らかい色を醸し出し、河川敷を優しく彩り上げる。本編ではここで父親の曲『響け!ユーフォ二アム』を吹くのだが、劇場版ではこのシーンは分割され、ラストに演奏シーンがもって来られることとなる。この物語の帰結にふさわしく、優しい音色に優しい風景が調和する、アニメの面目躍如といった名シーンである。
 ただ先ほど音響を褒めたものの、それはテレビと劇場を比較すれば、という話であって、劇場の音響そのものは不完全に思えた。低音はよく鳴り響くのだが、パーカッション、特にシンバルの音がしょぼく聞こえた。今回見にいったのは新宿ピカデリーだったのだが、他の劇場では違ったりするのだろうか、それともソフトの音響設定に問題があるのか。

 総じて、若干不満は残るが、ユーフォという作品のよさを再確認できるとてもよい仕上がりだと思った。ちなみに来場特典はのぞみぞの性愛シーンだった。幕前芝居も二年生だったけれど、そこはなかよし川のいちゃつきがメインであった。

ユリイカに寄稿しました。

   文芸批評誌『ユリイカ』2016年9月臨時増刊号に寄稿させていただきました。

   論文のタイトルは「女性アイドルの「ホモソーシャルな欲望」   『アイカツ!』『ラブライブ!』の女同士の絆」です。

   アイドルアニメの百合の構造分析を行った文章です。よかったら買って読んでくださいね。

キーワード:ジェンダー、百合、女性のホモソーシャル

ラブライブ!サンシャイン!!シナリオ予想(特に終盤)やるぞ

深夜に突然だがラブライブ!サンシャイン!!のシナリオ予想をやってみようと思う。この半年間そればかり考えてきた気がするが、アニメ放送が一週間後の7月2日に迫ってる今、それをちょっと記事にしてみようと思ったのだ。PV2作の傾向からして、キャラクターの性質からして、そしてラブライブ一期の展開から分析的に考えることで、だいたい見当はつくと思う。これは願望というよりは予測だ。もちろん外れる可能性は非常に高いが、しかし与えられた要素を分析すればそうなるはず、というのを示しておくだけである。

物語中盤までは仲間集めの話となるだろう。1stにも描かれてる通り、鞠莉が加入したあたりが山場となるだろう。先行PVでかなマリの確執めいたものが描かれてるあたり、この二人の和解までの筋書きが描かれるはず。だが同時に梨子のことも気になる。1stだと千歌の誘いを一度断っている。しかし梨子のピアノを聴いて将来のメンバー全員が呼び寄せられる演出がある。Aqoursの結成に彼女が重大なところで機能することは確実なのだ。思うに彼女はすぐには加入せず、最初はマネージャーなどのサポート役として入部し、自分がスクールアイドルになることには消極的なのではないだろうか。そう考えるのは、やはり前の高校が音の木坂といういかにも物語を盛り立てる要素があるからである。前の高校が前作の舞台だとすれば、その人物は何かその場所に因縁を抱えているに決まっている。本当はスクールアイドルをやりたかったけど人数過多のため抽選に落ちてなれなかったとか、親友といざこざを起こしてスクールアイドルを辞めたとか。そうした過去の束縛を千歌との出会いによって克服し、Aqoursでスクールアイドルを始める。それだけの大掛かりなストーリーが展開されるとすれば、梨子の加入は鞠莉とほぼ同時か、最後の加入となるだろう。そして1stのラストのように、千歌と梨子は互いに信頼し合う最高の親友となるのだ。

だがこれはあくまで中盤までの展開である。私が予測するに一番面白くなるのはここからなのだ。「幼なじみ」と聞いて、あなたたちは何を思うだろうか。かつては「タッチ」に代表されるように幼なじみは主人公にとり将来の伴侶のようなものだった。ところがここ10年時代は幼なじみに冷たくなった。ギャルゲーやハーレムラノベの世界では幼なじみより、主人公の前に突然現れた謎の美少女の方がメインヒロインとして扱われ傾向が強くなったのである。幼なじみはもはや、その特権的地位を喪失したのである。もっともこれはギャルゲーやハーレムラノベの話であり、百合ではさほど幼なじみの特権剥奪は目立たなかった。だがここ近年とうとうその傾向が百合にも押し寄せてきた。その代表について多くは語るつもりはないが、ただ一言「ドキドキ!プリキュア」とだけ告げておこう。

さて話をラブライブ!サンシャイン!に戻そう。初期の設定においては、主人公の唯一の幼なじみとして松浦果南がその地位を占めていた。だが1stは千歌と梨子のガールミーツガールを色濃く描いたものである。私はそこから松浦果南の「負けフラグ」を明確に察知したものであった。だがこの予測は意外な方向に、しかしあながち的外れでもない方向に向かう。

2ndPVでは千歌と梨子が仲良くなってるところを曜が見つけてどこか疎外感を感じ、逃げ出すという、まさに「負けフラグ」を体現した描写がなされていた。PV公開に前後して、曜にも果南と同じく「千歌の幼なじみ」という属性が与えられていることが明らかになった。要は椅子が果南から曜に譲られたのである。

先行PVの内容も踏まえると、果南に関しては鞠莉との絡みを描くことによって、彼女がなぜスクールアイドルをやるのか、という問題設定が描かれることになるだろう。曜と果南に関しては、雑誌の情報をみても「なぜスクールアイドルをやるのか」がいまいち明確に見えてこなかった。メンバーが仲間との関係のなかでやりたいことを明確にするということが、ラブライブという物語で描かれてきたことを踏まえれば、メンバーの一員の自己実現が物語のクライマックスとなることは容易に想像できるのである。だがそれは果南の役割ではなさそうだ。というのも、果南はおそらく鞠莉との鍔競り合いのなかでそれを見つけはずだからである。

椅子を与えられているのは曜である。千歌は梨子に猛接近して、1stのような二人でセンターにつく曲をまたやろうとして、物語中盤以降ともにいる時間が増えるのではないだろうか。その代償に、渡辺曜は、幼なじみの属性を与えられ、先行PVでも千歌の隣にいる描写がしつこくなされていた彼女は、一人取り残されることになるのではないだろうか。そして2ndと同じく疎外感を感じた彼女は、何か千歌の失敗が原因で、彼女を信じられなくなり、Aqoursを自主的に離脱することになるのではないだろうか。

具体的に予想すると以下のようになる。Aqours結成後、千歌と梨子は一緒にいることが増え、他方飛び込みの大会の近い曜は練習に時間を費やすようになる。昔は千歌がよく応援に来てくれてたけれど、その千歌もアイドル部の練習を優先するようになり、自分との距離が離れていき、曜は寂しさを感ずるようになる。それが最悪の形で爆発するのが飛び込みのインターン予選当日である。予選とAqoursのライブが被ってしまい、曜は予選に出、他のメンバーはライブを行う。千歌は終わった後すぐ予選を見に行くよう約束するが、ライブが長引いてしまい、千歌は遅刻してしまう。曜は千歌のいない中出番を終え、予選に落ちてしまっていた。千歌が来てくれなかったことに怒りと悲しみを覚えた曜は、千歌に絶交を突きつけ、Aqoursを辞めるといって走り去っていく。
ショックで茫然とする千歌だったが、黒澤ダイヤに一喝を入れられる。明後日もライブがあるのに、今のままではライブは失敗に終わる。今すぐ態勢を整えなくてはならないというわけである。しかし泣くだけで何もやる気をなくした千歌は、こんなんでリーダーが務まるわけがないとライブから外されてしまう。ライブを中止するという案もあったが、しかし梨子をはじめ各自ライブにかける想いから、結局ライブをすることに決定する。各自の思いを込めた7人のライブは舞台裏で見ていた千歌や配信でみた曜も涙を流すほど素晴らしかった。二人は自分がなぜスクールアイドルをやりたいと思ったのか、それを見つめ直すことで、やがてメンバーに見守られるなか仲直りをする。次のライブでは曜と千歌がダブルセンターを務め、それとともにラブライブサンシャイン第一期は幕を閉じる。

言うまでもなくこれはラブライブ一期を意識している。メンバーの離脱と苦悩、そこから仲間との関係のなかで希望をみつけ和解し、それを記念したようなライブで結ぶ。新しい物語の門出であると同時に、ラブライブというシリーズを形式的に受け継ぐ形で本アニメは展開されるのではないか、そう推測した。

何度もいうがこれは希望的観測なのではない。それは、これまで小出しに出されていたキャラクターに与えられた性格を分析すれば自ずと導かれる展開なのである。

セオドア・M・ポーター. 藤垣裕子訳『数値と客観性』、みすず書房、2013年

キーワード:数値、客観性、信頼、定量化、没個人性、コミュニケーション、科学者共同体

数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

 

 

 物理学に代表される理想的な科学像は、厳密に操作された実験による再現可能性、数量化による客観的な手続きを想定しているとされる。だが、現実の科学はそれを律儀にこなすものだろうかと、筆者は疑義をつきつける。筆者は科学においてどのようにして知識が生産されるかに着目する。そこでは真なる知識が生産できるとしても、それは社会的プロセスを経ることが不可欠とされているというのである。

 実験室で生み出された知識は他の実験室と共有することではじめて客観的なものと認められるが、そのためのコミュニケーションは難解な内容を伝える必要があるため、論文だけを介することにとどまらずしばし個人的接触をともなう。他方で実験の再現可能性や数量化の手続きは必ずしも必要とされず、それよりも実験室の間で築かれた研究者同士の信頼関係の方が重視されるのである。きわめて閉鎖性が強く、エリート主義の強い類の科学者共同体は、社会の干渉を受けるような性質を有していない限り「強い共同体」にとどまりつづけることができる。

 このように科学者共同体における科学的知識の情報伝達の経路は閉鎖的側面をもつが、科学の発展によるネットワークの拡大や社会に対する応答の必要性とともにコミュニケーションのあり方に変化が生じる。知識を伝達するためには信頼性が獲得されるように、実験対象や科学分野、果ては科学者といった知識の様々な要素が標準化されている必要が生じるのだ。標準化のためのツールとして非常に有効だったのが定量化である。一般に定量化は自然現象を正確に知るための手段とみなされているが、ポーターは自然現象の真の原因を追い求める実在論よりも、数字を用いた自然現象のモデル形成や定量的記述に専念する実証主義の方が科学の発展に大きく寄与したことを数学的統計学の創始者であるカール・ピアソンを引き合いに出し主張している。他者と情報共有するにはあまりに難解な経験的知識より、数値という共有可能な媒体を介した情報の方が科学を推進する力となった。定量化科学は「偶発的なもの、説明できないもの、あるいは個人的なものを平均して切り捨て、広域的な規則性のみを残した」(p.125)のである。

 定量化は単に自然科学にとどまらず倫理的側面をもっていた。定量化は厳密さや中立性という意味での客観性のもとで、ひとを王権によってでなく法則によって支配することを可能にした。ピアソンは科学教育により実験を遂行するための没個人化や自己犠牲を進めることを推奨した。ピアソンの客観主義にもとづけば、「人間主体さえも物としての客体に変えられ、社会の要求に即して形成され、厳密で一様な基準に照らして判断されるだろう」(p.111)。こうして、客観性をもつとされた定量化主義は一種の規範性を帯びるようになり、権力を行使することで人々を規範に従う者とそうでない者とに選別する。定量化は科学の領域だけにとどまらず強い社会性を帯びることとなる。

 なぜ定量化を科学者が採用するのかについて筆者は独自の説を提唱する。本来科学者にとっては定量化よりも実験室同士の信頼関係の方が重視されており、科学者共同体は閉鎖的性格をもっていた。ところが力をもつ部外者が専門性に対して疑いを向けたとき、その適応として定量化が推し進められるのである。その代表としてポーターがあげているのが1930年代のアメリカの会計士たちである。彼らは政府による会社の会計に対する規制から自分たちを守るため、「客観性」の名のもとに手続きを標準化し、エキスパート・ジャッジメントに基づく共同体内の綿密なコミュニケーションを犠牲に、社会から信頼を獲得する戦略をとった。会計や保険数学や費用便益分析の研究における「客観性の追求は、アカウンタビリティ(説明責任)によって弱体化されることはなく、むしろアカウンタビリティによって定義されるのである。厳密な定量化は、これらの文脈において必要とされる。なぜなら、主観的な判断力が疑われているからである。機械的な客観性が、個人的な信頼の代替を果たす」(p.130)。客観性は、その方法を採用しなければ自律性を完全に失っていたであろう会計士たちによってとりわけ推進されたのである。

 このように社会に対し応答責任が生じる性質の強い科学者共同体は「弱い共同体」として、自分たちの手続きを数値を用いて標準化せざるをえなくなる。共同体は閉鎖的なゲマインシャフトであることをやめ、社会構成員との交渉を受け入れるゲゼルシャフト的性格をもつようになる。そして科学の「客観的」な性格を考慮するならば、科学者共同体の本質は「強い共同体」ではなく「弱い共同体」にあると考えた方がよいと、筆者は従来の科学観の転倒を図る。最先端物理学のような強い共同体において営まれる科学分野は「私たちが通常、科学的精神と関連づけているもの––客観性の強い主張、書かれた文書を必要とする主張、厳密な定量化の強い主張––が驚くほど欠けているのである」(p298)。真に現代科学のモデルとして考察すべきは物理学ではなく会計に代表されるような統計学なのだ。

 

 本書の意義の一つに科学のあり方の転換がある。ポーターは科学論上あまり注目されてこなかった会計や費用便益分析に着目した。もし科学が客観性を重んじる学問であるとするならばその模範は先端物理学ではなく統計学であるという主張は、科学のモデルとして物理学を考察してきた科学哲学や科学論のあり方に大きな転換を迫ることになる。科学に対するエクスターナルアプローチへの寄与だけでなく、「科学とはなにか」という問いに重要な示唆を与えることになろう。

 また科学者共同体の倫理を考える際にも本書は役立つ。科学者共同体は一般に、科学の独立性を強調し、外部からの倫理的判断を忌避する傾向があるが、科学者共同体が定量化という方法により社会性を帯び、本来的に外に開かれ、外部への応答の形で自律性を保持していったとするならば、科学者共同体が外部との交渉に応じないのは批判されるべき事柄ということになる。本書は科学者共同体の外部による倫理的判断の正当性にも寄与するのである。

 

 ここで、ポーターの科学論をフランスのエピステモロジーと関連づけてみよう。エピステモロジーは科学の歴史的形成過程における時間や質量などの基本概念の変化や科学的認識を基礎づける根本思想の変遷を解明する学問であるが、しばし社会との関係を考慮せず科学内部のみを研究対象とする内在主義をとってきた、明らかに本書の外在主義の立場と逆の方法論をとる学問である。例えばガストン・バシュラールの科学論だと、科学的知識は歴史とともに順次蓄積されていくのではなく、認識上の切断を経てその理論や概念を一新させるのだが、切断の前後で理論の主観的、もしくは実在論的な性格は薄れていく。想像に基づく素朴な認識から客観的な科学的認識へと精神は変遷をとげるわけだが、ここで前提とされているのは客観的な現代の物理学や化学を模範とし、それまでの科学の歴史に審判を下すという視線である。もし本書が示すように客観的とされる現代物理学はその実科学的精神を欠いているとするなら、この視線は不適切であるという指摘が与えられる。だが他方で物理学や化学に対してしかバシュラールが適用していない「科学的精神」がむしろ社会的圧力により発展した統計的学問にみられるとするならば、内在主義における政治を語ることの不可能性に対して風穴をあけることができると考えられる。

 同時にバシュラールの領域確定性の議論を参照するとポーターの議論の難点が見えてくる。科学的思考の合理性がどのように形成されるかの問題をバシュラールは考える。彼はあらかじめ総体的な合理主義を一挙に語るのではなく、各々の学問領域を確定してそれぞれにおいて完結した小さな合理主義をまず考える。次いで確定した各領域が網の目のなかの結節点のように連合していることを確認するわけがだが、その際彼が注目するのが理論の代数的形式である。例えば、理想気体の状態方程式と水溶液の浸透圧を求める公式は、ともにPV=RTという代数式で表すことができる。異なる合理主義の領域で生み出された理論であっても、代数的形式が類似していることのなかに感覚界を越えた本体界としての根源規定性を見出すことができるのである。それに対してポーターの議論では代数的形式は外部圧力に応じるための手段としての定量化の結果にすぎない。代数的形式が現象の本体的性格を示すというバシュラールの議論からすれば、ポーターの議論は一面的ということにならないだろうか。このとき、客観性の概念は社会的プロセスのなかで形成されたというポーターの主張は弱められる。客観性の概念は結局のところ、社会的プロセスに注目するだけでなく、科学者共同体内部の知識形成プロセスに純粋に注目した研究によっても探究されなければならないのではないだろうか。