アルチュセール. 今村仁司訳『哲学について』(1995)
- 作者: ルイアルチュセール,Louis Althusser,今村仁司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1995/07
- メディア: 単行本
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自分が読んだのは単行本であったが文庫本もある。
ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論②…劇場版、最高の輝き
一週間開いてしまったが、前回の記事の続きを行おう。前回はおりあそ氏の2期への批判を検討することを通じて、彼の主張の問題点を指摘し、我々肯定論者が2期になにを見ていたのかを確認したが、当記事(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) の内容は主に劇場版に対するものであったため批判はあくまで間接的な形に留まった。今回は直接、劇場版ラブライブに対するおりあそ氏の評価を検討し、その問題点、ならびに我々肯定論者がまなざす劇場版ラブライブの真の構造を解明しようと思う。さらにそれに加えて、おりあそ氏の記事そのものの批評方法の問題点にも批判を加えたい。あの記事は佳文なのだがどうも扇情的なところがあり、我々に誤解を与える恐れがある。反論は基本的には相手の主張の内容にのみ触れるだけで十分だと思うが、氏の記事がRTばかりでなくまとめサイトをも経由して大々的に拡散してしまった以上、氏の書き方もきちんと看破してやる必要があると考えたのだ。
例によってまずおりあそ氏の指摘する問題点を簡潔にまとめ、それから検討を行おう。
おりあそ氏の主張
⑴脚本の重大な瑕疵。具体的には、
①「行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである」。前半(海外公演編)と後半(大ライブ編)との関係がまるでない。
②これまで他のスクールアイドルのことをちっとも考えてこなかったのに、「最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない」。
③女性シンガーソングライターや水たまりを飛び越える描写に物語に対する必然性を感じない。
⑵キャラクター描写の問題点。具体的には、
①「穂乃果以外のメンバー8人を脚本のレベルで真剣に描き分ける気がなくなっている」(2期の①穂乃果中心主義と同じ問題点)。
②「各メンバーの薄っぺらいキャラ付け」の強化。
さらに、⑶おりあそ氏の方法に問題が感じられるところをまとめておこう。
①多くのファンは「物語性を軽視」し、「μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけ」という主張。
②現実のアイドルと二次元のアイドルの比較のやり方。
検討
⑴物語論
まずおりあそ氏は脚本に重大な瑕疵があると考えているようだが、正直、氏がなぜあの映画を見て脚本に重大な瑕疵があるという判断を下したのかよく分からないのである。私としては脚本の良さは語るまでもないことだと思うのだが、氏がそう判断しているのであれば、ここはあえて脚本の構造を分析し重大な瑕疵など存在しないということを示すという非常に退屈な作業を行うことになる。つまりまず①海外公演編と大ライブ編との関係を明確化するのである。そうすると自ずと②の問題点を否定することができるようになる。おりあそ氏は劇場版でいきなりスクールアイドルという問題を提示されても唐突だというが、本来そこは前回取り上げたように「1期や2期で十分触れてこなかった『スクールアイドル』という概念の掘り下げを丁寧に行ったのだ」と高く評価すべきところである。この点でおりあそ氏と筆者との間の主張には平行線が見られるのだが、ここは私の主張が正当であることを示すために、なぜスクールアイドルとは何かという問題がここで持ち上がったのか分析しておこう。
③についてであるが、これについては極めて高度な解釈上の問題であり、見る者によって受け取り方は異なるはずであり易々と評価を下すことはできない。ここでは私の解釈を一つ提示するだけに留めたい。
①おりあそ氏は海外公演編と大ライブ編との接続がなっていないという。ひとまず海外公演編と大ライブ編のそれぞれで何が行われてきたか整理しておこう。
μ'sは当初卒業後の解散を決めていたが、第三回ラブライブの宣伝の依頼を受け、海外公演を行うことになる。英語を話す希や意外と馴染んでいる凛、不安を覚える花陽や極端に怯える海未など、異国の地で多様な反応を見せるメンバーに我々は心を踊らせるだろう。公演場所をどこにするか悩むわけだが、夜景を前にして凛は「この街ってアキバに似てるんだよ」という発見をする。「だからどこにいても自分たちらしいライブができそう」だったのであり、何でも受け入れるこの街(実はニューヨークという言葉は一度もでてこない)に自分たちのルーツと同じ香りを見出し、改めて自分たちらしさを確認するわけである。海外公演編はそれまでのμ'sの振り返り(ならびに彼女らに対する新しい発見)という意味があったのだ。
海外公演編で注意してほしいのは、ここで描かれているのはあくまでμ'sのみであるということである。公園で仲良くなった3人の現地人たちや、謎の女性シンガーソングライターとの交流はあるものの、それ以外は海外コーディネーターや現地スタッフといった人々と交流するという描写が描かれることは一切なく、また海外なだけあってμ'sが日本で人気を博した人気スクールアイドルであるということを知る人は誰もおらず、ほとんどが彼女らに無関心なため、海外公演編はひたすら仲間内同士のやりとりが描かれる。彼女たちはアキバと似たこの街で「私たちらしさ」を再確認する。ただそれは、他者との交流を欠き殻にこもった活動であった。そして直接は描かれはしないが、この公演をもってμ'sの活動は終了するはずだった。
しかし帰国後事態は急変する。海外公演成功の知らせが日本中で知れ渡り、μ'sのもとにファンが大量に押し寄せる結果になった。ファンたちは彼女らに活動を続けていくことを望んでいるのである。ここで「μ'sの解散」という主題が再び前景化することになる。つまり、「μ'sの解散」の主題は、2期ですでに「私たちが決めたこと」であったのが、ファンや他のスクールアイドルたちとの交流を経て「私たちでない他の人々との間で決着をつけるべき問題」へと変わったのである。A-RISEはじめとする他のスクールアイドルたちとの関係のなかで、このままやめてもいいのか、それともスクールアイドルの将来のために続けた方がいいのか、とここでμ'sは初めて殻の中から外へと目を向け真剣に悩むことになるのである。
結論としては、彼女たちは結局解散宣言を取り下げることはなかった。ここで登場するのが「スクールアイドル」の概念である。この概念は一般的な「アイドル」とは異なるものであることに注意したい。専属のプロダクションのつくタレントとしてのアイドルとは異なり、スクールアイドルはただの学生である。学校中心で仲間とともに活動を行い、卒業と同時に退部する。青春時代の限られた時間の中で、同じ学校で、9人が集まったことそれ自体が奇跡であると考えるμ'sにとって「スクールアイドルである」ことは極めて強いアイデンティティーであり、このままアイドルとしてやっていくわけにはいかなかったのである。その思想は絢瀬の、そしてそれを引き継いだ穂乃果の台詞に現れる。「私たちはやっぱりスクールアイドルであることに拘りたい。私たちは、スクールアイドルが好き。学校の為に、みんなの為に、同じ学生が、この9人が集まり、競い合って、そして手を取り合っていくスクールアイドルが好き。限られた時間の中で、精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き。」。スクールアイドルであり、時間が限られているからこそ、大ライブとラストライブにおける彼女たちは最高に輝いていた。
こうしてみてみると、物語前半と後半とで「μ'sとしての私たちらしさ」の再確認をそれぞれ別の側面から行っていることがわかるだろう。前半では海外の異質ながらも自分たちの故郷に似た雰囲気を漂わせた都会にて、ローカリティに根ざした自分たちらしさを確認し、後半では真正面から取り組まざるをえなくなった「解散問題」を巡って、「スクールアイドル」という自分たちの本質を再確認する。おりあそ氏は物語性がない(一貫した主題がない)というが、そんなことはなく、劇場版は「μ'sとしての私たちは何か」という問いを一貫して問い詰めていることがわかるであろう。
一貫した主題としての「μ'sとしての私たちらしさ」を支える「スクールアイドル」としての強固なアイデンティティー。それだけでおりあそ氏の指摘する②「なぜスクールアイドルという問題が持ち上がったのか」という問題を説明するには十分だと思う。
③女性シンガーが登場するのは2回、穂乃果が飛びこみを行う描写は3回ある。謎のシーンを4回にわけて整理してみよう。
- 幼少時の水たまりを越える描写
- 異国の街で女性シンガーと出会う
- アキバで女性シンガーと出会い、「飛べるよ」という励ましをうけ夢の中の花畑で飛びこみを行う(このとき、絢瀬の「スクールアイドルへの拘り」を語る台詞とともに場面が展開する)。
- 大ライブに行く道中。夢の中に出てきたのと同じ花びらを見て、女性シンガーの「飛べるよ」という台詞を自分で口にして再び飛びこみを行う。
おりあそ氏は「女性シンガーは結局終盤は登場していない」として非難しているが、注意しなければならないのは上の4. である。女性シンガーそのものは登場しないものの、花畑に舞うていた花びらがひとひら現れ、それを見て、穂乃果は「飛べるよ」と女性シンガーと同じ台詞を発しまた飛びこみを行う。ここに女性シンガーの姿を見ないのは鑑賞的想像力の貧困である。女性シンガーは将来の穂乃果の写し鏡であるという説が最も有力だが、4.のシーンではその姿をまさに今の穂乃果に見るべきではないだろうか。つまり、μ'sの終わりに一歩を踏みだし、ラブライブの将来に向けて前進しようとすると同時に、自分自身の将来に向けても一歩を踏み出す穂乃果の姿である。そうしてみると、飛びこみと女性シンガーのモチーフは一貫して「将来への前進」を描いていることが読み取れるのである。
もちろん、μ's解散以降のメンバーの姿は全く描かれていない。一年組の役職が決められ穂乃果の将来が例のシンガーソングライターによって暗示されてはいるものの、彼女らのその後は何も直接読み取ることはできないのである。だがむしろここに美学がある。物語はμ'sのラストライブをもって絶頂として終わる。「μ'sの終わり」という主題には前記事でも述べた通りの美学があった。μ'sの最後の輝きを描きそれが絶頂となる以上、「μ'sのその後」を直接描くわけにはいかない。それでは彼女らの将来はどうなるのかを、主人公である穂乃果を代表として描き出そうとしているのである。「かつてはみんなと活動していたけど、いろいろあってバラバラになった」という女性シンガーの姿は、まさに解散後のμ'sのメンバーそのものの姿であり、穂乃果の将来の姿であった。
⑵キャラクター論
①については前回ある程度論駁することができた。つまり、「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのは言い過ぎであり、物語のプロットの余白に描かれたキャラクターの呼吸や息遣いに目配りする想像力がないとそのように見えてしまうだけである。
それに加えてもう一つおりあそ氏の指摘する劇場版のシーンを検討しておこう。 穂乃果が全国のスクールアイドルを招いた大ライブを提案するシーンである。まず、おりあそ氏の指摘には事実誤認がある。氏は「『想いはみんな一緒のはず』などというセリフで全員一緒くたにされてしまう」と言っているが、この台詞で問題となっていたのは「μ'sを解散するべきか否か」という問題であるが、穂乃果が言い出すまでもなく各人それぞれが「解散する」という結論にたどり着く(そもそも先に結論にたどり着いたのは穂乃果ではなく三年生全員である)。したがって、おりあそ氏の指摘はここでは当たらない。
強いて言うなら直後の、解散決定により退けざるを得なくなった第三回ラブライブの可能性を、穂乃果が大ライブを提案することで実現させようとする場面であろうか。そこでは全員の合意が見られるが、真姫など大胆な提案に困難を見出す者、花陽のように一大アイドルイベントの開催に興奮を覚えるものなど、反応は全員異なっている。そこには「穂乃果に同調するただのマシーン」の姿は見受けられない。穂乃果は主人公として物語を強力に推進させようとさせているだけである。穂乃果はあくまでリーダーとして、μ'sの発案者として、物語の主人公として、そして「将来別れ別れになるメンバーの代表」として活躍しているだけである。終盤で大ライブの発案を皆に持ちかけ同意を得るものの、それは3年生をはじめとする他のメンバーからの「μ'sはお終いにすべき」という意見を踏まえての、それならスクールアイドルの発展のために何かできないか、という穂乃果の思いが付け加わった大胆な発案だった。穂乃果の発案は内部だけでなく外部からの要請も入り混じって生じた「解散か存続か」の複雑な弁証法や、9人やアライズ、他のスクールアイドルたちファンの感情への考慮経て生み出されたものであり、それを単に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」と言い捨てるのは、物語をきちんと読んでいなかったのではと言わざるを得ない。
そもそも、おりあそ氏の主張には「他者を同調させ従属させる役割としての主人公」と「物語を推進させる役割としての主人公」とが混合してしまっている。後者においては必ずしも他者の安易な同調は必要無い。劇場版におけるおりあそ氏の指摘は、2期に見出した問題点を劇場版にも無理やり繕だそうとするただのレッテル貼りではないのだろうか。
②を論駁するのは非常に難しい。というのも、氏の主張に正当性があるからというのではなく、キャラクターの特徴づけやそれに対する印象を語るとなるとどうしても主観的で恣意的なものにならざるをえないからだ。ここはさしあたり、氏が指摘する花陽と海未の描写をみていこう。
おりあそ氏は花陽のキャラ付けに難色を示しているが、俗な話になるが、例えば以下のサイトをみても、日本人には海外に行くと白米が愛おしくなる傾向というものがあることがわかる。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw23260
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/0208/642440.htm?o=0&p=4
私は何年も白米を食べていなかった日本からの移住者がおにぎりを差し出されて涙しながら食べたという実話を聞いたことがあったので、花陽の白米シックのシーンでは「白米好きの花陽ちゃんだったらこう行動するだろうな」というのが私としてはリアリティをもって読み取ることができた。むしろ白米ネタを持ち出すなら異国の地というのは絶好の舞台である。現実に対する脚色はあるものの、それを「判で押したような浅薄なキャラ付け」ということはできないだろう。むしろフィクションだからこそ三次元でやったら馬鹿らしさを感じるキャラ付けにも魅力を感じるのである。
またツイッター上でおりあそ氏は極端に異国の空気に怯える園田の姿に違和感を表明しているようだが、むしろそれは幼少時から変わらぬ園田海未の本質の発露といってよい。真面目で頼り甲斐のある彼女は元来、新しいことに足を踏み出すのを怖がる臆病な子である。それに対し穂乃果がやや強引ながらも未知の世界に連れて行ってくれることに園田は喜びを感じるのである(1-13、SID海未編第7章)。一度異国に迷う経験をしてから恐怖はますます悪化したが、それだけに穂乃果が街に迷ったときの園田の不安は筆舌に尽くしがたいものがあったと想像できるし、ホテル前で再会したときの叱咤と嗚咽と熱い抱擁から、我々は海未の穂乃果への強い感情が我々に流れ込んでくることを感じるのである。
このようにこの作品は文脈に対する想像力や行動に対する解釈を働かせることで、彼女らの行動に必然性を感じることは幾らでも可能なのである。キャラ付けの采配加減にもよるが、少なくとも人間性を失うまでには至っていないのではないだろうか。
⑶方法論
私がこの論争によって拡散されることを一番恐れているのは、①「多くのファンはラブライブを一方的かつ即物的に消費している」という言説が氏の記事を中心に出回ることである。確かに人気の上昇によってそうしたファンは増加したが、同時にラブライブの物語やキャラクターの呼吸に触発されて正当な感動を覚えたファンも大勢増えたはずである。おりあそ氏の主張はそうした層を無視し、「作品を即物的に消費するだけのファン」と「批判的精神でもって作品を非難する批評家」の図式をでっち上げるものであり、それは読者にそれに従った誤った判断を下してしまう可能性を生じさせてしまう(実際氏の主張に触れて劇場版に対する意見をまるきり変えてしまったという人もいる)。極めて明晰な筆致の持ち主であるにもかかわらず、ソ連の機関紙のごとく敵に不当なレッテルを貼り付ける氏のやり口は非難されて然るべきものである。
また②:現実のアイドルと二次元のアイドルの比較のやり方、に関しても、氏のやり方には問題がある。今回の論争においてはおりあそ氏も私もラブライブのアニメ版を巡って論じているのであって、雑誌やSID、ドラマCDなどの外部に関しては論じていない(インターナルなアプローチ)。ラブライブは多方面のメディアに展開されているためどれが作品の中枢であるかは判然とせず、劇場版に対する評価にしても本当はラブライブのそれまでの積み重ねを反映しなければならないのである(例えば帰国後に突然人気が出たことにメンバー全員が仰天するシーンは、現実の事態をそのまま反映している。このようにアニメ世界に現実世界の出来事を取り込んだように思えるシーンが2期や劇場版で多々散見されるのである)。しかし今回は氏と私ともにあくまで作品内部で語っている。
ところが氏はAKBを論じるにあたってエクスターナルなアプローチをもしているのである。氏は指原莉乃や渡辺麻友を論じるにあたってその人生や信念を総合的に加味して魅力を語っているが、μ'sに関してはそのように語ることはしていない。μ'sはアニメだけではなく、SID、スクフェス、曲、声優ラジオ、ライブなど幅広いメディアで活動しており、我々はそれを加味して劇場版のアイドルをまなざしている。花陽の白米好きにしたって、その子のそれまでの歴史の積み重ねであり、それを見てわれわれは、異国の地で不安を覚えていた花陽に対して「いつもの花陽ちゃんだ」と安心を覚えるのである。氏は雑誌時代の話を持ち出しているが、キャラクター描写の批判から察すると本当にそれを加味しているのか疑わしい。
別にラブライブをアニメ版だけで完結させて語ることは十分可能である。しかし氏の方法には比較の仕方の問題がある。一方はエクスターナルなアプローチを、他方はインターナルなアプローチをとるという不平等な前提には、方法論上問題があるのではないだろうか。われわれが氏の二次元アイドルと三次元アイドルを比較する筆致に違和感を感じるのは、このためである。
まとめ
本記事では⑴脚本の重大な瑕疵などというものは存在しないこと、むしろ一貫した主題のある優れた物語であることを明らかにすることができた。また、印象論的側面が強くなかなか論じることが難しかったものの、⑵キャラクター描写も特に問題視されるところはないと思われる。さらに⑶おりあそ氏の記事における方法論上の問題、つまり極端な図式化と比較の前提の誤りを指摘した。
以上を振り返ってみると、依然としておりあそ氏がなぜこの映画を批判したのかいまだによくわからない。2期に対する批判については私としてもある程度正当なものを感じ、反論を起こすことに苦労だけでなくやり甲斐も感じたのだが、劇場版については私が劇場版をみて感じたことをごく当たり前のものとして示すだけであり、かえって苦痛の方が強くなかなか筆が進まなかった。劇場版に対する美的評価はもはや賛同者と反対者とで通約不可能なものであり、ひょっとしたら論じ合うことは全くの無意味なのかもしれない。
それでも私がこの記事を書いたのは、「アニメラブライブは大衆受けするだけの駄作である」という言説を否定したかったからであり、またおりあそ氏の記事にみられる図式主義的な傾向を告発し、読者が氏の記事に感化されることがないように注意を促したかったからである。『ラブライブ!』は極めて奥行きをもった作品であり、1-8や2-5、大ライブやラストライブなどで最高に輝く少女たちのオーラ、何気ない日常の場面にみられる彼女たちの呼吸を味わうことには審美的価値があると考えられる。それは氏がいうところの「一方的かつ即物的な消費」ではないはずだ。氏の主張や図式に従ってラブライブを解釈してしまっては、作品の可能性をかえって狭めてしまうことになりかねない。繰り返しになるが、作品を鑑賞するうえで大切なのは、他人の評価ではなく自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。
おりあそ氏はラブライブに極端なヒューマニズムを見たのかもしれないが、むしろ我々は美学をまなざすべきなのだ。
ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論①…ラブライブ二期の本当の思想
本記事はおりあそ氏によるラブライブ2期・劇場版に対する批判(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) への反論である。おりあそ氏と私はちょっとした知り合いで、百合好きという点でも作品に対する嗜好という点でも価値観を共有していたのだが、ラブライブ2期や劇場版への評価を巡って1年前から意見を激しく違えることになってしまった。当初は私もおりあそ氏の主張の正当性を認めていたのだが、しかし自分を納得させることができない点も残った。というのは、もし氏の批判が正当なら、アニメに対し批判的精神を働かせることのできる多くの人々が、2期を素直に楽しむことができたというのが不可解なことになってしまうからだ。私とて多少はカップリング萌えの観点から見ていたことは認めるものの、それにより私は自分の批判的精神を蒙昧にさせるようなことはしていなかったと思うし、我々の目が節穴だったということは決してなかったと信じたい。実際、氏のいう問題点を踏まえたうえで2期を再視聴したときも、私が物語から受けた印象はあまり変わらず感動するものがあったし、むしろ新たな発見に心躍った。だが他方で、氏の批判に対して見受けられた「キャラクターや曲を楽しむ作品なんだからラブライブに物語の整合性を求めても無駄」という論弁を放棄し開き直った主張にも私は抗したい。むしろ私を含む多くのラブライバーは2期に確かな物語とそこに表現された感動的な主題を間違いなく直感したのであり、それを論理的に示していく作業が必要だ。多少の問題点は理解できるものの、だからといって「2期は出来の悪いただの娯楽である」という主張にはどうしても合意できない。
本当はラブライブを批評する際の方法論を先に整理してからおりあそ氏の主張へ批判を行おうと考えていたが、現時点で投稿から1日経っていないにもかかわらず氏の記事は大反響を呼び、2000RTを達成するまでになってしまった( https://twitter.com/oriaso/status/613011484893773824 )。私から言わせれば氏のものの見方にはやや一面的なところがあり、想像力が欠如しているのだが、それにもかかわらずこの記事がこれ以上拡散されてしまったら、氏の思想に感化されて『ラブライブ!』という作品に対し間違った判断を下す人が大勢現れかねない。なので先におりあそ氏の主張に直接応答することを決め、氏の主張の批判的な重要性がどのくらいのものなのか、どこがおかしいのか、そして私がラブライブに何を見ていたのかをこの記事で主張したい。
本記事は二部構成で前半と後半に分けられる。前半はラブライブ2期についてのおりあそ氏の批判とそれに対する応答、後半は劇場版に対するそれだ。2期にかんする見解はおりあそ氏の記事には多くないが、ここでは本人から直接聞いた話も参考に氏の見解を再構成するようにしよう。また「二次元アイドルと三次元アイドルを比較して語ることに違和感を覚える」という反論が多数見受けられたが、私は三次元アイドルについてはよく知らないので別の人に任せたい。
また、表記についてであるが、例えば1期の8話は 1-8 という風に簡略化して記すことにする。
おりあそ氏の主張
おりあそ氏が2期に関して主に問題視していたのは、記憶の限りだと以下の3点である。
①穂乃果中心主義とそれによる人間描写の欠如。2-6や2-10後半においては問題解決に関して誰もまともな解答を与えることができず、ラストになって穂乃果の鶴の一声で問題を解決してしまう。このとき8人は穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がってしまい、人間性の描写が失われている。(そしてこの問題点は劇場版にも見受けられる。)
②物語の不在。本作はラブライブ優勝に向けての物語であったのに、最大のライバルであるA-RISEと特に競い合う描写がされることもなくあっさり勝ってしまい、本戦でも他のスクールアイドルとの何かしらの競争が描かれることはなかった。「ラブライブ優勝」という主題が形骸化している。
③最終話のとってつけたような劇場版への橋渡し。2期後半は「μ'sの解散」という主題を掲げたにもかかわらずそれをラストで反故(ほご)にしてしまう。しかもだいぶいい加減である。
検討
それでは順に吟味を加えていこう。まずは①②両方に見られる問題点を、以降は①②③それぞれの問題点を見ていく。
①②の2つの主張は実は私としてもある程度正当であると考えている。2-6は話としても深みがあるようには思えなかったし、2-10後半や2-12の屋上のシーンでも同じパターンを繰り返されるとさすがに食傷気味になってしまう。また仮にも「ラブライブ優勝」という目的を掲げている以上他のアイドルとの競争がまともに描かれないのは、特にA-RISEとの対決を期待していた人たちにとっては幻滅であっただろう。
しかし2期を視聴しているとき私にはこの二つの論点は特に問題にはならなかった。穂乃果中心で話が転がるのは単なる物語の中だるみとして軽く受け流し、また昨今の勝利に拘らない各種アニメの情勢からしても、競争のモチーフが特に根本的な意味をもつものとは思えなかったのである。
それに、①「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのはさすがに言い過ぎである。ここで氏は、あるキャラクターが物語の決定権をにぎっていないということと、その人物が一個の人物としてしっかりと描写されていないということを同一視している。この視点だけとると、物語においてどうでもいいように思われる余白の部分にも書き記された各キャラクターの呼吸や息遣いを見逃してしまう。氏は、十分に人間性を描写されていない浅薄なキャラクターを、萌えやカップリングという観点だけで安易に消費していると、多くのファンに批判的な眼差しを向けているが、ファンが感じ取っていたのは実はそうした呼吸であり、そこから個性を見出し、多様なイメージへと膨らませている。こうした想像力は単にプロットだけに目を向けているだけでは培うことができず、それがない貧困な想像力では単なる薄っぺらいキャラ付けに見えてしまうのだ。
②についても個別に検討しよう。確かにμ'sと他のスクールアイドルとの競争はほとんど描かれることがなく、A-RISEにも最終回以前にあっさりと勝ってしまった。この時点で物語の主題のひとつが失われてしまったことは事実だ。しかしその直後の2-11においてこの物語の本当の主題が姿を現わすわけである。
「大会が終わったら、μ'sはおしまいにします。」
この瞬間『ラブライブ!』という作品の本当に表現したかったことが私の心に流れ込んできたような気がした。つまり、青春のわずかな期間に出会えた仲間達の奇跡と、限られた時間の中で最高の輝きを残し、そしてμ'sという名前を永遠の思い出にしよう、という滅びの美学である。ただ、この主題は唐突に現れたわけではなく、これまでの物語の中でも複数のメンバーの口から断片的に語られてきたものだった。思えば1-6での「みんながセンター」という穂乃果の発言や、希のこの9人が起こしたμ'sという奇跡を尊ぶ思想は、メンバーの脱退とともにグループは解散することを暗示していた。この見解と相反する「メンバーの卒業や脱退があっても、名前は変えずに続けていく。それがアイドルよ」というアイドル観をもつ矢澤でさえ、2-9では「みんながセンター」という見解に同意している。オープニングでも「次は絶対ゆずれないよ 残された時間を握りしめて」と歌っていたではないか。何より、私はあの夕日を忘れることはできない。1-10では皆で水平線より昇る朝日をみた。それは9人が揃ったμ'sの本当の始まりを象徴していたが、それに見事に呼応した2-11の海の彼方に沈む夕日は、μ'sの終わりを厳かに告げるものであった。
もちろん本当の主題が存在することを根拠にして、2期前半で主張されていた「大会の優勝」という主題が十分に展開されていないことを正当化することはできない。しかし、逆に「大会の優勝」という主題ばかりに気を取られ、本当の主題に目を向けないということもまた誤りなのだ。実際、この「本当の主題」という観点はアニメ『ラブライブ!』という作品を読み解くうえで非常に重要なのである。というのも実は1期と2期とでこの作品は同じ構造をしているからだ。1期の「廃校から学校を救うこと」や2期の「大会優勝」は名目上の主題にすぎず、本当は「目標を失ったμまずは名目上の主題で物語をすすめつつ、その裏で本当の主題への布石を貼り、最終局面である1-12と2-11でようやくその本当の主題の全貌を露わにさせるという分かりにくい構造が、1期2期ともに存在しているのである。2期が筋の通ったストーリーをなしていない印象を与えるのは、こうした構造に目を向けていないためと考えられる。「本当の主題」に着目しないとこの作品に対して正当な評価を下すことはできなくなってしまう。そして「本当の主題」に触れた人々にとっては、「大会の優勝」という仮の主題が軽く扱われていたとしても特に致命的な瑕疵(かし)であるとは思わないのである。
③もっとも、1期とは異なり2期では、劇場版へ橋渡しする都合上から「μ'sの解散」が最終話のラストで反故にされてしまう。これは「真の主題」が琴線に触れた人々にとっては、物語が台無しになるという極めて致命的な問題に見えるが、実はそうではない。劇場版においてこの主題が解決されることは予想できるし、あくまで期限付きで先延ばしになったにすぎない。ただし、リアルタイムで放映版を見終えた直後の我々はあと1年を待たなければならず、大変もどかしい思いをした。結末が不明な以上、人々は判断を保留するか、あるいは延命措置そのものを根拠にクソアニメ認定するしか道はなかった。
ひとつ擁護をさせてもらうと、製作陣としてもこの結末は不本意であったように思える。劇場版パンフレットにおける京極尚彦と花田十輝のコメントによると、劇場版の制作が決定したのは2期制作進行の途中であり、劇場版を意識したら進行に障害が生じると判断し2期で完結させることにしたらしい。そのため劇場版への橋渡しのシーンが不自然極まりなくみえてしまうのもやむを得ないという事情があるのだ。それにしてももっと上手く処置をとれなかったのかとは思うが……。私としてもこの点に関しては同情と非難を同時に抱えている。
小まとめ
以上3点を吟味してみたが、③に関しては物語を2期でのみ完結させていないという問題点はあるものの、少なくとも物語の真の主題を必ずしも損なうものではないことは注意しておきたい。そして①②はどちらも大きな問題ではない。もちろんおりあそ氏の主張には一定の正当性が認められ、このため私は1年間頭を悩ましたものである。穂乃果中心で話を閉じるワンパターンや物語から競争が排除されている点は、批判を脚本家の側に建設的に還元するためにも指摘して然るべきである。だがこれらの点が作品を決定的に台無しにするかと言うとそうではない。既に示したように、これらの点は別に物語の真の主題やキャラクターの描写の豊かさに水を差すようなものではないのだから、軽く放っておけばよいのだ。これは開き直りではない。物語を見る上で必要なところに適切に目を向けどうでもいいところは無視することを奨励しているだけだ。
かつておりあそ氏の指摘を受けたから言うのだが、一度批判を受け入れてしまうとその批判された点の別の側面がみえてこなくなるようなところが人間の性としてあるようだ。現に氏の記事をみて(そこでも取り上げられていた)①の論点に納得してしまっている人がいるようだが、おりあそ氏のものの見方は以上の私の指摘からわかるようにやや一面的であり、物語の余白に対する想像力を欠いたものであるのだから、氏の批判をそのまま受け入れてしまうと『ラブライブ!』という作品に対して狭いものの見方しかできなくなってしまう。作品を鑑賞するうえで大切なのは(こんなことをいうと自分にも跳ね返ってくるのだが)他人の言うことをそのまま鵜呑みにせず、自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。自分の直感を信じて『ラブライブ!』を鑑賞してほしい。
個人的には2期にはたいへんな感動を覚えた。突っ込みどころや最終話の延命措置はあるものの、彼女たちの息遣い、μ'sに対する各メンバーの想い、そしてそれらから導き出される解散にかかわる滅びの美学に心を奪われたものであった。そしてその感動は正しかったことがこうして記事にしてみることで自分の中でも納得できた。
[以下、劇場版ネタバレ注意]
そして劇場版の内容を踏まえてこれらの問題点にさらに吟味すると、驚くことに、脚本家がこれら3つの問題点を意識しているようにみえる。
③については明らかにファンの期待を最終回で裏切ってしまったことに対する反省の念が伺える。グループ内の決断でしかなかった「μ'sの解散」という主題を掘り下げ、ファンや他のアイドルたち、第三回ラブライブとの連関のなかで、このまま以前の決断と同じく解散を実行するか、それともファンのためにμ’sを続けていくことを決意するか、穂乃果たちは悩むわけである。このように非常に丁寧な解散の主題の描写は、ファンの期待を裏切ってしまった償いとして真摯な態度に私には思えた。
それに、おりあそ氏は劇場版においても①の問題点が見られるとなぜか主張しているのだが、①に関してもちゃんと反省が見られる。たとえば、NYの夜景を前にしてμ's全員が集合するシーンがあり、ここには「この街ってアキバに似ているんだよ」という発言がある。この台詞は、ニューヨークを自らのホームグラウンドとなぞらえることで、異国にありながらもμ'sに自分たちらしさを再確認させるという物語上重要なはたらきをしていた。この役割を考えるとこれはいかにも穂乃果の言いそうな台詞だと思われるだろうが、この発言の発話者は凛なのである。穂乃果ではなく凛をNYにもっとも馴染ませこの台詞に結びつけたことは、2期でのワンパターンの反省のあらわれだと考えられる。また、先取りになってしまうので詳しくは述べないが、全国のスクールアイドルを招いた大ライブを穂乃果が提案するという点は、別に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」というような問題を抱えているわけではないと考えられる。
さらに私たちは②で、二期では名目上の「ラブライブ優勝」という主題が十分展開されなかったことをみとめた。たしかに、μ’sと競い合うはずのA-RISEや他のスクールアイドルはほとんど描写されず、物語上で重要な役割を与えられなかった。しかし劇場版ではこの点を補うように、競争こそないものの、スクールアイドル皆でライブをするという大胆な方向に物語が展開した。A-RISEに関しては、卒業後もアイドルを続ける存在としてμ'sと対比され、μ'sの今後に示唆を与えるという物語にとって重要な存在として改めて描き出されたのである。
このように劇場版は2期の問題点を克服したとても真摯な内容になっていると私は考えている。だがどういうわけか劇場版は、おりあそ氏の目には「唐突」、「どのような物語性もない」と映ってしまうようである。次回は後半に移り、氏の劇場版に対する批判を取り上げていきたい。
実存主義とは何か : 実存主義はヒューマニズムである / サルトル著 ; 伊吹武彦訳(1955)
映画『アデル、ブルーは熱い色』にこの著作に言及する箇所が出てきたので、興味をもっていたのだが、昨日たまたまブックオフに置いてあったので早速買って読んでみた。「実存主義の入門書」として分かりやすいと評判のようで期待して読んでいたのだが…クソ本だった。ざっとまとめるけど、深夜なので適当に書いて寝る。
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①スコラ的
実存が本質に先立つ場合、われわれの行為選択は責任を、それも全人類の責任を負うているとサルトルはいう。なぜわれわれはそんな重い責任を負うことになるのか。
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万民にとって善でない、ということはありえないのである」(p.20)。つまり人間の決断は常に善を目指すのであり、その善は全人類と共通のものであるから、個人の行為は全人類の善を代表したものだというのである。そんなわけないだろと反論したくなる。第一「善」とは一体なんなのか、道徳哲学の中心問題のひとつだが、この公演において他に善について触れられているところは他にない。サルトルの「人間は自由の刑に処されている」という重大テーゼの根拠ともいえるかなり重要な部分なだけに、ここだけ妙にスコラ的になってしまっているのがいただけない。
②コギト中心主義(50p)
この講演でサルトルはやたらとデカルト主義者である。もの(対自存在)の蓋然性に対して人間主体(即自存在)の確実性を保証するためにデカルトのコギト説を採用する。これによって絶対的真理の存在や人間の尊厳の擁護が可能となる。しかし主体性に対する批判はフーコーやスピヴァクといったポストモダンの論客によって、それもサルトルも重視している現実世界の経験に基づいて何度も行われている。第一20世紀にもなってコギトを堂々と持ち出すのはさすがにどうかと思う。
③アンガージュマンの条件
人間は無動機状態のように自分の状況を知らないわけではなく、「組織化された状況のなかにあり、彼自身そのなかにアンガジェされ、自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする。しかも選ぶことを避けられない」(p.58)とサルトルはいう。これだとアンガジェするためには自分の状況をちゃんと知っていなければならない。将来のことはまるで想像がつかないといわれるが、キュウベエの契約のように将来確実に不幸を招く選択肢に対しろくな情報も与えられずにアンガジェするということも普通に行われていることだ。これは果たして適切なアンガージュマンといえるのか。
自分では批判を書いていてなかなか要領を得ないと感じていた。形式的には割と整っているので突っ込んでも簡単に批判が返ってきそうなのだが、釈然としない。それに本書で示されているような道徳理論に従って生活することで何か得るところがあるのか、はなはだ疑わしい。別に入門書として読むには構わないのだ。ただ、これだけ読んで『存在と無』の厳密な議論にろくに触れることなく学生運動に身を投じていった学生のことを思うと、なかなか罪深い部分がある。
A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons
「羆嵐」吉村昭(1977)