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ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論②…劇場版、最高の輝き

 一週間開いてしまったが、前回の記事の続きを行おう。前回はおりあそ氏の2期への批判を検討することを通じて、彼の主張の問題点を指摘し、我々肯定論者が2期になにを見ていたのかを確認したが、当記事(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) の内容は主に劇場版に対するものであったため批判はあくまで間接的な形に留まった。今回は直接、劇場版ラブライブに対するおりあそ氏の評価を検討し、その問題点、ならびに我々肯定論者がまなざす劇場版ラブライブの真の構造を解明しようと思う。さらにそれに加えて、おりあそ氏の記事そのものの批評方法の問題点にも批判を加えたい。あの記事は佳文なのだがどうも扇情的なところがあり、我々に誤解を与える恐れがある。反論は基本的には相手の主張の内容にのみ触れるだけで十分だと思うが、氏の記事がRTばかりでなくまとめサイトをも経由して大々的に拡散してしまった以上、氏の書き方もきちんと看破してやる必要があると考えたのだ。

 

 例によってまずおりあそ氏の指摘する問題点を簡潔にまとめ、それから検討を行おう。 

おりあそ氏の主張

⑴脚本の重大な瑕疵。具体的には、

 ①「行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである」。前半(海外公演編)と後半(大ライブ編)との関係がまるでない。

 ②これまで他のスクールアイドルのことをちっとも考えてこなかったのに、「最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない」。

 ③女性シンガーソングライターや水たまりを飛び越える描写に物語に対する必然性を感じない。

 

⑵キャラクター描写の問題点。具体的には、

 ①「穂乃果以外のメンバー8人を脚本のレベルで真剣に描き分ける気がなくなっている」(2期の①穂乃果中心主義と同じ問題点)。

 ②「各メンバーの薄っぺらいキャラ付け」の強化。

 

さらに、⑶おりあそ氏の方法に問題が感じられるところをまとめておこう。

 ①多くのファンは「物語性を軽視」し、「μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけ」という主張。

 ②現実のアイドルと二次元のアイドルの比較のやり方。

 

検討   

物語論

 まずおりあそ氏は脚本に重大な瑕疵があると考えているようだが、正直、氏がなぜあの映画を見て脚本に重大な瑕疵があるという判断を下したのかよく分からないのである。私としては脚本の良さは語るまでもないことだと思うのだが、氏がそう判断しているのであれば、ここはあえて脚本の構造を分析し重大な瑕疵など存在しないということを示すという非常に退屈な作業を行うことになる。つまりまず①海外公演編と大ライブ編との関係を明確化するのである。そうすると自ずと②の問題点を否定することができるようになる。おりあそ氏は劇場版でいきなりスクールアイドルという問題を提示されても唐突だというが、本来そこは前回取り上げたように「1期や2期で十分触れてこなかった『スクールアイドル』という概念の掘り下げを丁寧に行ったのだ」と高く評価すべきところである。この点でおりあそ氏と筆者との間の主張には平行線が見られるのだが、ここは私の主張が正当であることを示すために、なぜスクールアイドルとは何かという問題がここで持ち上がったのか分析しておこう。

 ③についてであるが、これについては極めて高度な解釈上の問題であり、見る者によって受け取り方は異なるはずであり易々と評価を下すことはできない。ここでは私の解釈を一つ提示するだけに留めたい。

 

 ①おりあそ氏は海外公演編と大ライブ編との接続がなっていないという。ひとまず海外公演編と大ライブ編のそれぞれで何が行われてきたか整理しておこう。

 μ'sは当初卒業後の解散を決めていたが、第三回ラブライブの宣伝の依頼を受け、海外公演を行うことになる。英語を話す希や意外と馴染んでいる凛、不安を覚える花陽や極端に怯える海未など、異国の地で多様な反応を見せるメンバーに我々は心を踊らせるだろう。公演場所をどこにするか悩むわけだが、夜景を前にして凛は「この街ってアキバに似てるんだよ」という発見をする。「だからどこにいても自分たちらしいライブができそう」だったのであり、何でも受け入れるこの街(実はニューヨークという言葉は一度もでてこない)に自分たちのルーツと同じ香りを見出し、改めて自分たちらしさを確認するわけである。海外公演編はそれまでのμ'sの振り返り(ならびに彼女らに対する新しい発見)という意味があったのだ。

 海外公演編で注意してほしいのは、ここで描かれているのはあくまでμ'sのみであるということである。公園で仲良くなった3人の現地人たちや、謎の女性シンガーソングライターとの交流はあるものの、それ以外は海外コーディネーターや現地スタッフといった人々と交流するという描写が描かれることは一切なく、また海外なだけあってμ'sが日本で人気を博した人気スクールアイドルであるということを知る人は誰もおらず、ほとんどが彼女らに無関心なため、海外公演編はひたすら仲間内同士のやりとりが描かれる。彼女たちはアキバと似たこの街で「私たちらしさ」を再確認する。ただそれは、他者との交流を欠き殻にこもった活動であった。そして直接は描かれはしないが、この公演をもってμ'sの活動は終了するはずだった。

 しかし帰国後事態は急変する。海外公演成功の知らせが日本中で知れ渡り、μ'sのもとにファンが大量に押し寄せる結果になった。ファンたちは彼女らに活動を続けていくことを望んでいるのである。ここで「μ'sの解散」という主題が再び前景化することになる。つまり、「μ'sの解散」の主題は、2期ですでに「私たちが決めたこと」であったのが、ファンや他のスクールアイドルたちとの交流を経て「私たちでない他の人々との間で決着をつけるべき問題」へと変わったのである。A-RISEはじめとする他のスクールアイドルたちとの関係のなかで、このままやめてもいいのか、それともスクールアイドルの将来のために続けた方がいいのか、とここでμ'sは初めて殻の中から外へと目を向け真剣に悩むことになるのである。

 

 結論としては、彼女たちは結局解散宣言を取り下げることはなかった。ここで登場するのが「スクールアイドル」の概念である。この概念は一般的な「アイドル」とは異なるものであることに注意したい。専属のプロダクションのつくタレントとしてのアイドルとは異なり、スクールアイドルはただの学生である。学校中心で仲間とともに活動を行い、卒業と同時に退部する。青春時代の限られた時間の中で、同じ学校で、9人が集まったことそれ自体が奇跡であると考えるμ'sにとって「スクールアイドルである」ことは極めて強いアイデンティティであり、このままアイドルとしてやっていくわけにはいかなかったのである。その思想は絢瀬の、そしてそれを引き継いだ穂乃果の台詞に現れる。「私たちはやっぱりスクールアイドルであることに拘りたい。私たちは、スクールアイドルが好き。学校の為に、みんなの為に、同じ学生が、この9人が集まり、競い合って、そして手を取り合っていくスクールアイドルが好き。限られた時間の中で、精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き。」。スクールアイドルであり、時間が限られているからこそ、大ライブとラストライブにおける彼女たちは最高に輝いていた。

 こうしてみてみると、物語前半と後半とで「μ'sとしての私たちらしさ」の再確認をそれぞれ別の側面から行っていることがわかるだろう。前半では海外の異質ながらも自分たちの故郷に似た雰囲気を漂わせた都会にて、ローカリティに根ざした自分たちらしさを確認し、後半では真正面から取り組まざるをえなくなった「解散問題」を巡って、「スクールアイドル」という自分たちの本質を再確認する。おりあそ氏は物語性がない(一貫した主題がない)というが、そんなことはなく、劇場版は「μ'sとしての私たちは何か」という問いを一貫して問い詰めていることがわかるであろう。

 一貫した主題としての「μ'sとしての私たちらしさ」を支える「スクールアイドル」としての強固なアイデンティティー。それだけでおりあそ氏の指摘する②「なぜスクールアイドルという問題が持ち上がったのか」という問題を説明するには十分だと思う。

 

 ③女性シンガーが登場するのは2回、穂乃果が飛びこみを行う描写は3回ある。謎のシーンを4回にわけて整理してみよう。

  1. 幼少時の水たまりを越える描写
  2. 異国の街で女性シンガーと出会う
  3. アキバで女性シンガーと出会い、「飛べるよ」という励ましをうけ夢の中の花畑で飛びこみを行う(このとき、絢瀬の「スクールアイドルへの拘り」を語る台詞とともに場面が展開する)。
  4. 大ライブに行く道中。夢の中に出てきたのと同じ花びらを見て、女性シンガーの「飛べるよ」という台詞を自分で口にして再び飛びこみを行う。

 

 おりあそ氏は「女性シンガーは結局終盤は登場していない」として非難しているが、注意しなければならないのは上の4. である。女性シンガーそのものは登場しないものの、花畑に舞うていた花びらがひとひら現れ、それを見て、穂乃果は「飛べるよ」と女性シンガーと同じ台詞を発しまた飛びこみを行う。ここに女性シンガーの姿を見ないのは鑑賞的想像力の貧困である。女性シンガーは将来の穂乃果の写し鏡であるという説が最も有力だが、4.のシーンではその姿をまさに今の穂乃果に見るべきではないだろうか。つまり、μ'sの終わりに一歩を踏みだし、ラブライブの将来に向けて前進しようとすると同時に、自分自身の将来に向けても一歩を踏み出す穂乃果の姿である。そうしてみると、飛びこみと女性シンガーのモチーフは一貫して「将来への前進」を描いていることが読み取れるのである。

 もちろん、μ's解散以降のメンバーの姿は全く描かれていない。一年組の役職が決められ穂乃果の将来が例のシンガーソングライターによって暗示されてはいるものの、彼女らのその後は何も直接読み取ることはできないのである。だがむしろここに美学がある。物語はμ'sのラストライブをもって絶頂として終わる。「μ'sの終わり」という主題には前記事でも述べた通りの美学があった。μ'sの最後の輝きを描きそれが絶頂となる以上、「μ'sのその後」を直接描くわけにはいかない。それでは彼女らの将来はどうなるのかを、主人公である穂乃果を代表として描き出そうとしているのである。「かつてはみんなと活動していたけど、いろいろあってバラバラになった」という女性シンガーの姿は、まさに解散後のμ'sのメンバーそのものの姿であり、穂乃果の将来の姿であった。 

 

⑵キャラクター論

 ①については前回ある程度論駁することができた。つまり、「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのは言い過ぎであり、物語のプロットの余白に描かれたキャラクターの呼吸や息遣いに目配りする想像力がないとそのように見えてしまうだけである。

 それに加えてもう一つおりあそ氏の指摘する劇場版のシーンを検討しておこう。 穂乃果が全国のスクールアイドルを招いた大ライブを提案するシーンである。まず、おりあそ氏の指摘には事実誤認がある。氏は「『想いはみんな一緒のはず』などというセリフで全員一緒くたにされてしまう」と言っているが、この台詞で問題となっていたのは「μ'sを解散するべきか否か」という問題であるが、穂乃果が言い出すまでもなく各人それぞれが「解散する」という結論にたどり着く(そもそも先に結論にたどり着いたのは穂乃果ではなく三年生全員である)。したがって、おりあそ氏の指摘はここでは当たらない。

 強いて言うなら直後の、解散決定により退けざるを得なくなった第三回ラブライブの可能性を、穂乃果が大ライブを提案することで実現させようとする場面であろうか。そこでは全員の合意が見られるが、真姫など大胆な提案に困難を見出す者、花陽のように一大アイドルイベントの開催に興奮を覚えるものなど、反応は全員異なっている。そこには「穂乃果に同調するただのマシーン」の姿は見受けられない。穂乃果は主人公として物語を強力に推進させようとさせているだけである。穂乃果はあくまでリーダーとして、μ'sの発案者として、物語の主人公として、そして「将来別れ別れになるメンバーの代表」として活躍しているだけである。終盤で大ライブの発案を皆に持ちかけ同意を得るものの、それは3年生をはじめとする他のメンバーからの「μ'sはお終いにすべき」という意見を踏まえての、それならスクールアイドルの発展のために何かできないか、という穂乃果の思いが付け加わった大胆な発案だった。穂乃果の発案は内部だけでなく外部からの要請も入り混じって生じた「解散か存続か」の複雑な弁証法や、9人やアライズ、他のスクールアイドルたちファンの感情への考慮経て生み出されたものであり、それを単に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」と言い捨てるのは、物語をきちんと読んでいなかったのではと言わざるを得ない。

 そもそも、おりあそ氏の主張には「他者を同調させ従属させる役割としての主人公」と「物語を推進させる役割としての主人公」とが混合してしまっている。後者においては必ずしも他者の安易な同調は必要無い。劇場版におけるおりあそ氏の指摘は、2期に見出した問題点を劇場版にも無理やり繕だそうとするただのレッテル貼りではないのだろうか。

 

 ②を論駁するのは非常に難しい。というのも、氏の主張に正当性があるからというのではなく、キャラクターの特徴づけやそれに対する印象を語るとなるとどうしても主観的で恣意的なものにならざるをえないからだ。ここはさしあたり、氏が指摘する花陽と海未の描写をみていこう。

 おりあそ氏は花陽のキャラ付けに難色を示しているが、俗な話になるが、例えば以下のサイトをみても、日本人には海外に行くと白米が愛おしくなる傾向というものがあることがわかる。

http://news.nicovideo.jp/watch/nw23260

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/0208/642440.htm?o=0&p=4

私は何年も白米を食べていなかった日本からの移住者がおにぎりを差し出されて涙しながら食べたという実話を聞いたことがあったので、花陽の白米シックのシーンでは「白米好きの花陽ちゃんだったらこう行動するだろうな」というのが私としてはリアリティをもって読み取ることができた。むしろ白米ネタを持ち出すなら異国の地というのは絶好の舞台である。現実に対する脚色はあるものの、それを「判で押したような浅薄なキャラ付け」ということはできないだろう。むしろフィクションだからこそ三次元でやったら馬鹿らしさを感じるキャラ付けにも魅力を感じるのである。

 またツイッター上でおりあそ氏は極端に異国の空気に怯える園田の姿に違和感を表明しているようだが、むしろそれは幼少時から変わらぬ園田海未の本質の発露といってよい。真面目で頼り甲斐のある彼女は元来、新しいことに足を踏み出すのを怖がる臆病な子である。それに対し穂乃果がやや強引ながらも未知の世界に連れて行ってくれることに園田は喜びを感じるのである(1-13、SID海未編第7章)。一度異国に迷う経験をしてから恐怖はますます悪化したが、それだけに穂乃果が街に迷ったときの園田の不安は筆舌に尽くしがたいものがあったと想像できるし、ホテル前で再会したときの叱咤と嗚咽と熱い抱擁から、我々は海未の穂乃果への強い感情が我々に流れ込んでくることを感じるのである。

 このようにこの作品は文脈に対する想像力や行動に対する解釈を働かせることで、彼女らの行動に必然性を感じることは幾らでも可能なのである。キャラ付けの采配加減にもよるが、少なくとも人間性を失うまでには至っていないのではないだろうか。

 

⑶方法論

 私がこの論争によって拡散されることを一番恐れているのは、①「多くのファンはラブライブを一方的かつ即物的に消費している」という言説が氏の記事を中心に出回ることである。確かに人気の上昇によってそうしたファンは増加したが、同時にラブライブの物語やキャラクターの呼吸に触発されて正当な感動を覚えたファンも大勢増えたはずである。おりあそ氏の主張はそうした層を無視し、「作品を即物的に消費するだけのファン」と「批判的精神でもって作品を非難する批評家」の図式をでっち上げるものであり、それは読者にそれに従った誤った判断を下してしまう可能性を生じさせてしまう(実際氏の主張に触れて劇場版に対する意見をまるきり変えてしまったという人もいる)。極めて明晰な筆致の持ち主であるにもかかわらず、ソ連の機関紙のごとく敵に不当なレッテルを貼り付ける氏のやり口は非難されて然るべきものである。

 

 また②:現実のアイドルと二次元のアイドルの比較のやり方、に関しても、氏のやり方には問題がある。今回の論争においてはおりあそ氏も私もラブライブのアニメ版を巡って論じているのであって、雑誌やSID、ドラマCDなどの外部に関しては論じていない(インターナルなアプローチ)。ラブライブは多方面のメディアに展開されているためどれが作品の中枢であるかは判然とせず、劇場版に対する評価にしても本当はラブライブのそれまでの積み重ねを反映しなければならないのである(例えば帰国後に突然人気が出たことにメンバー全員が仰天するシーンは、現実の事態をそのまま反映している。このようにアニメ世界に現実世界の出来事を取り込んだように思えるシーンが2期や劇場版で多々散見されるのである)。しかし今回は氏と私ともにあくまで作品内部で語っている。

 ところが氏はAKBを論じるにあたってエクスターナルなアプローチをもしているのである。氏は指原莉乃渡辺麻友を論じるにあたってその人生や信念を総合的に加味して魅力を語っているが、μ'sに関してはそのように語ることはしていない。μ'sはアニメだけではなく、SID、スクフェス、曲、声優ラジオ、ライブなど幅広いメディアで活動しており、我々はそれを加味して劇場版のアイドルをまなざしている。花陽の白米好きにしたって、その子のそれまでの歴史の積み重ねであり、それを見てわれわれは、異国の地で不安を覚えていた花陽に対して「いつもの花陽ちゃんだ」と安心を覚えるのである。氏は雑誌時代の話を持ち出しているが、キャラクター描写の批判から察すると本当にそれを加味しているのか疑わしい。

 別にラブライブをアニメ版だけで完結させて語ることは十分可能である。しかし氏の方法には比較の仕方の問題がある。一方はエクスターナルなアプローチを、他方はインターナルなアプローチをとるという不平等な前提には、方法論上問題があるのではないだろうか。われわれが氏の二次元アイドルと三次元アイドルを比較する筆致に違和感を感じるのは、このためである。

 

まとめ

 本記事では⑴脚本の重大な瑕疵などというものは存在しないこと、むしろ一貫した主題のある優れた物語であることを明らかにすることができた。また、印象論的側面が強くなかなか論じることが難しかったものの、⑵キャラクター描写も特に問題視されるところはないと思われる。さらに⑶おりあそ氏の記事における方法論上の問題、つまり極端な図式化と比較の前提の誤りを指摘した。

 以上を振り返ってみると、依然としておりあそ氏がなぜこの映画を批判したのかいまだによくわからない。2期に対する批判については私としてもある程度正当なものを感じ、反論を起こすことに苦労だけでなくやり甲斐も感じたのだが、劇場版については私が劇場版をみて感じたことをごく当たり前のものとして示すだけであり、かえって苦痛の方が強くなかなか筆が進まなかった。劇場版に対する美的評価はもはや賛同者と反対者とで通約不可能なものであり、ひょっとしたら論じ合うことは全くの無意味なのかもしれない。

 それでも私がこの記事を書いたのは、「アニメラブライブは大衆受けするだけの駄作である」という言説を否定したかったからであり、またおりあそ氏の記事にみられる図式主義的な傾向を告発し、読者が氏の記事に感化されることがないように注意を促したかったからである。『ラブライブ!』は極めて奥行きをもった作品であり、1-8や2-5、大ライブやラストライブなどで最高に輝く少女たちのオーラ、何気ない日常の場面にみられる彼女たちの呼吸を味わうことには審美的価値があると考えられる。それは氏がいうところの「一方的かつ即物的な消費」ではないはずだ。氏の主張や図式に従ってラブライブを解釈してしまっては、作品の可能性をかえって狭めてしまうことになりかねない。繰り返しになるが、作品を鑑賞するうえで大切なのは、他人の評価ではなく自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。

 おりあそ氏はラブライブに極端なヒューマニズムを見たのかもしれないが、むしろ我々は美学をまなざすべきなのだ。

 

ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論①…ラブライブ二期の本当の思想

 本記事はおりあそ氏によるラブライブ2期・劇場版に対する批判(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) への反論である。おりあそ氏と私はちょっとした知り合いで、百合好きという点でも作品に対する嗜好という点でも価値観を共有していたのだが、ラブライブ2期や劇場版への評価を巡って1年前から意見を激しく違えることになってしまった。当初は私もおりあそ氏の主張の正当性を認めていたのだが、しかし自分を納得させることができない点も残った。というのは、もし氏の批判が正当なら、アニメに対し批判的精神を働かせることのできる多くの人々が、2期を素直に楽しむことができたというのが不可解なことになってしまうからだ。私とて多少はカップリング萌えの観点から見ていたことは認めるものの、それにより私は自分の批判的精神を蒙昧にさせるようなことはしていなかったと思うし、我々の目が節穴だったということは決してなかったと信じたい。実際、氏のいう問題点を踏まえたうえで2期を再視聴したときも、私が物語から受けた印象はあまり変わらず感動するものがあったし、むしろ新たな発見に心躍った。だが他方で、氏の批判に対して見受けられた「キャラクターや曲を楽しむ作品なんだからラブライブに物語の整合性を求めても無駄」という論弁を放棄し開き直った主張にも私は抗したい。むしろ私を含む多くのラブライバーは2期に確かな物語とそこに表現された感動的な主題を間違いなく直感したのであり、それを論理的に示していく作業が必要だ。多少の問題点は理解できるものの、だからといって「2期は出来の悪いただの娯楽である」という主張にはどうしても合意できない。

 

 本当はラブライブを批評する際の方法論を先に整理してからおりあそ氏の主張へ批判を行おうと考えていたが、現時点で投稿から1日経っていないにもかかわらず氏の記事は大反響を呼び、2000RTを達成するまでになってしまった( https://twitter.com/oriaso/status/613011484893773824 )。私から言わせれば氏のものの見方にはやや一面的なところがあり、想像力が欠如しているのだが、それにもかかわらずこの記事がこれ以上拡散されてしまったら、氏の思想に感化されて『ラブライブ!』という作品に対し間違った判断を下す人が大勢現れかねない。なので先におりあそ氏の主張に直接応答することを決め、氏の主張の批判的な重要性がどのくらいのものなのか、どこがおかしいのか、そして私がラブライブに何を見ていたのかをこの記事で主張したい。

 本記事は二部構成で前半と後半に分けられる。前半はラブライブ2期についてのおりあそ氏の批判とそれに対する応答、後半は劇場版に対するそれだ。2期にかんする見解はおりあそ氏の記事には多くないが、ここでは本人から直接聞いた話も参考に氏の見解を再構成するようにしよう。また「二次元アイドルと三次元アイドルを比較して語ることに違和感を覚える」という反論が多数見受けられたが、私は三次元アイドルについてはよく知らないので別の人に任せたい。

 また、表記についてであるが、例えば1期の8話は 1-8 という風に簡略化して記すことにする。

 

 おりあそ氏の主張

 おりあそ氏が2期に関して主に問題視していたのは、記憶の限りだと以下の3点である。

①穂乃果中心主義とそれによる人間描写の欠如。2-6や2-10後半においては問題解決に関して誰もまともな解答を与えることができず、ラストになって穂乃果の鶴の一声で問題を解決してしまう。このとき8人は穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がってしまい、人間性の描写が失われている。(そしてこの問題点は劇場版にも見受けられる。)

②物語の不在。本作はラブライブ優勝に向けての物語であったのに、最大のライバルであるA-RISEと特に競い合う描写がされることもなくあっさり勝ってしまい、本戦でも他のスクールアイドルとの何かしらの競争が描かれることはなかった。「ラブライブ優勝」という主題が形骸化している。

③最終話のとってつけたような劇場版への橋渡し。2期後半は「μ'sの解散」という主題を掲げたにもかかわらずそれをラストで反故(ほご)にしてしまう。しかもだいぶいい加減である。

 

検討

 それでは順に吟味を加えていこう。まずは①②両方に見られる問題点を、以降は①②③それぞれの問題点を見ていく。

 

 ①②の2つの主張は実は私としてもある程度正当であると考えている。2-6は話としても深みがあるようには思えなかったし、2-10後半や2-12の屋上のシーンでも同じパターンを繰り返されるとさすがに食傷気味になってしまう。また仮にも「ラブライブ優勝」という目的を掲げている以上他のアイドルとの競争がまともに描かれないのは、特にA-RISEとの対決を期待していた人たちにとっては幻滅であっただろう。

 しかし2期を視聴しているとき私にはこの二つの論点は特に問題にはならなかった。穂乃果中心で話が転がるのは単なる物語の中だるみとして軽く受け流し、また昨今の勝利に拘らない各種アニメの情勢からしても、競争のモチーフが特に根本的な意味をもつものとは思えなかったのである。

 

 それに、①「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのはさすがに言い過ぎである。ここで氏は、あるキャラクターが物語の決定権をにぎっていないということと、その人物が一個の人物としてしっかりと描写されていないということを同一視している。この視点だけとると、物語においてどうでもいいように思われる余白の部分にも書き記された各キャラクターの呼吸や息遣いを見逃してしまう。氏は、十分に人間性を描写されていない浅薄なキャラクターを、萌えやカップリングという観点だけで安易に消費していると、多くのファンに批判的な眼差しを向けているが、ファンが感じ取っていたのは実はそうした呼吸であり、そこから個性を見出し、多様なイメージへと膨らませている。こうした想像力は単にプロットだけに目を向けているだけでは培うことができず、それがない貧困な想像力では単なる薄っぺらいキャラ付けに見えてしまうのだ。

 

 ②についても個別に検討しよう。確かにμ'sと他のスクールアイドルとの競争はほとんど描かれることがなく、A-RISEにも最終回以前にあっさりと勝ってしまった。この時点で物語の主題のひとつが失われてしまったことは事実だ。しかしその直後の2-11においてこの物語の本当の主題が姿を現わすわけである。

大会が終わったら、μ'sはおしまいにします。

 この瞬間『ラブライブ!』という作品の本当に表現したかったことが私の心に流れ込んできたような気がした。つまり、青春のわずかな期間に出会えた仲間達の奇跡と、限られた時間の中で最高の輝きを残し、そしてμ'sという名前を永遠の思い出にしよう、という滅びの美学である。ただ、この主題は唐突に現れたわけではなく、これまでの物語の中でも複数のメンバーの口から断片的に語られてきたものだった。思えば1-6での「みんながセンター」という穂乃果の発言や、希のこの9人が起こしたμ'sという奇跡を尊ぶ思想は、メンバーの脱退とともにグループは解散することを暗示していた。この見解と相反する「メンバーの卒業や脱退があっても、名前は変えずに続けていく。それがアイドルよ」というアイドル観をもつ矢澤でさえ、2-9では「みんながセンター」という見解に同意している。オープニングでも「次は絶対ゆずれないよ 残された時間を握りしめて」と歌っていたではないか。何より、私はあの夕日を忘れることはできない。1-10では皆で水平線より昇る朝日をみた。それは9人が揃ったμ'sの本当の始まりを象徴していたが、それに見事に呼応した2-11の海の彼方に沈む夕日は、μ'sの終わりを厳かに告げるものであった。

 もちろん本当の主題が存在することを根拠にして、2期前半で主張されていた「大会の優勝」という主題が十分に展開されていないことを正当化することはできない。しかし、逆に「大会の優勝」という主題ばかりに気を取られ、本当の主題に目を向けないということもまた誤りなのだ。実際、この「本当の主題」という観点はアニメ『ラブライブ!』という作品を読み解くうえで非常に重要なのである。というのも実は1期と2期とでこの作品は同じ構造をしているからだ。1期の「廃校から学校を救うこと」や2期の「大会優勝」は名目上の主題にすぎず、本当は「目標を失ったμまずは名目上の主題で物語をすすめつつ、その裏で本当の主題への布石を貼り、最終局面である1-12と2-11でようやくその本当の主題の全貌を露わにさせるという分かりにくい構造が、1期2期ともに存在しているのである。2期が筋の通ったストーリーをなしていない印象を与えるのは、こうした構造に目を向けていないためと考えられる。「本当の主題」に着目しないとこの作品に対して正当な評価を下すことはできなくなってしまう。そして「本当の主題」に触れた人々にとっては、「大会の優勝」という仮の主題が軽く扱われていたとしても特に致命的な瑕疵(かし)であるとは思わないのである。

 

③もっとも、1期とは異なり2期では、劇場版へ橋渡しする都合上から「μ'sの解散」が最終話のラストで反故にされてしまう。これは「真の主題」が琴線に触れた人々にとっては、物語が台無しになるという極めて致命的な問題に見えるが、実はそうではない。劇場版においてこの主題が解決されることは予想できるし、あくまで期限付きで先延ばしになったにすぎない。ただし、リアルタイムで放映版を見終えた直後の我々はあと1年を待たなければならず、大変もどかしい思いをした。結末が不明な以上、人々は判断を保留するか、あるいは延命措置そのものを根拠にクソアニメ認定するしか道はなかった。

 ひとつ擁護をさせてもらうと、製作陣としてもこの結末は不本意であったように思える。劇場版パンフレットにおける京極尚彦と花田十輝のコメントによると、劇場版の制作が決定したのは2期制作進行の途中であり、劇場版を意識したら進行に障害が生じると判断し2期で完結させることにしたらしい。そのため劇場版への橋渡しのシーンが不自然極まりなくみえてしまうのもやむを得ないという事情があるのだ。それにしてももっと上手く処置をとれなかったのかとは思うが……。私としてもこの点に関しては同情と非難を同時に抱えている。

 

小まとめ

 以上3点を吟味してみたが、③に関しては物語を2期でのみ完結させていないという問題点はあるものの、少なくとも物語の真の主題を必ずしも損なうものではないことは注意しておきたい。そして①②はどちらも大きな問題ではない。もちろんおりあそ氏の主張には一定の正当性が認められ、このため私は1年間頭を悩ましたものである。穂乃果中心で話を閉じるワンパターンや物語から競争が排除されている点は、批判を脚本家の側に建設的に還元するためにも指摘して然るべきである。だがこれらの点が作品を決定的に台無しにするかと言うとそうではない。既に示したように、これらの点は別に物語の真の主題やキャラクターの描写の豊かさに水を差すようなものではないのだから、軽く放っておけばよいのだ。これは開き直りではない。物語を見る上で必要なところに適切に目を向けどうでもいいところは無視することを奨励しているだけだ。

 かつておりあそ氏の指摘を受けたから言うのだが、一度批判を受け入れてしまうとその批判された点の別の側面がみえてこなくなるようなところが人間の性としてあるようだ。現に氏の記事をみて(そこでも取り上げられていた)①の論点に納得してしまっている人がいるようだが、おりあそ氏のものの見方は以上の私の指摘からわかるようにやや一面的であり、物語の余白に対する想像力を欠いたものであるのだから、氏の批判をそのまま受け入れてしまうと『ラブライブ!』という作品に対して狭いものの見方しかできなくなってしまう。作品を鑑賞するうえで大切なのは(こんなことをいうと自分にも跳ね返ってくるのだが)他人の言うことをそのまま鵜呑みにせず、自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。自分の直感を信じて『ラブライブ!』を鑑賞してほしい。

 個人的には2期にはたいへんな感動を覚えた。突っ込みどころや最終話の延命措置はあるものの、彼女たちの息遣い、μ'sに対する各メンバーの想い、そしてそれらから導き出される解散にかかわる滅びの美学に心を奪われたものであった。そしてその感動は正しかったことがこうして記事にしてみることで自分の中でも納得できた。

 

[以下、劇場版ネタバレ注意]

 そして劇場版の内容を踏まえてこれらの問題点にさらに吟味すると、驚くことに、脚本家がこれら3つの問題点を意識しているようにみえる。

 ③については明らかにファンの期待を最終回で裏切ってしまったことに対する反省の念が伺える。グループ内の決断でしかなかった「μ'sの解散」という主題を掘り下げ、ファンや他のアイドルたち、第三回ラブライブとの連関のなかで、このまま以前の決断と同じく解散を実行するか、それともファンのためにμ’sを続けていくことを決意するか、穂乃果たちは悩むわけである。このように非常に丁寧な解散の主題の描写は、ファンの期待を裏切ってしまった償いとして真摯な態度に私には思えた。

 それに、おりあそ氏は劇場版においても①の問題点が見られるとなぜか主張しているのだが、①に関してもちゃんと反省が見られる。たとえば、NYの夜景を前にしてμ's全員が集合するシーンがあり、ここには「この街ってアキバに似ているんだよ」という発言がある。この台詞は、ニューヨークを自らのホームグラウンドとなぞらえることで、異国にありながらもμ'sに自分たちらしさを再確認させるという物語上重要なはたらきをしていた。この役割を考えるとこれはいかにも穂乃果の言いそうな台詞だと思われるだろうが、この発言の発話者はなのである。穂乃果ではなく凛をNYにもっとも馴染ませこの台詞に結びつけたことは、2期でのワンパターンの反省のあらわれだと考えられる。また、先取りになってしまうので詳しくは述べないが、全国のスクールアイドルを招いた大ライブを穂乃果が提案するという点は、別に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」というような問題を抱えているわけではないと考えられる。

 さらに私たちは②で、二期では名目上の「ラブライブ優勝」という主題が十分展開されなかったことをみとめた。たしかに、μ’sと競い合うはずのA-RISEや他のスクールアイドルはほとんど描写されず、物語上で重要な役割を与えられなかった。しかし劇場版ではこの点を補うように、競争こそないものの、スクールアイドル皆でライブをするという大胆な方向に物語が展開した。A-RISEに関しては、卒業後もアイドルを続ける存在としてμ'sと対比され、μ'sの今後に示唆を与えるという物語にとって重要な存在として改めて描き出されたのである。

 

 このように劇場版は2期の問題点を克服したとても真摯な内容になっていると私は考えている。だがどういうわけか劇場版は、おりあそ氏の目には「唐突」、「どのような物語性もない」と映ってしまうようである。次回は後半に移り、氏の劇場版に対する批判を取り上げていきたい。

 

実存主義とは何か : 実存主義はヒューマニズムである / サルトル著 ; 伊吹武彦訳(1955)

 映画『アデル、ブルーは熱い色』にこの著作に言及する箇所が出てきたので、興味をもっていたのだが、昨日たまたまブックオフに置いてあったので早速買って読んでみた。「実存主義の入門書」として分かりやすいと評判のようで期待して読んでいたのだが…クソ本だった。ざっとまとめるけど、深夜なので適当に書いて寝る。

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

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アデル、ブルーは熱い色 スペシャル・エディション [Blu-ray]

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①スコラ的
 実存が本質に先立つ場合、われわれの行為選択は責任を、それも全人類の責任を負うているとサルトルはいう。なぜわれわれはそんな重い責任を負うことになるのか。
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万民にとって善でない、ということはありえないのである」(p.20)。つまり人間の決断は常に善を目指すのであり、その善は全人類と共通のものであるから、個人の行為は全人類の善を代表したものだというのである。そんなわけないだろと反論したくなる。第一「善」とは一体なんなのか、道徳哲学の中心問題のひとつだが、この公演において他に善について触れられているところは他にない。サルトルの「人間は自由の刑に処されている」という重大テーゼの根拠ともいえるかなり重要な部分なだけに、ここだけ妙にスコラ的になってしまっているのがいただけない。

②コギト中心主義(50p)

 この講演でサルトルはやたらとデカルト主義者である。もの(対自存在)の蓋然性に対して人間主体(即自存在)の確実性を保証するためにデカルトのコギト説を採用する。これによって絶対的真理の存在や人間の尊厳の擁護が可能となる。しかし主体性に対する批判はフーコースピヴァクといったポストモダンの論客によって、それもサルトルも重視している現実世界の経験に基づいて何度も行われている。第一20世紀にもなってコギトを堂々と持ち出すのはさすがにどうかと思う。

アンガージュマンの条件
 人間は無動機状態のように自分の状況を知らないわけではなく、「組織化された状況のなかにあり、彼自身そのなかにアンガジェされ、自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする。しかも選ぶことを避けられない」(p.58)とサルトルはいう。これだとアンガジェするためには自分の状況をちゃんと知っていなければならない。将来のことはまるで想像がつかないといわれるが、キュウベエの契約のように将来確実に不幸を招く選択肢に対しろくな情報も与えられずにアンガジェするということも普通に行われていることだ。これは果たして適切なアンガージュマンといえるのか。

 自分では批判を書いていてなかなか要領を得ないと感じていた。形式的には割と整っているので突っ込んでも簡単に批判が返ってきそうなのだが、釈然としない。それに本書で示されているような道徳理論に従って生活することで何か得るところがあるのか、はなはだ疑わしい。別に入門書として読むには構わないのだ。ただ、これだけ読んで『存在と無』の厳密な議論にろくに触れることなく学生運動に身を投じていった学生のことを思うと、なかなか罪深い部分がある。

A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons

 駒場図書館が分厚い図書を要望に応えてわざわざ入れてくれたので、その中の論文を一つ読んでまとめることにする。European Philosophy of Science – Philosophy of Science in Europe and the Viennese Heritage, ed. by Maria Carla Galavotti, Elisabeth Nemeth, Friedrich Stadler, Dordrecht: Springer (2014) 収録の、“A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons” by Christina Chimisso である。 European Philosophy of Science には他にも論理実証主義の勃興についての論文など科学哲学に関する興味深い論文が多数収録されているが、関心にそってひとまずこれをレビューする。興味がある人は借りて読んでほしい。何しろ200ドルもするので読まなきゃもったいない。
 
 哲学者たちは物理学ほどは化学に対して注意を払ってこなかった。しかし20世紀前半のフランスでは、カント的な意味での実体の問題をめぐって論争が交わされたのである。筆者は特にガストン・バシュラールの化学哲学を本稿で紹介し、以下の問いを発する:化学や化学史だけがバシュラールを、分析/総合の概念や実体の概念、科学的対象の概念に対する独自のものの見方や知識論へと導いていったのか?そこで筆者はバシュラール哲学において「化学」や「化学史」とは何かを内省し、科学者や哲学者らの論点の違いを浮き彫りにし、バシュラール独自の哲学的対象の構造へ寄与する哲学的思想の輪郭を簡潔に描く。
 
 「分析」と「総合」の化学上の概念に対するバシュラールの考えは、要は「分析より総合の方が偉い」ということである。「困難は分割せよ」というデカルトの標語以来、化学では物質を要素へと分析することで全体が理解でき真理に近づけると考えられてきた。バシュラールはこれに異議を申し立てる。例えばナトリウムの金属としての性質や塩素の有毒な性質を理解したところで、そこから合成産物の食塩の性質を理解することは難しいだろう。分析は化学の必要条件だが、知識を得る手順の1段階でしかないのである。化学において分析はむしろ、新たな物質を化学合成することを目的としているのである。複雑な物質を単純な要素へ分けるよりも、新たな物質を合成する方が、得るものは大きいのである。
 
 次に科学的対象の概念について。バシュラールの考えでは、単なる経験的対象と科学的対象はまるきり異なる。目の前の対象の素朴な実在を疑わず理論を打ち立てようとすると、認識論的障害、つまり物事の原因をとらえようとして精神を電波な夢想やイマージュに入り浸らせてしまうような傾向に陥ってしまう。バシュラールによると科学史はこうした障害を乗り越える歴史である。つまり、人間精神に伴う自然な傾向を理性によって取り除き続けるのである。こういうわけでバシュラールの認識論は歴史的でしかありえず、認識論が扱う科学に不動の状態はありえないのである。
 
 そして実体概念について。バシュラールによると、アリストテレス以降哲学においてその実在が疑われることはなかった実体(現象の背後に存在する不動の主語)は、化学史の展開に伴って否定されるのだ。初期の化学者たちはみな実体論者であったとバシュラールはいう。「実在論は唯一の生得の哲学である」と、バシュラールは人間には自然な実在論的傾向があり、実在の背後にある実体を想定してしまうと考えたのだ。しかしバシュラールの主張では物質は固定されたものではなくてプロセスである。「存在は単調関数ではない」、つまり、不動の実体が存在して、複数の変数によってその状態が定まるような代物ではないのだ。それは物質に対するエネルギーと時間の関係をみることで立証される。エネルギーはバシュラールにとって実体の統合された一部であり、後者は前者とおなじくらい実在的である。エネルギー交換は物質の変化を決定し、物質の変化はエネルギー交換を生む。これらの過程は時間的で、バシュラールにとって時間はエネルギーを介して物質に刻み込まれるのである。筆者はここで、実体概念の変化は化学だけでなく哲学にも適用されるという。(まとめに続く…)

「羆嵐」吉村昭(1977)

 吉村昭の1977年の中編「羆嵐」は、1915年に発生した日本最大の獣害事件として名高い三毛別羆事件を題材にした小説である。今期「ユリ熊嵐」という明らかにこの小説を意識したアニメをやっているので、それに関連して読んでみた。

 

羆嵐 (新潮文庫)

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ユリ熊嵐 (1) (バーズコミックス)

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 あらすじは明快。北海道の開拓村を突然一頭の巨大な羆(ひぐま)が襲い、わずか二日間の間に6名もの村民が犠牲となった。羆を退治しようと村民や警察たちは奮闘するものの、移住してきたばかりの村民と官僚主義的な警察には対処する術がなく、熊の恐怖に怯えるしかなかった。村民と警察を尻目に、一人のマタギが孤独に熊と対決する…。
 要は人が熊を退治する話なのだが、人と動物の戦いというテーマは珍しいだろう。小説というものは主に人間の心理を描くものなので、動物を主題に描くということは少ないと思われる。もっとも本作でも実は熊そのものが登場するシーンはさほど多くなく、ラストの熊を斃すシーンに至っては、熊が姿を現してから射殺されるまで、わずか4ページ(文庫本で)しか登場しない。それにもかかわらず襲撃され破壊された家屋の様子や、殺害された人々の生々しい遺体、人肉や髪の入り混じった排泄物など、熊の存在は寒村に根深い痕跡を残し、村民だけでなく読者にも恐怖を与える。人に害なす獣、ひいては自然の恐ろしさを見事に描いているといえる。
 ただここで注目したいのは人間の様相である。動物の話ではあるものの同時に人間をも描いてた小説でもあるのだ(そこに着目するのは野暮だろうか)。つまり、集団と個人の対立である。
 熊を斃すために六線沢の区長は最初に隣村の猟師たちや警察に助けを求めるのだが、最初彼らがとっていた村民に対する傲然な態度とは裏腹に、いざ出向いてみると熊の恐ろしさにすっかり怯んでしまいまるで役に立たない。主に指揮を取ろうとする警察という近代的な組織にとって、熊退治にあたっては大勢で出向いた方がより成功する確率が高くなるはずなのだろうが、マタギの銀四郎にいわせれば、熊は賢い動物なのだから大勢の人間にはすぐ気付いて逃げる。警察という人間相手に権威を振るう組織でも、熊という超越的自然に対しては何の役にも立たないのである。また六線沢の村民が警察の意思に反して囮のため遺体を放置したり銀四郎を呼びにやったりしたとき、分署長が怒る描写がある。組織は規律を遵守するからである。しかし規律は自然との戦いには何の役にもたっておらず、むしろこの場合障害となっている。
 他方で山岡銀四郎は100頭もの熊を撃ち殺してきた実績がある老練の猟師であるものの、素行が良くなく、普段は酒を飲んでは暴れて周囲に迷惑をかける嫌われ者である。そのため六線沢の者達も最初銀四郎を呼ぶことを躊躇い、呼んだらかえって自分たちの結束を乱すのではないのかと思案する。しかし警察の無力が明らかになったあとで初めて現れた彼は、噂とはまるで 別人の、危機的状況にあっても冷静で落ち着いた、大人しい人物であった。一応噂は本当で仕留めた後に住民に狼藉を働き報酬をせびるのだが、熊退治という本業にあっては誰よりもその場に相応しい態度を示すのである。熊に関する豊富な経験知をもち自然の中で生きるうえでの仕来りを知る。何より熊の恐怖に耐える精神力を培っている。それでも恐怖を感じないわけではなく、今まで仕留めたことのないほどの巨大熊を相手にして、仕留めた後も死者のように顔の血の気を失っている。熊を仕留める彼の姿を見ていた区長は、銀四郎が死の恐怖を紛らし、自分が熊にとって無力な存在であることの悲哀を癒すために酒を飲んで荒れるのだと悟る。マタギという生業を営むうえで必然的に抱え込むことになる悲哀は、他者への狼藉という形でしか癒せず、それは共同体にとっては害でしかない。それでも今回の熊事件のように銀四郎のような人間が必要とされる時がくるが、ただ通常時の村落にとっては厄介者でしかない。軍隊、警察という規律を重んじる組織にとっては尚更厄介であり、素行の悪さのため兵役からはすぐ除隊されており、騒動でも警察の意思とは別の行動をとっている。銀四郎が生きているのは近代の人間的な規律とは程遠い世界であり、共同体の論理は通用しないのである。
 熊退治に関して面白いのは、銀四郎が仕留めた人食い熊の肉を村民皆で食べることを「仕来り」として諭すところである。村民たちは隣人や家族を食べ消化した熊など食べる気にはなれなかったが、銀四郎いわくそれが仏への供養となるのだ。この仕来りはどこの地でも行われている習慣にすぎないのだが、入植者の集まりである三毛別の者たちには知られていなかった。結局鍋にして皆で食べることになる(肉はかたく、うまくはないらしい)。この場面での銀四郎は、単なる人の集まりや近代的な組織を超えた、自然に隷属するより巨大な共同体の「仕来り」に従っているといえる。この仕来りは、超越的な自然とともに生きる人々の間でいつしか生じたものであろう。銀四郎はここで村民に自然とともに生きるうえでの仕来りを教え諭す。職業柄抱え込むことになる感情と超越的な自然という共同幻想とともに、銀四郎は生きている。それは単なる人の集まりとしての、もしくは近代的な組織としての共同体のあり方においては忘れ去られるものなのだろうか。
 
追記:ユリ熊嵐との関連について。幾原監督いわく、あまり意識していないらしい。マタギについては誰も詳しくないから少し調べましたという程度で扱うのは良くないという判断だという(『ユリ熊嵐公式スターティングガイド』, 2015)。しかし今回考察したような羆嵐の「集団と個人」というモチーフは、ユリ熊嵐の「集団と真の友愛」というモチーフとどこか通じるところがあるかもしれない。「透明な嵐」という集団構造のなかで集団に馴染まず親友(恋人?)と対幻想に浸る者は悪として排除される。個人(自己幻想)と対幻想をパラレルに語るのは難しいだろうが、集団に混じり得ない人間の生き方という点で共通項を見出してみるのも良いかもしれない。
 

 

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド

 

 

 
 
 

ストロベリーパニック 総括

アニメ「ストロベリーパニック」全話をみた。百合アニメ界でもマリみてのスール的世界観に直接的な性描写を導入して表現をより幅広くすることに一役買ったと思われるが、同時に変な笑いの出るアニメで、突っ込みどころや惜しいところがあまりにも多すぎるので、総括する必要を感じた。なおラスト3話より前は数ヶ月前にみたので記憶が曖昧であまり多くは語れない。ただラスト3話があまりにもアレなので、それだけでも十分な気もする。
 
はじめに
・原作は読者を「兄」として語りかける文体になっていることからも、男性読者を想定していることは明白。
・別に男性視聴者のサービスとしてのレズセックスを描いた作品ではないと感じた。
 ・シーンは三種類。要と桃実(なんども出てくる。軽薄にみえるが、実は要の本心は別の女に向いていたこととのコントラスト)、静馬と花織(想い出)、天音と光莉。どれも意味がある。
 
よいとこ
・演劇。主役を巡る政治的駆け引き、千華留様を主役にもってくることのうまさ。なんだかんだ渚砂が途中代役になるが、(ニセコイのそれと比べれば)嫌な感じはしなかった。
・要の本心。なぜか光莉を狙ったり意味不明な口説き文句を放ったり演劇に茶々いれたりと奇行が目立ったが、23話でかなり納得がいった。口下手な二人が本心をぶつけ合うためのテニスコートという舞台。ライバルとの戦いをきっかけにエトワール選出馬を決めたというのもまた熱く、桃実のレズビンタもまた切ない。それだけに直後なんでああなってしまったのかが本当に悔やまれる。
・音楽が美しい。
・一期EDは伝説。
 
なにがよくないのか
・まず作画が全体的によくない。世界観の美しさを売りとする百合モノにとっては致命的なんじゃ。作画監督複数の回多すぎ。
・飛躍が多い。
・SEがださい。
・序盤で静馬が行事に参加してないの本当謎だったな…なにか訳ありなんだろうなと思ったら本当になにもなかったとか、静馬様の魅力ガタ落ちじゃ(静馬様の印象が悪くなるのはこれだけにとどまらない)
・静馬と花織の顛末がなあ…病人ととも選挙に出るのは流石に色事を政治に持ち込んでいるとしかいいようがなく評価できん。
・ラスト3話。記憶喪失はもう殆ど禁じ手でしょう。これを2話連続で引っ張るのも辛い。
 ・厩に泊まるのはいいけど、せめて連絡して差し上げろと…みんな心配してるというのに
・最終話。いきなり式場に乗り込んできて渚砂ちゃんを連れて逃げ出す。静馬様の暴走としか…いや、渚砂ちゃん本当にこれでいいの?的な仕込みはちゃんとあったけれど、もう1クッション欲しかった。
 ・玉青ちゃん可哀想とはよくいわれる。確かに別に悪い子じゃないし、「結婚式の最中に別の男に花嫁を奪われる当て馬」の役割はあまりにも不憫かな。
 
その他
・エトワール制が意味不明。色事を政治に持ち込むのに非常に違和感があるのだがそんなものなのだろうか。要はレズカップルが選ばれるのか…そういえば作中のエトワールになった先代と新しいカップル、どっちも直前にレズセックスしてたな…
 
結論
・「どのカップルがエトワールになるか」「誰が劇の主役になるか」を巡って行われる政治的駆け引きがなんだかんだで魅力的だった。
 ・それが、最終話で学校の伝統が…とか仕来りが…とかいってられなくなるほどぶっ飛んだことになってしまった。
・考えてみたらこの作品を一番引っ掻き回したの、要と桃実じゃなくて静馬様だったんじゃ…
 ・ピアノもフランス語もできて、一緒に踊るとすごく美しい。情の出しどころを間違えたんだ…
・スール的世界観にセックスを再定着させるという点においてはなんだかんだで意義はある。エロいけど別に欲望を掻き立てるというよりは精神的つながりを示すまたは離れていることを示すものとして表現されている。同時期に少女セクトも刊行されたことも興味深い。
・余談だが、いちご舎の三角形状がユリ熊嵐の校舎の形状と似ていることに関心がある。
 

ベンヤミンの《救済》の概念-「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」

 卒論書くにあたって、昔手掛けたなかでもっとも長いレポート(5000字くらい)を振り返って自分を見つめ直す。われながら良い出来だと思うので掲載することにする。結論はともかく、導入がかなりよい。批判論でたった一回しか登場しない概念を別のテクストと照らし合わせることでその意義を誇示してみせる離れ業である。締め切りギリギリで研究室泊まり込みで書いていたのが懐かしい。13年夏:高橋哲哉「『暴力批判論』を読む」の単位修得にあたって提出した、ヴァルター・ベンヤミンの2冊の著作「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」に登場する一概念を検討するものである。
 
《救済》の概念
 本稿では本講義()で精読したヴァルター・ベンヤミンの論文『暴力批判論』における「神的暴力」の意味を、彼の本来の仕事である批評において重要な概念である「解放・救済(Erlösung; 以下《救済》と表記することにする)」を用いて明らかにしていくことを試みる。この論考において《救済》の用語が登場するのはただ1回だけ(『暴力批判論』, 241)だが、それはベンヤミンの歴史哲学において意識されていた問題であり、彼の主たる活動である文芸批評でも重要な位置を占めていた。この言葉を理解することは、この論文においても難解な概念であった神的暴力を理解するうえでも大切であるように思える。本稿では『暴力批判論』の他に、彼が唯一批評の対象を一作品に限って徹底的に論じたとされる批評『ゲーテの「親和力」(以下、「親和力論」とする)』を主に解釈し参照する。
 

 ベンヤミンは『学生の生活』において「危機(Krisis)と批判(Kritik)にみちた精神生活をおくることは学生の義務(村上, 1990 を参照)」であると述べている。そしてこの問題意識は文芸批評(Kritik)にも持ち越されることになる。一般に、批評・批判=Kritik の語源である古代ギリシャ語の krisis は、「判決・決定」の意味をもっており、またそこから派生した別の語が 'Krise=危機' であったことも考慮すると、批評・批判の本来の意味は、歴史の危機における判決を下すことであると考えることができる。さらに krisis の判決の意味がユダヤ的な意味を帯びると、「神の審判(歴史の終末における神の救済)」を意味するようになった。ユダヤの聖職者は聖書で語られる「生命の書」に書かれている救済されるべき者の名前を明らかにするのである。ユダヤ思想を色濃く受け継いだベンヤミンの批評もそのような性格をもっており、つまり作品の《救済》を行う。どういうことかというと、初期ロマン主義批評の方法論にならい、作品の善し悪しを判断するのではなく、作品の秘密として込められた真理内実を反省を繰り返し解釈することにより見つけ出す。つまり書かれてある事象内実(テクストに書かれてある事実の総体)から、真理内実(テクストに秘められた真理)を明らかにするのであるが、その真理こそ、救済を待つ憐れな人間の名前なのである。

 このように、彼の批評において《救済》の概念は重要な位置を占める。もっとも、ここで示された意味での《救済》はテクストの解釈の方法であり、暴力・法・正義の関係の叙述を目的とした『暴力批判論』とは無関係に思えるが、この《救済》という言葉は、先に述べた通りただ1回だけしかこの論文に登場しないものの、しかし「神的暴力」の性格を形作っている可能性を示しているのである。

「…一切の暴力を完全にかつ原理的に排除してしまったのでは、…これまでのすべての世界史的な地上的存在状況の勢力圏からの解放[救済](Erlösung)を思い浮かべることは、あくまで不可能であるから、あらゆる法理論が注視する種類のものとは異なる種類の暴力(論者註. 神的暴力のこと)についての問いが、有無を言わせず迫ってくる。(『暴力批判論』, 261,2)」つまり、人類の世界史的歴史的現状からの《救済》という、法哲学の大問題の解決のためには、それまでの法的性格を孕んだ神話的暴力でなく、神的暴力が必要とされる、言い換えると、神的暴力は《救済》なのである。しかし、《救済》の概念はこの論考では1度しか触れられていないうえ、神的暴力の定義も周知の通り謎めいた調子を帯びている。

 
 この他にも『親和力論』は『暴力批判論』は互いに共通するモティーフを用いて論証を展開している。例えば、このロマーンの登場人物たちの破滅の運命をベンヤミンは法がもたらす「神話的な暴力」によるものとする(ibid, 51)。いうなれば哲学理論の批評における実践版である。ところでベンヤミンはこの作品形式のロマーン(長編小説)と対比される、第二部第十章に挿入された『奇妙な隣同士の子供たち』というタイトルのノヴェレ(短編小説)を引き合いに出す。ロマーンの登場人物たちが闘争に身を任せることはなく、それにもかかわらず自然の強大な力により自ら犠牲を供することになるのとは対照的に、ノヴェレの登場人物たちは激しい行動をとり、強い決断力によって神と対峙し、犠牲を供することなく神と真に和解する。この場合、「ロマーンのもろもろの神話的モティーフには、ノヴェレのそれが《救済》的モティーフとして照応しているのだ(ibid, 127)。」よって、ベンヤミンにおける救済がユダヤ的なものを暗示させるとすれば、この場合の「救済」は、暴力批判論における「神的」と類縁関係をもっているとみなせるのである。執筆背景としても、両者の著作の成立時期はだいたい同じで、1920年代の前半であり、用語上だけでなく思想上も連関があることは明らかである。4人の男女の不倫の末、人間の自由意志を打ち砕く運命の力により悲劇的な結末を迎えるという救いのない物語に思えるが、『親和力論』では何度も《救済》という言葉を使い、作品の《救済》を図っている。それゆえ、この批評における《救済》の意味を明らかにすることで、先に述べたよりも『暴力批判論』における《救済》の意味を明らかにできるだろうと考えられるのである。以降、 《救済》について触れている箇所に注目して解釈を加えていこう。

 

 『親和力論』訳本の78頁に、《救済》=Erlösung の語が初めて登場するが、それは訳では「解放」となっている。この箇所では、不貞による法違反という神話的罪過が作品において主人公たちの破滅によって贖われているのだというゲーテ本人の言葉を批判し(註1)、『親和力』における法の侵害に起因する破滅は贖罪ではなく、婚姻という雁字搦めの状態からの「解放」に他ならなかったのである。それというのも、ゲーテがいうようには義理と恋情のあいだの戦いは存在していないうえ、結末にて倫理的なものの勝利を祝うわけではないからである。グンドルフのいうように、従来はこの作品の最後はオッティーリエの贖罪による聖化と考えられていた。しかし、それは外在的な道徳に基づく見方であって、事象内実から真理内実に迫るベンヤミンの方法論とは性格を異にする。ベンヤミンゲーテの問題意識に注目し、ゲルヴィーヌスの著におけるシラーのゲーテ宛の手紙から、ゲーテの晩年の生の不安を指摘している。それは沈黙として、彼の内部に閉じ込められる。生の根柢に潜むもろもろの象徴が表れるのは、作品においてなのである。ただし悲劇のように自己の内奥の本質として表現されるのではない。贖罪によって獲得される自由は詩人の生にはどうでもよく、自分の生をも対象とするような《救済》の可能性が問題となるのである。「このゲーテの生にとっても、悲劇の主人公が死において見出す自由ではなく、永遠なる生における《救済》こそが、問題の核心となる(ibid, 96)。」

(註1ベンヤミンが影響を受けた初期ロマン主義批評では、作品解釈による芸術への寄与を主張しているが、ゲーテはこれに批判的で、作品はそれ自体自立して成り立ち、批評は不要であると唱える。しかしベンヤミンはこのゲーテの立場を批判し(ドイツ・ロマン主義, 129; )、彼の作品に批評を加えることを正当化しているのである。もっとも、それはゲーテの作品に込めた生の意識まで否定するものではなく、上述のように生の象徴の現れる、《救済》の場として作品を見ている。)

 ここから分かるように、《救済》は決して贖罪を意味するのではない。不貞を働いたために子供を失いやがて自死に追い込まれるという話の流れからも推測できるように、贖罪は神話的な法秩序が要求する、法維持的な暴力といえるのである。しかし贖罪を退け生を救済するといっても、ベンヤミンは従来のように作品に創作者の生を見出し本質をつかもうとする方法は誤謬であると考える。いわば、作者を神話的英雄とみなし、人類の代理人として神々の前に立ち、人類の解放者=《救済》者といて扱う考え方をベンヤミンは否定する。このような見方の代表ともいえるのが、ゲーテ研究で高名なグンドルフなのであるが、ベンヤミンはグンドルフの試みを断固拒絶することでより「救済をもたらす内実が発している光の核心への洞察」へ導かれると確信する。

 作品に表れる神話的なもの、すなわち、不貞にたいする自然による神話的・法的な力の働きかけと、それに対する人間の無力、宥和と犠牲は、ベンヤミンによれば作品の認識の根柢をなし得ない。神話的な力という、ある意味では外部からの拘束力といえるものから批評を解放し、作品の事象内実から解釈を行い、真理内実へ至ろうとするのである。ではベンヤミンが注目した事象は何かというと、それが、上述したロマーンとノヴェレの関係、神話的なものと《救済》的なものの関係である。前者が犠牲を要求するのとは対照的に、後者では犠牲を供することなく神と真に和解する。

 まとめの部分で彼はオッティーリエの役割をこう結論づけている:ゲーテをこの作品世界に呪縛した(論者註:詩人の言葉を自分に託しているということ)のはまさにオッティーリエという人物、いやその名にほかならず、そしてそれは、ひとりの滅び行く女を真に救い出すため、ひとりの恋人をこの作品世界のなかで《救済》するためだったのだ(ibid, 180)。」エードゥアルトとの不義の愛のため神話的な裁きを受けることになりつつも、ゲーテは救済の可能性を与える。星の表象のもとにかつて彼の目に立ち現れたことのあった「愛し合う者たちのためにゲーテが抱かずにはいられなかった希望」が、批評により再び掘り起こされ、死にゆくものへの《救済》となる。注意したいのは、この希望を与える役割を担うのは、詩人でも作中の登場人物でもなく、他ならぬ語り手すなわち読解者なのである。「希望という感情において出来事の意味を全うすることができるのは語り手だけなのであって…。(ibid, 182)」「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。」
 
 これらのことから『親和力論』において何がいえるか。まず文学および批評の使命を考えると、文学の創作は神の使命ではなく、逆にそれは神の使命からも言葉を自由にするのである。そして批評というものは、作者を英雄や神とみなし彼により作品に与えられた法規範などの外在的な意味を解読していくものではなく、作品の事象内実に基づき真理を明らかにしていく。この過程において事象内実における神話的なものは退けられる。それは、法や道徳という作品を束縛する力、いうなれば「神話的な暴力(ibid, 51)」が本来的な批評を妨げるのを止める。そこから提示される批評は、ノヴェレをきっかけにロマーンを補完する形で《救済》の可能性を提示する。これらのことから、《救済》の二重の意味が考えられる。ベンヤミンはグンドルフを激しく批判し、それまでの神話的な読解を排除することに非常に拘っていた。神話的内実を傍に退け作品の内実からそこに刻まれた「名」を明らかにしていくという批評の方法論そのものが、《救済》の一つと考えられるかもしれない。そしてベンヤミンは実際に「オッティーリエ」という名前を、その神話的な悲劇から《救済》した。それは、死において見出す自由に対抗して、死後における永遠の生を悲劇のヒロインに与えるのである。
 ここで『暴力批判論』に立ち戻ろう。この論考においては神話的暴力と神的暴力が対比されていた。神話的暴力は生を途絶えさせ、罪からでなく法から浄め、たんなる生に対する、暴力それ自体のための血の暴力であり、犠牲を要求する。他方神的暴力は生を滅ぼし、罪を浄める、あらゆる生に対する生ある者のための純粋な暴力であり、そして犠牲を受け入れる。ここで、『親和力論』において神話的なものと《救済》の可能性が対比されており、またユダヤ的文脈における共通性を考えると、やはり神的暴力と《救済》の類縁関係はかなり強いといえる。神話的暴力がそれ自体のための暴力であるのに対して、神的暴力が生あるものの《救済》のための暴力であると考えられる。また批評における《救済》のニュアンスをそのまま適用するとするならば、歴史を生きる我々が蒙る暴力の、ひとつの解釈可能性であると考えられる。それは『暴力批判論』の最後の段落にもあるように人間には不可知である。しかし、弔いという形で実践することはある程度は可能なようにも思える。
 

 

 

引用文献

Benjamin, W. : 浅井健二郎訳, 『暴力批判論』, 『ドイツ悲劇の根源』下巻収録, ちくま学芸文庫, 1999

Benjamin, W. : 久保哲司訳, 浅井健二郎編訳, 『ゲーテの『親和力』』, 『ベンヤミン・コレクション I 近代の意味』収録, ちくま学芸文庫, 1995

参考文献

村上隆夫, 『ベンヤミン 人と思想 88』, 清水書院, 1990
Goethe, J, W. : 望月市恵訳, 『親和力』, 『ゲーテ全集』第七巻収録, 人文書院, 1960
平野篤司, 『批評と救済:ヴァルター・ベンヤミンの『親和力論』』, 人文・自然研究, 7: 299-333, 2013-03-31