錬金術師の隠れ家

書評など。キーワード:フランス科学認識論、百合、鬼頭明里 https://twitter.com/phanomenologist

書評:コダマナオコ 『親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。』(2018)

 『親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。』(2018、全1巻。以下、『偽装結婚』とする)は、昨今のラノベのごとくタイトルがその展開を物語っている。厳しい家庭環境に育てられた主人公の真知が、レズビアンの後輩の花の口車に載せられ、渋谷区で制度化されているパートナシップ制度を使って結婚を迫る両親を諦めさせようという作戦を展開する話である。仕事一筋で結婚に興味がなかった真知にとり、最初は見せかけだけの結婚生活ではあったのだが、共同生活をすすめるうちに互いのことを知り段々と心を近づけていく*1

 

 


 作者のコダマナオコは、自身の作品を「光のコダマナオコ」と「闇のコダマナオコ」のふたつに分類している。後者の代表は「不自由セカイ」とアニメ化もした「捏造トラップ」であろう。男性によるレイプやDVというショッキングな題材を扱っているので当然ではある。だが一方で明るくてほんのりエロスの混じる「光」のはずの作品であっても、どこか重たいものを感じることがある。『偽装結婚』は「光」ではあるが、描いているものは異性との結婚を迫る親の圧力であったり、どうせ寿退社するからと重要な案件を女性社員に任せられないという空気であったりと、現代日本社会にごく「ありふれた重圧」が当然のようにそこに存在している。何を当然のことを、という人もいるだろうが、コメディ系の百合漫画作品ではそうした強制的異性愛やそれに伴う女性差別は、読んでいて負担になることからあえて排除していることが多いため、こうしたありふれた重圧をごく当然のものとして描く百合漫画作品はむしろ結構珍しいのだ。

 個人的に興味深かったのはクライマックスのシーンである。親の言いなりだった真知が初めて親に啖呵を切るシーンこそが主人公の成長を示す本作の絶頂点である!……かと思ったのだが、その直後の花との会話ですれ違いが生じてしまう。なんのことはない、花との居心地のいい結婚生活を経て「結婚も悪くない」と口にしただけだったのだが、花はそれを異性との結婚のことだと捉えて勝手にショックに浸るのだ。かつて恋した相手にここぞとばかりに結婚を迫ったくせに、である。ここのところが妙にリアルで、抑圧からの解放に前向きに見せかけつつも、その実ふとした拍子に自らに内面化された抑圧に苦しんでしまうという展開には、社会や他人に対し傍若無人に振る舞う強さを保持できない生きづらさ、とでもいうようなものが表現されていたように思う。

 だが本作は「光」であることは忘れてはならない。親という障害やすれ違いを乗り越えて本当のカップルになっていくのだから。定番の展開ではあるが、現実の女性の生きづらさをあえて引き受けて表現し、最近の渋谷区のパートナシップ制度の制定といった2018年当時の出来事もうまく取り込むことで、現実的な障害を乗り越えて自分たちの生活を作っていこうという強い気概を感じることになる。重い現実をうまく乗り越えていこうという主人公二人の姿に、元気づけられる読者も多いのではないか。

*1:なお、パートナシップ制度は結婚制度と同一のものとみなすのは色々と問題があるのだが、ここではあえて同一のものとみなした。現実に制度化されているものを利用して現実に抵抗する、という点が本作を読む上で大事だと思ったからだ。もちろん同性同士の共同生活を「結婚」やそれに類する公共制度に取り込んでいいのか、という問題もあるのだが、ここではひとまず括弧にくくっておいた。

書評:『鬼頭明里1st写真集 Love Route』

名古屋の申し子

 鬼頭明里は2014年の7月にデビューしてからわずか5年で人気声優の座に君臨した。デビュー作の『六畳間の侵略者!?』にていきなり名前付きの役をもらい、2016年には往年の名作のリメイク作品『タイムボカン24』の主役に抜擢される。2017年9月からはラブライブシリーズの新企画『虹ヶ咲スクールアイドル同好会』のメンバー近江彼方を務め、2019年の1stライブと2020年のラブライブフェスで数万の観客の前で、穏やかながらも音程の正確な歌声と、彼方の魅力を存分に表現したダンスを披露することになった。評価を確立させたのは、アニメ『鬼滅の刃』において主人公の妹である竈門禰豆子を演じたことによる。少年ジャンプというブランドの期待を背負い、他のキャストは花江夏樹櫻井孝宏をはじめとする経歴の長い超豪華声優に囲まれたなかで、言葉を発することのできずうめき声や叫び声でしか表現することのできないという難しい役柄にもかかわらず、彼女はそれを見事に演じっ切ったのである。2019年は他にも『私に天使が舞い降りた!』や『まちカドまぞく』といったレギュラー作品が人気を得たという経緯もあり、「2019年に一番活躍したと思う女性声優」の第1位に選ばれた( https://animeanime.jp/article/2019/12/29/50657.html )。
 2019年の誕生日である10月16日には1stシングルが発売となり、また非常に高いイラストレーションの技術を時折披露しており、和泉つばすにその実力を認められるほどである( https://twitter.com/tsubasu_izumi/status/664802109057929216 )。このように声優だけでなく歌手やイラストにおける活動もさかんなあかりんであるが、2020年1月31日には初の写真集が発売された。本記事はその写真集についての書評である。
 
 ところで「声優が写真集を出す」ことについて奇妙に感じる人も多いかもしれない。確かに声優の本業はアニメやゲームに声をあてることであり、グラビア撮影は副次的でしかない。しかし、ここ近年の声優業界の盛り上がりとともに、配信やライブなどの形で声優の活動の幅が広がっており、写真集を出す声優が増えたことは事実である。例えば、逢田梨香子の写真集は2.8万部を超える発行部数の大ヒットを記録している( https://mantan-web.jp/article/20180725dog00m200042000c.html )。
 人気の高まりにつれてファンが写真集を望むようになったこと、声に限らない自己表現の手段として写真に訴えようという意識が高まっていったことが、声優による写真集の刊行増加の背景にあると考えられる。私としては声優本人の「自己表現」の手段として写真集をみなし、その観点から本書をレビューしてみたいと思う。
 

 

鬼頭明里1st写真集 Love Route

鬼頭明里1st写真集 Love Route

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 秋田書店
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 大型本
 

 

本人のスタンス

 まず、「自己表現」を分析するからには、あかりん自身がどのように自己規定しているか、それをちょっと調べてみよう。上述のようにめまぐるしい活躍をしている鬼頭明里であるが、彼女のモットーは「ゆるい感じで」である。これはツイッターのbioに書かれているものだが、彼女のフォロワー数が20万を超えたときも同じコメントをしていること、ラジオでも同じ言及があることからも、彼女自身の声優生活そのものの方針であると推測される。自身の仕事の多忙さと人気の高まりに反して、本人はどこかマイペースを貫きたいという願望がどこか感じ取れるようである。現にツイッター上では仲の良い和氣あず未春野杏と遊びに行った報告を何度も上げていたり、男性オタクからはあまり受けのよくなさそうな化粧品の写真を上げていたりしている。また、自己実現を図るために両親にたよることなく、自分でアルバイトをして資金を貯めて活動するなど、自分で考えて行動する責任感の強さもみられる。どこか自由な生き方と責任感の強さが彼女らしさであり、また魅力であるとも考えられる。
 

写真集の形式

 他方で、本人の意志と出版社の意向、読者の望むものは必ずしも一致しない。特に写真集にあたっては単にバラバラに写真を収めるのでなく、テーマを設定して書物としての統一感を出さなくてはならない。本書のテーマについてはインタビューのページに記述があり、「あかりんが住んでいた街から旅立ち、夢を追い、そして愛する人と結ばれる、という自分探しの旅」がテーマであることが分かる。サブタイトルには「ROUTE 16」というように日米の国道の名称が使用されており、(実際はすべて国内で撮影したものであるものの)旅する感じがよく表されている。「自分探しの旅」というのは、本人の自由気ままな生き方を表現するのになかなかよいテーマ設定であると考えられる。
 
 だが他方で、「愛する人と結ばれる」という、端的に「結婚」のモチーフも本書には出てくる。正直、これは「自分探しの旅」のイメージにまるで合う気がしない。「結婚」は一方で愛する人と結ばれる幸福とみなされる一方で、「結婚は人生の墓場」という言葉もあるように、己の自由を強く束縛してしまう制度的装置でもある。まして、現代日本の女性は依然家事や子育てを引き受けさせられることが統計的にも明らかである( https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000200711.html )。「結婚」は「自分探しの旅」の本義であるところの自由の発露を、まさに自由からの逃走のような形で溝に捨ててしまいかねないのである。
 なぜこのような表現が採用されたのかについてはまあ想像がつく。ウェディングドレスを見たい、着たいというファンや本人、編集者の願望である。実際ウェディングドレスを着ているあかりんの姿は大変美しかった。しかし、「ウェディングドレス」こそは、「美しさ」を根拠にすることで制度的強制を正当化する美学イデオロギーの典型である。本書にはこうした制度を撹乱するような表現があるわけではなく、「結婚こそ人生のクライマックスである」という、1960年代末までの少女漫画にありがちだった陳腐なロマンティック・ラブ・イデオロギーを打ち出してくるのはどこか虚しさが感じられる。ゆえに、写真集を鑑賞して楽しむのはいいにしても、表現のこうしたイデオロギー性について一定の留保をとらなくてはならない。
 

ツッコミどころ

 それぞれの写真をみていっても、どこかツッコミどころが多い。まず、最初のページで提示される写真は、横浜中華街でのチャイナ服である。これはいくらなんでも安直すぎる気がする。コスプレ写真集なら良いのかもしれないが、本作に出てくるコスプレ・非普段着はチャイナ服とウェディングドレス、それに最後の方のページの『声優パラダイスR』の未公開カット集だけで、大半は普段着である。本書は旅による自己表現がテーマであるにもかかわらず、旅の最初にチャイナ服、最後にウェディングドレスというのでは、先に述べた理由もあり、どこかちぐはぐに感じてしまう。
 とはいえ、あかりんの経歴を追っていくとチャイナ服にもそれなりの意味があるようである。あかりんの高校卒業後アルバイト先はラーメン屋であり、その経験をしばし語っている。「特技はラーメンの湯切り」という語りをすることもしばしばである。それを踏まえると活動初期を振り返るという意味で中華街でのチャイナ服にも意味が見いだせるとは思う。浮いている感じはどこか否めないが。
 
 また、アコースティックギターを弾いている場面もあるのだが、これは意図が謎である。インタビューでも述べているがあかりんはギターは弾けない。現に写真をみても左手指が弦がきちんと押さえていない。これもあかりんらしさを表現したものとはいえないと思われる。撮影するにしても弦をきちんと押さえるよう指導してよかったはずである。また、サブタイトルは「Route246:Another State-Lifework」となっている。あかりんにとりギターは特にライフワークではないというだけでなく、そもそも国道246号線の近くで撮影しているにもかかわらず「Another State」は明らかにおかしい。誤植であると思われる。
 
 本書に見られる違和感を払拭するには、「本書は鬼頭明里本人ではなく、鬼頭明里が誰かを演じた写真集である」と解釈すると整合がつく。例えば最初のチャイナのカットのサブタイトルは「ROUTE 16:Family Business[家業]」であるが、鬼頭家は別にラーメン屋ではない。あかりんが演じる横浜中華街生まれの誰かが太平洋の海岸線やアメリカを旅をして、やがて恋人にプロポーズされて結婚する、という話になっているとするのである。もちろんこうすると、本書は鬼頭明里の自己表現の書ではなくなってしまい、致命的である。ではどこにあかりんらしさを求めるべきであろうか。
 

鬼頭明里の自己表現

 先にも触れたように、あかりんはファンションに強い関心を抱いている。実際、選ばれた普段着のセレクションにそれが強く現れている。
 あかりんが特に気に入ってるのは、再度中華街のシーンに来たときに普段着として撮影した Lily Brown の花柄刺繍のネイビーのワンピースである。Lily Brown はあかりんのお気に入りのブランドで、撮影時には気分が上がったという。花は花びらや葉の形からしてアオイだろうか。アオイは太陽に向かって咲くことから「大望」の花言葉があるという。花言葉の恣意性を差し置いても、葉や花びらをうんと広げて咲くアオイのイメージはあかりんにとても良く似合う。2020年のトレンドカラーはクラシックブルーであり、それを意識しているのかもしれない。ネイビーの地にくっきりと浮き出る白の花模様は彼女の強い自己主張を思わせるようである。またタピオカドリンクを携帯しての撮影で、イマドキ感がとてもあかりんらしい。
 
 旅先をイメージした屋内でのメイクアップのシーンも彼女らしさをうかがわせる。あかりんは化粧品の写真をよく投稿しているが、連写のような形でメイクアップの様子を見られるのは写真集というメディアの形式ならではである。欲を言えば何のブランドを使っているかを知りたいものである。フラミンゴ柄の紺色のホットパンツやヴィヴィッドな赤色の可愛らしいノースリーブシャツは、旅先の宿泊部屋にて、慣れない土地に心浮かれながら部屋着でくつろぐ心情を表現しているようである。
 
 白色のワンピースの写真や、白色のパーカーを着ている写真は彼女の飾らないラフさがよく現れている。サイン会のレポートによると、白色のパーカーが参加者にとり一番人気があったという。男性ファンからはその素朴さが受けたのだと思われるが、あかりんのファッショナブルな側面を考慮すると先の Lily Brown のワンピースや部屋着の方が彼女の本質に迫っているとは思う。
 
 本書では赤2着、白3着(+ウェディングドレス)、紺2着と似たような色合いの服装がけっこう出てくるのだが、それにもかかわらず違うものを表現してみせているのは、彼女の魅力によるものか、スタイリストやカメラマンの腕によるものか。
 「自己表現」という観点からすると、巻末や裏表紙の彼女のイラストが載っていることもポイントが高いといえるだろう。
 

将来への望み

 総じて、形式面において色々とツッコミどころはあるものの、服飾のセンスに気を配ってみると、鬼頭明里の「自分らしさ」というものがよく垣間見えるように思われる。被写体は神の可愛らしさであり、また普段着のセレクトセンスがよい。鬼頭明里らしさを発見したり再確認したり、あるいはおしゃれな写真を鑑賞したりするには買って損はないと思われる。4000円と写真集にしては少々高いが。
 もし旅を自分で計画するとしたら「海外旅行に行きたい」というのが彼女の望みだそうだ。もし写真集の第二弾が出るとしたら、ぜひとも彼女の望みが実現されるような内容になって欲しいものだ
 

 

鬼頭明里2ndシングル「Desire Again」[初回限定盤]

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批評の意義とは何かー『やがて君になる』第5巻を参考に

   批評の意義とはなんだろうか?作品は作品だけあればよいのではないのか?そんな議題を本日9月4日、アニクリ編集者・寄稿者の方々たちと話し合ったので、個人的に思ったことを書いてみる。


   私としてはこの問題設定を聞いた時真っ先に、『やがて君になる』第5巻のワンシーンが思い浮かんだ。主人公の侑が劇脚本担当のこよみに、劇の結末の変更を申し出るシーンである。劇中劇のあらすじはこうである。記憶喪失の主人公が元の自分の手がかりを見つけるべく、かつて親しくしていたという三人の人物に話を訊くのだが、三人それぞれによる過去の自分の人物像がバラバラであるあまり、どれが本当の自分なのかわからなくなる…

   最初の結末では、主人公は三人のうち恋人のいう人物像を本物として選び取る、ということになっていた。だが、侑はそれに疑問を呈するのである。以下その部分の台詞の引用である。


あの主人公は…三つの自分の中にどれか一つ「正解」があると思ってる。正解を見つけてその自分になるべきなんだって。過去の自分について見舞い客から話を聞いて日記やメールを探して最後は答えとして恋人といることを選ぶ。

でもそれって今の主人公の意思じゃないんじゃない?昔の自分を基準に決めただけで今の彼女の選択じゃない。舞台の幕が上がって下りるまでの間観客が見てるのは今の主人公でしょ。記憶があったころの彼女じゃなく。なのに過去を基準にして結末を導くんじゃまるでこの劇の時間に意味がなかったみたいだ…(pp.21-23)

 

やがて君になる(5) (電撃コミックスNEXT)

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   物語は見る人間を変える力を持っている、とよくいわれる。もちろん変えない場合もあるだろうが、物語を見るものが望むのは、物語を見ることによって「楽しかった」と感じること、「泣いた」と感じること、「学んだ」と感じることを経験することである。物語に時間を費やすことによって、何かしらの意味が自分のなかで芽生えることを望んでいるのが普通であろう。しかし、見るものを変容させる意志がないような物語は、与えられた選択肢から一つを選ぶだけの結末は、果たしてわざわざ時間を割いて見る意味があるのだろうか?侑の指摘はもっともであるし、本編の物語内容と関連させて言うならば、劇を演じる燈子にもまた過去から与えられた選択肢にこだわらずに新しい自分を見つけて欲しい、という願いも込められている濃密なシーンなのである。


   「見る者を変容させる意志」、ここに創作の本質があるように思える。「見る者に影響を与える意志」といってもいい。「瞬間的な面白み」「葛藤を克服することによる満足」「物語の後も残るお土産」を見る者は求めているからだ。それを満足させられよう、物語は最適化される必要がある。もちろん見る者にも好みというものがあるから、「この物語は私には不満足だった」という感想も出てくることだろう。しかし、最初から見る者を満足させようとしないことと、見る者を満足させようと努力することとは違うことだ。話者は最初から諦めてはいけない。形式を知り、趣向を凝らして、自分の伝えたいを伝える意志はせめて示すべきなのだ。

(上述の物語の意義については、詳しくはヒグチ氏のブログがたいへん参考になった。

http://yokoline.hatenablog.com/entry/2014/08/09/174717 )

 

   批評もまた作品の一つとするなら、同様に侑の指摘は大変示唆的である。批評の意義は何かと訊かれたら、読者に対象作品に対する新しい視座を与え、対象作品に対する評者の熱い思いをぶつけることだ、と答えることだろう。作品そのもののうちで起こったことをただ語るだけでは「批評」という「作品」にはなりえない。せいぜい個人用のメモか、よくわからない人のための解説か、忙しい人のための概要か、背景が分からない人のための注釈にしかなりえない。解説、概要、注釈はもちろん需要はあるのだが、「その作品をみてあなたはどう変わったのか、あなたの文章によって私たちはどう変わりうるのか」が提示されることはない。読者にとっての変容のモデルとしての「評者自身」、これが実際に作品を見たことで変容したことの痕跡もまた「批評」になりうる。このとき、評者はひとつの作品を書いたことになるのだ。

映画感想:『劇場版 響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(2016)

 8月29日に、新宿ピカデリーにて『劇場版 響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』の特別特集上映があったので行ってきた。いうまでもなく、例の事件を踏まえた上映である。個人的には「そういえばまだ見てなかったな」という軽い気持ちで行ってきたのだが、果たして会場は重い空気に包まれていた。スタッフロールですすり泣く声が聴こえたりもした。
 映画自体はとても素晴らしく、アニメ1期の総集編ではあったものの、1つの作品として仕上がっており、こうした形式のため放映版では気がつかなかった新たな発見があったりした。もちろん、放映版でもよかったシーンも素晴らしかった。そして何と言っても「音響」である。吹奏楽を題材にしているだけあって、「音」を目当てに劇場に足を運んで見るだけの価値がある。これらを語ってみたいと思う。
 

画面が音を鳴らす

・冒頭が久美子の演奏するユーフォのベルの奥中から手前にパンするシーンから始まる。これの何が特徴的って、ベルの向きからして必然的に「斜めに」奏者を覗き込む視点へとフレーミングがシフトすることである。こうした画面構図はあまり見たことがないものだから新鮮だった。トランペットやトロンボーンだったら真正面に覗き込む構図になるからこうはいかないだろう。でも楽器がユーフォニアムなのだから当然ではないか、と思うかもしれないが、そもそも「ユーフォニアム」なんて地味な楽器が主役の音楽アニメはこの作品くらいしかないのだ。この作品は「ユーフォニアム」を主役にしてるからこそ「特別」なのだ、それを端的に効果的に見せる演出!満点の出だしだ。
 
・スカートの描写。入学式の朝、久美子が自室で冬服のスカートの裾を短くする描写が入るのだが、これはなかなか冒険的な描写に思えた。それというのも、青少年のキャラクターを「性的存在」として規定するからである。前者のモノローグで語られるのは性徴の話である。
 「高校に入ったら胸が大きくなるなんて噂、どうして信じちゃったんだろう。そんな事を思いつつ、わたしの高校生活は始まろうとしていた。」
 
原作だと男子の足を見る性的視線を内面化するという形で自らの性徴を語っていたのが、アニメでは他者の視線とは関係なく内省的な形で語られる。もちろん、「スカートが短い方が可愛い」というカジュアルな感覚でスカートを短くするという風にごまかすこともできただろうに、ここではあえて(原作より露骨ではないものの)性的存在としての己の自覚という形でスカートの裾を短くするのである。「足」は京都アニメーション(というより山田尚子)の作品において幾度となく象徴的に描かれてきた。
山田:「目は口ほどに物を言う」じゃないですけど、足もそうだろうと思ってました。足って普段は机の下に隠れちゃいますので人の本性が出ちゃうと思います。
 
「人間の本性」としての「足」が、「性的存在」としての「私」と結びつく、ここはそういうシーンである。
 なんでこの冒頭の「スカートを上げる」というどうでもいいような描写にこだわっているのかというと、終盤、同じく自室で冬服のスカートを着用するシーンが入るのだが、決定的な違いがある。その日は大会当日という公的舞台に立つ日であり、ハレの日であるが故に、久美子はスカートを下げるのである。公式の舞台に立つのでフォーマルにするのは当たり前のことだが、冬服に着替えるシーンが出てくるのはこの2シーンだけでありながらも、その「フォーマル」感を、序盤の描写と対比させる形で「スカートの裾を伸ばす」という描写で表現しているのである。足の見える面積が小さくなるのだから、ここでは性的存在としての自覚は語られない。そんなことよりも「大会本番」のことを考える方が大事だ。このアニメは登場人物をちゃんと性的な存在として描きはする。でも性とは逆立するような「大会の演奏に魂を込める存在」もちゃんと切り替えて描くよ。そうしたことを訴えかけてくるようだった。
 多分放映版でもこうした描写はあったかもしれないが、2時間以内に話を収める劇場版という媒体形式だからこそより対比として伝わってくるような印象があった。
 
・麗奈が再オーディションに臨むシーン。優子に頭を下げられた件もあったためか、普段は特別になりたいと願い強く振る舞う麗奈であったが、再オーディションを前にいつになく明らかに気がひけている。いつも眩い麗奈の顔が、今回に限って暗く曇る。あまつさえ顔が柱の影に隠れていて、とてもいつもの麗奈とは思えない。
 他方で、麗奈の思いを知った久美子の顔には、強い陽光が差し込んでいる。「特別になりたいんでしょう?」と久美子の方が、光差す側から麗奈を「特別」な方へさそいだす。あの日大吉山で受けた「愛の告白」を返されたことで、麗奈は再び眩い光を取り戻し、高らかな自信とともに決意の表情を見せる。

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(第10話 まっすぐトランペット より引用)
 
・久美子が滝先生から158小節目を吹くことを外される宣告をされるシーン、蝶が蜘蛛の巣に引っかかるカットがかかる。この描写は後の久美子が大会を辞退しようとするあすかを説得しようとして難儀するシーンでも見かけられる。久美子の悔しさや切実を昆虫の死で象徴するおぞましい描写。
 

音の風景

 本作品は画面だけでなく音に対するこだわりも非常に強い。気づいたことをあげてみよう。
・序盤の音楽。冒頭の地獄のオルフェを除けば、流れるのは北宇治の下手な演奏ばかりである。下手な演奏ばかり聴かされるせいで「大丈夫か?」という空気が漂う一方で、麗奈の上手い演奏が時折風のように通り抜けていく。川の淀みの中に一瞬砂金を見つけたかのような喜びといえようか。劇場版だとこの辺が徹底されていて、放映版だと滝先生が地獄のオルフェをスマホで流すシーンがあったのだが、劇場版ではそれがなくなっており、ひたすら北宇治の下手な演奏とそれに釘刺す麗奈の演奏ばかりになっているのがその証左となっている(これはこれで非常に技巧的なシーンなので放映版も見て欲しい)。こうした音の統制もあって、滝先生の鬼の指導の末仕上がった合奏は、本当に見違えるほど美しいものに感じられるのである。
 こうした駄演と名演のコントラストの中で一際目立つのが、麗奈の新世界第二楽章の演奏である。演奏も柔らかな音色で素晴らしいが、それを彩るのが柔らかな紫の夕焼けである。麗奈が演奏している場所は藤棚。本シリーズで象徴的な場面で幾度となく登場する舞台である。「紫」は日本ではかつて皇族しか使用できない高貴な色であるとされていた。去年大量に脱退者を出してしまうほどに堕落した北宇治高校吹奏楽部の淀んだ空気と対照的に、麗奈の演奏は誇り高く輝いていた。
 
・放映版でも思ったことだが、久美子と緑輝の最初の北宇治の演奏を聴いた時の反応が、楽器未経験者の生徒や葉月と明らかに違っているのが吹奏楽あるあるであった。ある程度経験を積んでみると、北宇治のあの演奏は音程バラバラ、テンポも合ってないとまるでダメな演奏であるということがはっきりとよく分かってくるのだけれど、初心者からしたらそうした違いは分からないものだから、楽器が鳴らせるだけでもすごいのである。このリアリティが吹奏楽経験者からしたら本当に「分かっている」と思えた。
 
・サンフェス本番のシーン。北宇治が立華などのトップ校の直後の出番になってしまったせいで部員たちがプレッシャーに押しつぶされそうになるなか、ここでなんと麗奈がまっすぐに音出しをする。控えにいるのだから普通音出しなんかしてはいけないはずである。空気の読まなさがまるで山岡士郎である。だがしかし、この空気の読まなさが緊張した空気を破壊して北宇治を良い方向に運んでいる。このまっすぐな音が、劇場で聴くと己に直に訴えかけてくるようでもあった。
 サンフェスの本番も、音だけでなく行進とステップによって我々の目を楽しませてくれる大変素晴らしいものだった。久美子の原作での台詞「楽しい!」が、台詞自体は聴こえないのに、「画面」から聴こえくるようだった。
 
・他にも、音響に対するこだわりが非常に強く感じられた。音楽室で優子が麗奈に詰め寄るシーンは、マットを敷いているため足音が鈍くなっている。オーディションのときの久美子の演奏に、タンギングやマウスピースに空気を吹き込んだときの音が紛れており、「奏者にしか聴こえない音」が聞こえてきて、画面だけでなく音においても久美子に一人称的にフォーカスしている感じが伝わってきた。
 

特別とは

 本作はとても素晴らしい内容であったが、このタイミングで見るとなるとどうしてもアクチュアリティと結びつけざるを得なくなってしまう。それを感じたのは麗奈の「特別になりたい」という言葉である。他人の空気に染まらず自分らしさを貫き、なりたい私を実現させようとする意志。それはまるで星のように輝いている。
 しかし他方で、歴史に名を残す凶悪殺人犯となることも、「特別」になることである。「特別」が「他の人と違うこと」であるとすれば、「何もない自分」から抜け出して「何かがある自分」になることが「特別」であるとすれば、この二つはどう違うのだろうか、という残酷な問いが訪れることになってしまった。
 これらを区別するには哲学者の助けを借りると良さそうである。ハイデッガーは世間の空気や雑談に耳を貸してばかりいて、自分らしさを持たない人間のことを das Man(世人)と呼び、こうならないためにはどうすれば良いのかを考えた。そして考え付いたのが、自分を「死せる存在」であることを自覚し、いずれ訪れるであろう死へと向かって自分の存在を投げかけることであった。
 他にも哲学者たちは「特別になる」方法を考えていったのだが、面白いことに、哲学者たちが提案する方法というのは実は「誰でもできる」方法なのである。「理想」を実現することは難しいことかもしれない。だがしかし、その出発点に立つことは誰でもできる。ただその出発点に立つことを恐れ何もしない人というのが大半ではないか。哲学は「勇気」とセットなのである。
 無論この「勇気」は「蛮勇」とは異なる。破れかけには「理想」がないからだ。
 こうして考えて見ると、麗奈の「特別」とは、最高の演奏をして、そして滝先生と結ばれるというような「理想」に向かって、一時は怯みつつも親友の声によって「勇気」を取り戻し歩つづける誇り高き意志であるようだ。
 もちろん「理想」も「勇気」も持てない人はいる。本シリーズでも自身に限界を感じて脱落する人間はいた。「特別」とは動機としては普遍的でありながらも、しかし実際実現するとなると極めて高いハードルであることは否めない。しかし他方で、自分のことを気にかけてくれる人もまた描かれるのが本シリーズでもある。生きる上で重要なのは特別になることというよりは、自分自身を肯定すること、それを許す友を見つけ出すことだ。本シリーズは「特別」をメインキーにしながらも、そうした人間関係の多様性を描いてもいるはずである。

石原孝二『「感情移入」と「自己移入」 : 現象学・解釈学における他者認識の理論 (2)(3) シェーラーの他者論 (前)(後)』

 
 
 我々はよく「あのキャラクターに感情移入して物語を読む」とか「このドラマは感情移入できなかった」という風に「感情移入」という言葉でもって偉ぶって作品を評価する。それはプロの評論家もよく使用する概念である。だが、その「感情移入」という概念を正しく理解しているのだろうか。かの人たちは単に「登場人物と同じ気持ちになれる」という程度の曖昧な理解で使っているだけではないだろうか。
 私はそもそも「感情移入」概念というものに懐疑的である。読み手が登場人物と同じ気持ちになることはそもそもありうるのだろうか?単なるこちら側の思い込みではないのか?そんな思い込みで正当な作品評価など出来るのだろうか?といった疑問がつきまとうからである。
 本論文はまさしくこの「感情移入」概念を批判的に検討する論文である。リップスやヘルダーといった感情移入美学の代表者たちの理論に対する、哲学者シェーラーの批判がいかなるものなのかを読み解くという論文である。
 

感情移入とは何か。

   まずリップスらによる感情移入概念の定義を見てみよう。感情移入説とは、他者の心理を私が理解するためには、単に他者の身体像を知覚するだけではなく、それに自己の過去の心理的過程を投射するという作業が必要であり、この作業=感情移入の存在を認めるという立場のことである。
   この説は、我々は物理現象を知覚するのと同じ仕方では他者の心理を知覚することはできないという含意もふくんでいる。現代の我々には奇妙に思えるかもしれないが、19世紀の哲学においてはこうした説は比較的すんなりと受け入られていた。それというのも、知覚対象である心理的対象と物理的対象、そして、それぞれを知覚する感覚器官は、デカルトにならい厳密に区別されるものと考えられていたからである。
 
   また、ヘルダーやリップスに代表される感情移入説の前提は以下の2点が挙げられる。
1 :心もしくは自我は、確実に与えられるものであり、それは外的かつ不確実に知覚される対象とは区別されるものである。
2 :外的に与えられる感覚のうちに自我が自己自身を投入し、自我が対象と融合することによって、美的な経験もしくは他者の認知が得られる。 逆に言えば、そうした融合を可能にするものが美的な対象もしくは他者の身体である。
 
   つまり、心というものが存在し、心とは区別される外的な事物もまた存在する、というのが第一の前提だ。第二の前提は、第一の前提のもとで、私の心が他者の心や作品の登場人物の心と融合することで、自然や作品に対する認識や感動が生まれる、ということである。
 
   この二つを否定することによって、 シェーラーは 感情移入説を批判した。現代でも通用している感情移入説を批判するという私の目的からすると、この石原論文で紹介されているシェーラーの感情移入説批判は大変に役立つものに思われる。それでいて、このシェーラーの説は現象学の成立に関わったりと大変意義深いものであるというのが石原の見解である。
 

フッサール

   前史として、フッサールによる内的知覚説の批判があげられる。フッサールの『論理学研究』で内的知覚の特権性は批判されるのだ。
   内的知覚と外的知覚との区別は何に由来するのか、そもそもそんな区別を立てなくても、あらゆるものは同一の能力によって知覚できるとすればいいのではないか、そういう疑問が生じるだろう。だがデカルトから20世紀初期までの哲学者たちのメインストリームはそうではなかった。内的知覚と外的知覚との違いは「明証性」にあると考えられていた。「我思うゆえに我あり」から分かるように、己の心理状態は確実に知覚されるものであるのに対して、我々は外的事物に対してはときに錯覚を抱くことがある。外界の知覚は常に不確実なのに対して私の思考は確実だ。そこに内的知覚と外的知覚の差異の基準があるのだ。
 感情移入説の背景には、こうした内的知覚と外的知覚の区別があったのだ。他者の心は私からすれば「外界」に属するものだが、しかし他者本人にとっては「内界」に属するものである以上、私の外的知覚によっては他者の心=内的知覚を捉えることはできない。ではどうすれば捉えられるのか?という問いたてに応えるために、感情移入説は生まれたのである。他者理解は、外界に属する他者の心に対して、私の心を投影する、という仕方で行われているとすれば上手く説明がつくとされたのである。
   しかし、自我の心理状態と「私」の考えとは必ずしも一致しない。我々が心の内外の区別を考えるとき、「内」の領域が必ずしもコギトと一致するわけではない、とフッサールは考えたのである。
   フッサールは明証性は心理現象の知覚と物理現象の知覚の区別の基準にはならないと考え、別の基準を用意した。それが「十全性」である。知覚が十全であるとは、一つの感覚が私の現実的な経験から逐一成り立っているという意味である。その対となる「非十全的な知覚」とは、現に与えられた内容を超えて対象に向かうことを指す。つまり経験には存在していない要素(神や自由などの形而上学的な事柄に限らず、経験したことのない虚構も含まれると思われる)を取り込んだ飛躍的な知覚を行うとき、それを「非十全的な知覚」というのだ。
 

錯誤と誤謬

   シェーラーによると誤った知覚というのは錯誤と誤謬に分けられるとする。路面が濡れているとき、それを水だとみなすのが錯誤(実際はガソリン)。濡れてる第一印象から「さっき雨が降った」と判断するのが誤謬(実際は誰かが水を撒いた)。つまり知覚が実際と異なるのが錯誤、知覚に基づく推論が実際と異なるのが誤謬だ。
 

シェーラーの意図

   シェーラーによる感情移入説批判の要点は以下の二点である。
1:内的知覚による心理対象は、感覚器官の違いが物理的現象との差異をもたらすわけではない。自己認識は心理的過程とも物理的過程とも読み取れる。
   つまり、他者の身体の視覚像が心理的な現象か物理的な現象かは、単に知覚の「仕方」に依存し、本質的には同一のものである。だから他者の心理的過程は、自己の心理の投影などを行わなくても直接知覚することができる
 
2:内的知覚が関わる体験流は、自己の心理的過程だけでなく、他者の心理的過程をも知覚対象とすることができること。
 つまり、私の内的知覚を作り出すものは私だけでなく他者でもある、ということだ。言い換えると、私の体験流が、自分自身の体験のみならず、すべての他者の経験をも包括するのだ。
 
 で、他者の心理を知覚するため自己の心理を他者に投げかける現象としての感情移入は、シェーラーによれば、単なる「錯誤」である。
 他者の心理を読み誤りうるのであれば、当然、自己の心理も読み誤りうる、ということになる。
 
 シェーラーの主張をまとめると、次の二つになるだろう。第一に,われわれは原理的に,他者の体験を(自己の心を投げかけるプロセスを経なくても)「直接」知覚することが可能である。第二に,原理的に可能な体験(自己だけでなく他者のも)の知覚の中でわれわれが「実際に」知覚することができるのは,われわれが「表現」することのできるものだけである
※表現することと知覚することは区別される。
・私が身体によって表現できるものに限り直接知覚することができる。
・表現形式に注目する。詩人は既存の言語の枠組みを超える新たな表現形式を生み出すことで、われわれが知覚しうる体験の範囲を広げる。
表現形式の共有によって自己と他者の間で体験の転移が起こり、「これは私の体験だ」という錯誤が起こる。
 

コメント

 シェーラーの感情移入説批判の第二点を敷衍すると、次のような考察が得られる。他者理解は結局知覚者の過去の経験に還元にしても、しかし、その経験が他者によって、あるいはこう言い換えてよいなら「社会」によって構成されているものであるとしたら、経験は個別性を失い、社会性、集合性を帯びるはずだ。ここから、一見したところ「個人的」なものである「経験」における社会的側面を発見することができるのではないか、とみることができる。
 例えば、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「経験」概念の理解を参照してみよう。ここでフーコーを持ち出すと、『言葉と物』を読んだことがある人は「え?」ってなるだろう。というのも、シェーラーはフーコーの論敵だからである。シェーラーは「人間とは何か」という問いに哲学の見地から答えるための学問として「哲学的人間学」を創設して19,20世紀のドイツでブームを起こしたのだが、フーコーによると(シェーラーに限ったことではないが)「人間学」という学問潮流は超越論的な基礎と具体的な経験が互いに基礎付け合うような不毛な関係を生み出しており、いずれ消え行く定めにあるもの、と断言しているのである。こういうわけで、シェーラーとフーコーは一見水と油の関係にあるのだが、こと「経験」という観点からいうと妙に似通ったものが見えてくるように思えるのである。
 シェーラーは他者の経験は心を読むプロセスを経なくても直接知覚することができ、それは私たちが表現することによって理解することができると考える。他者理解のための表現には当然、私たち自身のそれまでの経験の蓄積が必要となろう。ところで、この経験の蓄積は、一体どこからくるのだろうか?勿論その人自身の個人誌に由来するといえばそうなのだが、我々が社会的存在である、つまり、私個人を超えて高い一般性を備えた「社会」によって、身分や役割、さらにはセクシュアリティ、健常さ、生きる資格などなどを規定されている存在だとしたら、その経験は私自身だけでなく、社会によっても規定されているということになる。その社会による規定は、条件を満たしている全ての人に降りかかるのだから、それを受けた人たちは当然、全く同じ経験をした、ということができる。勿論人はそれぞれ違うのだけれど、しかし同質の経験をしたことのある人たちでグルーピングされる、ということはありうるのである。

ミシェル・フーコー『侵犯への序言』 DE No.13

 

 

   この論考は1963年にミシェル・フーコーが、1962年のジョルジュ・バタイユの死去に伴う「クリティック」誌のバタイユ特集に寄せたものである。この論考を最初読んだとき、何が書いてあるのかを理解できる人間はおそらく皆無に等しいだろう。フーコーバタイユの基本思想を知っておかないとついていけないだけに留まらず、この頃のフランスの思想家にありがちなことだが、どこが強調すべき論点なのかなかなか判然としないのである。
   私も最近になって再びこの論考に取り掛かってみたが、バタイユの思想がまだ理解できていないのもあってこの論考もやはり十分には理解できていない。しかし、どうせ分からないのであれば、キーワードを目印にある程度自分の方で筋を立てて、それに合わせて読解してみようと、人に言われたのを思い出した。その通りに美容院で理髪中に頭の中で再構成してみると、意外と言いたいことが分かってきたのである。以下は美容院で頭の中でまとめたことを文章にしたものである。


   バタイユの思想では神とセクシュアリテが対になり、神の神聖さが剥奪されているかのようにみえる。しかし、ニーチェ以後の言説においてそこで行われているのは、神への侵犯ではなく、不在の神への侵犯である。その「侵犯」には具体的な内容がなく(何せ「神」は死んだのだから)、したがって「侵犯」とは何かという形式的な問いが開かれることとなる。(それをフーコー自身の言葉で語るのが第2パートである。)
   現代における侵犯とは、その対となる「限界」の措定と破壊のいたちごっこであり、「限界」と共時的にしか行為しえないものである以上、それと共犯関係にあるといえる。なので「有限性」概念によって規定される現代において「侵犯」は必然的な概念なのである。この有限性はカントが形而上学と批判を接合したときに「人間学的な問い」として現れ、そしてヘーゲルなどによって弁証法の問いへと導かれていった。なので今日の不毛な限界と侵犯のいたちごっこを乗り越えるためには、それ以前の哲学の言語に立ち戻る必要がある。
   それをやってのけたのがバタイユである。バタイユは西洋哲学における「眼」の働きに注目する。眼はこれまで哲学的主体が認識を行う器官として特権化されてきたが、バタイユは眼球が眼球そのものの見られる働き、すなわち眼球の回転運動に着目し、その眼球を取り囲む肉の境界を直視し、侵犯する働きを見た。「バタイユの眼は言語と死とが帰属する空間を描き出す。そこで言語は自らの限界を超えることにおいてその存在をあらわにするのである。それが哲学の非弁証法的言語の形式なのだ。」18世紀末以来のヨーロッパの思考では人間は労働する動物であった。労働に伴う消費はただ欲求やそれを測る飢えによって一意的に定められてきた。それは人間学や生産の弁証法をも基礎づけた。しかし、サドがセクシュアリテを語り、ニーチェが神の死を語って以降、飢えを弁証法の言語で語るわけにはいかなくなった。セクシュアリテは言語に吸収され、言語自身による限界と侵犯のゲームの中におかれてしまった。このようにして、哲学は知(哲学とは別種のもの、多分科学のこと)や労働に対して二次的であるのみならず、言語に対しても二次的なものとして承認せざるを得なくなり、哲学的主体の至高性は失われてしまった。我々が有限性や存在を体験するには、言語を経由しなくてはならなくなった。この言語空間はそれまでの弁証法哲学にとっては絶望の暗闇だが、しかし非弁証法哲学にとっては希望の光となっている。

 

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

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なぜ新条アカネは男子大学生たちにブチ切れたのかーーアニメキャラクターの「性」の尊重を目指す

 本稿では、2018年10月から放送中のテレビアニメ『SSSS.GRIDMAN』における敵ヒロイン新条アカネの行動の動機と、それに対する集合体としての視聴者の反応の間にある違和感について探ってみたい。

 

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 新条アカネの行動というのは、第4話にて、クラスメイトのなみことはっすに誘われて、かつて親友だった宝多六花と一緒に配信主の男子大学生たちと合コンに行ったときに起こった。グリッドマンのことについて何か知っていないか六花に探りを入れようとそばに座るも、男子大学生たちに声をかけられ邪魔をされる。それを払いのけてまた接近を試みるも、今度は身体を寄せられるスキンシップをされ、おまけにSNSアイコンの(ウルトラマンティガに登場した)レギュラン星人、あるいはダイナのヅウォーカ将軍(カラーリング的にこちらの方が濃厚であるので、以降はヅウォーカ将軍ということにしておこう)のアイコンをお馴染みのバルタン星人と勘違いされ、ついに逆上して帰ろうとする、というものである。その後、エレベーター内で「マジ最悪」と本心を吐露し、帰ったら即怪獣の人形を作成して謎の存在アレクシスに巨大化、生体化をしてもらい、怪獣を使って男子大学生たちを殺害しようとする。


 本作を見たことのない人からしたら、「なんて下らない理由で人を殺すんだ!」と驚愕することだろう。実際、アカネの行動動機は滅茶苦茶で、1話では主人公の響裕太にスペシャルサンドをあげようとしたときにクラスメイトの問川にボールを間違ってぶつけられた腹いせに、問川をほかのクラスメイトもろとも殺害してしまい、2話ではグリッドマンについて考え事をしていたときに歩きスマホをしてぶつかって謝らなかった担任を殺害しようとする。些細なストレスを動機に平然と人を殺す彼女の幼稚さや狂気は、我々に一種の恐怖やカタルシスを覚えさせるだろう。だが、4話での行動の動機には、(グリッドマン本人を直接ターゲットとした3話は例外として)1話や2話のとはどこか異質なところがあるような気がするのである。いや、むしろ1話や2話とある程度共通するも、妙に生々しい感覚が存在しているのである。このことは、ツイッター上の視聴者たちの反応と対照的な印象があった。

 

3種類の動機

 まず、殺害の原因となった出来事が少し分かりにくい。今回の動機は①会話を邪魔される②身体的スキンシップをとられる③アイコンをバルタン星人と間違えられる、と複合的な要因によって成り立っており、どれが決定的要因なのか判別しづらいのである。そして、どの理由をとってみてもアカネを怒らせるのに十分なように思われる。①②③のそれぞれの動機を詳しく検討してみよう。


 ①は、1話や2話の動機を参照してみると分かりやすい。アカネが響にサンドをあげる行動や、グリッドマンについての思弁、そして六花への探り入れと、ことごとくアカネ自身の行動が他人によって邪魔されたことが殺害の動機となっている。そう考えてみると、先に「例外」と位置づけた3話でのグリッドマンへの直接攻撃も、これらと同じ「自分の行動を邪魔されたこと」という動機によるものとみなすことができるだろう。


 ②は後回しにして、③を考察してみよう。オタクの人々にとってこれはとても分かりやすかったのではないだろうか。自分の趣味をにわかによって有名な別物と勘違いされるのはいい気分にはならない。どうみても違うのにヅウォーカ将軍をバルタン星人に間違えられるのはオタクとしての誇りが傷つく、そんな奴らぶっ殺してしまえ、そんな「共感」を覚えた人は多いようだ。


 しかし、見逃してはならないのは②である。アカネは男子大学生たちに何の興味もないのである。ただ、グリッドマンのことについて六花に探りを入れる目的で会合に参加し、六花が参加するのに任せていただけである。それにもかかわらず、男子大学生たちに執拗に言い寄られるのはとてもいい気分ではなかろう。


 念のため、男子大学生たちの名誉のために断っておくと、彼らはアカネと六花の思惑など知らないのであり、なみこやはっすと同じく自分たちに興味があるものと思い込んでいるのである。実際に会いに来ているのだし勘違いして肩を寄せる程度のスキンシップをとっても、特に責められるようなことではなかろうとも思われる。


 だがしかし、肩を寄せられたときのアカネの反応をちゃんとみて欲しい。ギョッとするように目を開いているのがわかるが、このときのアカネの像は魚眼レンズで撮ったかのような歪んだ映し方がされているのが分かる。

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(上:4話   下:2話)

 この演出は、2話の担任にぶつけられたときと同じである。つまり、2話のシーンと同様に魚眼レンズによって彼女の歪んだ内面が映し出されるここのシーンの出来事が殺害の動機として決定打となった、とも読み取れるのである。考えてみると、「異性との不本意接触」という点でも2話と共通していたりする。新条アカネは、軽度とはいえ他者による身体領域の侵犯が殺人へと結びついてしまう、繊細な感性の持ち主だとも言えるのである。


 以上①から③を整理してみると、


①行為の侵害
②身体の侵害
③自尊心の侵害


となるだろう。そして、①と②はそれ以前の回でも確認することができる。これらが複合して、今回の怪獣イベントの原因となった、ということができる。


 そして、この中でも②が、殺害の決定的な動機となったことは魚眼レンズの演出や直後の不快な表情から強く推測される。2話でも接触はあったとはいえ、今回しつこくスキンシップを迫られたことはアカネには相当苦痛だったのだろう*1


視聴者の反応

 で、興味を抱いたのはこのシーンだけでなく、このシーンをみた視聴者の反応である。ツイッターでは主に、②身体の侵害ではなく、③自尊心の侵害が決定的要因として解釈される、という事態が起こったのである。アイコンの画像と一緒に『刃牙』の「オイオイオイ 死ぬわアイツ」で有名な1コマが貼られたり、#アカネちゃんも怪獣をけしかける一言  というハッシュタグが作成されかなりの数の投稿が認められることからもその様子は窺える。


 こう解釈された理由は、そのあまりの分かりやすさにあるだろう。先ほども述べたように、非オタクから自分のオタク趣味を適当な知見で語られるということはいい気分にならない。こうした「オタクあるある」が共感を呼び、ネット上でもネタとなっていったように思える。当然、アカネの怪獣をけしかける動機としても解釈されている。


 それに、「オタクの自尊心を蹂躙したリア充が怪獣に殺される」という展開には、内心スッキリした気分になったオタクも多いことだろう。怪獣というフィクションの醍醐味は「破壊」にある。怪獣によって変わり映えしない日常の街並みが破壊されたり、気に食わない人間が殺されたりする展開は、勿論不快に思う人もいるだろうが、一部の人々には強い快感をもたらす。現実世界で受けている抑圧が、フィクションのなかで破壊衝動として発散されるからである。オタクの受ける理不尽な仕打ちに対して、同じオタクのアカネちゃんが仕返ししてくれたのだ!というダークヒロイズムを感じ取った人も多かったことだろう。


 だが一方、アカネが怪獣をけしかけた動機の一部としての①行動の侵害や②身体の侵害に対する考察はあまり見られない。アカネの本来の目的を邪魔されているのだし、2話と共通する演出をみても肩を寄せてきた時点で決定的にブチ切れていることが分かる。しかし、話の流れや印象的な演出が絡んでくるにもかかわらず、探りを邪魔され、身体に触れられたアカネの心情に言及するのはほとんど見かけられなかった。これは一体どういうことなのだろうか。


 一つには、単に①と②が地味にみえるということだろう。会話を邪魔されたことに対するアカネの反応はわかりにくいし、接触されたシーンはほんの一瞬だけしか描かれない。それよりは、アイコンのシーンと、直後の顔を隠し不快感に襲われながら小声で「マジなんなのこのおっさん」と囁くシーンの方が、尺が多くとられている。ちょうどアイコンにまつわる大学生たちの会話と不快感を呈するシーンが重なるため、アイコンのシーンと動機づけのシーンに因果関係がこちらの認識において見いだされ、先にあった出来事は案外意識されないのかもしれない。


 そして、もう一つ決定的な要因はおそらくわれわれ視聴者の認識のうちにありそうだ。すなわち、自身のテリトリーに他者が侵入してくることへのアカネの嫌悪感を、われわれが全く理解しようとしなかったからなのではないだろうか。視聴者の多くがオタクとしての自尊心に強い共感を寄せている割には、彼らからは「興味のない異性から身体的にスキンシップを図られることは、不快なことである」という視点があまりに抜け落ちているような気がするのである。


 これは「性に対する感覚の無共有」とでも言い換えられるだろう。本回は予告の段階で、六花とアカネが男子大学生たちと遊びに行くという、いかにもなエロ同人誌の導入パターンを想像させる内容だったので、やらしい妄想を逞しくしたり、また(作中の響のように)危惧を覚えたりする人が多かった。実際に放映されてみても、学校内で出会い系SNSへの注意やエイズ検査のポスターが張り出されていたあたり、本回は性的な事象にまとわりつかれていることは明らかである。端的にいうと本回は「性」が主題の回である。だがそれにもかかわらず、多くの視聴者が性的事柄を想像する一方で、実際に彼女たちが感じた「言い寄られて迷惑だ」とか「身体に触れられて甚だしく不快だ」という感覚に注意が寄せられることはまるでなかった。彼女たちの性への興味はあるのに、彼女たちの性への理解がないのである。 誤解を承知で言えば、男性オタクの性的視線では女性キャラクターの性的実感を本当の意味で理解することができないのである*2。これでは、アカネに怪獣をけしかけられる男子大学生たちと同じである。


 生理的嫌悪感ではなくてアイコンを間違われたことの方が決定的要因なのでは、という解釈もありうるだろう。だが、一人エレベーターのなかで「マジ最悪」と吐露されるセリフからは、プライドだけでなく生理的嫌悪感もにじみ出ているようだった*3。キャラクターに寄り添って理解することがファンの役目なのだとすれば、彼女の目的意識や生理感覚にも目を向け、尊重してやらなくてはならないのではないだろうか。 


個人的反省

 このように、集合体としてのオタクには、アニメの中で起こった出来事を性に関してバイアスがかって見ることが確認された。ところでこれは、私事ではあるが、まさしく私自身がおかした過ちでもある。私自身、バルタン星人に引き摺られてアカネのプライバシー感覚を理解できてやれなかった人間の一人である。


 本件について私が強く反省を覚えるのは、10年ほど前に同じようなシーンを見たことがあったからである。漫画『鋼の錬金術師』の17巻に収録されている68話にて、オリヴィエ・ミラ・アームストロング少将が敵のレイヴン中将に探りを入れるシーンがある。そこで、少将が突如「ぶった斬って しまいたい!!!!」と内心怒りを露わにするのである。最初読んだとき、私にはなぜ少将がキレているのか分からなかった。だが、69話のホステスによる助平で傲慢だというレイヴン中将の悪評を聞いて、当のシーンの意味を理解した。中将に手を握られたことにキレていたのである。上の立場を利用して異性の手を握ってくるのはセクハラ以外の何物でもないのだが、それを一目で理解できなかったことに私は一度反省を覚えたのだった。


 今回もまた、女性キャラクターの生理的な嫌悪感を理解することができなかった自分の読解の未熟さを覚えている。作品やキャラクターに接近するためには、単に共感したり、読みたいように読んだりするだけでは不十分で、自分とは異なる存在が感じ取る不快感をも理解する必要もあるということである。

 

 

 



*1:付記その1:見逃していたのだが、今回生み出された怪獣の攻撃の仕方も関係があるのでは、という指摘が数多くあった。触手で相手を搦めとる攻撃を行うというのは、そのままアカネが身体を触られたことの不快感や復讐心を表している、というものである。重要な着眼点だが、あとで気付いたことなので注釈として触れておくことにする。

*2:付記その2:何の因果か、本稿をあげる2時間ほど前に、にゃるら氏によって同じく4話の新条アカネについて書かれた記事が上がっていた( http://nyalra.hatenablog.com/entry/2018/10/30/232338 )。そこで取り上げられている内容は、まさに本稿でとりあげた③に関係する事柄で、オタクは新条アカネのことを分かってあげられる、という身勝手な思いを抱いてしまう、というものだった。もちろんアカネが感じ取った身体接触の不快感についての言及はないのだが、本稿で語っていることとは表と裏の関係にあるのだろう。「こんなに、こんなにも「ここに自分が居たら彼女を喜ばせることができたのに」とオタクの身勝手な妄想を、自分でも、いやオタクな自分だからこそ相手してもらえると勝手に思い込んでしまうヒロインが居ていいのか。」

*3:付記その3:先に付記その1で挙げた触手による怪獣の攻撃も、身体へのしつこい「絡み」を怒りの源であるとする解釈を傍証するであろう。