錬金術師の隠れ家

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日本の同性愛ドラマの問題点について

 最近、渋谷区のパートナーシップ制度や東小雪同性結婚が呼び水となり、LGBTブームなるものが到来しているらしい。ビジネスではLGBT産業に金脈が見出され、それを表現するドラマも増えてきた。『偽装の夫婦』ではゲイとレズビアンが登場し、11月からは義理の姉妹の恋愛もの(『トランジット・ガールズ』)をやるらしい。
 しかし、われわれ百合ストはこうした現在進行形のドラマの試みにどうしても不安を抱いてしまい、期待したくても全く期待できないのである。この記事からは不穏な文字が躍っている。すなわち、「"禁断"のガールズラブ」というフレーズである。われわれがこのたったワンフレーズに不安を抱いているといっても、二次元作品における百合やBLを愛好する習慣のない人たちにはまるでピンとこないであろう。そこで、なぜわれわれがこのドラマに期待できないのか、そこからさらに敷衍して、日本の同性愛を扱ったドラマや映画の多くに共通してみられる問題点を、「禁断の愛」という言説と、作り手と受け手の意識の違いから解説しよう。なお、挙げる例がレズビアン映画や百合ものに偏っているが、自分は百合男子でBLにあまり明るくないのでそうなってしまった。同性愛ものを論じるにあたって必要な教養が偏っていることをおわびしたい。
 
 周知の通り日本のドラマは恋愛ものが多く、ほぼ例外なくヘテロ恋愛ものであった。もっとも最近では有名な俳優やアイドルを主役に投入しても視聴率がとれることがなかなかできなくなり、ドラマの方針の改革が必要なのではといたるところで言われている。最近のLGBTブームの追い風もあり、作り手の側も同性愛をテーマに盛り込んだ新規性のある映像作品を作ってみようという風潮が高まっているのだろう。
 
 だが、出来上がった作品はどういうわけか似通った性質を抱いているように私には思えるのである。①物語のカタルシスを得ようと、「禁断の愛」として同性愛を物語の障害とし、クライマックスにそれを克服した究極の愛を屹立させてハッピーエンドとしたり、逆に心中など悲劇的な結末を迎えたりする。それに②現在放映中の「偽装の夫婦」にみられるゲイとレズビアンにもみられる特徴だが、ゲイはオネエっぽい、レズビアンはかつて男に酷い目にあわされたからそういう性指向なのだというステレオタイプも、LGBTを扱った多くの作品で散見される。さらに③製作者たちは同性愛を問題化しようとするあまり、同性愛差別を具体的に扱ったり、またセクシュアリティの揺れ動きを表現するために、あえて男性とのセックスを描こうとしたりする
 
「禁断」という罠
 ①は先ほど問題視した「"禁断"のガールズラブ」に関連することは明らかだろう。「禁断の愛」からわれわれは何を想起するだろうか。ロメオとジュリエットのように両家の争いの中で生じた恋、つまり「家」という規範から外れた恋だとか、ゲルマン民族の少年とユダヤ人の少女の間の「民族」という規範から外れた恋、また近親相姦という文化的規範から外れた恋もあるだろう。つまり「禁断の恋」という概念には必ず「社会一般が常識として抱いている規範」が伴うわけである。そして「規範」か「恋」のどちらかが間違っているという問題提起が行われる。家同士の争いやアーリア人中心主義は間違った規範として批判され、近親相姦は多くのパターンではたいてい駆け落ちか心中、別離という終わり方を迎え、規範そのものに対する批判や修正が施されることなく規範は保存される。
 
 では「同性愛」はどうなのだろうか。多くの作品が「規範」が間違っているとして問題提起を行おうとするのはいいのだが、同時にこの言葉は近親相姦と同じく物語を盛り上げる要素として「同性愛」という「恋」を誤ったものとして「禁断化」しているのである。もし同性愛が自然なことであると認識していれば、同性愛を「禁断の恋」であるとみなすことは行い得ないはずなのである。こうした禁断化はLGBT当事者からしたら、自らのセクシュアリティを誤ったものとしてレッテルを貼られることであり、まぎれもない差別なのである。
 
 平等主義者が本当に実現したいのは「社会の常識から外れた同性愛であっても許容する寛容な社会」ではなくて、「同性愛が恋愛の形式としてごく当たり前に通用し、異性愛と同等の権利を受けている社会」なのである。つまり「あなたたちは同性愛者だけどわれわれ異性愛者は受け入れてやる」という異性愛者による上から目線な社会ではなく、同性愛者がカムアウトすることに障害を感じることがなく、同等な婚姻の権利や制限の撤廃などが実現されている社会を望んでいる。「禁断」を強調することは「異性愛者と同性愛者が対等であるということはありえない」という言説を再生産することであり、望ましいことではない。
 
意識の高い作り手たち
 ②③は一見正反対に見える。前者は同性愛者に対する偏見を助長している点で作品の質を落としめており、後者は同性愛者のリアリティを描くことで作品の質を高めようとする。だが実のところ、①も含めてだが、「受け手が望んでいないことが多い」という点で共通している。もちろん『アデル-ブルーは熱い色』などの同性愛のリアリティを克明に描いた作品は評価されてしかるべきだが、だがステレオタイプでもリアリティでも、それだけでは受け手が他に見たいものを取りこぼしているのである。もちろん「同性愛は普通のことだ」と明確に主張したり、社会問題として問いかけることにもそれなりに意味はあるのだろうが、それにしても日本の三次元映像作品はあまりにも「同性愛」を「社会問題」として捉えるものが多すぎるのではないのか。
 
 参考として日本のボーイズラブガールズラブのアニメや漫画を見て欲しい。もちろん同性愛を社会問題として取り上げる作品もあるが、ヘテロの恋愛ものと同様に描くものも数多く存在する。つまり、同性愛を社会規範との関係のもとで描くのではなく、片思いや三角関係、友情と恋愛の線引きなどヘテロ恋愛ではごく普通に、しかし魅力的に使われるモチーフで純粋な愛情を描く作品である。『桜Trick』の春香と優の恋愛で描かれるのは、「好き」という感情がそもそも何を意味するのか、二人の間で意味が違っているのではないかという、ヘテロ恋愛ものにおいては古典的な問いだ。だがそれだけでもわれわれは十分に楽しんでいる。ヘテロ恋愛においてエンタメとして普通に享受されているものが三次元作品のホモセクシュアルにおいてはどういうわけか描かれないのである。同性愛を扱うというからにはドラマや映画の作り手はつい意識が高くなってリアリティを追求しようとするのだろうが、社会的な意味でのリアリティだけではなく、社会的なものから解放された恋愛としてのリアリティや受け手が恋愛として楽しめるものも本当は描いて欲しいのだ。
 
 ところで『トランジット・ガールズ』では男キャラも出てくるらしい( http://www.crank-in.net/entertainment/news/39502 )が、これも不安要素である。というのも、物語の途中で男とのセックスをするという描写が多くの作品で散見されたからである(『ジェリーフィッシュ』では男とのセックスは具体的に描写される癖に、女同士のそれは精神的なものが強調され行為をやめてしまう)。「同性愛もの」と銘打っているにもかかわらず男との恋愛描写をいれるのは、リアリティを追求する要素としてはよいかもしれないが、それは「同性愛もの」に期待する受け手が求めるものと食い違ってしまうのではないだろうか。「期待を裏切る」ということは作品に驚きをもたらすうえで必要だとしても、その実そういう作品は多く、愛好家たちはそうした経験を幾度となくしてきたのであり、正直うんざりしている。同性同士の関係「だけ」描くこともそれだけで十分意味のあることなのだ。
 
 エンタメとしての同性愛作品が求められていることは、恋愛を純粋に描く作品だけでなく、同性愛的関係「のように見ることができる」作品や、あるにはあるがあまり発展させることなく描く作品が百合厨や腐女子腐男子に絶大な支持を受けていることからも理解できる(百合の例でいえば、前者は「ドキドキ!プリキュア」や「アイカツ!」「アナと雪の女王」、後者は「ゆるゆり」「ラブライブ!」があげられる)。これらの作品群はたとえ同性愛の社会的な実像を描いていないとしても、うんざりするような偏見要素や「禁断の愛」という用語が一切出て来ない分、エンタメとして気軽に楽しむことができる。またクィアスタディーズの観点から解釈を提供できたり、「異性愛的偏見にとらわれない作品」として評価することも可能である。同性愛のリアリティを追求しようとする作り手はこうした作品群を軽視するかもしれないが、その実こちらの方が「同性同士の関係」の真理に近いということも考えられるのである。
 
まとめ
 ドラマや映画において映像作品についても「禁断の愛」やステレオタイプは求めるべきではないし、社会問題を扱おうとする作品群の供給過多に受け手はうんざりしている。作り手は「エンタメなんて意識が低い」と考えるかもしれないが、異性愛ものでは頻繁にエンタメとしての映像作品が制作されるにもかかわらず、同性愛ものではあまり描かれないのはどうも奇妙であるし、ある意味で偏見を助長しているようにもみえる。そもそも同性愛におけるリアリティは必ずしも社会的規範と関連して形作られるわけではなく、そうした規範の存在しない社会(古代ギリシアや江戸時代、LGBTのコミュニティ、そして将来の異性愛規範のなくなった世界)における同性愛のリアリティを想像して描くことも十分意義のあることである。「同性愛はこれこれこのように描かねばならない」という規範が作り手にはあるのかもしれないが、それは受け手が望んでいるものと食い違っていることがあまりにも多いうえ、実際ありきたりでつまらない作品になりがちである。同性愛を描くからには、一方には異性愛規範を内面化した部門と、他方には異性愛規範から解放された部門とを区別して、後者の存在を意識した方がよいのではないだろうか。

アルチュセール. 今村仁司訳『哲学について』(1995)

 マルクス主義はさっぱりなのだがアルチュセールは好きになれそうである。妻を殺害して投獄された人という妙な知られ方をする人で、マルクス主義研究の面が強調されることが多い哲学者だが、晩年はマルクス主義からは幾分か離れた彼独自の思想を展開させている。いやむしろ、彼の主要な仕事である従来のマルクス主義の解体とマルクス哲学の再構築すら、実際は彼独自の思想にすぎなかったということが批判されており、事実本人も認めてしまっている(p36)。資本論マルクスヘーゲルから完全には解放されていなかったことを、認識論的切断は全面的ではなかったのだ。
 それでもなおアルチュセールの仕事が意義をもつのは、やはり彼の仕事がオリジナリティをもち、古くからの哲学の問題に一石を投じるところがあるからであろう。それに、彼の洞察眼の鋭さには、哲学的思考力を鍛えるための手本にしたいと思えるだけの魅力がある。自分が特に注目したのは次の二つ:偶然の唯物論と、イデオロギー論だ。
 
 プラトン以来唯物論と観念論は互いに論争しあってきたが、実は唯物論と観念論は互いが互いの要素を保有しており、純粋な唯物論や観念論はありえない、いわば双子の兄弟みたいなものなのだ。哲学はすべての反論と攻撃に答えるため、敵を吸収し支配することができるよう前もって陣地を構えるからだ。これら2つはプラトンイデア論に起源をもつため、カップルの根拠となったのは観念論の方だといえる。大部分の唯物論は実は転倒した観念論でしかないのだ。
 観念論/唯物論のカップルから逃れた哲学が存在するとすれば、それは起源と目的の問いから免れた哲学であろう。観念論は起源と終わり(目的)を指示する。それに対してアルチュセールの提示するのが「偶然の唯物論」と呼ばれる哲学である。偶然の唯物論は理論に対する実践の優位を肯定する。実在に従って変化する過程としての実践は、真理を生産するのではなく、それ自身の実在条件の場のなかで、複数の「真理」や真理のようなもの、つまり結果や知識を生産する。それは主体も目的ももたない過程である。アルチュセールは列車を使ったたとえで説明している。観念論哲学者は、汽車に乗るとき始発駅と終着駅を知っている人である。それに対して唯物論哲学者は、走っている列車に飛び乗る人であり、起源も行き先も知らない。起こる出来事はみな偶然のものとして知覚される。
 プラトン以降哲学はすべてを見渡す学問とされてきたが、アルチュセールによると哲学は外部をもつ。つまり哲学による見通しのたたない分野としての現実が存在する。外部における文化的な実践、たとえば科学、政治、芸術のような文化的実践に哲学ははたらきかけるのだ。
 要は、唯物論と観念論の対立の性質に注目して共通するものを取り出し、両者の観念論的性質を暴露しながら、新しい唯物論を提唱する。哲学の進め方としてはよくできていると思う。
 
 (科学や宗教など、個別のイデオロギーとは区別される意味での)イデオロギー一般のはたらきに対するアルチュセールの洞察もまた白眉である。人が真理を認識するのは、イデオロギーを構成する観念が私自身の意識にまるごと呼びかけ interpellate、その真理を承認するように強制する働きによる。人は真実を、イデオロギーを構成する観念の内容と形式をそなえたものとしていうことができる「自由な」「主体」へと構成されるのを余儀なくされる。主体はイデオロギー的主体であり、それは現実に存在するよりも先にあり、主体の現実的存在を生み出す構造の結果である。
 つまり主体はデカルトがいうように所与としてそこにあるものではなく、イデオロギーが提供する構造に適応する形で形成されるものなのだ。通常、構造主義とは主体の死を提唱する思想だといわれているが、アルチュセールにおいてはむしろ社会の大きな枠組みとしてのイデオロギーと人間の主体とがどのように関係するかが問われており、イデオロギー構造と主体との不可分な関係が帰結されるに至るのである。「人間はイデオロギー的動物である」(p85)。
 それゆえ、支配者階級は積極的に支配的イデオロギーを行使するが、逆に革命家の方も、あらゆる矛盾を乗り越えるイデオロギーを作らなくてはならない。つまり「数々のイデオロギーを、真理を握るひとつの支配的イデオロギーのなかに統合することに貢献すること」(p93)が哲学の課題である。
 
 要は革命のためにイデオロギーに関する理論の再編纂を哲学は行えという結論である。結論は今日あまり意味がないかもしれないが、イデオロギーと主体の関係には注目してよい。自分は自由のはずだと信じて生きていても、その信念すら実は自由主義イデオロギーによって構築されたものである、と自己反省するきっかけになる。

 

哲学について

哲学について

 

 自分が読んだのは単行本であったが文庫本もある。

 

哲学について (ちくま学芸文庫)

哲学について (ちくま学芸文庫)

 

 

ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論②…劇場版、最高の輝き

 一週間開いてしまったが、前回の記事の続きを行おう。前回はおりあそ氏の2期への批判を検討することを通じて、彼の主張の問題点を指摘し、我々肯定論者が2期になにを見ていたのかを確認したが、当記事(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) の内容は主に劇場版に対するものであったため批判はあくまで間接的な形に留まった。今回は直接、劇場版ラブライブに対するおりあそ氏の評価を検討し、その問題点、ならびに我々肯定論者がまなざす劇場版ラブライブの真の構造を解明しようと思う。さらにそれに加えて、おりあそ氏の記事そのものの批評方法の問題点にも批判を加えたい。あの記事は佳文なのだがどうも扇情的なところがあり、我々に誤解を与える恐れがある。反論は基本的には相手の主張の内容にのみ触れるだけで十分だと思うが、氏の記事がRTばかりでなくまとめサイトをも経由して大々的に拡散してしまった以上、氏の書き方もきちんと看破してやる必要があると考えたのだ。

 

 例によってまずおりあそ氏の指摘する問題点を簡潔にまとめ、それから検討を行おう。 

おりあそ氏の主張

⑴脚本の重大な瑕疵。具体的には、

 ①「行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである」。前半(海外公演編)と後半(大ライブ編)との関係がまるでない。

 ②これまで他のスクールアイドルのことをちっとも考えてこなかったのに、「最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない」。

 ③女性シンガーソングライターや水たまりを飛び越える描写に物語に対する必然性を感じない。

 

⑵キャラクター描写の問題点。具体的には、

 ①「穂乃果以外のメンバー8人を脚本のレベルで真剣に描き分ける気がなくなっている」(2期の①穂乃果中心主義と同じ問題点)。

 ②「各メンバーの薄っぺらいキャラ付け」の強化。

 

さらに、⑶おりあそ氏の方法に問題が感じられるところをまとめておこう。

 ①多くのファンは「物語性を軽視」し、「μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけ」という主張。

 ②現実のアイドルと二次元のアイドルの比較のやり方。

 

検討   

物語論

 まずおりあそ氏は脚本に重大な瑕疵があると考えているようだが、正直、氏がなぜあの映画を見て脚本に重大な瑕疵があるという判断を下したのかよく分からないのである。私としては脚本の良さは語るまでもないことだと思うのだが、氏がそう判断しているのであれば、ここはあえて脚本の構造を分析し重大な瑕疵など存在しないということを示すという非常に退屈な作業を行うことになる。つまりまず①海外公演編と大ライブ編との関係を明確化するのである。そうすると自ずと②の問題点を否定することができるようになる。おりあそ氏は劇場版でいきなりスクールアイドルという問題を提示されても唐突だというが、本来そこは前回取り上げたように「1期や2期で十分触れてこなかった『スクールアイドル』という概念の掘り下げを丁寧に行ったのだ」と高く評価すべきところである。この点でおりあそ氏と筆者との間の主張には平行線が見られるのだが、ここは私の主張が正当であることを示すために、なぜスクールアイドルとは何かという問題がここで持ち上がったのか分析しておこう。

 ③についてであるが、これについては極めて高度な解釈上の問題であり、見る者によって受け取り方は異なるはずであり易々と評価を下すことはできない。ここでは私の解釈を一つ提示するだけに留めたい。

 

 ①おりあそ氏は海外公演編と大ライブ編との接続がなっていないという。ひとまず海外公演編と大ライブ編のそれぞれで何が行われてきたか整理しておこう。

 μ'sは当初卒業後の解散を決めていたが、第三回ラブライブの宣伝の依頼を受け、海外公演を行うことになる。英語を話す希や意外と馴染んでいる凛、不安を覚える花陽や極端に怯える海未など、異国の地で多様な反応を見せるメンバーに我々は心を踊らせるだろう。公演場所をどこにするか悩むわけだが、夜景を前にして凛は「この街ってアキバに似てるんだよ」という発見をする。「だからどこにいても自分たちらしいライブができそう」だったのであり、何でも受け入れるこの街(実はニューヨークという言葉は一度もでてこない)に自分たちのルーツと同じ香りを見出し、改めて自分たちらしさを確認するわけである。海外公演編はそれまでのμ'sの振り返り(ならびに彼女らに対する新しい発見)という意味があったのだ。

 海外公演編で注意してほしいのは、ここで描かれているのはあくまでμ'sのみであるということである。公園で仲良くなった3人の現地人たちや、謎の女性シンガーソングライターとの交流はあるものの、それ以外は海外コーディネーターや現地スタッフといった人々と交流するという描写が描かれることは一切なく、また海外なだけあってμ'sが日本で人気を博した人気スクールアイドルであるということを知る人は誰もおらず、ほとんどが彼女らに無関心なため、海外公演編はひたすら仲間内同士のやりとりが描かれる。彼女たちはアキバと似たこの街で「私たちらしさ」を再確認する。ただそれは、他者との交流を欠き殻にこもった活動であった。そして直接は描かれはしないが、この公演をもってμ'sの活動は終了するはずだった。

 しかし帰国後事態は急変する。海外公演成功の知らせが日本中で知れ渡り、μ'sのもとにファンが大量に押し寄せる結果になった。ファンたちは彼女らに活動を続けていくことを望んでいるのである。ここで「μ'sの解散」という主題が再び前景化することになる。つまり、「μ'sの解散」の主題は、2期ですでに「私たちが決めたこと」であったのが、ファンや他のスクールアイドルたちとの交流を経て「私たちでない他の人々との間で決着をつけるべき問題」へと変わったのである。A-RISEはじめとする他のスクールアイドルたちとの関係のなかで、このままやめてもいいのか、それともスクールアイドルの将来のために続けた方がいいのか、とここでμ'sは初めて殻の中から外へと目を向け真剣に悩むことになるのである。

 

 結論としては、彼女たちは結局解散宣言を取り下げることはなかった。ここで登場するのが「スクールアイドル」の概念である。この概念は一般的な「アイドル」とは異なるものであることに注意したい。専属のプロダクションのつくタレントとしてのアイドルとは異なり、スクールアイドルはただの学生である。学校中心で仲間とともに活動を行い、卒業と同時に退部する。青春時代の限られた時間の中で、同じ学校で、9人が集まったことそれ自体が奇跡であると考えるμ'sにとって「スクールアイドルである」ことは極めて強いアイデンティティであり、このままアイドルとしてやっていくわけにはいかなかったのである。その思想は絢瀬の、そしてそれを引き継いだ穂乃果の台詞に現れる。「私たちはやっぱりスクールアイドルであることに拘りたい。私たちは、スクールアイドルが好き。学校の為に、みんなの為に、同じ学生が、この9人が集まり、競い合って、そして手を取り合っていくスクールアイドルが好き。限られた時間の中で、精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き。」。スクールアイドルであり、時間が限られているからこそ、大ライブとラストライブにおける彼女たちは最高に輝いていた。

 こうしてみてみると、物語前半と後半とで「μ'sとしての私たちらしさ」の再確認をそれぞれ別の側面から行っていることがわかるだろう。前半では海外の異質ながらも自分たちの故郷に似た雰囲気を漂わせた都会にて、ローカリティに根ざした自分たちらしさを確認し、後半では真正面から取り組まざるをえなくなった「解散問題」を巡って、「スクールアイドル」という自分たちの本質を再確認する。おりあそ氏は物語性がない(一貫した主題がない)というが、そんなことはなく、劇場版は「μ'sとしての私たちは何か」という問いを一貫して問い詰めていることがわかるであろう。

 一貫した主題としての「μ'sとしての私たちらしさ」を支える「スクールアイドル」としての強固なアイデンティティー。それだけでおりあそ氏の指摘する②「なぜスクールアイドルという問題が持ち上がったのか」という問題を説明するには十分だと思う。

 

 ③女性シンガーが登場するのは2回、穂乃果が飛びこみを行う描写は3回ある。謎のシーンを4回にわけて整理してみよう。

  1. 幼少時の水たまりを越える描写
  2. 異国の街で女性シンガーと出会う
  3. アキバで女性シンガーと出会い、「飛べるよ」という励ましをうけ夢の中の花畑で飛びこみを行う(このとき、絢瀬の「スクールアイドルへの拘り」を語る台詞とともに場面が展開する)。
  4. 大ライブに行く道中。夢の中に出てきたのと同じ花びらを見て、女性シンガーの「飛べるよ」という台詞を自分で口にして再び飛びこみを行う。

 

 おりあそ氏は「女性シンガーは結局終盤は登場していない」として非難しているが、注意しなければならないのは上の4. である。女性シンガーそのものは登場しないものの、花畑に舞うていた花びらがひとひら現れ、それを見て、穂乃果は「飛べるよ」と女性シンガーと同じ台詞を発しまた飛びこみを行う。ここに女性シンガーの姿を見ないのは鑑賞的想像力の貧困である。女性シンガーは将来の穂乃果の写し鏡であるという説が最も有力だが、4.のシーンではその姿をまさに今の穂乃果に見るべきではないだろうか。つまり、μ'sの終わりに一歩を踏みだし、ラブライブの将来に向けて前進しようとすると同時に、自分自身の将来に向けても一歩を踏み出す穂乃果の姿である。そうしてみると、飛びこみと女性シンガーのモチーフは一貫して「将来への前進」を描いていることが読み取れるのである。

 もちろん、μ's解散以降のメンバーの姿は全く描かれていない。一年組の役職が決められ穂乃果の将来が例のシンガーソングライターによって暗示されてはいるものの、彼女らのその後は何も直接読み取ることはできないのである。だがむしろここに美学がある。物語はμ'sのラストライブをもって絶頂として終わる。「μ'sの終わり」という主題には前記事でも述べた通りの美学があった。μ'sの最後の輝きを描きそれが絶頂となる以上、「μ'sのその後」を直接描くわけにはいかない。それでは彼女らの将来はどうなるのかを、主人公である穂乃果を代表として描き出そうとしているのである。「かつてはみんなと活動していたけど、いろいろあってバラバラになった」という女性シンガーの姿は、まさに解散後のμ'sのメンバーそのものの姿であり、穂乃果の将来の姿であった。 

 

⑵キャラクター論

 ①については前回ある程度論駁することができた。つまり、「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのは言い過ぎであり、物語のプロットの余白に描かれたキャラクターの呼吸や息遣いに目配りする想像力がないとそのように見えてしまうだけである。

 それに加えてもう一つおりあそ氏の指摘する劇場版のシーンを検討しておこう。 穂乃果が全国のスクールアイドルを招いた大ライブを提案するシーンである。まず、おりあそ氏の指摘には事実誤認がある。氏は「『想いはみんな一緒のはず』などというセリフで全員一緒くたにされてしまう」と言っているが、この台詞で問題となっていたのは「μ'sを解散するべきか否か」という問題であるが、穂乃果が言い出すまでもなく各人それぞれが「解散する」という結論にたどり着く(そもそも先に結論にたどり着いたのは穂乃果ではなく三年生全員である)。したがって、おりあそ氏の指摘はここでは当たらない。

 強いて言うなら直後の、解散決定により退けざるを得なくなった第三回ラブライブの可能性を、穂乃果が大ライブを提案することで実現させようとする場面であろうか。そこでは全員の合意が見られるが、真姫など大胆な提案に困難を見出す者、花陽のように一大アイドルイベントの開催に興奮を覚えるものなど、反応は全員異なっている。そこには「穂乃果に同調するただのマシーン」の姿は見受けられない。穂乃果は主人公として物語を強力に推進させようとさせているだけである。穂乃果はあくまでリーダーとして、μ'sの発案者として、物語の主人公として、そして「将来別れ別れになるメンバーの代表」として活躍しているだけである。終盤で大ライブの発案を皆に持ちかけ同意を得るものの、それは3年生をはじめとする他のメンバーからの「μ'sはお終いにすべき」という意見を踏まえての、それならスクールアイドルの発展のために何かできないか、という穂乃果の思いが付け加わった大胆な発案だった。穂乃果の発案は内部だけでなく外部からの要請も入り混じって生じた「解散か存続か」の複雑な弁証法や、9人やアライズ、他のスクールアイドルたちファンの感情への考慮経て生み出されたものであり、それを単に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」と言い捨てるのは、物語をきちんと読んでいなかったのではと言わざるを得ない。

 そもそも、おりあそ氏の主張には「他者を同調させ従属させる役割としての主人公」と「物語を推進させる役割としての主人公」とが混合してしまっている。後者においては必ずしも他者の安易な同調は必要無い。劇場版におけるおりあそ氏の指摘は、2期に見出した問題点を劇場版にも無理やり繕だそうとするただのレッテル貼りではないのだろうか。

 

 ②を論駁するのは非常に難しい。というのも、氏の主張に正当性があるからというのではなく、キャラクターの特徴づけやそれに対する印象を語るとなるとどうしても主観的で恣意的なものにならざるをえないからだ。ここはさしあたり、氏が指摘する花陽と海未の描写をみていこう。

 おりあそ氏は花陽のキャラ付けに難色を示しているが、俗な話になるが、例えば以下のサイトをみても、日本人には海外に行くと白米が愛おしくなる傾向というものがあることがわかる。

http://news.nicovideo.jp/watch/nw23260

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/0208/642440.htm?o=0&p=4

私は何年も白米を食べていなかった日本からの移住者がおにぎりを差し出されて涙しながら食べたという実話を聞いたことがあったので、花陽の白米シックのシーンでは「白米好きの花陽ちゃんだったらこう行動するだろうな」というのが私としてはリアリティをもって読み取ることができた。むしろ白米ネタを持ち出すなら異国の地というのは絶好の舞台である。現実に対する脚色はあるものの、それを「判で押したような浅薄なキャラ付け」ということはできないだろう。むしろフィクションだからこそ三次元でやったら馬鹿らしさを感じるキャラ付けにも魅力を感じるのである。

 またツイッター上でおりあそ氏は極端に異国の空気に怯える園田の姿に違和感を表明しているようだが、むしろそれは幼少時から変わらぬ園田海未の本質の発露といってよい。真面目で頼り甲斐のある彼女は元来、新しいことに足を踏み出すのを怖がる臆病な子である。それに対し穂乃果がやや強引ながらも未知の世界に連れて行ってくれることに園田は喜びを感じるのである(1-13、SID海未編第7章)。一度異国に迷う経験をしてから恐怖はますます悪化したが、それだけに穂乃果が街に迷ったときの園田の不安は筆舌に尽くしがたいものがあったと想像できるし、ホテル前で再会したときの叱咤と嗚咽と熱い抱擁から、我々は海未の穂乃果への強い感情が我々に流れ込んでくることを感じるのである。

 このようにこの作品は文脈に対する想像力や行動に対する解釈を働かせることで、彼女らの行動に必然性を感じることは幾らでも可能なのである。キャラ付けの采配加減にもよるが、少なくとも人間性を失うまでには至っていないのではないだろうか。

 

⑶方法論

 私がこの論争によって拡散されることを一番恐れているのは、①「多くのファンはラブライブを一方的かつ即物的に消費している」という言説が氏の記事を中心に出回ることである。確かに人気の上昇によってそうしたファンは増加したが、同時にラブライブの物語やキャラクターの呼吸に触発されて正当な感動を覚えたファンも大勢増えたはずである。おりあそ氏の主張はそうした層を無視し、「作品を即物的に消費するだけのファン」と「批判的精神でもって作品を非難する批評家」の図式をでっち上げるものであり、それは読者にそれに従った誤った判断を下してしまう可能性を生じさせてしまう(実際氏の主張に触れて劇場版に対する意見をまるきり変えてしまったという人もいる)。極めて明晰な筆致の持ち主であるにもかかわらず、ソ連の機関紙のごとく敵に不当なレッテルを貼り付ける氏のやり口は非難されて然るべきものである。

 

 また②:現実のアイドルと二次元のアイドルの比較のやり方、に関しても、氏のやり方には問題がある。今回の論争においてはおりあそ氏も私もラブライブのアニメ版を巡って論じているのであって、雑誌やSID、ドラマCDなどの外部に関しては論じていない(インターナルなアプローチ)。ラブライブは多方面のメディアに展開されているためどれが作品の中枢であるかは判然とせず、劇場版に対する評価にしても本当はラブライブのそれまでの積み重ねを反映しなければならないのである(例えば帰国後に突然人気が出たことにメンバー全員が仰天するシーンは、現実の事態をそのまま反映している。このようにアニメ世界に現実世界の出来事を取り込んだように思えるシーンが2期や劇場版で多々散見されるのである)。しかし今回は氏と私ともにあくまで作品内部で語っている。

 ところが氏はAKBを論じるにあたってエクスターナルなアプローチをもしているのである。氏は指原莉乃渡辺麻友を論じるにあたってその人生や信念を総合的に加味して魅力を語っているが、μ'sに関してはそのように語ることはしていない。μ'sはアニメだけではなく、SID、スクフェス、曲、声優ラジオ、ライブなど幅広いメディアで活動しており、我々はそれを加味して劇場版のアイドルをまなざしている。花陽の白米好きにしたって、その子のそれまでの歴史の積み重ねであり、それを見てわれわれは、異国の地で不安を覚えていた花陽に対して「いつもの花陽ちゃんだ」と安心を覚えるのである。氏は雑誌時代の話を持ち出しているが、キャラクター描写の批判から察すると本当にそれを加味しているのか疑わしい。

 別にラブライブをアニメ版だけで完結させて語ることは十分可能である。しかし氏の方法には比較の仕方の問題がある。一方はエクスターナルなアプローチを、他方はインターナルなアプローチをとるという不平等な前提には、方法論上問題があるのではないだろうか。われわれが氏の二次元アイドルと三次元アイドルを比較する筆致に違和感を感じるのは、このためである。

 

まとめ

 本記事では⑴脚本の重大な瑕疵などというものは存在しないこと、むしろ一貫した主題のある優れた物語であることを明らかにすることができた。また、印象論的側面が強くなかなか論じることが難しかったものの、⑵キャラクター描写も特に問題視されるところはないと思われる。さらに⑶おりあそ氏の記事における方法論上の問題、つまり極端な図式化と比較の前提の誤りを指摘した。

 以上を振り返ってみると、依然としておりあそ氏がなぜこの映画を批判したのかいまだによくわからない。2期に対する批判については私としてもある程度正当なものを感じ、反論を起こすことに苦労だけでなくやり甲斐も感じたのだが、劇場版については私が劇場版をみて感じたことをごく当たり前のものとして示すだけであり、かえって苦痛の方が強くなかなか筆が進まなかった。劇場版に対する美的評価はもはや賛同者と反対者とで通約不可能なものであり、ひょっとしたら論じ合うことは全くの無意味なのかもしれない。

 それでも私がこの記事を書いたのは、「アニメラブライブは大衆受けするだけの駄作である」という言説を否定したかったからであり、またおりあそ氏の記事にみられる図式主義的な傾向を告発し、読者が氏の記事に感化されることがないように注意を促したかったからである。『ラブライブ!』は極めて奥行きをもった作品であり、1-8や2-5、大ライブやラストライブなどで最高に輝く少女たちのオーラ、何気ない日常の場面にみられる彼女たちの呼吸を味わうことには審美的価値があると考えられる。それは氏がいうところの「一方的かつ即物的な消費」ではないはずだ。氏の主張や図式に従ってラブライブを解釈してしまっては、作品の可能性をかえって狭めてしまうことになりかねない。繰り返しになるが、作品を鑑賞するうえで大切なのは、他人の評価ではなく自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。

 おりあそ氏はラブライブに極端なヒューマニズムを見たのかもしれないが、むしろ我々は美学をまなざすべきなのだ。

 

ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論①…ラブライブ二期の本当の思想

 本記事はおりあそ氏によるラブライブ2期・劇場版に対する批判(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) への反論である。おりあそ氏と私はちょっとした知り合いで、百合好きという点でも作品に対する嗜好という点でも価値観を共有していたのだが、ラブライブ2期や劇場版への評価を巡って1年前から意見を激しく違えることになってしまった。当初は私もおりあそ氏の主張の正当性を認めていたのだが、しかし自分を納得させることができない点も残った。というのは、もし氏の批判が正当なら、アニメに対し批判的精神を働かせることのできる多くの人々が、2期を素直に楽しむことができたというのが不可解なことになってしまうからだ。私とて多少はカップリング萌えの観点から見ていたことは認めるものの、それにより私は自分の批判的精神を蒙昧にさせるようなことはしていなかったと思うし、我々の目が節穴だったということは決してなかったと信じたい。実際、氏のいう問題点を踏まえたうえで2期を再視聴したときも、私が物語から受けた印象はあまり変わらず感動するものがあったし、むしろ新たな発見に心躍った。だが他方で、氏の批判に対して見受けられた「キャラクターや曲を楽しむ作品なんだからラブライブに物語の整合性を求めても無駄」という論弁を放棄し開き直った主張にも私は抗したい。むしろ私を含む多くのラブライバーは2期に確かな物語とそこに表現された感動的な主題を間違いなく直感したのであり、それを論理的に示していく作業が必要だ。多少の問題点は理解できるものの、だからといって「2期は出来の悪いただの娯楽である」という主張にはどうしても合意できない。

 

 本当はラブライブを批評する際の方法論を先に整理してからおりあそ氏の主張へ批判を行おうと考えていたが、現時点で投稿から1日経っていないにもかかわらず氏の記事は大反響を呼び、2000RTを達成するまでになってしまった( https://twitter.com/oriaso/status/613011484893773824 )。私から言わせれば氏のものの見方にはやや一面的なところがあり、想像力が欠如しているのだが、それにもかかわらずこの記事がこれ以上拡散されてしまったら、氏の思想に感化されて『ラブライブ!』という作品に対し間違った判断を下す人が大勢現れかねない。なので先におりあそ氏の主張に直接応答することを決め、氏の主張の批判的な重要性がどのくらいのものなのか、どこがおかしいのか、そして私がラブライブに何を見ていたのかをこの記事で主張したい。

 本記事は二部構成で前半と後半に分けられる。前半はラブライブ2期についてのおりあそ氏の批判とそれに対する応答、後半は劇場版に対するそれだ。2期にかんする見解はおりあそ氏の記事には多くないが、ここでは本人から直接聞いた話も参考に氏の見解を再構成するようにしよう。また「二次元アイドルと三次元アイドルを比較して語ることに違和感を覚える」という反論が多数見受けられたが、私は三次元アイドルについてはよく知らないので別の人に任せたい。

 また、表記についてであるが、例えば1期の8話は 1-8 という風に簡略化して記すことにする。

 

 おりあそ氏の主張

 おりあそ氏が2期に関して主に問題視していたのは、記憶の限りだと以下の3点である。

①穂乃果中心主義とそれによる人間描写の欠如。2-6や2-10後半においては問題解決に関して誰もまともな解答を与えることができず、ラストになって穂乃果の鶴の一声で問題を解決してしまう。このとき8人は穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がってしまい、人間性の描写が失われている。(そしてこの問題点は劇場版にも見受けられる。)

②物語の不在。本作はラブライブ優勝に向けての物語であったのに、最大のライバルであるA-RISEと特に競い合う描写がされることもなくあっさり勝ってしまい、本戦でも他のスクールアイドルとの何かしらの競争が描かれることはなかった。「ラブライブ優勝」という主題が形骸化している。

③最終話のとってつけたような劇場版への橋渡し。2期後半は「μ'sの解散」という主題を掲げたにもかかわらずそれをラストで反故(ほご)にしてしまう。しかもだいぶいい加減である。

 

検討

 それでは順に吟味を加えていこう。まずは①②両方に見られる問題点を、以降は①②③それぞれの問題点を見ていく。

 

 ①②の2つの主張は実は私としてもある程度正当であると考えている。2-6は話としても深みがあるようには思えなかったし、2-10後半や2-12の屋上のシーンでも同じパターンを繰り返されるとさすがに食傷気味になってしまう。また仮にも「ラブライブ優勝」という目的を掲げている以上他のアイドルとの競争がまともに描かれないのは、特にA-RISEとの対決を期待していた人たちにとっては幻滅であっただろう。

 しかし2期を視聴しているとき私にはこの二つの論点は特に問題にはならなかった。穂乃果中心で話が転がるのは単なる物語の中だるみとして軽く受け流し、また昨今の勝利に拘らない各種アニメの情勢からしても、競争のモチーフが特に根本的な意味をもつものとは思えなかったのである。

 

 それに、①「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのはさすがに言い過ぎである。ここで氏は、あるキャラクターが物語の決定権をにぎっていないということと、その人物が一個の人物としてしっかりと描写されていないということを同一視している。この視点だけとると、物語においてどうでもいいように思われる余白の部分にも書き記された各キャラクターの呼吸や息遣いを見逃してしまう。氏は、十分に人間性を描写されていない浅薄なキャラクターを、萌えやカップリングという観点だけで安易に消費していると、多くのファンに批判的な眼差しを向けているが、ファンが感じ取っていたのは実はそうした呼吸であり、そこから個性を見出し、多様なイメージへと膨らませている。こうした想像力は単にプロットだけに目を向けているだけでは培うことができず、それがない貧困な想像力では単なる薄っぺらいキャラ付けに見えてしまうのだ。

 

 ②についても個別に検討しよう。確かにμ'sと他のスクールアイドルとの競争はほとんど描かれることがなく、A-RISEにも最終回以前にあっさりと勝ってしまった。この時点で物語の主題のひとつが失われてしまったことは事実だ。しかしその直後の2-11においてこの物語の本当の主題が姿を現わすわけである。

大会が終わったら、μ'sはおしまいにします。

 この瞬間『ラブライブ!』という作品の本当に表現したかったことが私の心に流れ込んできたような気がした。つまり、青春のわずかな期間に出会えた仲間達の奇跡と、限られた時間の中で最高の輝きを残し、そしてμ'sという名前を永遠の思い出にしよう、という滅びの美学である。ただ、この主題は唐突に現れたわけではなく、これまでの物語の中でも複数のメンバーの口から断片的に語られてきたものだった。思えば1-6での「みんながセンター」という穂乃果の発言や、希のこの9人が起こしたμ'sという奇跡を尊ぶ思想は、メンバーの脱退とともにグループは解散することを暗示していた。この見解と相反する「メンバーの卒業や脱退があっても、名前は変えずに続けていく。それがアイドルよ」というアイドル観をもつ矢澤でさえ、2-9では「みんながセンター」という見解に同意している。オープニングでも「次は絶対ゆずれないよ 残された時間を握りしめて」と歌っていたではないか。何より、私はあの夕日を忘れることはできない。1-10では皆で水平線より昇る朝日をみた。それは9人が揃ったμ'sの本当の始まりを象徴していたが、それに見事に呼応した2-11の海の彼方に沈む夕日は、μ'sの終わりを厳かに告げるものであった。

 もちろん本当の主題が存在することを根拠にして、2期前半で主張されていた「大会の優勝」という主題が十分に展開されていないことを正当化することはできない。しかし、逆に「大会の優勝」という主題ばかりに気を取られ、本当の主題に目を向けないということもまた誤りなのだ。実際、この「本当の主題」という観点はアニメ『ラブライブ!』という作品を読み解くうえで非常に重要なのである。というのも実は1期と2期とでこの作品は同じ構造をしているからだ。1期の「廃校から学校を救うこと」や2期の「大会優勝」は名目上の主題にすぎず、本当は「目標を失ったμまずは名目上の主題で物語をすすめつつ、その裏で本当の主題への布石を貼り、最終局面である1-12と2-11でようやくその本当の主題の全貌を露わにさせるという分かりにくい構造が、1期2期ともに存在しているのである。2期が筋の通ったストーリーをなしていない印象を与えるのは、こうした構造に目を向けていないためと考えられる。「本当の主題」に着目しないとこの作品に対して正当な評価を下すことはできなくなってしまう。そして「本当の主題」に触れた人々にとっては、「大会の優勝」という仮の主題が軽く扱われていたとしても特に致命的な瑕疵(かし)であるとは思わないのである。

 

③もっとも、1期とは異なり2期では、劇場版へ橋渡しする都合上から「μ'sの解散」が最終話のラストで反故にされてしまう。これは「真の主題」が琴線に触れた人々にとっては、物語が台無しになるという極めて致命的な問題に見えるが、実はそうではない。劇場版においてこの主題が解決されることは予想できるし、あくまで期限付きで先延ばしになったにすぎない。ただし、リアルタイムで放映版を見終えた直後の我々はあと1年を待たなければならず、大変もどかしい思いをした。結末が不明な以上、人々は判断を保留するか、あるいは延命措置そのものを根拠にクソアニメ認定するしか道はなかった。

 ひとつ擁護をさせてもらうと、製作陣としてもこの結末は不本意であったように思える。劇場版パンフレットにおける京極尚彦と花田十輝のコメントによると、劇場版の制作が決定したのは2期制作進行の途中であり、劇場版を意識したら進行に障害が生じると判断し2期で完結させることにしたらしい。そのため劇場版への橋渡しのシーンが不自然極まりなくみえてしまうのもやむを得ないという事情があるのだ。それにしてももっと上手く処置をとれなかったのかとは思うが……。私としてもこの点に関しては同情と非難を同時に抱えている。

 

小まとめ

 以上3点を吟味してみたが、③に関しては物語を2期でのみ完結させていないという問題点はあるものの、少なくとも物語の真の主題を必ずしも損なうものではないことは注意しておきたい。そして①②はどちらも大きな問題ではない。もちろんおりあそ氏の主張には一定の正当性が認められ、このため私は1年間頭を悩ましたものである。穂乃果中心で話を閉じるワンパターンや物語から競争が排除されている点は、批判を脚本家の側に建設的に還元するためにも指摘して然るべきである。だがこれらの点が作品を決定的に台無しにするかと言うとそうではない。既に示したように、これらの点は別に物語の真の主題やキャラクターの描写の豊かさに水を差すようなものではないのだから、軽く放っておけばよいのだ。これは開き直りではない。物語を見る上で必要なところに適切に目を向けどうでもいいところは無視することを奨励しているだけだ。

 かつておりあそ氏の指摘を受けたから言うのだが、一度批判を受け入れてしまうとその批判された点の別の側面がみえてこなくなるようなところが人間の性としてあるようだ。現に氏の記事をみて(そこでも取り上げられていた)①の論点に納得してしまっている人がいるようだが、おりあそ氏のものの見方は以上の私の指摘からわかるようにやや一面的であり、物語の余白に対する想像力を欠いたものであるのだから、氏の批判をそのまま受け入れてしまうと『ラブライブ!』という作品に対して狭いものの見方しかできなくなってしまう。作品を鑑賞するうえで大切なのは(こんなことをいうと自分にも跳ね返ってくるのだが)他人の言うことをそのまま鵜呑みにせず、自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。自分の直感を信じて『ラブライブ!』を鑑賞してほしい。

 個人的には2期にはたいへんな感動を覚えた。突っ込みどころや最終話の延命措置はあるものの、彼女たちの息遣い、μ'sに対する各メンバーの想い、そしてそれらから導き出される解散にかかわる滅びの美学に心を奪われたものであった。そしてその感動は正しかったことがこうして記事にしてみることで自分の中でも納得できた。

 

[以下、劇場版ネタバレ注意]

 そして劇場版の内容を踏まえてこれらの問題点にさらに吟味すると、驚くことに、脚本家がこれら3つの問題点を意識しているようにみえる。

 ③については明らかにファンの期待を最終回で裏切ってしまったことに対する反省の念が伺える。グループ内の決断でしかなかった「μ'sの解散」という主題を掘り下げ、ファンや他のアイドルたち、第三回ラブライブとの連関のなかで、このまま以前の決断と同じく解散を実行するか、それともファンのためにμ’sを続けていくことを決意するか、穂乃果たちは悩むわけである。このように非常に丁寧な解散の主題の描写は、ファンの期待を裏切ってしまった償いとして真摯な態度に私には思えた。

 それに、おりあそ氏は劇場版においても①の問題点が見られるとなぜか主張しているのだが、①に関してもちゃんと反省が見られる。たとえば、NYの夜景を前にしてμ's全員が集合するシーンがあり、ここには「この街ってアキバに似ているんだよ」という発言がある。この台詞は、ニューヨークを自らのホームグラウンドとなぞらえることで、異国にありながらもμ'sに自分たちらしさを再確認させるという物語上重要なはたらきをしていた。この役割を考えるとこれはいかにも穂乃果の言いそうな台詞だと思われるだろうが、この発言の発話者はなのである。穂乃果ではなく凛をNYにもっとも馴染ませこの台詞に結びつけたことは、2期でのワンパターンの反省のあらわれだと考えられる。また、先取りになってしまうので詳しくは述べないが、全国のスクールアイドルを招いた大ライブを穂乃果が提案するという点は、別に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」というような問題を抱えているわけではないと考えられる。

 さらに私たちは②で、二期では名目上の「ラブライブ優勝」という主題が十分展開されなかったことをみとめた。たしかに、μ’sと競い合うはずのA-RISEや他のスクールアイドルはほとんど描写されず、物語上で重要な役割を与えられなかった。しかし劇場版ではこの点を補うように、競争こそないものの、スクールアイドル皆でライブをするという大胆な方向に物語が展開した。A-RISEに関しては、卒業後もアイドルを続ける存在としてμ'sと対比され、μ'sの今後に示唆を与えるという物語にとって重要な存在として改めて描き出されたのである。

 

 このように劇場版は2期の問題点を克服したとても真摯な内容になっていると私は考えている。だがどういうわけか劇場版は、おりあそ氏の目には「唐突」、「どのような物語性もない」と映ってしまうようである。次回は後半に移り、氏の劇場版に対する批判を取り上げていきたい。

 

実存主義とは何か : 実存主義はヒューマニズムである / サルトル著 ; 伊吹武彦訳(1955)

 映画『アデル、ブルーは熱い色』にこの著作に言及する箇所が出てきたので、興味をもっていたのだが、昨日たまたまブックオフに置いてあったので早速買って読んでみた。「実存主義の入門書」として分かりやすいと評判のようで期待して読んでいたのだが…クソ本だった。ざっとまとめるけど、深夜なので適当に書いて寝る。

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

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アデル、ブルーは熱い色 スペシャル・エディション [Blu-ray]

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①スコラ的
 実存が本質に先立つ場合、われわれの行為選択は責任を、それも全人類の責任を負うているとサルトルはいう。なぜわれわれはそんな重い責任を負うことになるのか。
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万民にとって善でない、ということはありえないのである」(p.20)。つまり人間の決断は常に善を目指すのであり、その善は全人類と共通のものであるから、個人の行為は全人類の善を代表したものだというのである。そんなわけないだろと反論したくなる。第一「善」とは一体なんなのか、道徳哲学の中心問題のひとつだが、この公演において他に善について触れられているところは他にない。サルトルの「人間は自由の刑に処されている」という重大テーゼの根拠ともいえるかなり重要な部分なだけに、ここだけ妙にスコラ的になってしまっているのがいただけない。

②コギト中心主義(50p)

 この講演でサルトルはやたらとデカルト主義者である。もの(対自存在)の蓋然性に対して人間主体(即自存在)の確実性を保証するためにデカルトのコギト説を採用する。これによって絶対的真理の存在や人間の尊厳の擁護が可能となる。しかし主体性に対する批判はフーコースピヴァクといったポストモダンの論客によって、それもサルトルも重視している現実世界の経験に基づいて何度も行われている。第一20世紀にもなってコギトを堂々と持ち出すのはさすがにどうかと思う。

アンガージュマンの条件
 人間は無動機状態のように自分の状況を知らないわけではなく、「組織化された状況のなかにあり、彼自身そのなかにアンガジェされ、自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする。しかも選ぶことを避けられない」(p.58)とサルトルはいう。これだとアンガジェするためには自分の状況をちゃんと知っていなければならない。将来のことはまるで想像がつかないといわれるが、キュウベエの契約のように将来確実に不幸を招く選択肢に対しろくな情報も与えられずにアンガジェするということも普通に行われていることだ。これは果たして適切なアンガージュマンといえるのか。

 自分では批判を書いていてなかなか要領を得ないと感じていた。形式的には割と整っているので突っ込んでも簡単に批判が返ってきそうなのだが、釈然としない。それに本書で示されているような道徳理論に従って生活することで何か得るところがあるのか、はなはだ疑わしい。別に入門書として読むには構わないのだ。ただ、これだけ読んで『存在と無』の厳密な議論にろくに触れることなく学生運動に身を投じていった学生のことを思うと、なかなか罪深い部分がある。

A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons

 駒場図書館が分厚い図書を要望に応えてわざわざ入れてくれたので、その中の論文を一つ読んでまとめることにする。European Philosophy of Science – Philosophy of Science in Europe and the Viennese Heritage, ed. by Maria Carla Galavotti, Elisabeth Nemeth, Friedrich Stadler, Dordrecht: Springer (2014) 収録の、“A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons” by Christina Chimisso である。 European Philosophy of Science には他にも論理実証主義の勃興についての論文など科学哲学に関する興味深い論文が多数収録されているが、関心にそってひとまずこれをレビューする。興味がある人は借りて読んでほしい。何しろ200ドルもするので読まなきゃもったいない。
 
 哲学者たちは物理学ほどは化学に対して注意を払ってこなかった。しかし20世紀前半のフランスでは、カント的な意味での実体の問題をめぐって論争が交わされたのである。筆者は特にガストン・バシュラールの化学哲学を本稿で紹介し、以下の問いを発する:化学や化学史だけがバシュラールを、分析/総合の概念や実体の概念、科学的対象の概念に対する独自のものの見方や知識論へと導いていったのか?そこで筆者はバシュラール哲学において「化学」や「化学史」とは何かを内省し、科学者や哲学者らの論点の違いを浮き彫りにし、バシュラール独自の哲学的対象の構造へ寄与する哲学的思想の輪郭を簡潔に描く。
 
 「分析」と「総合」の化学上の概念に対するバシュラールの考えは、要は「分析より総合の方が偉い」ということである。「困難は分割せよ」というデカルトの標語以来、化学では物質を要素へと分析することで全体が理解でき真理に近づけると考えられてきた。バシュラールはこれに異議を申し立てる。例えばナトリウムの金属としての性質や塩素の有毒な性質を理解したところで、そこから合成産物の食塩の性質を理解することは難しいだろう。分析は化学の必要条件だが、知識を得る手順の1段階でしかないのである。化学において分析はむしろ、新たな物質を化学合成することを目的としているのである。複雑な物質を単純な要素へ分けるよりも、新たな物質を合成する方が、得るものは大きいのである。
 
 次に科学的対象の概念について。バシュラールの考えでは、単なる経験的対象と科学的対象はまるきり異なる。目の前の対象の素朴な実在を疑わず理論を打ち立てようとすると、認識論的障害、つまり物事の原因をとらえようとして精神を電波な夢想やイマージュに入り浸らせてしまうような傾向に陥ってしまう。バシュラールによると科学史はこうした障害を乗り越える歴史である。つまり、人間精神に伴う自然な傾向を理性によって取り除き続けるのである。こういうわけでバシュラールの認識論は歴史的でしかありえず、認識論が扱う科学に不動の状態はありえないのである。
 
 そして実体概念について。バシュラールによると、アリストテレス以降哲学においてその実在が疑われることはなかった実体(現象の背後に存在する不動の主語)は、化学史の展開に伴って否定されるのだ。初期の化学者たちはみな実体論者であったとバシュラールはいう。「実在論は唯一の生得の哲学である」と、バシュラールは人間には自然な実在論的傾向があり、実在の背後にある実体を想定してしまうと考えたのだ。しかしバシュラールの主張では物質は固定されたものではなくてプロセスである。「存在は単調関数ではない」、つまり、不動の実体が存在して、複数の変数によってその状態が定まるような代物ではないのだ。それは物質に対するエネルギーと時間の関係をみることで立証される。エネルギーはバシュラールにとって実体の統合された一部であり、後者は前者とおなじくらい実在的である。エネルギー交換は物質の変化を決定し、物質の変化はエネルギー交換を生む。これらの過程は時間的で、バシュラールにとって時間はエネルギーを介して物質に刻み込まれるのである。筆者はここで、実体概念の変化は化学だけでなく哲学にも適用されるという。(まとめに続く…)

「羆嵐」吉村昭(1977)

 吉村昭の1977年の中編「羆嵐」は、1915年に発生した日本最大の獣害事件として名高い三毛別羆事件を題材にした小説である。今期「ユリ熊嵐」という明らかにこの小説を意識したアニメをやっているので、それに関連して読んでみた。

 

羆嵐 (新潮文庫)

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ユリ熊嵐 (1) (バーズコミックス)

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 あらすじは明快。北海道の開拓村を突然一頭の巨大な羆(ひぐま)が襲い、わずか二日間の間に6名もの村民が犠牲となった。羆を退治しようと村民や警察たちは奮闘するものの、移住してきたばかりの村民と官僚主義的な警察には対処する術がなく、熊の恐怖に怯えるしかなかった。村民と警察を尻目に、一人のマタギが孤独に熊と対決する…。
 要は人が熊を退治する話なのだが、人と動物の戦いというテーマは珍しいだろう。小説というものは主に人間の心理を描くものなので、動物を主題に描くということは少ないと思われる。もっとも本作でも実は熊そのものが登場するシーンはさほど多くなく、ラストの熊を斃すシーンに至っては、熊が姿を現してから射殺されるまで、わずか4ページ(文庫本で)しか登場しない。それにもかかわらず襲撃され破壊された家屋の様子や、殺害された人々の生々しい遺体、人肉や髪の入り混じった排泄物など、熊の存在は寒村に根深い痕跡を残し、村民だけでなく読者にも恐怖を与える。人に害なす獣、ひいては自然の恐ろしさを見事に描いているといえる。
 ただここで注目したいのは人間の様相である。動物の話ではあるものの同時に人間をも描いてた小説でもあるのだ(そこに着目するのは野暮だろうか)。つまり、集団と個人の対立である。
 熊を斃すために六線沢の区長は最初に隣村の猟師たちや警察に助けを求めるのだが、最初彼らがとっていた村民に対する傲然な態度とは裏腹に、いざ出向いてみると熊の恐ろしさにすっかり怯んでしまいまるで役に立たない。主に指揮を取ろうとする警察という近代的な組織にとって、熊退治にあたっては大勢で出向いた方がより成功する確率が高くなるはずなのだろうが、マタギの銀四郎にいわせれば、熊は賢い動物なのだから大勢の人間にはすぐ気付いて逃げる。警察という人間相手に権威を振るう組織でも、熊という超越的自然に対しては何の役にも立たないのである。また六線沢の村民が警察の意思に反して囮のため遺体を放置したり銀四郎を呼びにやったりしたとき、分署長が怒る描写がある。組織は規律を遵守するからである。しかし規律は自然との戦いには何の役にもたっておらず、むしろこの場合障害となっている。
 他方で山岡銀四郎は100頭もの熊を撃ち殺してきた実績がある老練の猟師であるものの、素行が良くなく、普段は酒を飲んでは暴れて周囲に迷惑をかける嫌われ者である。そのため六線沢の者達も最初銀四郎を呼ぶことを躊躇い、呼んだらかえって自分たちの結束を乱すのではないのかと思案する。しかし警察の無力が明らかになったあとで初めて現れた彼は、噂とはまるで 別人の、危機的状況にあっても冷静で落ち着いた、大人しい人物であった。一応噂は本当で仕留めた後に住民に狼藉を働き報酬をせびるのだが、熊退治という本業にあっては誰よりもその場に相応しい態度を示すのである。熊に関する豊富な経験知をもち自然の中で生きるうえでの仕来りを知る。何より熊の恐怖に耐える精神力を培っている。それでも恐怖を感じないわけではなく、今まで仕留めたことのないほどの巨大熊を相手にして、仕留めた後も死者のように顔の血の気を失っている。熊を仕留める彼の姿を見ていた区長は、銀四郎が死の恐怖を紛らし、自分が熊にとって無力な存在であることの悲哀を癒すために酒を飲んで荒れるのだと悟る。マタギという生業を営むうえで必然的に抱え込むことになる悲哀は、他者への狼藉という形でしか癒せず、それは共同体にとっては害でしかない。それでも今回の熊事件のように銀四郎のような人間が必要とされる時がくるが、ただ通常時の村落にとっては厄介者でしかない。軍隊、警察という規律を重んじる組織にとっては尚更厄介であり、素行の悪さのため兵役からはすぐ除隊されており、騒動でも警察の意思とは別の行動をとっている。銀四郎が生きているのは近代の人間的な規律とは程遠い世界であり、共同体の論理は通用しないのである。
 熊退治に関して面白いのは、銀四郎が仕留めた人食い熊の肉を村民皆で食べることを「仕来り」として諭すところである。村民たちは隣人や家族を食べ消化した熊など食べる気にはなれなかったが、銀四郎いわくそれが仏への供養となるのだ。この仕来りはどこの地でも行われている習慣にすぎないのだが、入植者の集まりである三毛別の者たちには知られていなかった。結局鍋にして皆で食べることになる(肉はかたく、うまくはないらしい)。この場面での銀四郎は、単なる人の集まりや近代的な組織を超えた、自然に隷属するより巨大な共同体の「仕来り」に従っているといえる。この仕来りは、超越的な自然とともに生きる人々の間でいつしか生じたものであろう。銀四郎はここで村民に自然とともに生きるうえでの仕来りを教え諭す。職業柄抱え込むことになる感情と超越的な自然という共同幻想とともに、銀四郎は生きている。それは単なる人の集まりとしての、もしくは近代的な組織としての共同体のあり方においては忘れ去られるものなのだろうか。
 
追記:ユリ熊嵐との関連について。幾原監督いわく、あまり意識していないらしい。マタギについては誰も詳しくないから少し調べましたという程度で扱うのは良くないという判断だという(『ユリ熊嵐公式スターティングガイド』, 2015)。しかし今回考察したような羆嵐の「集団と個人」というモチーフは、ユリ熊嵐の「集団と真の友愛」というモチーフとどこか通じるところがあるかもしれない。「透明な嵐」という集団構造のなかで集団に馴染まず親友(恋人?)と対幻想に浸る者は悪として排除される。個人(自己幻想)と対幻想をパラレルに語るのは難しいだろうが、集団に混じり得ない人間の生き方という点で共通項を見出してみるのも良いかもしれない。
 

 

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド