錬金術師の隠れ家

書評など。キーワード:フランス科学認識論、百合、鬼頭明里 https://twitter.com/phanomenologist

寄稿:若者は『きたかわ』を読むー『きたない君がいちばんかわいい』が青少年に読まれている実情についての分析

 

東京大学百合愛好会のnoteにて以下寄稿しました。よろしく。

 

 

若者は『きたかわ』を読むー『きたない君がいちばんかわいい』が青少年に読まれている実情についての分析

https://note.com/utokyo_yuri/n/n80c72bfd7731

百合姫に狂い咲くデカダンス まにお『きたない君がいちばんかわいい』(2019-2022)

あらすじ

瀬崎愛吏と花邑ひなこ。クラスではグループもカーストも違い接点のない二人だが、彼女たちには人には言えない秘密があった。それは、愛と打算と性癖に満ち溢れた少女たちの秘め事……
https://ichijin-plus.com/comics/2416091119671

 

 

 

 

書評(ネタバレ注意)

 神みたいな結末。いや悪魔か?
 ここでは『きたない君がいちばんかわいい』が一体何のジャンルに属するのかを考えてみたい。これは少し難しい問題である。まず百合ジャンルであることは間違いないが、ではサブジャンルはなんだろうか?第2巻を前後して作風が大きく変化していることに注意しよう。前半は筆者のネーミングだが「汚い高木さん」とでも言える作風だろう。つまり、二人の主要登場人物が、他の登場人物に隠れて妙な加虐・被虐関係にある行為を行い1話完結で話を進める作風といえる。もっとも、「からかい」程度では済まされないことも度々やっていて、それでここでは「汚い」と呼んでいる(タイトルにもある)。数々の変態プレイに昂じるカップルの姿を楽しむ作風といえる。
 ところで、前半はもう一つ、ある種のシチュエーションを内包する。エロ漫画における「他の者たちにバレそうになりながらセックスをする」というシチュエーションである。これはエロ漫画では結構定番のシチュエーションなのだが、注意すべき点がある。あくまで「バレそうになる」になるのであって、実際にはバレることは滅多にないということである。バレたらたいていセックスどころではなくなるし、他者に見られながらそれでもセックスを続行するのはどちらかというと公開プレイである。『きたない君がいちばんかわいい』も、誰もいなくなった教室や実習室で変態プレイに昂じ、「見られてたらどうしよう」と恐怖を覚えているあたりにそれを感じ取ることができる。
 ところが、後半からは作風がガラリと変わる。第1巻ラストに目撃者が現れ、第2巻を通じて秘密の暴露が行われてしまい、第3巻以降は愛吏のクラスでの孤立、引きこもり化が描かれ、もはや学校での変態プレイどころではなくなる。「人目を忍んで種々の快楽を味わう」というシチュエーションがなくなってしまったわけだ。変態プレイ自体は行われるものの、場所は愛吏の自室であり、人目を気にする必要は全くなくなる。というか行われるようになったのは初期にあったレパートリー豊かな変態プレイではなくて、ただのセックスである。盗撮を行う第三者が現れるものの、ひなこにすぐ気づかれてしまい、プライバシーはだいたい守られ、それどころか愛吏を人間不信に陥らせひなこに依存させるための材料にさせられてしまう。「変態プレイの博覧会」のようなものを期待していた読者からすると、ひょっとしたらつまらないものになったかもしれない。


 『きたかわ』後半で描かれるのは、愛吏の破滅、クラス内カーストの天変、ひなことの関係の逆転、そして逃避行の行く末の無理心中である。一言でいうと「デカダン」だろう。
 愛吏を扼殺した末にひなこもまた凍死するラストは、前半との違いを明確に印象づける。前半に見られた首絞めプレイはあくまで「プレイ」であった。虐げながらも相手に対する尊重、あるいは妥協があったからこそ殺さずにプレイで済ますのである。だが最後ひなこは愛吏を本当に絞め殺してしまう。生命の尽きかける愛吏にひなこは本物の愛情を注ぎ、自分を絞め殺すひなこの姿をみた愛吏の事切れる寸前の脳裏には「きれい」という言葉が浮かぶ。単なるごっこ遊びには本物の美はない、死にゆき、殺し、破滅する瞬間が「いちばんかわいい」のだというデカダン美学が、二人の愚かな人間を対比させる形で見事に表現されているのだ。

錦木千束には「外」がないー『リコリス・リコイル』の物語上の致命的な欠陥について

 2022年の7月から9月にかけて放送されたアニメ『リコリス・リコイル』は少女がガンアクションを行うというもはやありふれた設定ではあるものの、銃描写の精緻さや主人公バディの親密になっていく描写、そして主人公の寿命をめぐる視聴者の精神を揺れ動かすストーリー展開によって人気を博した。人気の指標のひとつとしてBD売上があるが、9月21日発売の完全生産限定版の第1巻が、2022/10/3付オリコン週間Blu-ray Discランキングにて初週売上2.1万枚を記録したという。アニメのBDが万単位で売れるのは大ヒットとみなしてよいだろう。
 
 とはいえ本作は楽しめこそすれ、問題の大きい作品でもある。まず国民の知らぬところで「犯罪を未然に防ぐ秘密組織」が暗躍しているという設定は、国民が代表者に権力の行使を委託するという民主主義の原則を無視している。それに、犯罪が生じる前に実行犯が射殺されるというのは、令状主義をを全く踏みにじっている。だが、万一冤罪だったとしたら?権力が犯罪を未然に防ぐ体制を作り上げたら一体どうなるのか?という『マイノリティ・リポート』(2002)のような批判的な問いは、一切感じられない。これだけみるとディストピアSFのように見えるにもかかわらず、本作全体を通じてこの体制に対する批判的な問いは一切ない。それどころか主人公の一人がそれを肯定してしまうのである。犯罪を未然に防ぐ秘密主義の組織であるにもかかわらず、セキュリティ管理や組織存在の秘匿が甘いようにみえたのも視聴者にとり不満であっただろう。
 
 筆者としても本作の体制を維持する暴力を肯定してしまっているのは問題があるのではないかとは思うが、本稿ではそうした価値観とはまた別に、『リコリス・リコイル』という作品の物語上の致命的な欠点を指摘したいと思う。「致命的」というのは、本作が物語がもつべき価値を有していないという意味である。
終盤の展開
 問題となるのは本作の終盤の展開、第8話から第13話にかけてのプロットである。主人公の一人錦木千束は自身に埋め込まれた人工心臓が電気ショックによる干渉を受けたことで、数ヶ月の命であることを宣告される。千束の命を救うために、もうひとりの主人公である井ノ上たきなは、かつて千束に人工心臓を与えた吉松シンジが持っているもう一つの人工心臓を手に入れようとする。ところが、千束に「殺しの才能」を見出した吉松は、あろうことか自身の身体に人工心臓を入れ、千束に自分を殺すことを強いることとなる。
 結局たきなも千束もスペアの心臓を手に入れることはできなかったのだが、最終的に千束の保護者であり吉松の恋人のミカが苦渋の末に吉松を殺害し、人工心臓を獲得する。千束はすべての戦いが終わった後に手術を受け、人工心臓の移植に成功する。(本当はこのプロットに千束とテロリストの真島との戦いが挟まっているのだが、ここは一旦置いておく)。
 
 
 問題点を指摘する前に、物語の基本的な形式をおさらいしておこう。評論家の大塚英志は、民俗学者のアラン・ダンデスの「モチーフ素」の概念を使用し、「面白い」物語のパターンというのは一般に次のようになっているのだということを指摘している(『キャラクター小説の作り方』、pp.215-217、2013)。
  1. 何かが欠けている
  2. 課題が示される
  3. 課題の解決
  4. 欠けていたものがちゃんとある状態になる
 
 具体例として「プリキュア」シリーズの展開をあげてみよう。プリキュアの話はたいてい最初に登場人物が友達と喧嘩したり、趣味が上手くいかないなどの(1)「欠如」が提示されている。それに対して仲直りや苦手の克服などの(2)「課題」が示され、途中に挟まる怪物との戦闘や、その間の敵役との押し問答(例えば「そんな趣味はくだらない!」「くだらなくなんかない!」のような展開のことである)を経て、怪物を倒したのちに、仲直りや苦手の克服が一緒になされ(3)「解決」する。その後、友達同士で円満に過ごす一枚絵が示されたり、趣味を楽しむ描写が入り、物語に(4)「平和」がもたらされる。10年以上も続いているシリーズであるにもかかわらず、「プリキュア」シリーズの1話ごとの展開はだいたいこうなっている。これが話作りの基礎であり、「欠けていたものが課題を経て埋め合わされる」という展開が「面白い」のだということが製作者や視聴者に共有されているのである。
 
 この図式に先の『リコリス・リコイル』の展開を当てはめて整理してみよう。一見すると、この構図にちゃんと当てはまるように見える。
  1. 千束の人工心臓が故障し、このままだと千束は死んでしまう。
  2. スペアの人工心臓を吉松が身に埋め込んでいるので、それを手に入れることを目指す。
  3. たきなは人工心臓取得に失敗するも、ミカが苦渋の末に吉松を殺害して獲得する。
  4. 千束に新たな人工心臓が移植され、千束は延命する。
 
 だがこのプロットをよく見て貰いたい。吉松と向き合って人工心臓を手に入れたのは、千束ではなくてミカである人工心臓を手に入れて延命するというこの件に関して千束はその実何もしていないのである。むしろ千束は短い人生を受け入れて、限りある人生を精一杯生きようという姿勢でいる。千束が自らの意志で命を勝ち取るというプロットでは決してない。言い換えると、千束は課題を解決していないのである。
 もちろん本作の終盤の展開において、千束は何もしていないわけではない。第11話、12話にてたきなとともにテロリストの真島と戦っているし、第13話では拘束を解いて再び現れた真島と1対1で戦っている。だがこの行動で獲得されるのは「テロを防ぎ、真島を倒す」という結果であり、「人工心臓を獲得する」という結果ではない。千束の目標が、心臓の獲得とテロの防止とで分離しており、そして千束の行為により成し遂げられるのは後者の方なのである。
 
千束には「外部」がない
 なぜ心臓の獲得にこだわるのだろうか。「テロの防止」も十分立派な目標ではないかと思うかもしれない。ここでは、物語の形式だけでなく、価値についても論じたい。
 
 漫画家の荒木飛呂彦によると、マイナスの状態にある主人公がひたすらプラスの状態を目指していくというのが物語の鉄則であるという(位置No914/2252、『荒木飛呂彦の漫画術』Kindle版、2015)。この鉄則は『ジョジョの奇妙な冒険』のどのシリーズでも貫かれている。第7部は典型だと思われるが、大会連勝を重ねるジョッキーの名声から一転して下半身不随になった主人公が、大陸横断レースを通じ、「遺体」や「回転」の謎を突き止めていくことで成長していき、最終的に強大な敵に勝利する。主人公は「回転」の力によって下半身不随をある程度克服できるようになるのだが、重要なのは身体障害の克服ではない。主人公のジョニィは旅を通じて成長することで、目的をなんとしてでも絶対に実現しようとする「漆黒の意思」を獲得する。その意志がジョニィが最終的に獲得するスタンド能力にも反映されており、われわれは主人公のスタンド能力の成長と精神的な成長を同時に祝えるのである。この「漆黒の意思」は当初の才能に甘んじていたジョニィにはなかったものだ。言い換えると、「漆黒の意思」は当初ジョニィの「外」にあったものといえ、成長するとともに内面化していくのである。
 
 対して、千束に「外」はあるだろうか?千束は『リコリス・リコイル』の物語を通じて、果たして成長したといえるだろうか?
 以下は千束の変化のなさを象徴する台詞である。
千束「大きな街が動き出す前の静けさが好き。先生と作ったお店、コーヒーの匂い、お客さん、街の人、美味しいものとか綺麗な場所、仲間、一生懸命な友達、それが私の全部」
 千束は今ある現状の社会を守ろうとする極めて保守的な思考の持ち主であることが伺え、それ自体批判の余地はあるだろうが、問題はそこではない。これは世界=内=存在であるところの私の「全部」を限界づけようという、なんとも傲慢な台詞である。この時点で(さらに少し先の未来の時点で)千束には知られていないことが数多く存在する。ミカがシンジにした所業、シンジの遺言、たきなの千束への感情……そして、これは可能性の一つとして十分に考えられることだが、そもそも「DAがない世界」という可能世界。そういったことを何一つ知らないまま、千束は今ある世界を牧歌的に受け入れてしまっている。
 要は、物語の最初から最後まで、千束は何も変わっていないのである。千束は過去にも電波塔ジャック事件を解決している。そして今回の延空木事件も解決した……。つまり、やっていることは過去の事件の反復である。たきなと出会った。しかし、たきなの方は千束との接触によって変化が生じているとはいえ、千束はそのたきなから受け取ったものは何もない。最終話に至っても「一生懸命な友達」止まりである。故障した人工心臓をシンジから新しいのを奪い延命した。しかしそれをやってのけたのはミカであり、千束は何も知らされないまま移植されただけであり、自分自身で獲得した人工心臓を使うことへの葛藤というものが生じ得ない。ワイハー?そんなものは単なるケに対するハレであり、単なる観光にしか見えない。「ハワイは同性婚の認められた土地である」というような視聴者が勝手に見出した匂わせに甘んじることなく、ハワイの資格に準じた変容というものを千束にもたらなければならなかったはずである。
 千束が日常を大事にする価値観の持ち主なのであれば、千束の日常に対する見方の変化が、たとえほんの少しだけでも描かれなければならないはずである。その変化は、千束がそれまで知らなかったことでなければならない。民主主義などの視聴者の我々が大切にしている価値であったり、あるいは我々の思いもよらないような価値観だったりするかもしれない(個人的には後者を見てみたい)。人間関係の変容でもよい。たきなの心情が千束に届くことで、何かしら関係や行動様式に変化が生じることを視聴者は期待していたのではないだろうか。
 
 参考までに、以前も参照したことのある『やがて君になる』第5巻の台詞を見てもらおう。
あの主人公は…三つの自分の中にどれか一つ「正解」があると思ってる。正解を見つけてその自分になるべきなんだって。過去の自分について見舞い客から話を聞いて日記やメールを探して最後は答えとして恋人といることを選ぶ。でもそれって今の主人公の意思じゃないんじゃない?昔の自分を基準に決めただけで今の彼女の選択じゃない。舞台の幕が上がって下りるまでの間観客が見てるのは今の主人公でしょ。記憶があったころの彼女じゃなく。なのに過去を基準にして結末を導くんじゃまるでこの劇の時間に意味がなかったみたいだ…(pp.21-23)
 
真島にも「外部」がない
 それでは真島はどうだろうか。本作における千束とたきなの最大の宿敵にして、単なる悪ではなく世界の不均衡を正さんとする革命家。千束が自身の正義を信じるのと同様に彼もまた自身の正義を信じ、ぶつかり合う。われわれはこの主張の衝突にカタルシスを覚えるのではないか?
 残念ながら、違う。前にも言ったように、千束は真島の主張を聞いたところで何一つ心を動かされてはいない。敵対者の言葉の一部に正当性を覚えて自分の糧にするというケースもあるが、そこまでする必要はない。倒した敵対者の言葉が呪いとなって主人公に降りかかり、そのような人物が二度と生まれないように世の中を良くしようとか、あるいはトラウマとなった敵の言葉を仲間の一言で振り払うとか、そうした心的なプロセスが普通は生じるはずである。それにしても敵対者との衝突を経て何も得るものがないというのは珍しいのではないか?
 それに、真島の今ある世界とは別様の世界の実現を目論む姿は、実は見かけだけのものである。それは次の台詞によく現れている。
 
真島「…そりゃあダメだ。モザイクなしの現実を見せないとなあ」
千束「なにそれ」
真島「俺は世界を守ってるんだぜ?自然な秩序を破壊するお前らからな」
千束「壊してんのは、あんたらテロリストでしょうよ」
真島「そう。お前らが壊すから、俺も壊す。バランスを取ってるだけだ。DAが消えれば、俺も消える」
千束「渋々悪人を演じてるって言うの?」
真島「ワルモンやってるつもりはねぇよ?俺はいつも弱いモンの味方だ。もしDAが劣勢なら、俺はお前らに協力するぜ?」

 要は、真島は国民が知らずして犯罪が事前に防がれている真実を暴露することで、世界のバランスを正そうとするいうのである。だが、「バランス」とは一体なんだろうか?そもそも犯罪者の事前処理が民主主義により禁じられている現実の日本では、そうした「バランス」は存在しえない。真島にはそもそもそうした「バランス」のない世界を想像することができないのである。これは、結局のところ真島には「外」がないということである。

 挙げ句弱い者の味方をきどり、DAが劣勢なら協力するとまで言ってしまう。これは世の革命家たちに嫌悪される主張、すなわち「日和見」である。あるいは誰が言ったか「陰陽論」といってもよい。世の中は陰と陽が均衡をとって成り立っているという思想であるが、これは「あるべき世界」の姿がすでに存在していることを前提とする。ただ釣り合いが悪くなったのを正す、というだけである。
 だがしかし、一般的に考えて世界を変えたいと望むものは、未だに実現していない、しかし望ましい世界を実現しようとするのである。「あるべき世界」は未だに到来していない、つまり「外」にある。その「外」としての理想を夢見ること、あるいは自分の予想だにしなかった「外」であっても、それに向かって突き進むはずである。
 真島にはこうした「外」の思考というものが存在しない。ただ自分が規定した「あるべき世界」を元に戻そうとしているだけである。だがそもそもDAが存在しない世界を知っているわれわれからすれば、それは釈迦の手のうえで踊る孫悟空にしか見えない。ここには真島には世界は自分が考える通りに存在しているという傲慢が垣間見える。ここでわれわれは、敵対している千束と真島が同じ穴の狢であることに思い至る。どちらも自分が考える世界の「外」を知らないし知ろうともしないからである。ここには物語の弁証法というものが存在せず、つまらない。
 
 
帰結
 思えば本作の登場人物、千束、真島、シンジは自分の信念を貫く者で、他者との衝突を経ても全く変化を見せることがないのだった。たきなは千束との交流でDAに依拠しない自分というものを獲得できたが、ただ依存先をDAから千束に変えた子犬のようにも見えてしまう。信念を曲げる偉業をやってのけたのはミカだけであるが、それは千束を「変えない」ためだった。愛するものの殺人という所業を行い、それで果たしてよいのか。真実を国民から隠す側であるリコリスが、真実から目を遠ざけられているという皮肉が生じているが、物語として果たしてそれでよいのかは疑問である。
 
 「物語の機能」を具体的に考えるために、他の作品も色々参照してみよう。『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメ第17話は物語の弁証法の流れがよくみえる作品である。カリスマJKアイドルの城ヶ崎美嘉は、常務の命で大人向けの高級路線への変更を余儀なくされる。部署の年長者としての責任から路線変更を引き受けるも、そこに自分の個性は表現できるのか、美嘉は悩む。赤城みりあとの交流で「大人ぶらなくてもいい」と諭されることで、美嘉はある挑戦をする。モデル撮影のなかで、高級路線を取りつつも、いつものギャルらしいポージングを少し取り入れるのである。本来の自分でないあり方と本来の自分のあり方が対話しあって新しいものを生み出すという弁証法的なプロセスが垣間見える。
 
 『リコリス・リコイル』と同時期に放送されていた『ラブライブスーパースター』の第2期。これは多くの視聴者から批判を浴びているようだが、これは実は物語の機能をきちんと果たしていると考えられる。孤立路線の実力主義をとる優勝候補のウィーン・マルガレーテに対し、仲間との具体的な交流と歌うことの楽しさをもって勝利するLiellaの姿は、一時期は後輩との分離路線をも考えたうえでの弁証法的な勝利といってよい。
 
 さらに、本当の意味で「カルト的な」人気を誇る『えんとつ町のプペル』の物語も考えてみたい。空が煙で覆われている町で育ち、他の人たちとは違い煙の向こうの星空の存在を信じている主人公が、ごみ人間のプペルとの交流や他の人達からの迫害を経て、やがて星空を見つけ出し、そして思いもよらなかった大切なものを見つけ出す。色々物議を醸す作品ではあるが、少なくともこの話の主人公にはちゃんと「外」がある。それは『リコリス・リコイル』にはなかったものである。
 
 結局のところ、優れた物語には「外」が必要なはずである。それは登場人物だけでなくわれわれを「外」に連れだすものである。それを登場人物の頑なさに折れてこしらえることのできなかった『リコリス・リコイル』から、われわれは果たして何を得ることができたのか?

ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェ、川那部和恵訳『イマジネール』(2008,2020;邦訳 2022)

 ガストン・バシュラールの想像力論に感銘を受けて、「想像力」の哲学を現代日本文化に適用した著作がないか探したことがある。そこで気づいたことなのだが、「想像力」と題しているのに「想像力」についての理論的検討が見られない著作が数多く見受けられるのだ。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(2008)や雑誌『ゲンロン』の各種特集などがそれだ。日本だと大江健三郎中村雄二郎といったバシュラールの影響下にある文人が想像力の理論を展開していたり、佐々木健一の『美学辞典』が「想像力」の理論をひとつの系譜や一覧にしていたりはするのだが、こうした著作をちゃんと参照しているのかは微妙なところである。論壇において「想像力」は単にキャッチーなフレーズとしてカジュアルに使われていないだろうか?
 そもそも「想像力」という言葉はなかなか曲者である。バシュラールの想像力論は、科学的思考とはまた異なった想像力による文化への寄与を描き出すことに成功していて見事ではあるのだが、「想像力」という心の能力の理論を応用して何か作品がたりをしようとすると、それは心理主義の傾向を帯びてしまう。お前の論じたことは所詮は「想像力」という一人称語りでしかもふわっとした単語に依拠した単なる主観ではないのか、という疑念がどうしても付きまとってしまうのである。

 

 


 こうした「想像力」の濫用される傾向や心理主義的な問題点を、哲学者ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェの『イマジネール』は解決してくれるように思われた。ヴュナンビュルジェが扱うテーマは「イマジネール(imaginaire)」である。日本では全く聞き慣れない単語であろう。語感から「想像力(imagination)」と混合して使うこともよくあると思われる。実際フランス語でもこのタームは最近登録されたものらしく、多くの言語では知られていないことは筆者も承知している。フランス語だとこの2つは全然異なるニュアンスをもつ。
 「想像力」はカントが認識の条件としての心の一能力として使用したように、18、19世紀の哲学においてはよく使用されていた。ところが「ある種の哲学的心理学の衰退とともに(二十世紀半ば)、 また人文諸科学に迫られて、イメージ豊かな作品や、その特性及び効果についての研究が、つまりイマジネールが、しだいに想像力の伝統的な問題に取って代わることになった。 別言すれば、イメージの世界が、その心理学的形成を乗り越えたのである」(p.36)。20世紀半ばに構造主義が台頭し、主体の哲学の乗り越えが図られたことを言っているのだろう。


かくして「イマジネール」は以下のように定義される。


想像上のものにせよ作品のなかに具体化されたものにせよ、視覚的イメージ(絵画、デッサン、写真)と言語的イメージ(メタファー、シンボル、物語)の基盤をなし、そして、知覚されたか理解された現実を変化させあるいは豊かにする、本義と転義のはめ込みという意味である象徴機能に属している、ダイナミックで首尾一貫した諸集合体を作りあげている生産活動のダイナミックな一群(p. 42)


 バシュラールの著作はしばし想像力の哲学として認識されることが多いが、心理主義の傾向が批判されてきた。ヴュナンビュルジェはバシュラールの著作を「イマジネール」の観点から整理し、心理主義から構造主義の方へと読みの転換を図っているように見える。例えばバシュラールの次の箇所である。


想像力に対応する基本語、それはイマジネールだ。イマジネールのおかげで、想像力は本質的に開かれている。想像力は人間の心的現象において、開きの体験そのもの、新しさの体験そのものである。(『空と夢』)


イメージを生み出したり変化させたりする人間の心的能力である「想像力」は、個人の意識を超えてイメージの生産を行う集合体である「イマジネール」を基礎とし、各人の想像力はイマジネールとの交流によって新しさの経験を行うのである。イマジネールは主体を超え、構造を有するのだ。(とはいえそれはポスト構造主義的な「戯れ」のモデルに近づくだろうことが予想されている)(p. 46)。


 本書のイマジネールの理論においてバシュラール の他に重要な位置を占めているのはジルベール・デュランである。デュランは「イマジネールと合理性の対立関係に異議を唱えてバシュラールとの違いを示しているのではあるが、一方ではイメージがどれほど神経生物学の面から文化面にまで及ぶ人類学的行程に組み込まれているかを証明することで、バシュラールの方針を継いでいる。かくしてイメージの形成は、イメージの統語論の下部構造をはっきりと表す三つの反射学体系に根を張っている。具体的には、直立姿勢を支配する姿勢反射、物質の摂取・排泄という消化に関する反射、そして、肉体のリズム体操によって引き起こされる性交姿勢の 三つが、イメージ形成の主要なタイプを構成しているのである」(p. 24)。


 本書の射程は単に理論上の整理に留まらず、第4章にて具体的にどのようなイマジネールが存在しているか、それらが環境保護運動や統治支配にてどのように「実践」されているかを描出している。「自然と人工物のイマジネール」や「歴史と政治的指導者のイマジネール」である。これらの記述が前3章とはまるきり異なり、どこか生き生きとした筆の感触を覚えるのと同時に、環境や政治に人間をコミットさせるイマジネールの恐ろしさとでもいうものを感じさせられる章であった。ヴュナンビュジェは科学主義の台頭によるイマジネールの忘却を批判し、合理性とイマジネールの双方の重要性を説く。個人的にはどちらかというと逆に思う。イマジネールの一種としての「神話」や「陰謀論」が台頭し、科学的合理性を無視して各地で政治に混乱をきたしているのが現状だからである。とはいえ双方が欠けることなく、双方を批判検討し使えることになるのが重要であることは変わりないだろう。


 バシュラールは聞いたことがあるがデュランは知らなかったという人は多いと思われる(自分も本書を読むまでそうだった)。実際、バシュラールの著作は(イメージ論においては)邦訳が揃っている一方で、デュランの邦訳は『象徴の想像力』(1964,2003;1990)はあるのだが、本書で引かれる『イマジネールの人類学的構造』(1960)や『イマジネール』(1994)は未だ存在していない。文化におけるイメージの生産や変容、そしてそこから引き起こされる政治的実践を語る基礎として、イマジネールの構造理論は有用であると考えられる。デュランやヴュナンビュジェの他著作の邦訳もまた必要とされるだろう。

漫画評:茶番の皮を被った英雄譚。伊藤いづも『まちカドまぞく』(2014〜)

 

 

 

 

 本作は一見すると、『天体戦士サンレッド』(2005〜2015)のような「なんちゃって勧善懲悪もの」(論者の造語)のようにみえる。『天体戦士サンレッド』は正義のヒーローが悪の組織をやっつけるという図式を逆転させて、悪の組織がその実いい人たちの集まりなのに対し、正義のヒーローがむしろチンピラで怖いという構図をとり、ヒーローのサンレッドというよりは敵役のヴァンプ将軍が日常生活を送る描写がメインとなっている。『まちカドまぞく』もまた、光の魔法少女が闇の一族と戦って浄化するという魔法少女ものの図式を逆手にとり、第1話で闇の一族であることが判明する吉田優子=シャドウミストレス優子=シャミ子(別名が多い!)が身体能力脆弱でポンコツ、ライバルの魔法少女の千代田桃は作中最強レベルで筋肉マニアと、「単なる日常コメディの茶番ではないのか?」という認識を最初抱くことになるだろう。「これで勝ったと思うなよ!」と悪役のテンプレ台詞をシャミ子が放つのが毎回天丼として繰り返される。
 ところがこの茶番は第1巻の終盤、アニメ版では第1期第6話で覆される。シャミ子の意図しなかったこととはいえ、なんとシャミ子が桃を出し抜いて勝ってしまうのである。「これで勝ったよ思うなよ」はここでは桃の台詞である。そもそもシャミ子の固有能力は他人の夢に入り込んで介入することであり、『BLEACH』なら最強クラスの精神操作系である。要は戦闘のプロの千代田に対して、シャミ子は精神操作という搦め手で立ち向かえる余地があるのである。ここでわれわれは、シャミ子が桃に虐げられるだけの日常漫画であるという認識をやめ、高度な能力バトルが繰り広げられる可能性を本作に期待できるようになる。とはいえそうした能力をシャミ子がろくに扱えなかったり、扱えたにしても妙な方向で使用してしまうなど、コメディ方面で十分に魅力を発揮しているのが本作の醍醐味といえるだろう。
 さらに話が進むにつれ、本作はどうやら「茶番」では決してないことが分かるようになる。シャミ子の父親や先代魔法少女の千代田桜の秘密が明らかになることで、シャミ子は闇の一族のボスとしての使命を認識し、自分たちが暮らす街の平和を守ることを決意する。桃の陰りとシャミ子の奮い立つ勇気が、本作を単なる悪役キャラクターがただの日常を過ごす茶番から、桃や仲間たちとともにかけがえのない日常を守るために戦う英雄譚へと変貌させるのだ。

最終話までみた私が『白い砂のアクアトープ』を警戒していた百合ヲタに告ぐ。大丈夫だ。

 

 

 P.A.WORKS制作の2021年夏から2クールにかけて放送されたアニメ『白い砂のアクアトープ』は、通しで見たことで百合作品だと判明した作品である。なんじゃそりゃ、と人は思うだろうが、これには事情がある。事前情報(https://twitter.com/comic_natalie/status/1350004908628471810?s=20)ではガール・ミーツ・ガールの作品であることが明示されており、二人が互いに手を伸ばし合うキービジュアルや見つめ合うカット、果ては声優が伊藤美来逢田梨香子とその手の界隈では結構な人気どころを起用したこともあって、百合界隈では百合か?という推測がなされていた。ところが、第2弾キービジュアル公開(

https://natalie.mu/comic/news/428217

)でサブキャラに幼馴染の男性キャラもいるということが判明し、百合界隈で炎上して警戒されてしまったのである。実際仲村櫂がくくるに片思いしている描写があり、交流の描写もそこそこあるので警戒は続けられていたのだが、そのとき警戒していた人たちにタイムスリップして伝えてあげたい。大丈夫だよと。最終話エピローグでいきなり男性とくっついている、というような最終回発情期現象があるわけでもなく、くくると風花が再会を祝って終わる、という形になっているからである。

あらすじ

 水族館で働く18歳の女子高生・海咲野くくるは、東京で居場所をなくし、逃避行した元アイドル・宮沢風花と出逢う。
くくると風花はそれぞれの思いを胸に、水族館での日々を過ごすようになる。
しかしその大切な場所に、閉館の危機が迫りくる。
少女たちの夢と現実、孤独と仲間、絆と葛藤ー。
きらめく新たなページが、この夏、開かれる。
(公式サイト https://aquatope-anime.com/intro/ より)

 副題は「The Two Girls Met In The Ruins Of Damaged Dream」である。これも結構重要。

物語構成・労働

 本作の特徴をあげていこう。祖父の運営する水族館で家同然に育った沖縄少女のくくると、夢破れて東京からも実家の岩手からも逃げて沖縄にやってきた風花が、水族館が見せた謎の幻想のさなかで出逢うというのが、なんとも百合ヲタの「好き」がつまった1話だったと思う。

 夏クール(第1部)と秋クール(第2部)とでちょっと違った話になっていくので、まずそこを説明する。ネタバレ注意。
 夏クールはくくると風花が出会い、風花が水族館で働き始めてから、くくるの大切な場所であるがまがま水族館が閉館になり、風花が実家に帰るまでの話である。1話で風花が、最終話でくくるが大切な場所を失う、という構成になっている。本作の副題にもあるように、第1部で二人の少女がそれぞれ「廃墟」を抱えることになり、そこから出発して成長し、自分なりの大切な場所を見つけ出すことになるわけだ。
 秋クールはくくるが水族館「ティンガーラ」に就職してからの話。なぜか志望でない営業課に配属され、新しい職場の仕事に馴染めず四苦八苦するくくるの様は見ていて辛い。しかもその労働環境が明らかにパワハラで、高校を出たばかりの新人に任せる仕事量を超えているので、どう考えても職場がちゃんとしていないとしか言いようがない。だがその辺に対する言及はなく、単にくくるの自己成長の物語に還元されていて、過剰労働を肯定する非常に危険な描写である。さすが給与明細で一悶着を起こしたPAワークスである。

 風花の勤め先の飼育課は比較的良好環境のように見えるのが救いか。特に第16話「傷だらけの君にエールを」では、シングルマザーの労働問題が扱われていて、その描写が見事だった。育児のために時間外労働(ペンギンの産卵を見守るため)ができなかった知夢が、育児に時間をかけねばならないことと十分に仕事に専念できず職場から軽く扱われるのではと危惧することのアンビバレンスが描かれている。実際は飼育課は融通が効き、またくくるが助っ人に入ったりするのだが、それを知った知夢が私の仕事を奪わないでと怒りをあげる。ここでは職場の誰も悪くないのに、労働をめぐる複雑な構造や意識が衝突を起こしてしまうというのが話のバランスとしてとても優れていたように思う。

生き物と幻想

 本作を第1部から第2部にかけて貫くのは「生き物」に対する畏敬の念である。生き物のCGによる描き分けの多様さは見事で、本物の水族館を見ているかのようである。生き物の特性を弁えて大切に飼育する様が常に丁寧に描写されており、生き物を大切にすることを教えてくれる非常に教育的なアニメでもある。ただし労働描写は前時代的なので子どもに見せたいかというと厳しい。
 「生き物」に関する部ごとの違いでいえば、第2部では生き物に対する科学的な側面や、環境問題に対する取り組みが生じるようになる。第1部では家族同然のものとして生き物に関わっていたくくるが、第2部で営業的な観点での生き物との取り組み方を考えるようになり、第1部ではほとんどダメダメだった風花が、がまがまでの成長から一人前の飼育員としてペンギンに取り組み、さらに生き物のことを勉強することを考えて留学することになる。方向性は違えど、二人は「生き物を守る」という同じ道を目指すのだ。

 幻想詩的な描写も本作の魅力である。がまがま水族館では登場人物が突然過去の思い出を思い起こさせるような幻覚に見舞われることがあり、それが水や生き物の魅力を引き出すようでとても魅惑的である。超現実的な描写に「なにこれ?」と感じる視聴者もいるようだが、「水」という生命や死を司るエレメントや、「家」同然の大切な場所である空間の背後には、夢見ることを望む者の懐かしい過去が詰まっているものだ。この辺は詩学ガストン・バシュラールの『水と夢』(1942)や『空間の詩学』(1957)を読んでいれば割とすんなり理解できるのでおすすめ。

 

 


 こうした幻惑的な描写は第2部ではほとんど見られなくなる。新しく配属されたストレンジャーのくくるにとって、出来たばかりのティンガーラ水族館は過去の思い出が詰まった場所ではないからだろう。だがティンガーラでの取り組みを経てがまがまを模したブースを作り上げたくくるは、水槽のなかに再び亡き家族の幻影と出会う。それも風花と一緒に(事実上の家族紹介である)。ティンガーラはとうとうくくると風花にとり大切な場所となったのだ。

 総じて、百合や生物描写の丁寧さに定評はあるとは思うのだが、労働描写に難あり、といったところか。まして労働者は全国人口の約60%(労働政策研究・研修機構より

https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/shuyo/0201.html

)なのだから、それだけ多くの労働のプロフェッショナルの見る目に耐えられないと厳しいのではないか。

仲谷鳰『やがて君になる』第1話を読んでみた。

 筆者の所属する東京大学百合愛好会の催し的なもので、仲谷鳰の『やがて君になる』の第1話を読むというのがあったので、今回個人的に感じたことを記事にまとめてみることにした*1

 

あらすじ:恋する気持ちのわからない小糸侑は、中学卒業の時に仲の良い男子に告白された返事をできずにいた。そんな折に出会った生徒会役員の七海燈子は、誰に告白されても相手のことを好きになれないという。燈子に共感を覚えた侑は自分の悩みを打ち明けるが……。電撃コミック大賞金賞作家が描く、ガールズラブストーリー。(https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_AM05000013010000_68/

 

 第1話を読むにあたって注意したいことが2点ある。第1に、予め視点を置いておくことである。評者による何かしらの視点なくして語られた評文に価値はまるでない。作品を一個よんでそれを徒然だらだらと語っただけの文章など誰が読むというのか。ある程度評者の視点をはっきりさせといて、それに従って書くことによって、読者は読みやすくなるだろうし、何より書いてる自分も書きやすくなる。そこで今回、次の3つの視点を予告しておくことにする。

①登場人物のコード

②漫画の巧さー七海燈子の人物像

③漫画の巧さー小糸侑の人物像と作品のテーマ

 注意点の2番めは、純粋に『やがて君になる』の第1話だけの特徴を語るに徹することである。自分の関心としては、第1話がどのような構造をしているか、どのような登場人物が登場してどのように語られるか、どう巧妙に描かれるかを分析したい。それゆえ他の回の参照や対応関係の分析はできるだけやらないことにした。ただ、テーマの分析にあたっては、第1話だけでは作品全体のテーマを理解するには情報が不十分である。なので第1話だけで語れることには限界があることを自覚し、それを超えることは禁ずることにする。

 

①登場人物のコード

 登場人物のコードとは、「その作品の属するジャンルにありがちな人物造形のこと」と規定しておこう。今や百合漫画の金字塔の名高い「やが君」であるが、ここではあえて「やが君」のゼロ度から読んでみたい。まず、表紙である。

やがて君になる(1) (電撃コミックスNEXT)

この表紙を見て何を思うだろうか。二人の少女が見つめ合っている。だが、一方は無表情で、他方は笑みを浮かべていて……などと表情や手付きから色々考察できるだろう。

だが、ここではもっと初歩的なところからはじめてみたい。

  • 左側の少女は黒髪ロングで、右の少女よりも背が高い。
  • 右側の少女はくせ毛気味で、髪がピンク色で、アホ毛がある。

単純に人物造形について分析してみた。それが何になるというのだろうかという読者もいるだろう。だが、作品に対し読者がまずまなざすことになるであろう「表紙」というから、この二人の人物の造形に注目することは、本作を読み解くうえで重要である。それというのも、この上記の人物特徴は、まさしく「百合」というジャンルの伝統に即するものだからである。それは、「お姉さまと私」というコードである。

 百合ジャンルの黎明と名高い今野緒雪作(イラスト:ひびき玲音)『マリア様がみてる』の主役である赤薔薇姉妹を思い出して欲しい。学園の生徒会長に相当する「ロザ・キネンシス」である小笠原祥子は、容姿端麗、成績優秀、家柄良好の自他に厳しく気高さに溢れた御仁である。他方でその擬似的な「妹」にあたる福沢祐巳中流家庭に生まれ、成績は平凡、容姿はどちらかというと気品あるというよりは可愛らしいタイプの、抜けたところのあるごく平凡な少女である。性格や出自に関してまるで逆の二人であるが、それを象徴するのが「髪」であるといってよい。鳥居江利子の言を借りると「こしがあって、サラサラで、真っ直ぐ」(第1巻 Kindle版、2734/2906)で長い髪をした祥子に対して、祐巳は結いやすい短い髪である。髪型も祥子は結うところのないロングであり、それに対して祐巳ツインテールにしている。黒髪の祥子に対して、祐巳の髪は栗色である。

 

 

 登場人物の髪がその人物の性格を象徴することは、キャラクター文化における基本的な文法といってよい。漫画における登場人物の髪の毛の色は主に黒と白の二項対立によって形成されている。それはもちろん、漫画という媒体が黒と白の2種類の色相で形成されているからだが、髪色の対比は有彩色の媒体にも受け継がれ、有彩色の髪のキャラクターと低彩度の髪のキャラクターでカップリングが形成されることが多くなる。比較文学者の四方田犬彦によると、この髪色は登場人物の性格をも象徴しているという(pp.229-232、『漫画原論』、1999)。

 

 

 髪色だけでなく、髪型も重要である。祥子は気品溢れるロングであり、彼女が髪を常に大切にケアをし、毎朝きちんと整えて登校していることを想像させる。祐巳ツインテールだけでなく後れ毛やくせ毛であり、そこからは快活さやおっちょこちょいな一面が垣間見られる。二人の登場人物の髪の色やセットが、そのまま二人の登場人物の性格を象徴し、対比になるのだ。

 登場人物の対比的な容貌の設定は、その人物らの受難をも運命づける。黒髪ロングの完璧なお姉さまが本当に「完璧」であれば、そもそもドジな祐巳と接点をもつことはないはずである。であればこの二人をどう接点をもたせるのか。「姉」に対して何かしらの精神的な苦難、それも傍から見ればまるで分からないような苦難を抱かせるのである。「レイニーブルー」の時点で祥子は何を祐巳に隠しているのか、普段の彼女と違いなぜ約束を破り続けるのかという「謎」があり、それで二人は仲違いしてしまった。それに対して周りの人たちに勇気づけられた祐巳は、祥子に寄り添うために真実を知ることを決心するのである。「妹」に対しても運命づけがなされていることがここで確認できよう。物語の主人公としての「妹」は、単に苦難を前に立ちすくんでいるだけでは物語を進展させることはできない。髪に象徴されるような明るさと快活さでもって真実のその先へ向かおうとするのである。

 

 こうした姉妹関係のコード化は、マリみて以降百合作品に定着していったといってよい。もっとも、80年代の少女漫画は白髪(金髪)は知的で聡明、黒髪は情熱的というコードがあったようであるが(pp. 230-231、『漫画原論』、1999)、百合作品では逆に、黒髪は知性や荘厳さ、白髪(有彩色の髪)は快活さを意味するようである。『アサルトリリィ』の白井夢結と一柳梨璃の姉妹はこのコードを忠実に再現している。マリみてブームを受けて実施されたメディアミックス作品である『Strawberry Panic』のメインとなる花園静馬と蒼井渚砂は、静馬は黒髪ロングではなくホワイトのカーリーヘアではあるが、むしろ本人の過去に伴われるような神秘性を醸し出して、ポニーテールの渚砂といい対照をなしている。

 

 話が非常に長くなってしまった。「お姉さまと私」のコードのまとめに入ろう。戦前のエス文化のリフレインであるとされるマリみての「スール」制度を実践する祥子と祐巳の姉妹は、黒髪ロングの高貴なお嬢様が栗毛の凡庸でドジなところのある庶民の祐巳を教導するという関係にある。しかしそれだけではない。祐巳は言われるがままに姉妹の契を交わすのでなく、祥子に対し対決を申し込んだり、祥子が抱える悩みを知り精神的に寄り添ったりと、積極的に行動を起こす。こうした姉から妹への「教導」、妹から姉への「解明・参与」は、「お姉さまと私」のコードのもとにある二人の登場人物の物語の軸となるものでもあり、後続の姉妹百合を展開する作品でも受け継がれているものなのだ。

 『やがて君になる』に戻ろう。上述のような百合漫画における「お約束」を踏まえて表紙をまなざせば、典型的な「あれ」だというイメージが湧くと思われる。とはいえ、「妹」に相当する方の右の少女には表情がまるでなく、読者は「快活さ」とはまるでかけ離れたこのイメージに疑問を抱くことになるのだが、ここが本作の肝となることは、本作を読みすすめるとすぐに分かる。

 

②漫画の巧さー七海燈子の人物像

 「この人物はどのような人物であるのか?」は表紙の時点でも、「百合作品のコード」を念頭に置くことである程度予測がついていた。だがもちろん、先入観だけでは登場人物のことは分からない。きちんと読み進めていくことが重要である。この二人はどういう人物なのかを読解していく。まず燈子からみていこう。

 七海燈子が初登場するのは8ページ目。男子から告白されている場面であり、侑がそれを垣間見た体で描かれている。彼女がその告白を断った後、侑と出会い、自己紹介する、という展開である。

 この8-13ページにおいて、実は燈子がどのような人物であるのかの叙述はほとんど存在していない。にもかかわらず、我々はこの七海燈子という人物がどのような人物であるのかについて多くを知ることができる。まず、男子から告白されている時点で、端正な顔立ちと長い黒髪も相まって、「この人物はモテる」ということが分かる。次に、告白を断る台詞である。

「ごめんね 君とは付き合わない」(p.9)。

「付き合えない」ではなくて「付き合ない」である。告白を断る原因が環境や相手の器量のためではなく、自分の意志にあることを明確に示す人物であることが、この言葉の使い方だけではっきり伝わってくる。さらに、「七海さんと俺じゃ全然釣り合わないし」と卑下する相手をたしなめ、付き合わない原因を彼の資格ではなく自分の自由意志にあることを示すことで、意志の強さが明確になるだけでなく、必要以上に相手が落ち込まないようにフォローすることができる人物であることが理解される。

「私はただ 誰に告白されても付き合うつもりないだけだから」(p.9-10)

初対面の侑に対する「今のは内緒にしといてね」というのも、自分に告白して振られたという噂が立たないための彼女なりの気遣いだろう(無論自分のためでもあろうが)。そして13ページ目において、彼女が生徒会の人間であることが自己紹介で明らかとなる。

 この時点では、侑が燈子のことをどのような人物だと思っているのかが明確でなく、せいぜい学年を指示するリボンの色から彼女が2年生であると判断するだけである。モノクロの漫画ではリボンの色はわかりづらいので、こうした台詞が必要とされるのである。あとは14ページ目、後の回想で「かっこいい先輩」だと思っていたことが判明するくらいである。

 以上のように、燈子の初登場のシーンでは彼女の人となりについては、「容姿端麗・成績優秀」というような紋切りの語り口が一切存在しない。そういうものがなくても、彼女がモテること、意志の強い人物であること、他人に気遣いのできる人物であること、生徒会の人間であること、2年生であることと、多くを知ることができる。人物の特徴を箇条書き調に並べ立てなくても、物語のシークエンスを追っていくだけでどのような人物かが分かる。これが本作の「漫画の巧さ」のひとつであると思われる。

 「気遣い」に関しては、28-9ページ目にも描かれている。侑が燈子に悩みを打ち明けるか逡巡する場面。そこで燈子はお茶を差し出す。18ページ目で侑がお茶を淹れていたのとは対照的だ。一般にお茶にはリラックス作用があると言われるが、何かを打ち明けたい表情を察した燈子は、お茶を出すと同時に話を聞く姿勢を差し出す。先輩でありながら後輩にお茶を出すという仕草にも彼女の気遣いの良さが現れている。

 ところが、この「かっこよくて面倒見のいい優しい先輩」のイメージが、終盤に瓦解する。侑が電話を終えた直後である(pp.41-46)。それまで励ますように手を握ってくれていた先輩の手が離れない。握られた手からは汗ばんだ感覚がする。44ページ目で燈子はいきなり侑の身体を自分の方に強引に引き寄せ、そして最後のページで決定的な言葉を告げる。

「だって私君のこと好きになりそう」

相手に対し心遣いの行き届いた先輩の姿はここにはいない。存在するのは、下級生の身体を支配し(ここには官能性すら見られる)、理解不能な言葉を告げる上級生の姿である。告白の言葉は透き通り輝くような吹き出しで彩られているにもかかわらず、恋する気持ちを理解できない侑にとってそれは濁った異物である。

 ここで、表紙の時点で浮かび上がった「お姉さまと私」のコードに亀裂が走ることが分かるだろう。燈子はここで「優れた上級生」の仮面を捨て、下級生の世界に対する異常な侵犯者となるのだ。

 

③漫画の巧さー小糸の人物像と本作のテーマ

 第1話だけ読むと、本作のテーマは「好きとはどういうことか」であろうことが読み取れる。それというのも、本話の34ページ目、さらには最初と最後のページで侑の口から「人を好きという気持ちが分からない」ことを何度も繰り返し語られるからである。人を好きになろうとしたけれどなれなかった少女が、そのうち「好き」という気持ちを理解していく話になるのだろうということが、本話から推測できる。

 ところでこのテーマに関連して、ある性的指向を思い出すことになる。「アロマンティック」である。「アロマンティック」とは他者に対して恋愛感情を抱かない性的指向のことである。これは正直あまり周知されているとはいいがたい概念である*2。「同性愛」なら百合漫画を読んでいる層にはお馴染みであろうが、「アロマンティック」はそうではない。それゆえこうした心理を作品で扱おうとすると、登場人物の気持ちが読者には理解できないのではないかという作劇上の困難がつきまとうことになる。とはいえ読者は本作で侑の「分からない」気持ちを分かることができる。彼女の気持ちが理解できるように、人々に訴えかける手法で工夫が凝らされているからである。

 まず、17ページ目。恋愛感情を知っている同中出身の友達二人に対する気持ちの距離を表現するのに、侑と二人の間で席が大きく離された1枚絵が提示される。「この二人と私は違う」ということが、シュルレアリスムめいた強烈な光景によってはっきりと印象付けられることになる。

 次に32-33ページ目。32ページ3コマ目と33ページ1コマ目とで、空想上の恋愛を知って浮かれ飛び跳ねるであろう自分と、恋愛感情が分からず地に足がついたままの自分とでコントラストが生まれている。侑は別に恋愛がしたくないわけではない。ただ、その気持ちが分からず、悩みを生じさせていることがよく理解できる。

 さらに34ページ目の台詞。地に足がついたまま連続して表示されるコマと同時に次の台詞が語られる。

「大丈夫わたしはきっと ほかの人より羽根の生えるのが遅いだけで きっと今に もうすぐ…」

これは、性別違和の人間が自身の身体感覚に対して抱く言明や、異性愛規範に自身の性的指向を合わせたいと思う人間の台詞と同じ言葉である。アロマンティックのことは知らなくても、いずれ自分が望む形になれたり、あるいは規範に沿う形になれたりするのではないかと考えを巡らせた経験のある人間にとっては、馴染みのある言葉ではないだろうか。

 我々は侑のともすれば理解不能性に陥りかねない心情を、明快な様式や馴染み深い語彙によって理解することができた。広く知られるとは言い難い心情を漫画的技術により理解可能に近づけることに成功していることに、本作の「漫画の巧さ」のいち側面をみることができる。

 

まとめ

 以上3つの視点から分析してみた第1話における登場人物像は、本作を読む前と読んだ後とで以下のように変遷を遂げることになる。

七海燈子

 百合漫画における黒髪ロングの優れたお姉さまという第一印象。事実彼女の優れた上級生としての側面が、モテ描写、気遣いの描写、生徒会役員という肩書の描写などから読み取れ、下級生の悩みを聞き行動を見守るという形で「教導」するところが描写された。それが終盤、下級生を力によって縛り付けるある種の野蛮性を見せ、「だって私君のこと好きになりそう」という「お姉さま」には相応しくない台詞をいきなり告げる。

小糸侑

 百合漫画におけるくせ毛気味の平凡な妹という第一印象。表情をしばしよく変えるところは「百面相」の福沢祐巳を想起させそうだが、第1話では凡庸さではなくむしろ「異端さ」「人に言えない悩み」に対する自覚が強調されており、従来の「妹」のコードから大きく外れていることに気付かされる。上級生から告白されても驚きはこそすれ、赤面などすることなく「この人が何を言っているのか わからない」と長方形の中で告げるに至る。

 かようにして、『やがて君になる』は百合漫画の姉妹の形式を一部拝借しながらも、そこから大きく外れることでその独自性を見せつけていることが、第1話から読み取れる。そこに我々は驚きを覚えるのだ。

*1:なお会は現時点で途中であり、会では表紙と第1話の2Pしか読んでいない。本稿で語るのはほとんどが筆者当人の先走りである。

*2:

もちろんある種の性的指向を物語のプロットに組み込むことは危険な行為でもある。性的指向を物語上「乗り越えるべき障害」であると規定することになってしまいかねないからである。そうなっていないかについては第1話だけでは判断できない。この件については本作を読みすすめるしか分析する術はないが、それは「第1話だけを読み解く」という本論の意図から離れることになるので、ひとまずここで差し置くことにする。

本件の問題系については、次の論考が参考になる。

松浦優「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向 : 仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から (特集 〈恋愛〉の現在 : 変わりゆく親密さのかたち)」(pp.70-82、『現代思想』2021年9月号)