錬金術師の隠れ家

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実存主義とは何か : 実存主義はヒューマニズムである / サルトル著 ; 伊吹武彦訳(1955)

 映画『アデル、ブルーは熱い色』にこの著作に言及する箇所が出てきたので、興味をもっていたのだが、昨日たまたまブックオフに置いてあったので早速買って読んでみた。「実存主義の入門書」として分かりやすいと評判のようで期待して読んでいたのだが…クソ本だった。ざっとまとめるけど、深夜なので適当に書いて寝る。

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

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アデル、ブルーは熱い色 スペシャル・エディション [Blu-ray]

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①スコラ的
 実存が本質に先立つ場合、われわれの行為選択は責任を、それも全人類の責任を負うているとサルトルはいう。なぜわれわれはそんな重い責任を負うことになるのか。
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万民にとって善でない、ということはありえないのである」(p.20)。つまり人間の決断は常に善を目指すのであり、その善は全人類と共通のものであるから、個人の行為は全人類の善を代表したものだというのである。そんなわけないだろと反論したくなる。第一「善」とは一体なんなのか、道徳哲学の中心問題のひとつだが、この公演において他に善について触れられているところは他にない。サルトルの「人間は自由の刑に処されている」という重大テーゼの根拠ともいえるかなり重要な部分なだけに、ここだけ妙にスコラ的になってしまっているのがいただけない。

②コギト中心主義(50p)

 この講演でサルトルはやたらとデカルト主義者である。もの(対自存在)の蓋然性に対して人間主体(即自存在)の確実性を保証するためにデカルトのコギト説を採用する。これによって絶対的真理の存在や人間の尊厳の擁護が可能となる。しかし主体性に対する批判はフーコースピヴァクといったポストモダンの論客によって、それもサルトルも重視している現実世界の経験に基づいて何度も行われている。第一20世紀にもなってコギトを堂々と持ち出すのはさすがにどうかと思う。

アンガージュマンの条件
 人間は無動機状態のように自分の状況を知らないわけではなく、「組織化された状況のなかにあり、彼自身そのなかにアンガジェされ、自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする。しかも選ぶことを避けられない」(p.58)とサルトルはいう。これだとアンガジェするためには自分の状況をちゃんと知っていなければならない。将来のことはまるで想像がつかないといわれるが、キュウベエの契約のように将来確実に不幸を招く選択肢に対しろくな情報も与えられずにアンガジェするということも普通に行われていることだ。これは果たして適切なアンガージュマンといえるのか。

 自分では批判を書いていてなかなか要領を得ないと感じていた。形式的には割と整っているので突っ込んでも簡単に批判が返ってきそうなのだが、釈然としない。それに本書で示されているような道徳理論に従って生活することで何か得るところがあるのか、はなはだ疑わしい。別に入門書として読むには構わないのだ。ただ、これだけ読んで『存在と無』の厳密な議論にろくに触れることなく学生運動に身を投じていった学生のことを思うと、なかなか罪深い部分がある。

A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons

 駒場図書館が分厚い図書を要望に応えてわざわざ入れてくれたので、その中の論文を一つ読んでまとめることにする。European Philosophy of Science – Philosophy of Science in Europe and the Viennese Heritage, ed. by Maria Carla Galavotti, Elisabeth Nemeth, Friedrich Stadler, Dordrecht: Springer (2014) 収録の、“A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons” by Christina Chimisso である。 European Philosophy of Science には他にも論理実証主義の勃興についての論文など科学哲学に関する興味深い論文が多数収録されているが、関心にそってひとまずこれをレビューする。興味がある人は借りて読んでほしい。何しろ200ドルもするので読まなきゃもったいない。
 
 哲学者たちは物理学ほどは化学に対して注意を払ってこなかった。しかし20世紀前半のフランスでは、カント的な意味での実体の問題をめぐって論争が交わされたのである。筆者は特にガストン・バシュラールの化学哲学を本稿で紹介し、以下の問いを発する:化学や化学史だけがバシュラールを、分析/総合の概念や実体の概念、科学的対象の概念に対する独自のものの見方や知識論へと導いていったのか?そこで筆者はバシュラール哲学において「化学」や「化学史」とは何かを内省し、科学者や哲学者らの論点の違いを浮き彫りにし、バシュラール独自の哲学的対象の構造へ寄与する哲学的思想の輪郭を簡潔に描く。
 
 「分析」と「総合」の化学上の概念に対するバシュラールの考えは、要は「分析より総合の方が偉い」ということである。「困難は分割せよ」というデカルトの標語以来、化学では物質を要素へと分析することで全体が理解でき真理に近づけると考えられてきた。バシュラールはこれに異議を申し立てる。例えばナトリウムの金属としての性質や塩素の有毒な性質を理解したところで、そこから合成産物の食塩の性質を理解することは難しいだろう。分析は化学の必要条件だが、知識を得る手順の1段階でしかないのである。化学において分析はむしろ、新たな物質を化学合成することを目的としているのである。複雑な物質を単純な要素へ分けるよりも、新たな物質を合成する方が、得るものは大きいのである。
 
 次に科学的対象の概念について。バシュラールの考えでは、単なる経験的対象と科学的対象はまるきり異なる。目の前の対象の素朴な実在を疑わず理論を打ち立てようとすると、認識論的障害、つまり物事の原因をとらえようとして精神を電波な夢想やイマージュに入り浸らせてしまうような傾向に陥ってしまう。バシュラールによると科学史はこうした障害を乗り越える歴史である。つまり、人間精神に伴う自然な傾向を理性によって取り除き続けるのである。こういうわけでバシュラールの認識論は歴史的でしかありえず、認識論が扱う科学に不動の状態はありえないのである。
 
 そして実体概念について。バシュラールによると、アリストテレス以降哲学においてその実在が疑われることはなかった実体(現象の背後に存在する不動の主語)は、化学史の展開に伴って否定されるのだ。初期の化学者たちはみな実体論者であったとバシュラールはいう。「実在論は唯一の生得の哲学である」と、バシュラールは人間には自然な実在論的傾向があり、実在の背後にある実体を想定してしまうと考えたのだ。しかしバシュラールの主張では物質は固定されたものではなくてプロセスである。「存在は単調関数ではない」、つまり、不動の実体が存在して、複数の変数によってその状態が定まるような代物ではないのだ。それは物質に対するエネルギーと時間の関係をみることで立証される。エネルギーはバシュラールにとって実体の統合された一部であり、後者は前者とおなじくらい実在的である。エネルギー交換は物質の変化を決定し、物質の変化はエネルギー交換を生む。これらの過程は時間的で、バシュラールにとって時間はエネルギーを介して物質に刻み込まれるのである。筆者はここで、実体概念の変化は化学だけでなく哲学にも適用されるという。(まとめに続く…)

「羆嵐」吉村昭(1977)

 吉村昭の1977年の中編「羆嵐」は、1915年に発生した日本最大の獣害事件として名高い三毛別羆事件を題材にした小説である。今期「ユリ熊嵐」という明らかにこの小説を意識したアニメをやっているので、それに関連して読んでみた。

 

羆嵐 (新潮文庫)

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ユリ熊嵐 (1) (バーズコミックス)

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 あらすじは明快。北海道の開拓村を突然一頭の巨大な羆(ひぐま)が襲い、わずか二日間の間に6名もの村民が犠牲となった。羆を退治しようと村民や警察たちは奮闘するものの、移住してきたばかりの村民と官僚主義的な警察には対処する術がなく、熊の恐怖に怯えるしかなかった。村民と警察を尻目に、一人のマタギが孤独に熊と対決する…。
 要は人が熊を退治する話なのだが、人と動物の戦いというテーマは珍しいだろう。小説というものは主に人間の心理を描くものなので、動物を主題に描くということは少ないと思われる。もっとも本作でも実は熊そのものが登場するシーンはさほど多くなく、ラストの熊を斃すシーンに至っては、熊が姿を現してから射殺されるまで、わずか4ページ(文庫本で)しか登場しない。それにもかかわらず襲撃され破壊された家屋の様子や、殺害された人々の生々しい遺体、人肉や髪の入り混じった排泄物など、熊の存在は寒村に根深い痕跡を残し、村民だけでなく読者にも恐怖を与える。人に害なす獣、ひいては自然の恐ろしさを見事に描いているといえる。
 ただここで注目したいのは人間の様相である。動物の話ではあるものの同時に人間をも描いてた小説でもあるのだ(そこに着目するのは野暮だろうか)。つまり、集団と個人の対立である。
 熊を斃すために六線沢の区長は最初に隣村の猟師たちや警察に助けを求めるのだが、最初彼らがとっていた村民に対する傲然な態度とは裏腹に、いざ出向いてみると熊の恐ろしさにすっかり怯んでしまいまるで役に立たない。主に指揮を取ろうとする警察という近代的な組織にとって、熊退治にあたっては大勢で出向いた方がより成功する確率が高くなるはずなのだろうが、マタギの銀四郎にいわせれば、熊は賢い動物なのだから大勢の人間にはすぐ気付いて逃げる。警察という人間相手に権威を振るう組織でも、熊という超越的自然に対しては何の役にも立たないのである。また六線沢の村民が警察の意思に反して囮のため遺体を放置したり銀四郎を呼びにやったりしたとき、分署長が怒る描写がある。組織は規律を遵守するからである。しかし規律は自然との戦いには何の役にもたっておらず、むしろこの場合障害となっている。
 他方で山岡銀四郎は100頭もの熊を撃ち殺してきた実績がある老練の猟師であるものの、素行が良くなく、普段は酒を飲んでは暴れて周囲に迷惑をかける嫌われ者である。そのため六線沢の者達も最初銀四郎を呼ぶことを躊躇い、呼んだらかえって自分たちの結束を乱すのではないのかと思案する。しかし警察の無力が明らかになったあとで初めて現れた彼は、噂とはまるで 別人の、危機的状況にあっても冷静で落ち着いた、大人しい人物であった。一応噂は本当で仕留めた後に住民に狼藉を働き報酬をせびるのだが、熊退治という本業にあっては誰よりもその場に相応しい態度を示すのである。熊に関する豊富な経験知をもち自然の中で生きるうえでの仕来りを知る。何より熊の恐怖に耐える精神力を培っている。それでも恐怖を感じないわけではなく、今まで仕留めたことのないほどの巨大熊を相手にして、仕留めた後も死者のように顔の血の気を失っている。熊を仕留める彼の姿を見ていた区長は、銀四郎が死の恐怖を紛らし、自分が熊にとって無力な存在であることの悲哀を癒すために酒を飲んで荒れるのだと悟る。マタギという生業を営むうえで必然的に抱え込むことになる悲哀は、他者への狼藉という形でしか癒せず、それは共同体にとっては害でしかない。それでも今回の熊事件のように銀四郎のような人間が必要とされる時がくるが、ただ通常時の村落にとっては厄介者でしかない。軍隊、警察という規律を重んじる組織にとっては尚更厄介であり、素行の悪さのため兵役からはすぐ除隊されており、騒動でも警察の意思とは別の行動をとっている。銀四郎が生きているのは近代の人間的な規律とは程遠い世界であり、共同体の論理は通用しないのである。
 熊退治に関して面白いのは、銀四郎が仕留めた人食い熊の肉を村民皆で食べることを「仕来り」として諭すところである。村民たちは隣人や家族を食べ消化した熊など食べる気にはなれなかったが、銀四郎いわくそれが仏への供養となるのだ。この仕来りはどこの地でも行われている習慣にすぎないのだが、入植者の集まりである三毛別の者たちには知られていなかった。結局鍋にして皆で食べることになる(肉はかたく、うまくはないらしい)。この場面での銀四郎は、単なる人の集まりや近代的な組織を超えた、自然に隷属するより巨大な共同体の「仕来り」に従っているといえる。この仕来りは、超越的な自然とともに生きる人々の間でいつしか生じたものであろう。銀四郎はここで村民に自然とともに生きるうえでの仕来りを教え諭す。職業柄抱え込むことになる感情と超越的な自然という共同幻想とともに、銀四郎は生きている。それは単なる人の集まりとしての、もしくは近代的な組織としての共同体のあり方においては忘れ去られるものなのだろうか。
 
追記:ユリ熊嵐との関連について。幾原監督いわく、あまり意識していないらしい。マタギについては誰も詳しくないから少し調べましたという程度で扱うのは良くないという判断だという(『ユリ熊嵐公式スターティングガイド』, 2015)。しかし今回考察したような羆嵐の「集団と個人」というモチーフは、ユリ熊嵐の「集団と真の友愛」というモチーフとどこか通じるところがあるかもしれない。「透明な嵐」という集団構造のなかで集団に馴染まず親友(恋人?)と対幻想に浸る者は悪として排除される。個人(自己幻想)と対幻想をパラレルに語るのは難しいだろうが、集団に混じり得ない人間の生き方という点で共通項を見出してみるのも良いかもしれない。
 

 

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド

 

 

 
 
 

ストロベリーパニック 総括

アニメ「ストロベリーパニック」全話をみた。百合アニメ界でもマリみてのスール的世界観に直接的な性描写を導入して表現をより幅広くすることに一役買ったと思われるが、同時に変な笑いの出るアニメで、突っ込みどころや惜しいところがあまりにも多すぎるので、総括する必要を感じた。なおラスト3話より前は数ヶ月前にみたので記憶が曖昧であまり多くは語れない。ただラスト3話があまりにもアレなので、それだけでも十分な気もする。
 
はじめに
・原作は読者を「兄」として語りかける文体になっていることからも、男性読者を想定していることは明白。
・別に男性視聴者のサービスとしてのレズセックスを描いた作品ではないと感じた。
 ・シーンは三種類。要と桃実(なんども出てくる。軽薄にみえるが、実は要の本心は別の女に向いていたこととのコントラスト)、静馬と花織(想い出)、天音と光莉。どれも意味がある。
 
よいとこ
・演劇。主役を巡る政治的駆け引き、千華留様を主役にもってくることのうまさ。なんだかんだ渚砂が途中代役になるが、(ニセコイのそれと比べれば)嫌な感じはしなかった。
・要の本心。なぜか光莉を狙ったり意味不明な口説き文句を放ったり演劇に茶々いれたりと奇行が目立ったが、23話でかなり納得がいった。口下手な二人が本心をぶつけ合うためのテニスコートという舞台。ライバルとの戦いをきっかけにエトワール選出馬を決めたというのもまた熱く、桃実のレズビンタもまた切ない。それだけに直後なんでああなってしまったのかが本当に悔やまれる。
・音楽が美しい。
・一期EDは伝説。
 
なにがよくないのか
・まず作画が全体的によくない。世界観の美しさを売りとする百合モノにとっては致命的なんじゃ。作画監督複数の回多すぎ。
・飛躍が多い。
・SEがださい。
・序盤で静馬が行事に参加してないの本当謎だったな…なにか訳ありなんだろうなと思ったら本当になにもなかったとか、静馬様の魅力ガタ落ちじゃ(静馬様の印象が悪くなるのはこれだけにとどまらない)
・静馬と花織の顛末がなあ…病人ととも選挙に出るのは流石に色事を政治に持ち込んでいるとしかいいようがなく評価できん。
・ラスト3話。記憶喪失はもう殆ど禁じ手でしょう。これを2話連続で引っ張るのも辛い。
 ・厩に泊まるのはいいけど、せめて連絡して差し上げろと…みんな心配してるというのに
・最終話。いきなり式場に乗り込んできて渚砂ちゃんを連れて逃げ出す。静馬様の暴走としか…いや、渚砂ちゃん本当にこれでいいの?的な仕込みはちゃんとあったけれど、もう1クッション欲しかった。
 ・玉青ちゃん可哀想とはよくいわれる。確かに別に悪い子じゃないし、「結婚式の最中に別の男に花嫁を奪われる当て馬」の役割はあまりにも不憫かな。
 
その他
・エトワール制が意味不明。色事を政治に持ち込むのに非常に違和感があるのだがそんなものなのだろうか。要はレズカップルが選ばれるのか…そういえば作中のエトワールになった先代と新しいカップル、どっちも直前にレズセックスしてたな…
 
結論
・「どのカップルがエトワールになるか」「誰が劇の主役になるか」を巡って行われる政治的駆け引きがなんだかんだで魅力的だった。
 ・それが、最終話で学校の伝統が…とか仕来りが…とかいってられなくなるほどぶっ飛んだことになってしまった。
・考えてみたらこの作品を一番引っ掻き回したの、要と桃実じゃなくて静馬様だったんじゃ…
 ・ピアノもフランス語もできて、一緒に踊るとすごく美しい。情の出しどころを間違えたんだ…
・スール的世界観にセックスを再定着させるという点においてはなんだかんだで意義はある。エロいけど別に欲望を掻き立てるというよりは精神的つながりを示すまたは離れていることを示すものとして表現されている。同時期に少女セクトも刊行されたことも興味深い。
・余談だが、いちご舎の三角形状がユリ熊嵐の校舎の形状と似ていることに関心がある。
 

ベンヤミンの《救済》の概念-「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」

 卒論書くにあたって、昔手掛けたなかでもっとも長いレポート(5000字くらい)を振り返って自分を見つめ直す。われながら良い出来だと思うので掲載することにする。結論はともかく、導入がかなりよい。批判論でたった一回しか登場しない概念を別のテクストと照らし合わせることでその意義を誇示してみせる離れ業である。締め切りギリギリで研究室泊まり込みで書いていたのが懐かしい。13年夏:高橋哲哉「『暴力批判論』を読む」の単位修得にあたって提出した、ヴァルター・ベンヤミンの2冊の著作「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」に登場する一概念を検討するものである。
 
《救済》の概念
 本稿では本講義()で精読したヴァルター・ベンヤミンの論文『暴力批判論』における「神的暴力」の意味を、彼の本来の仕事である批評において重要な概念である「解放・救済(Erlösung; 以下《救済》と表記することにする)」を用いて明らかにしていくことを試みる。この論考において《救済》の用語が登場するのはただ1回だけ(『暴力批判論』, 241)だが、それはベンヤミンの歴史哲学において意識されていた問題であり、彼の主たる活動である文芸批評でも重要な位置を占めていた。この言葉を理解することは、この論文においても難解な概念であった神的暴力を理解するうえでも大切であるように思える。本稿では『暴力批判論』の他に、彼が唯一批評の対象を一作品に限って徹底的に論じたとされる批評『ゲーテの「親和力」(以下、「親和力論」とする)』を主に解釈し参照する。
 

 ベンヤミンは『学生の生活』において「危機(Krisis)と批判(Kritik)にみちた精神生活をおくることは学生の義務(村上, 1990 を参照)」であると述べている。そしてこの問題意識は文芸批評(Kritik)にも持ち越されることになる。一般に、批評・批判=Kritik の語源である古代ギリシャ語の krisis は、「判決・決定」の意味をもっており、またそこから派生した別の語が 'Krise=危機' であったことも考慮すると、批評・批判の本来の意味は、歴史の危機における判決を下すことであると考えることができる。さらに krisis の判決の意味がユダヤ的な意味を帯びると、「神の審判(歴史の終末における神の救済)」を意味するようになった。ユダヤの聖職者は聖書で語られる「生命の書」に書かれている救済されるべき者の名前を明らかにするのである。ユダヤ思想を色濃く受け継いだベンヤミンの批評もそのような性格をもっており、つまり作品の《救済》を行う。どういうことかというと、初期ロマン主義批評の方法論にならい、作品の善し悪しを判断するのではなく、作品の秘密として込められた真理内実を反省を繰り返し解釈することにより見つけ出す。つまり書かれてある事象内実(テクストに書かれてある事実の総体)から、真理内実(テクストに秘められた真理)を明らかにするのであるが、その真理こそ、救済を待つ憐れな人間の名前なのである。

 このように、彼の批評において《救済》の概念は重要な位置を占める。もっとも、ここで示された意味での《救済》はテクストの解釈の方法であり、暴力・法・正義の関係の叙述を目的とした『暴力批判論』とは無関係に思えるが、この《救済》という言葉は、先に述べた通りただ1回だけしかこの論文に登場しないものの、しかし「神的暴力」の性格を形作っている可能性を示しているのである。

「…一切の暴力を完全にかつ原理的に排除してしまったのでは、…これまでのすべての世界史的な地上的存在状況の勢力圏からの解放[救済](Erlösung)を思い浮かべることは、あくまで不可能であるから、あらゆる法理論が注視する種類のものとは異なる種類の暴力(論者註. 神的暴力のこと)についての問いが、有無を言わせず迫ってくる。(『暴力批判論』, 261,2)」つまり、人類の世界史的歴史的現状からの《救済》という、法哲学の大問題の解決のためには、それまでの法的性格を孕んだ神話的暴力でなく、神的暴力が必要とされる、言い換えると、神的暴力は《救済》なのである。しかし、《救済》の概念はこの論考では1度しか触れられていないうえ、神的暴力の定義も周知の通り謎めいた調子を帯びている。

 
 この他にも『親和力論』は『暴力批判論』は互いに共通するモティーフを用いて論証を展開している。例えば、このロマーンの登場人物たちの破滅の運命をベンヤミンは法がもたらす「神話的な暴力」によるものとする(ibid, 51)。いうなれば哲学理論の批評における実践版である。ところでベンヤミンはこの作品形式のロマーン(長編小説)と対比される、第二部第十章に挿入された『奇妙な隣同士の子供たち』というタイトルのノヴェレ(短編小説)を引き合いに出す。ロマーンの登場人物たちが闘争に身を任せることはなく、それにもかかわらず自然の強大な力により自ら犠牲を供することになるのとは対照的に、ノヴェレの登場人物たちは激しい行動をとり、強い決断力によって神と対峙し、犠牲を供することなく神と真に和解する。この場合、「ロマーンのもろもろの神話的モティーフには、ノヴェレのそれが《救済》的モティーフとして照応しているのだ(ibid, 127)。」よって、ベンヤミンにおける救済がユダヤ的なものを暗示させるとすれば、この場合の「救済」は、暴力批判論における「神的」と類縁関係をもっているとみなせるのである。執筆背景としても、両者の著作の成立時期はだいたい同じで、1920年代の前半であり、用語上だけでなく思想上も連関があることは明らかである。4人の男女の不倫の末、人間の自由意志を打ち砕く運命の力により悲劇的な結末を迎えるという救いのない物語に思えるが、『親和力論』では何度も《救済》という言葉を使い、作品の《救済》を図っている。それゆえ、この批評における《救済》の意味を明らかにすることで、先に述べたよりも『暴力批判論』における《救済》の意味を明らかにできるだろうと考えられるのである。以降、 《救済》について触れている箇所に注目して解釈を加えていこう。

 

 『親和力論』訳本の78頁に、《救済》=Erlösung の語が初めて登場するが、それは訳では「解放」となっている。この箇所では、不貞による法違反という神話的罪過が作品において主人公たちの破滅によって贖われているのだというゲーテ本人の言葉を批判し(註1)、『親和力』における法の侵害に起因する破滅は贖罪ではなく、婚姻という雁字搦めの状態からの「解放」に他ならなかったのである。それというのも、ゲーテがいうようには義理と恋情のあいだの戦いは存在していないうえ、結末にて倫理的なものの勝利を祝うわけではないからである。グンドルフのいうように、従来はこの作品の最後はオッティーリエの贖罪による聖化と考えられていた。しかし、それは外在的な道徳に基づく見方であって、事象内実から真理内実に迫るベンヤミンの方法論とは性格を異にする。ベンヤミンゲーテの問題意識に注目し、ゲルヴィーヌスの著におけるシラーのゲーテ宛の手紙から、ゲーテの晩年の生の不安を指摘している。それは沈黙として、彼の内部に閉じ込められる。生の根柢に潜むもろもろの象徴が表れるのは、作品においてなのである。ただし悲劇のように自己の内奥の本質として表現されるのではない。贖罪によって獲得される自由は詩人の生にはどうでもよく、自分の生をも対象とするような《救済》の可能性が問題となるのである。「このゲーテの生にとっても、悲劇の主人公が死において見出す自由ではなく、永遠なる生における《救済》こそが、問題の核心となる(ibid, 96)。」

(註1ベンヤミンが影響を受けた初期ロマン主義批評では、作品解釈による芸術への寄与を主張しているが、ゲーテはこれに批判的で、作品はそれ自体自立して成り立ち、批評は不要であると唱える。しかしベンヤミンはこのゲーテの立場を批判し(ドイツ・ロマン主義, 129; )、彼の作品に批評を加えることを正当化しているのである。もっとも、それはゲーテの作品に込めた生の意識まで否定するものではなく、上述のように生の象徴の現れる、《救済》の場として作品を見ている。)

 ここから分かるように、《救済》は決して贖罪を意味するのではない。不貞を働いたために子供を失いやがて自死に追い込まれるという話の流れからも推測できるように、贖罪は神話的な法秩序が要求する、法維持的な暴力といえるのである。しかし贖罪を退け生を救済するといっても、ベンヤミンは従来のように作品に創作者の生を見出し本質をつかもうとする方法は誤謬であると考える。いわば、作者を神話的英雄とみなし、人類の代理人として神々の前に立ち、人類の解放者=《救済》者といて扱う考え方をベンヤミンは否定する。このような見方の代表ともいえるのが、ゲーテ研究で高名なグンドルフなのであるが、ベンヤミンはグンドルフの試みを断固拒絶することでより「救済をもたらす内実が発している光の核心への洞察」へ導かれると確信する。

 作品に表れる神話的なもの、すなわち、不貞にたいする自然による神話的・法的な力の働きかけと、それに対する人間の無力、宥和と犠牲は、ベンヤミンによれば作品の認識の根柢をなし得ない。神話的な力という、ある意味では外部からの拘束力といえるものから批評を解放し、作品の事象内実から解釈を行い、真理内実へ至ろうとするのである。ではベンヤミンが注目した事象は何かというと、それが、上述したロマーンとノヴェレの関係、神話的なものと《救済》的なものの関係である。前者が犠牲を要求するのとは対照的に、後者では犠牲を供することなく神と真に和解する。

 まとめの部分で彼はオッティーリエの役割をこう結論づけている:ゲーテをこの作品世界に呪縛した(論者註:詩人の言葉を自分に託しているということ)のはまさにオッティーリエという人物、いやその名にほかならず、そしてそれは、ひとりの滅び行く女を真に救い出すため、ひとりの恋人をこの作品世界のなかで《救済》するためだったのだ(ibid, 180)。」エードゥアルトとの不義の愛のため神話的な裁きを受けることになりつつも、ゲーテは救済の可能性を与える。星の表象のもとにかつて彼の目に立ち現れたことのあった「愛し合う者たちのためにゲーテが抱かずにはいられなかった希望」が、批評により再び掘り起こされ、死にゆくものへの《救済》となる。注意したいのは、この希望を与える役割を担うのは、詩人でも作中の登場人物でもなく、他ならぬ語り手すなわち読解者なのである。「希望という感情において出来事の意味を全うすることができるのは語り手だけなのであって…。(ibid, 182)」「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。」
 
 これらのことから『親和力論』において何がいえるか。まず文学および批評の使命を考えると、文学の創作は神の使命ではなく、逆にそれは神の使命からも言葉を自由にするのである。そして批評というものは、作者を英雄や神とみなし彼により作品に与えられた法規範などの外在的な意味を解読していくものではなく、作品の事象内実に基づき真理を明らかにしていく。この過程において事象内実における神話的なものは退けられる。それは、法や道徳という作品を束縛する力、いうなれば「神話的な暴力(ibid, 51)」が本来的な批評を妨げるのを止める。そこから提示される批評は、ノヴェレをきっかけにロマーンを補完する形で《救済》の可能性を提示する。これらのことから、《救済》の二重の意味が考えられる。ベンヤミンはグンドルフを激しく批判し、それまでの神話的な読解を排除することに非常に拘っていた。神話的内実を傍に退け作品の内実からそこに刻まれた「名」を明らかにしていくという批評の方法論そのものが、《救済》の一つと考えられるかもしれない。そしてベンヤミンは実際に「オッティーリエ」という名前を、その神話的な悲劇から《救済》した。それは、死において見出す自由に対抗して、死後における永遠の生を悲劇のヒロインに与えるのである。
 ここで『暴力批判論』に立ち戻ろう。この論考においては神話的暴力と神的暴力が対比されていた。神話的暴力は生を途絶えさせ、罪からでなく法から浄め、たんなる生に対する、暴力それ自体のための血の暴力であり、犠牲を要求する。他方神的暴力は生を滅ぼし、罪を浄める、あらゆる生に対する生ある者のための純粋な暴力であり、そして犠牲を受け入れる。ここで、『親和力論』において神話的なものと《救済》の可能性が対比されており、またユダヤ的文脈における共通性を考えると、やはり神的暴力と《救済》の類縁関係はかなり強いといえる。神話的暴力がそれ自体のための暴力であるのに対して、神的暴力が生あるものの《救済》のための暴力であると考えられる。また批評における《救済》のニュアンスをそのまま適用するとするならば、歴史を生きる我々が蒙る暴力の、ひとつの解釈可能性であると考えられる。それは『暴力批判論』の最後の段落にもあるように人間には不可知である。しかし、弔いという形で実践することはある程度は可能なようにも思える。
 

 

 

引用文献

Benjamin, W. : 浅井健二郎訳, 『暴力批判論』, 『ドイツ悲劇の根源』下巻収録, ちくま学芸文庫, 1999

Benjamin, W. : 久保哲司訳, 浅井健二郎編訳, 『ゲーテの『親和力』』, 『ベンヤミン・コレクション I 近代の意味』収録, ちくま学芸文庫, 1995

参考文献

村上隆夫, 『ベンヤミン 人と思想 88』, 清水書院, 1990
Goethe, J, W. : 望月市恵訳, 『親和力』, 『ゲーテ全集』第七巻収録, 人文書院, 1960
平野篤司, 『批評と救済:ヴァルター・ベンヤミンの『親和力論』』, 人文・自然研究, 7: 299-333, 2013-03-31


 

 

「臨床医学の誕生」第7章:見ることと知ること

ゼミで読んだ章をupすることにする。フーコーの「臨床医学の誕生」(神谷訳)第7章:見ることと知ること、である。

議論は第6章から続いており、一連の議論においてフーコーは19世紀に誕生した臨床医学の特徴である「まなざし」が実は言語的構造を持っていることを解明する。以下第6章の内容を振り返ってみる。

 症例(病の本質を指示するもの)や徴候(病の時間的経過を示すもの)はそれまでのシニフィエとしての地位から、臨床医学誕生以降は病そのものを現わすものとして扱われるのである。なぜかというと、コンディヤックの経験論の影響もあって、見えるものはそのまま語られるものとみなす特徴が臨床医学にあったからである。こうして症状論から病因論へと移った。がしかし、症例の偶発的な事項を生のまま捉えることが困難となり、まなざしの中に言語学的、統計的構造(枠組み)が導入される。フーコーは臨床的知覚が感覚一元論という理想を目指しているようにみえて、その実まなざしの中にアプリオリな構造を潜めていることを指摘するのである。

 それでは本題の第7章に入ろう。各節の見出しは自分が勝手につけた。▼のつくパッセージは筆者による考えである。

 

要約
 この章では、臨床医学の経験における視覚と記述の相互関係を明らかにする。臨床講義での質問の際限のなさに限界を設けるため、次第に可視的なものから陳述可能なものへと臨床医学的思考は変容する。その背後に、純粋なまなざしはそのまま純粋な言語になるだろうという考えがある。しかしこの透明さは言語の地位を不透明なままにしておくため、さまざまな認識論的神話を生じさせる。つまり、疾患は言語論的、化学的方法論で語ることができ、経験は感受性と同一化するとされる。このレベルで言語的秩序をもつまなざしの構造は解体され、代わりに非言語的な一瞥の構造がその場を占める。

第1節 知覚と言語 (186-189頁)
臨床医学が認めた観察の特権がもつ2つのまなざし
・介入以前の、直接所与をそのままとりあげる純粋なまなざし
・論理的枠組みを介するまなざし
このような知覚の具体的行使とはどんなものであるかをこれから描き出す。

 観察するとき、まず理論や想像による障害を退ける相対的沈黙と、可視的なものを語る言語以前のすべての言語についての絶対的沈黙のなか、まなざしでもって事物を観察し、事物を知覚する瞬間同時にある言語を聞く。この言語を用いて実験者は事物を語る。
このまなざしは直接所与が真実をいいあらわすための構成の出発点、原理でなければならない。そしてまなざしは、構成のはたらき自体において一度示されたものを、まなざしに固有な作業のなかで再現しなくてはならない。

第2節 病院と教育 (189-193頁)
 臨床医的観察は病院と教育と結びつき、この二つもまた互いにつながっている。
家庭はかつては真理が自然に姿をあらわす場であったのが、病気の隠蔽、比較を不可能にする場として扱われるようになり、医学的知識が頻度を基準として定義されるようになると、中立的な場としての病院が要請されるようになった。 (第三章p82)
 病院がもたらす疾病形態への変化も、すべての症例が変化を病院という場で同一な意味で受けとる以上無効となる。臨床講義は、病院における変化を、恒常的な形において、経験へ統合することを可能になり、真理の分析が可能となる。
▼病院の領域に特有の条件の作用のもとにすべての医学的知識ができあがる。
 変化や反復が際限もなく作用するにつれ、(帰納によって恒常的なものの見極めがつくようになり)臨床講義は本質外のものを除外することを可能にし、真理へと至る。 reconnaître により connaître される。
臨床講義において真理を発現すると同時に真理を認識するため、教師の再認識と学生の認識の努力は同じ働きのもとでなされるという構造ができる。教師と学生は集団的な一主体をもつ。
 臨床講義において質問の際限のなさを回避するためには、質問と検査とが互いに語り合い、医師と患者との「出会いの場」を規定する必要がある。臨床講義の初めの形態においては、次の3方法によってこの場を決定しようとした。

 

 臨床講義の3つの決定方法 (193-199頁)
一 或る観察において、語られた契機と、知覚された契機とが交互に現れること
ピネルの理想的調査の図式:視覚的標識→何が知覚され得たかという標識→病気の経過の再知覚→ことば
死亡時には臨床医家はまなざしのために身体の解剖をおこなう。
ことば parole とまなざし regard が交互に現れるなかで、病気は次第にその真理をいいあらわすが、その文脈に存在する一つの意味 sense は、見る感覚と聞く感覚の二つの感覚でもってしか総体として復元されえない。


二 まなざしとことばとの相関関係を彫像的な形で規定しようとする努力
 同じ臨床医が眼によって知覚するものと病気が語る本質的なことばを聞き取るものとを、一つの図表の中に統合することができるのかという問題。
フォアダイス…可視的なものと、語られうるものの相関
ピネル…語られうるもの(病気が知覚に呈示する症状)と、症状の価値の相関
 図表は各々の可視的部分がある意味的価値を帯びるから、分析的機能をもつ。しかし、分析的構造が図表自体によって与えられるわけでもなく、現わされるわけでもない。症状と価値の相関関係は図表に先行する。


三 徹底的記述の理想
 見えるものと言いあらわしうるものの間の別な形の相関として、
記述の厳密さは、表現の正確さの結果であり、命名における規則正しさの結果である。
言語に与えられた2つの機能
・正確さを基準に可視的なものと表現可能な要素との間に相関を設定すること。
・表現可能な要素により、記述の内部で一つの命名的機能を働かせること(総体内部での語彙の専門化)。
 可視的なもののの総体から陳述可能な全体的構造への移行が徹底的で、あますところなく行われるとき、この移行の中で、知覚されたものの意味ある分析がはじめて成就されるのである。記述の内発的な力により、病理的事件の偶発的な場と、それらの真実の秩序が表現される教育的な領域との間の関係がむすばれる。記述的なものは現象の後追いと同時に見ることであり、知ることである。
対象の尺度と記述言語の尺度の双方に合わせた節度ある言語(内的尺度)を探求することが求められる。
 これらの方法を支配している神話がある。つまりある純粋な「まなざし」はそのまま、純粋な「言語 language」になるだろう、という考えである。眼は病院の場全体に注がれ、そこで起こる個々の事件の一つ一つを受け入れ、拾い集めるものと考えられている。次第に教える parole となるであろう。

 開かれた科学と実践は変容を蒙り、可視的なものが見えるというのは、language を知っているから、とう理由だけによることになる。臨床医学における記述は、他人に理解されないようにし同業組合的特権を維持することではなく、事物に対してはたらきかける支配力を獲得することを目的とする。
 
第3節 可視的なものと陳述可能なもの (199-203頁)
 しかし可視的なものが陳述可能であるというのは、あくまで一つの要請にとどまり、臨床医学の根源的な原理ではない。この理由として、コンディヤックが可視的なものと陳述可能なものとを同価に把握することを許さなかったことがある。コンディヤックの哲学は分析における発生の論理と計算の論理のあいだの両義性でためらった。
発生の論理…複雑な概念を単純な概念に還元し、これらの発生過程を辿ること。陳述の一貫性を求めるために構文が使われる。
計算の論理…目的のために諸概念を構成・分解して、これらを比較すること。確実さを求めるために組み合わせが使われる。
 しかし臨床医学の方法論では、その両義性をもちながらも、計算の要請から発生の主権へと再び降りて行く。根本的な作業は組み合わせのカテゴリーに属さず、構文上の転写のカテゴリーに属す(認識論的神話の三を参照)。
 当時は見ること言うことが直接的な透明さのなかで通じ合っていた。しかし透明さのこの一般的形態は、言語というものの地位を不透明なままにしておく。この欠陥はコンディヤックの論理学だけでなくいくかの認識論的神話に場を与えてしまう。

 認識論的神話 (p203-210)
一 疾患のアルファベット的構造。
それだけでは何も意味しないが、他の要素と組合わされば、意味と価値を帯び、語り始める

 

二 臨床医学的なまなざしは、疾患の実体 être に対して唯名論的還元をおよぼす。
疾患をすべて名称により記述し、単語に還元する。

 

三 臨床医学的なまなざしは、病理的な現象に対して、化学的なタイプの還元作用を及ぼす。
化学的作業のモデルによって構成要素を分離して組織を決定することができ、他の総体との共通点、類似点、相違点を設定することができるようになった。(半ば言語学的、半ば数学的な)分析の概念は臨床医学に純粋分離、組み合わせの図表化を可能とする。
組み合わせ combinatoire →構文 syntax →化合 combination
 まなざしは化学的燃焼に相当する機能をもつ。このまなざしによって現象の本質的純粋性はとりだされる。燃焼が火の烈しさそのものの中でのみその秘密を語るように、真理は臨床医の語りとまなざしが現象の上にあざやかな光を照らし出すことによりあらわとなる。
▼燃焼とまなざしのアナロジー。叙述としてこれは適当なのか?

四 臨床医学的経験は、すぐれた感受性と同一化する。
 すべての真理は感覚的真理である。分析の全次元は、ある美学のレベルでだけ展開され、技術的な規準を指定する。感覚的真理は五感に対してから感受性に対して開かれる。このレベルではまなざし regard のあらゆる構造は解体され、代わりに一瞥 le coup d’œil の構造がその場所を占める。(p13,28 からすると、まなざしの一種として一瞥がある?)


このことによって、臨床医学的経験に新しい空間が開けてくる。それは秘密の隠れている、不透明な、かの肉塊でもある。ここで症状論的医学は退行し、原因の医学へ。すなわちビシャの時代が到来する。

光と実体

 卒論で使うかもしれないので読んだ論考をまとめてみた。G. バシュラールの『エチュード』収録、『光と実体』である。

 この論考では、光化学の歴史が
・ベーコン的方法の挫折
・実体論的な思考の危険性

を示すことを明かしている。もっとも、ベーコン的方法の挫折については論者はよくわからなかった。また、実体論は科学的思考に危険であることは認めるとして、それは実体の存在を否定することになるのか、そこは疑問である。

 これは『科学的精神の形成』にも通じる話であり、最初の漠然として一般的な経験からはじめて、精密で特殊な関係を織り上げることがいかに困難であるかを示すのである。しかし、『形成』と異なるのは、前科学的精神に立ちはだかる障害の存在だけでなく、ある程度科学が進んだ段階、すなわちフレネル以降の光学がいかにして障害にぶつかり、それを克服していったのかをも説明している点である。結論からいうとそれは振動の数学化、相対論、量子化による質量概念の修正によって実体の概念は否定されるのである。


第1節では18cの化学において光がいかに実体的に扱われ、それが科学的理解を妨げたのかをみている。この分析においてバシュラールは、「吸収」という概念が物質主義的直観を示していることを明らかにしている。

第2節ではショーペンハウアーへの盛大なdisが展開されている。生物学に明るかったショーペンハウアーも、物理学・化学においては前時代的な思考の持ち主であったことが暴露されるのである。そしてその誤った理解の原因としての実体論認識を明らかにする。がしかし、注意しておきたいのは、参照されている文献がなぜかショーペンハウアーの著作リストのどこにも見当たらないことである。訳者も見つけられなかったという。筆者のミスか、偽書の可能性もある。

第3節では近現代においても光の実体論的認識の可能性があることを、保存、写真術、光の振動の例から示している。あまり関係なさそうなので少し端折る。

第4節では、色彩の原因を発色団に帰属させるという実体論的認識が生まれたが、これがいかに現代の科学的精神に近いかを示している。だがそれだけでは光の理解には不十分であり、そこからさらに一歩進めて、実体論に基づかない光の現代的な理解を提示する。しかし難解なので、あまりうまくまとめられていないので、要点だけを示すことにする。

 また分かりやすさのため各節には副題を勝手につけた。▼は論者のコメントである。

I 18cの科学者の実体論的思考—吸収、反射

 例えばニュートンは、光の粒子が物質に変換される、と主張したり、「数日間屋外に置かれた水は浸出液を生じる。ビールを作る発芽大麦の浸出液のように、それはさらに時間がたつにつれて沈殿物やアルコールを生じ、腐敗しないうちは動物や植物に適した栄養となる」という馬鹿げた記述を行う。この思考の混乱の背景にあるのは、光と物質の相互変換は自然の過程としてふさわしいという実体論的思考である。このように 18cにおいて化学者は誰も一つの現象が一つの実体に属していないとは想像もできなかったのである。

 現代の科学は合理論的統一性を求めるが、当時の科学は自然の統一を探究していたのであり、実体論的な思考に陥ってしまうのである。例えば水素の燃焼で水ができることを観察したことで有名なマケは、植物が光を取り入れる際、光は燃素となり、色彩を生じさせるという。すべてを説明するのはいつでも、水がしみ込むように物質が吸収を行うイマージュなのだ。19c初期において化学者のフールクロワは、物質は吸収できない光を単純に返し、返さないものは吸収するという単純な説明を与える。だがしかし色彩の現象は単に反射・吸収だけで語れるものではないのはないはずだ。

 光が植物に影響を及ぼすからといって、光と物質の関係が導きだすことは許されないという教訓をこの2人の化学者の事例から知ることができる。物質主義的直観と、その頂点にある光の現象の包括的で一般的な概念が、初期の化学の実験の不振をまねいたのだと筆者は主張する。

▼だが本当なのかは事例が少なすぎるような気がする。もっと詳細な研究がみたいところ。


II 哲学者の誤り—ショーペンハウアー

ショーペンハウアーの光学への無理解

 光を宝石が吸収して数週間は輝きつづける、光は熱の実体的本質に同化するなど、光の極性の理論への無知を暴露する。しかもそれは光の本性を究明する一つの方法だと主張しているだけに、開いた口がふさがらない、とまで筆者は苦言を呈す。ショーペンハウアーは直観において、自然は直接的でしかも一般に開かれていると考える。しかし実際は、最初の接触では、非科学的な、漠然とした事実を与えるだけだ。予め理論的システムがなければ科学的事実は定義されえないのである。


 ショーペンハウアーにおいて物質的な考え方は自然のものとして明快に与えられ、それで心理学が解明できるとまで考えている。背後には独身男の吝嗇(『形成』二二四-二五四頁参照。宝石などの貴重な物質に薬学的効用があるなど数多の価値を付与させる傾向のこと。)が存在する。このようにして人は吸収作用の直観の根柢にいたる。

 ショーペンハウアーは生物学の知見に関して、洞察力と直観でもって優れた思索を繰り広げながらも、同様に物理学にも挑戦できると思い込み失敗した。直観が最初の錯覚である見事な例である。また無媒介な実体論的説明が人を惑わす説明であることの証拠でもある。


III 保存、写真術、光の振動における物質的思考

 光の振動を物質の振動として解釈するケースがあまりにも多かった。現代では、振動はその数学的特徴によってとらえられる。方程式のあとでそのイマージュを使うのであって、逆ではない。

▼視覚表象が科学的発見の根拠となったケースはあるのではないのか?


IV 有機体の色彩の構成化、エネルギーの量子化

 現代の科学的精神において、実在は無媒介で最初のものであることを否定され、理論体系のなかで再構成される。ミクロな物理学では質、量、連続、不連続という概念は相互に交換されるという弁証法的な過程をとり、実在性は確率的な手段によってのみ予見可能とされる。時間と空間の絶対的分離の上に全面的に組み立てられている実体の観念は、おそらく根本的な修正を受けなければならない。

①粗雑な実体論的な直観に近い形式でも、吸収の法則を理論に取り入れることでそれを数学的に研究できる。しかしそれでも物理実験の数学化の真の価値は与えられない。

 例えば有機体について、色彩の選別的吸収は化合物組成における基の存在による。この化学的な基によって、もっとも不透明な、もっとも濃密な、もっとも甚だしい実体論的な質についていえる。つまり発色の原因を、ニトロ基やアゾ基などの発色団に帰属させるわけだ。それまでは「インクは光を吸収する」という風に帰属のカテゴリーのもとで述べられるに過ぎなかった。色彩は実体的に存在するのではなくて、構成されるというわけだ。

さらに化学者は均一的思考の理論として、実体的な性質決定の問題からエネルギーの量決定の問題に移行する。エネルギーの構造的性質を解明するとき、光化学によった。このとき、直接的な実在論から、理論先行の思考が生じたが、このとき、実在は本源的価値を失い、理論的な形で実在化するのである。

▼百頁の記述だが、全くよくわからなかった。

 新たな科学的精神における科学の特徴を論者が勝手に挙げてまとめると以下のようになるだろう。

・実在が無媒介で最初のものでなくなり、理論的体系のなかで実在を再構築する必要がある。

・ミクロな世界において、質、量、連続、不連続というような外観は、相互に交換される弁証法的思考が行われる。マクロな世界で考えられてきたように実体論的に質と量を分離することはできない。

・ミクロ物理学における実在性は確率的な手段によってのみ予見可能である。


 時間と空間の絶対的分離の上に全面的に組み立てられている実体の観念は、おそらく根本的な修正を受けなければならない。エネルギーのタイプの一つが、ある普遍的定数と振動数との積として表現されるとき(hν)、エネルギーは実体であり、不変量であり、恒常的要素であるといえなくなる。そのとき直観的教養を逆転しなければならない。物質が精神に第一の教えをもたらすべきなのではない。放射能と光がもたらすべきなのである。光を物質によって説明すべきではなく、物質を光によって、実体を振動によって説明すべきなのである。

▼構造化学についてもっとよく勉強しておこうと思った。


出典

G. バシュラール 「光と実体」『エチュード : 初期認識論集』収録 及川馥訳、法政大学出版局、1989。

参考文献

G. バシュラール 『科学的精神の形成』 及川馥訳、平凡社ライブラリー、2012、二二四-二五四頁。