錬金術師の隠れ家

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なぜ『やがて君になる』は「百合漫画」に分類されるのか? その証明と意義の考察

 本論で一番主張したいのは第3節「「百合」から「演繹」する」のところです。時間がなければそこだけ読むことをお勧めします。

 

 今から仲谷鳰の漫画『やがて君になる』が、なぜ「百合漫画」に分類されるのかについて考えてみたい。

 一見奇妙な問いにみえるだろう。書店の百合漫画コーナーでこの漫画を手に取り、実際に主人公と先輩の同性間の恋愛が主題として描かれているのを読んだわれわれは「当たり前ではないのか?」「そんなこと問う必要がどこにあるのか?」と思うだろう。だがこれを百合漫画だと思って読まない人がいるのである。一度この漫画を取り上げた書店員による宣伝が炎上したことがあった。「この作品は本格的な百合漫画でありながら、その範疇に収まりきらない魅力で溢れ返っている。」と評したからである。当人にとっては褒めてるつもりだったのかもしれないが、百合に己の実存を賭け、このジャンルの繁栄を願っている作り手たちや読者たちからしたらたまったものではない。この人は百合を舐めている、なぜ異性愛には言わないことを百合に限っては言うのか、そういう反応が相次いだ。

https://kindou.info/75261.html

 これは20161111日に書かれた記事で、炎上したため謝罪が追記された。ほぼ2年前の出来事である。ところが、2018年の10月にアニメ化されることで本作を持ち上げる記事が数多く書かれるにあたって、これとそっくりな言説がまた生産されてしまった。

https://web.smartnews.com/articles/fcA9985fxYy

 この記事に至っては、「仲谷氏本人としても「百合漫画」を描こうとしているつもりはなく、「恋愛」を全面に押し出した作品を描いているつもりだと公言しているらしい。」という誤った情報を垂れ流している時点で、論じる意味すらないデマゴギーといえるのかもしれない。一応、先に挙げた記事とは、百合というジャンルの存在を軽視して、いわゆる「百合を超えた普遍的で尊い何か」という枠組みで語ろうとしている点で共通している。

 もっとも、実際不用意極まりない発言であったという点では同意するが、他方で「普遍性」の観点からこの作品を見ることはまあ不可能ではない、という印象も抱いた。直接の言及はなく断定はできないが、主人公の小糸侑は第1巻では異性愛者どころか同性愛でもない「アセクシュアル」らしき存在、もしくはそれに類する存在として描かれる。この点が味噌で、「誰も好きにならない」という主人公の気質に対して七海燈子は目をつける。とある理由から自己に対する愛情を遠ざけてしまうようになった燈子は、「誰も好きにならない」という侑ならば恋愛関係になってもそこまで自分の内面に入り込んでくれないだろうと思い、交際を持ちかける、というのが本作のあらすじである。この関係には別に百合というジャンルの核である「同性間の恋愛関係」は必ずしも必要とされない。一方が人に強い感情を抱くことがなく、他方が自分を愛さない人を欲するという構図があれば、どんな性別を当てはめてもよいような気もする。

 しかしそれによってこの漫画は「百合漫画を超えた何か」と言って良いのだろうか。作者やファンが喜んで受け入れているところの「百合漫画」というジャンルを否定してよいのだろうか。ジャンルを否定したら何かまずいことにならないだろうか。それが本稿で掲げる疑問である。

 結論からいうと、『やがて君になる』という漫画が分類される「百合漫画」というジャンルは、本作の読書経験に必要である。したがって「百合漫画」というジャンルは軽視するわけにはいかない。それを本作のあるシーンを取り上げて証明していくことになる。

 

「百合漫画」とは?

 まず、漫画のなかでもそもそも「百合漫画」とはどういうジャンルなのか?それを確認しておこう。第一に思い当たるのは「女性同士の恋愛を主に描くジャンル」という定義だろう。だが、恋愛に至る以前の片思いで終わることや、失恋を描くこともあるし、恋愛を意味しない性欲を描くこともある。あるいは、(激しく非難されることが多いものの)物語の一過程として男性との交際を描く場合もある。はては、恋愛として表現されているわけではない、もしくは明示されていないが、同性同士の強い絆、「引力」が描かれた作品も「百合漫画」としてカテゴライズされることもある。この手の作品に至っては、もはやジャンルによる規定を超えて、読者の構想力による働きかけがあって初めて「百合」であると認識される。こうした混沌のせいで、コミケのジャンルコードとして「百合・ GL」が未だに成立していないといえるのかもしれない。こうした事情もあってか、「百合」というジャンルは恣意的な使用をされることが多く、「百合作品」であることをキャッチコピーで謳いながら、読者の期待とは程遠いヘテロエンドを描くような作品が現れてはしばし批判されてきた。

 このように「百合漫画」を定義するのは大変難しく、歴史的背景の分析や認識論的考察をも伴うがために、それをきちんと考察するには本を一冊書く必要が生じるであろう。筆者にはそんな余裕はないので、「百合漫画」のジャンルがもつ難しさを考慮しつつ、ある程度便宜を図って狭義の定義を採用することにする。以下の2点がその核となるだろう。

① メディア面:「百合漫画である」と、実際にそう宣伝されている。

② 漫画表現面:女性同士の恋愛に関係する表現が描かれる。

 

「百合」を「帰納」する

 それでは、『やがて君になる』が「百合漫画」に分類されることを確認しておこう。まずは形式面。第1巻のあとがきを見るに、作者や編集担当者が本作を「百合漫画」として分類していることは明白である。また電撃コミックスの折り込みチラシでの宣伝文句は「今もっとも切ないガールズラブストーリー」である。公式で無料購読ができる ComicWalker のサイトをみると、「百合」がタグ付けされている。また「百合展」への展示に参加したり、書店の「百合漫画」コーナーで平積みされていたりと、『やがて君になる』が「百合漫画」として積極的に宣伝され、また受け手もそれに反発していないことは十分確認される。

 では、内容面はどうか?先ほども述べたように、メインカップルの侑と燈子の関係は一筋縄ではいかない。侑は恋愛感情を知らず、燈子はそんな彼女の性質に依存して、自分のことを好きにならないことを絶対の条件とした交際を申し出ている。いや、それどころか「付き合ってなんて言わないから」(第1巻, 105ページ)と、自分たちの関係を「付き合っている」とみなしていないがために、この関係に名前をつけることはなかなか難しい。だが、性的指向が女性から女性に向かうものではない、という要素があるからといって、「百合漫画」ではないとするのはいささか短絡的すぎる。それに、関係の内実はどうであれ、女性同士が交際している、という関係の「見かけ」は誰も否定できない。本作の人間関係の普遍的様式を読み取ろうとする読解は別に否定はしないが、本作の要となる人間関係の具体的様式を離れた読解は地に足がついていないと言わざるをえない。

 それに、メインどころではないのだが、本作では女性同士の交際や恋愛感情が、侑や燈子のそれとは全く違う、この二人と比べれば全然歪でない形で描かれているのである。第3巻で侑の国語教師の箱崎理子と喫茶店の店長の都が交際し同棲しているところが描かれる。それに、燈子の右腕の佐伯沙弥香が、実は中学時代に女の先輩と交際しており、現在も橙子に片思いしていることが判明する。他にも、第2巻には小ネタとして橙子が百合小説を購入するシーンがある。こうしたシーンをみるだけでも、『やがて君になる』は「百合漫画」というジャンルに属するという確信が強められる。

 以上、『やがて君になる』が「百合漫画」というジャンルに属することに対して帰納的に証明を図ってきた。ところで、実は本論で本当に論じたいのはこの、理子と都の交際が発覚するシーンの描き方である。

 

「百合」から「演繹」する

 第3巻での国語教師と喫茶店店長の関係の描かれ方をみていこう。燈子と侑、沙弥香、叶が喫茶店を訪れる場面の14ページ目、店に入ってきた理子に対して、ヒキのコマで店長が何食わぬ顔で「おかえり」と挨拶をしている。15ページでは沙弥香が「先生店長さんとお知り合いなんですか?さっきおかえりって」と問いかけ、それに対して理子は見るからに下手な誤魔化しをする。16ページの最後では沙弥香が意味深げに二人に視線を向ける二コマが挿入される。ページが進んで、24ページでこの二人が同居してることが発覚、26ページではキスをし、この二人が交際し、同棲していることが確定する。コマの運び方が見事で、理子と都が同棲しているという事実に至る導入部として実にうまく機能しているシークエンスである。

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 しかし、実を言うと、国語教師と店長が付き合っているのではないかという推測は、シークエンス全体を見渡さなくても、箱崎と店長が顔を合わせるシーンが初めて導入される14ページの最初の一コマを見た時点で既に成り立っているのである。

 まず、日常的に「おかえり」が言える間柄なんてものは、共に暮らす家族か恋人、同居人くらいのものである、というのは一般的な慣習として確認されるだろう。もちろん、このたった1コマだけを二人が付き合っていることの推測の根拠とするのには若干不十分である。女性が女性に対して「おかえり」と言っているシチュエーションだけ拾えば、恋人以外の関係も考慮されるからだ。いわんや、異性愛中心の恋愛漫画にどっぷり浸かって百合モノを読まないような人であれば、このシチュエーションが与えられただけで、この女性同士が付き合っている可能性に思い当たることはないだろう。

 それでは、この時点でこの二人が恋人関係にあることを強く推測させる根拠は一体どこにあるのだろうか?

 それはまさしく、本作が「百合漫画」としてカテゴライズされている、という事実にある。「女性同士の恋愛関係が主題に描かれている」という情報を事前に把握していれば、主人公カップル以外にも女性の同性愛カップルが登場する可能性はあるだろう、という事前了解が可能となるのである。それゆえ、14ページの女性が女性に「おかえり」と挨拶しているシーンがたった一コマだけでも描かれていると、この二者がともに暮らしているという推測が成り立つだけでなく、「百合漫画なのだし、この二人は付き合ってるのでは?」という推測が可能となる。もちろんこのコマの時点では確証できないが、同性同士で付き合っているという推測の選択肢がそもそも候補にすら上がらないような作品群と比較すると、たった1コマを与えられただけでこうした推測が可能となるところに、「百合漫画」というジャンルの強い特徴があるように思える。

 この推測は正しいはずだ、という確信は15,6ページでますます強くなる。単に同居しているだけなら一緒に住んでいることを誤魔化す必要はないはずであり、「それができないのは、生徒たちにはあまり話したくないプライベートな事案があるのではないか?」という推測が新たに与えられる。そうした推測は、沙弥香が二人に眼差しを向けるコマが描かれることでさらに強化される。沙弥香も不審に思っているのだし、先生の発言はやはりどこかおかしい。やはり二人は付き合っているのではないか、と、沙弥香と読者の思考が共有されることとなる。ただし、沙弥香と読者とでこの出来事を見つめるうえで異なる点がある。沙弥香は本作が「百合漫画」に分類されていることを知らないが、対して我々はそれを知っている。それゆえ、14ページの1コマ目をの出来事を見た限りは沙弥香は「おや?」と思うだけで、いきなり理子と都が付き合っているのではないかと考えが飛躍することはないだろう。対してわれわれは、14ページのアケの部分からすでに、「この二人は付き合っているのではないか?」という疑問が確信に変わり、やがて事実として確定していくプロセスを楽しむことができる。もっとも、この時点で読者は沙弥香が経験則によって、この二人が「具体的な関係」にあるのではという疑問を抱いたのだということを知らないのであるが。

 ただ、このような読みは経験としては成立しているものの、つねに意識化されているわけではない。本作が百合漫画にカテゴライズされているのは読者は自明のものとして読んでいるのだし、本作のジャンルはなんだったかなんてことは、そのジャンルの意味と矛盾するような出来事が描かれでもしない限り意識されたりはしない。しかし、「おかえり」というたった一言の発話だけで、「この女性二人は付き合っているのでは」という推測の選択肢が現れるのは、本作が女性同士の恋愛を主題に扱っている、という読者の前了解によるのである。この推測は読者の主観的な想像ではなく、ジャンルという客観的な情報を知っていれば誰にでも可能となる。言い換えると、このときの読書経験は、ジャンルからの「演繹」であるといえるだろう。

 このように、百合というジャンルが指定されていると、上述のように人間関係を読み解くための手がかりになるのである。無論、ジャンルによって指し示される方向とは別の表現をすることで意外性を演出するということもありうる。14ページ以降の展開について言えば、沙弥香が二人は付き合っているのではと疑問を抱き問いただすも、別に付き合っていなかった、という展開になる可能性も考えられうる。しかし、ジャンルによる志向性も、ジャンルに背く意外性も、いずれにせよジャンルというベクトルが働くことによって読み取ることが可能となるのである。*1

 

まとめ 「ジャンル」の意義と、警鐘

 本稿では『やがて君になる』が「百合漫画」というジャンルにあたるということを、数々の情報から帰納的に証明していく作業を行なったうえで、「百合漫画」というジャンルが『やがて君になる』の読解作業に影響を及ぼしていることを確認した。「百合漫画」はジャンルとしては曖昧だという批判はあるが、少なくとも今回取り上げたシーンでは演繹するための原則として十分機能しているように思える。

 「百合を超える崇高な何か」という言説がなぜ生まれるのか、ということの分析は本論の範囲外だが、こうした言説が問題であることの理由は数多くあげられる。まず、百合を自らのアイデンティティとみなすファンや作者への中傷となるということ。次に、「百合を超える崇高な何か」とはおそらくは「ヒューマニズム」や「純文学」といった普遍的価値を有した「高等ジャンル」のことを指すのかもしれないが、それは「百合」というジャンルがもつ固有性を軽視し、抽象的な価値に貶めるものであるということ。

 そして本稿の議論によって、こうした言説に対しての批判をあらたに付け加えることができる。「百合漫画」というジャンルはわれわれの読書経験を導く道標なのである。それを作品紹介の時点で否定することは、新たな読者たちの読書経験の妨げになり甚だしく有害である、と。

*1: 本論で行なった『やがて君になる』第3巻の分析は、いわゆる「ジャンル批評」ではない。つまり、ある一つのジャンルに属する作品が、そのジャンルの形成発展に対してどのような寄与をしたか、ジャンルとして何が新しいのかをみる批評というわけではない。むしろ本論の分析は「読者反応批評」を念頭に置いている。読者反応批評とは、スタンリー・フィッシュとヴォルフガング・イーザーに代表される、「読む」という経験にあたって、テクストの作者やテクストそのものではなく、それを読む「読者」の読書行為を重視する文芸批評の分析手法である。テクストの内容はそれ自体が無時間的に与えられるのではなく、読者が1ページ、1行、1文字ずつ読んでいく過程を経ることで理解されていくものである。そのうえ、読者は作者と必ずしも共有されない時代や言語、考え方といったコンテクストを背負っている。読者反応批評はこうした「読者」という読書経験の1アクターの性質を重視して、テクストを読むにあたってどのようなことが生じているのか、ということを念頭において分析するのである。この方法によって明らかになるのは、「読む」という経験にあたって通常はまず意識されないような前提条件が何かということや、読むときどのような言葉の推測の作業を行なっているのか、という読解のアクチュアリティである。

 読者反応批評の方法論を(論者がドイツ語の授業でお世話になった)鍛治哲郎先生の言葉を借りてまとめると、以下のようになるだろう。まず、「高速度カメラを通して見るようにゆっくりと一語一語に注意を払いつつ読む。」そして「ある要素がなぜ取り上げられているかを尋ね、切り換え箇所や連結部分––そしてそこにあらわれる空白箇所や不確定箇所––に敏感に対応する。第二に、そのような要素や切り換え部分などに対して、多くの場合それと意識されずに発動される解釈戦略や規範などを掘り起こしてみる。第三に、テクストに編み込まれている作者を囲む時代と社会の慣習や知識・言説等にも意を用い、読者自らを構成するそれらとの違いを確認する。」(「「読み手」のあなたへ––読者反応論」, 丹治愛編, 『批評理論』, 2003,pp.38-39)

 本論においては、読者反応論の言葉を使うと、「おかえり」という発話行為の意味する一般的な慣習が、本作を条件づける「百合漫画」というジャンルと「結合」することで、当のシーンが注意を払うべきシーンとして「選択」され、「百合漫画」というジャンルの果たす機能が顕在化する、といえる。

映画感想:劇場版ポケットモンスター キミにきめた!(2017)

 劇場版『ポケットモンスター キミにきめた!』は、それまでの劇場版ポケットモンスターシリーズのイメージを一新しようとする試みであった。内容としては、ポケットモンスターの第1話をリメイクし、サトシとホウオウとの出会いを描くというもので、現行のファンのみならず、昔ポケモンをやっていたが今はやっていないというような層をもターゲットとし、事前評判でも大きな期待を集めていた。ホウオウはこの1話以降、ストーリーで特に言及されることがなく、「あれは一体何だったのか?」と訝しがるファンに対して20年ぶりに回答が与えられることになる、と思われていたのだ。

 だが、映画の情報公開が進むにつれ、いくつか批判の声が現れた。旅の仲間がタケシとカスミではなく本編には登場しないキャラクターであり、またその手持ちポケモンもまた放映当時はまだ存在していなかった第4世代のポケモンであった。さらに、ライバルキャラのポケモンも第7世代のポケモンであり、そのうえ最新シリーズの幻のポケモンまで出してしまったのだ。つまりこの映画では「歴史の改変」が行われている。本作は本編と地続きというわけではないのは明らかだった。

 それにもかかわらず、いやそれどころか、こうした改変は本作が投げかける問いに非常に密接に関係しているものであると、去年実際見に行ったとき私は感じたのである。現行シリーズのポケモンが登場するのは、まさしく「今」の設定でポケモン映画を作っているからである。つまり、「もし2017年現在のポケモンシリーズの設定でポケモン初期の話を作り直したら」という仮定法が働いているのである。この、我々が生きている「今」が重要なのである。タケシやカスミが出てこないことに対する不満はあってもまあ仕方がない。しかし、本作がもつ「if」の表現に意味がないなんてことは決してないのである。

 とりわけ私が本作を見て強く抱いたのは、「物語の作りが非常にしっかりしている」という印象だった。しっかりしているとは、物語の伝統に忠実であるということである。この伝統への忠実さは、「私たちにとってポケモンとは何か?」というポケモン20周年になって劇場版を通して突きつけられた問いとそのまま連関してあり、ポケモンというものを考えるうえで重要であるとも思えた。

 

偽主人公としてのクロス

 この物語の構造を体現しているのは、サトシとクロスの関係である。本編のオリジナルキャラクターであるクロスは、プロップなどの物語理論において「偽主人公」とされる存在である。偽主人公とは、物語において主人公と同格の存在でありながら、特別な資格を与えられなかった登場人物を指す。「悪役」や「ライバル」ともいう。例えば『シンデレラ』では、シンデレラに意地悪を働いていた姉はシンデレラと同じく王子様から差し出されたガラスの靴を履こうとするが、靴のサイズが合わなかったせいで無理に履こうと足を切り落とすことになる。このように、偽主人公とは物語において「特別」になれなかった、「主人公」になれなかった存在ということができる。

 クロスは典型的な偽主人公である。同じポケモントレーナーでありながら、ポケモンと友達になることを目的とするサトシと違い強さを至上とする価値観をもつ。ヒトカゲを見捨てたことでサトシに敵視され何度も敵対するが、最後の勝負で敗北しサトシに「勝者」の資格を明け渡す。ところがそこで告白したのは、なんと自分もサトシと同じく旅立ちの日にホウオウを見たことであった。同じ出来事を経験したのになぜ自分にはにじいろのはねという資格が与えられなかったのか、なぜ自分は虹の勇者として認められなかったのかという苦悩が嵩じて、サトシから羽を奪いホウオウに近づこうとして失敗する。

 一般に偽主人公の出番はだいたいここで終わり、あとは足を切り落として退場したシンデレラの姉や、女神に嘘をついたせいで実際落とした自分の鉄の斧を失った嘘つき男のような末路を辿るが、クロスの場合は更生のチャンスが与えられた。襲いかかってきた相棒のルガルガンを体を張って受け止め、相棒と出会った頃を思い出すことで、ルガルガンの暴走を止め改心に至る。


サトシのあり得たかもしれない可能性

 偽主人公とは「主人公になれなかった登場人物」であるが、逆に、主人公のサトシもまた、偽主人公のクロスのようになっていた可能性がある。まず、クロスの手持ちのルガルガンガオガエンは、現行のサンムーンシリーズでサトシが使っているポケモンと同じ種族である。これらのポケモンが偽主人公の使用ポケモンに採用されたのは、単にガラが悪くて悪役っぽいということもあるのだろうが、「サトシのあり得たかもしれない可能性」というものが、強さを求め弱きを見捨てるクロスの姿勢や手持ちポケモンには見受けられる。実際、クロスに敗北した時のサトシは相棒がより強いポケモンだったときの可能性に引かれ、にじいろのはねの美しい光沢を失いかけている。そして、「ポケモンがいなかった世界」の夢に溺れてしまう。

 クロスの非情な振る舞いは決して人ごとではない。昔はどれだけ正義感が強く友を大事にしていても、挫折を味わい人となりが変わってしまうことなんてザラにある。それがサトシの、もし遅刻しなかったらゼニガメフシギダネを選んでいたのに、という本編では決して発されることのないセリフに現れている。サトシとて今とは違う道を進む可能性があり、足を踏み入れかけたということである。サトシだけでなく、20年も経ってそのような心変わりを経験した人たちは少なくないはずだ。


未来の可能性

 それでも、未来にはさまざまな可能性が開かれている。サトシとマコトとソウジは別の道を歩む。この先何が起こるかはわからないが、しかし希望だけはある。希望があれば旅は続けられる。

 これまで見てきたように、本作にはサトシのあり得たかもしれない可能性という形での if が提起され続けている。これらの if は我々に対して問いかける。「もしあなたもクロスのようになっていたら?」「もしあなたがポケモンをやってこなかったら?」「もしポケモンがこの世になかったら?」「そもそもこの世にポケモンという存在はいないけれど、それでもあなたにとってポケモンとは何?」と。

 ポケモンにであったばかりの人には新たな可能性を抱かせ、長いこと知っていた人にはかつて抱いていた希望を思い起こさせてくれる、そんな映画だった。

傘木希美という「作品」ー『リズと青い鳥』を巡って(みぞれとは別の視点から考察する)

危機の存在するところ、救いもまた育つ。(ヘルダーリン)

 

 「物語はハッピーエンドがいいよ」とは、映画『リズと青い鳥』のなかで希美が言った言葉であるが、これは呪いの言葉である。それというのも、物語を楽しむ者は、実際に語られる出来事を無理にでもハッピーエンドにつながる出来事に解釈してしまいがちになるからだ。この呪いは鑑賞者だけでなく、語る本人にもふりかかる。希美はハッピーエンドを欲しているが、彼女が実際経験した出来事はハッピーエンドにつながるものといえたのだろうか。

 

危機

 こんなことは『リズと青い鳥』を最初に見たときは考えもつかなかった。それというのも、二人がハグを重ねた後に挿入される二羽の鳥が飛翔するイメージは、二人の永遠の愛を物語るハッピーエンドを示唆するものに見えたからである。だが、何度も見返しているうちに、その直前のシーンで画面と語調が雄弁に語るのは、とても明るい感情などではなかったと気づいた。

 みぞれが「大好きのハグ」を無理やりにでも希美に行うシーン。このゲームでは抱きしめるみぞれだけでなく抱きしめられた側の希美も相手を抱きしめて相手の好きなところを言わなくてはならない。みぞれが強い意志を抱いて希美を掴んで離さないのとは対照的に、希美はゲームのルールに強制されて手を添えているだけのようにみえる。劇伴はクライマックスを盛り立てるのでなく、二人の成り行きを見守り続けるかのような静かな音である。みぞれが希美の「すべて」を開陳するがごとく笑い方や足音の細部に至るまでを挙げ連ねるのに対して、希美はただ一言「みぞれのオーボエが好き」という。沈黙の後、ごちゃごちゃし出した感情をかき消すかのように笑い出した希美は、「ありがとう」と三回みぞれに語りかける。この「ありがとう」が問題で、かなり含みを込めた言い方になってるのである。

 極め付けに、舞台挨拶やパンフレットでの対談では、次のような証言がある。作品外の情報を参照するのは不粋であるし、作品内から導き出される解釈の妨げになりかねないのであまりしたくはないのだが、これは引用せざるを得なかった。これらの発言、結構気にしている人もいるのではないだろうか。

 

山田尚子:ラストの大好きのハグをするシーンで、希美がみぞれに言う「ありがとう」って、額面通りの「ありがとう」だけではないと思っていて。(パンフレット、p.13

 

東山奈央:未来に向かって進むことを選んだので、希美も前進はできていると思います。ただ、その清々しさって普通のものではないんですね。大好きなみぞれが、無口なみぞれが、言葉を尽くして希美のいいところをあげてくれても、そこに自分が大切にしていたフルートのことは入っていないんですよ。だから笑うしかない。「ありがとう」と告げるシーンも心からの感謝ではなくて、「もう結構です」という意味も込められているんです。だから、希美はあきらめつつ、前進を選んだという感じなのかなと思っています。(超!アニメディア: https://cho-animedia.jp/special/41881/ 2018.05.14アクセス)

 

 抱擁は人間関係を描く作品群のなかで常にクライマックスとして表現されてきた。それは和解の象徴であった。だが、『リズと青い鳥』では和解どころか、冒頭から繰り広げられている、一見仲の良さそうにみえてその実全く交わる様子のない希美とみぞれの二人のずれの延長が描かれているのである。

 これがハッピーエンドにつながるといえるどうして言えるだろうか。

 

救い

 ……と、反語調で本作に対する怨恨を叫ぶ人は多いだろうが、実は傘木希美は上手いことハッピーエンドなるものを導き出そうとしているのが、ハグの直後のシーンを見るとわかる。

 希美はみぞれと別れて一人になってから、みぞれを吹奏楽部に誘った過去を思い出している、あるいは覚えていることが示される。(思い出したのか覚えていたのかは判然としないが、それは問題とはならない。以降この行為は「思っている」ないしは「回想」とでも記述しておこう。)その後スーッと息を吸い込み、笑顔を取り戻し、前を向いて歩いていく。後ろ姿をみると、左手で右手を掴んでいる。

 ここで疑問が浮かぶ。先のシーンで希美は欲しい言葉を言って貰えなかったにもかかわらず、なぜ前向きな顔をしているのだろうか。

 このシーンでポイントとなるのは、①過去の回想を入れていること②色彩表現と相乗的な行為、の二点である。

 

 ①について。ここで希美はみぞれと初めて会った時のことを思っているが、それだけでも本作でかなり特異なシーンと言える。それというのも、希美による回想シーンは今まで一度も入ってこなかったからである。これは、希美との思い出が頻繁にイメージとして表現されていたみぞれとは対照的である。今まで一度もなかったものがここで導入されることに意義がないはずがない。

 みぞれは文字通り「過去を生きる」人である。「希美にとって何でもなくったって、私にとってはずっと今」という台詞にもある通り、希美と一緒にいる思い出に幸福を覚え、希美が去っていった過去に恐怖する。度重なる回想シーンだけでもよく分かるが、それだけでなく、みぞれが希美と単に顔を合わせるシーンや、離れるシーンだけでも過去が再現されていることがわかる。永遠に繰り返される喜劇と悲劇。それは、彼女の生の混沌を物語っているともいえる。

 それに対して希美は過去を過去として振り返るつもりはあまりない。むしろ、希美の口から二回も発せられる「ハッピーエンド」という未来を志向しているようにもみえる。

 この「ハッピーエンド」なるものが一体なんなのかは知る由もないが、少なくとも例のハグのシーンで希美がみぞれに望んでいたことを「ハッピーエンド」につながるものとみなすことはできる。物語のクライマックスに現れるハグは、和解の象徴であり、したがってハッピーエンドを導くのだから。だが、結局希美が望むところの「希美のフルートが好き」とはいってもらえなかったわけである。ここから希美はどう折り合いをつけていくのだろうか。

 ここで希美が持ち出した戦略というのは、まさしくみぞれが常日頃行なっている「過去を生きる」ことである。みぞれは希美と一緒にいるためにオーボエを続けてきた。みぞれは常に希美との思い出から承認を貰って生きている。こうした生存のスタイルを希美はここで初めて導入する。妬みもし愛しもする音を、自分のために作り上げてきた鎧塚みぞれという人物を音楽の道に誘ったのは、まさしく傘木希美自身であった。みぞれが希美の声によって未来に向けて旅立つ己の実存を呼び覚まされたのであれば、希美の場合はみぞれに声をかけたという記憶そのものが希美自身の実存を呼び覚ます。この回想の直後、希美が前向きになったのは、まさしく自分がみぞれを音楽の道に導いたことを自覚したからではないだろうか。

 ここで生じた感情の名前はなにか。言葉では表されてはいないが、少なくともこのシーンで行われている無意識的な行為の意味をみていくことで推測することはできる。

 

 ②希美が前向きになったことの確証は、本作の色彩表現や登場人物の行為にも現れている。

 本作では希美とみぞれという二人の人物の対照性を表現するために、両者の好きな色であるところの赤と青、暖色と寒色の対比が使用されている。 *1 希美が愛用するピンクの腕時計は本作全体を通じて希美という人物の存在を表象し、みぞれが希美から授かり大切にしている青い羽根は、依存と幸福、自由というみぞれのあり方を示す。また両者の目の色が互いをみているかのように互いを表す色を映しているところに、色彩による対比と相互性が明瞭に現れているといえる。また童話パートでも、青い鳥はいわずもがな、リズも赤みをおびた服を着ており、また赤い実の存在もあって、純色によって赤と青の対比が表されている。

 そして、両者の混色であるところの「紫」は、実は本作ではあまり用いられていない。他の登場人物の瞳が紫色であったりはするが、希美とみぞれの装飾品や背景に紫色はなかなかみられない。また、青や緑、黄色を用いてリノリウムの床を照らし出すことはあるが、紫がかった光景は不思議なくらいみられないのである(童話パートには紫の色相は普通に見られるが、むしろ本編の緊張感を和らげるために多様な色相を使っているとみるべきである)。そして、帰結部ではベン図のイメージで赤と青が混じり合い紫色を形成する様子が描かれる。 *2

 

 このように希美がみぞれと重なり合う色であるところの「紫」に至るために、希美は自分の色であるところの「赤」をどのように使用しているだろうか。注目すべきは希美の印象的なピンクの腕時計である。

 生物学室で希美とみぞれが対話するシーンでは、希美はみぞれに隠すように両手を後ろに回す。この動作が「私、みぞれが思ってるような人間じゃないよ。むしろ、軽蔑されるべき」という台詞と並行しているとすれば、このとき隠されることとなる希美の腕時計は、希美の存在そのものを表象しているといえる。そして、髪をいじる癖をやめてスカートの裾をしかと握りしめ、希美に思いの丈をぶつけるみぞれとは対照的に、しきりに足を交差したり、腕時計をいじったりと希美の動きには癖が多発する。特に自分の存在を表す時計を右手で思い切り握りしめてしまうのは、自分自身に対する自戒とみなして差し支えないだろう。この強く左手の腕時計を締め付ける動作は、みぞれがハグを強行することで中断させられる。

 回想直後のシーンに移ろう。希美が歩くのを後ろから映すカットであるが、ここでは先ほどとは逆に、左手で右手を軽くつかんでいることが確認される。先ほどの自嘲的な行為とは対称的な動作は、そのまま行為の意味の逆転も意味していると考えるべきであろう。そして、こうした逆転が可能になったのは、過去を思い出すことによる自身の実存の再構成によるのである。深呼吸をして自分自身に息を吹き込むのと同時に、フルートの音を好きといってもらえなかった絶望を、みぞれという存在に関わる別の感情に置き換える。それによって自嘲的な気分から抜け出すことができたとすれば、ここで生じるのはみぞれを音楽の道に誘ったことの「誇り」とでもいえるものだろうか。この誇りによって、自分で自分をしめつける苦しみから解放されるのである。

 

まとめ

 『リズと青い鳥』のクライマックスでは、少なくとも、みぞれが自分の欲しい言葉をくれなかったあのままでは、希美にとってのハッピーエンドになりえなかったのが、みぞれとの出会いを思い出すことによって、上手いことハッピーエンドに昇華できているようにみえる。出会ったときから希美に自身の存在理由を託していたみぞれと同様に、希美もまたみぞれを自分の存在の条件として自己を確立していくことになる。

 これはある意味で、自分という「作品」を作り上げるまでのプロセスであるといえる。希美の一言によって喜劇のクライマックスと悲劇のクライマックスを次々と繰り返すみぞれの生はいつも「最終回」であり、完結性を重んじる作品としては到底成り立たないという意味でも「狂気的」と言えた。それとは対照的に、希美はちゃんと物語の落とし所を物語という枠の終盤に落とし込み、自らの生という「作品」を作り上げるのである。

*1:宝島社の公式ホームページより( http://tkj.jp/info/euphonium/ )。厳密には、希美の好きな色は紫とピンクなのだが、本作では少なくとも希美が紫系のファッションをしている描写はない。

*2:紫色が効果的に使われるのは、「あぁ神様、どうして私にカゴの開け方を教えたのですか––。」と、希美が童話の最後の一説を呟くシーンである。ここでは希美が校庭の藤の木の絡むあずま屋のベンチに腰掛けて外を見ている。このシーンの重要性は、童話のセリフや校庭に一人で出るという行動でもそうであるが、色彩表現にも現れている。まず、希美とみぞれを表すところの赤と青が、ここで初めて、紫がかった空と街並みとして混じり合う。希美とみぞれが互いの立場の逆転を自覚するという仕方で、両者は混じり合っている。このシーンの直後、希美とみぞれの決定的な断絶が明らかになるのだが、少なくともそれを認識するための一歩を両者は共有したといえる。

鎧塚みぞれという「狂気」-『リズと青い鳥』を巡って(前編)

 本稿ではアニメ『響け!ユーフォニアム2』(2016)と『リズと青い鳥』(2018)を題材にして、鎧塚みぞれというキャラクターの性質、ならびにそれが作品において表す機能を考察する。特定人物に対し素朴で重い感情を向けるみぞれの心のあり方が、経験則や作者の意図から判断すると普遍的なものとみられると同時に、作中の言説や同じく経験則からしても異端めいてみえることに着目し、鎧塚みぞれが一つの「狂気」の形象として現れること、それが『リズと青い鳥』の物語を動かすよう機能していることを指摘する。

 

「恋に狂うとは言葉が重複している。恋とは既に狂気なのだ。」(ハイネ)

 
普遍と異端

 私が『響け!ユーフォニアム』の二期第4話の鎧塚みぞれの告白を聞いて抱いたのは、「素朴だ」という印象だった。鎧塚みぞれは百合的に「ヤバい」という前評判を聞いていたし、1話からしてみぞれの面倒をみる吉川と希美の復帰を手伝う中川の立場の違いや、復帰を拒否する副部長の思惑といった政治が繰り広げられていたのもあって、真相は一体どんなものだろうかと身構えていたのだ。しかし、実際放映されたのを見てみると、そこで吐露されたのはさほど複雑な感情ではなかったと思ったのである。孤独だった自分と友達になり、音楽の道に誘ってくれたことから、希美を自分の存在理由としていて、希美とともにいるただそれだけのためにオーボエを続けていた。しかし、一年前希美が部活から去って以降、取り残された苦しみを抱き続けており、希美との絆が切れるのを恐れ唯一残されたオーボエを吹き続ける。優子に喝を入れられて、京都大会で金賞を取ったときの喜びや音楽を奏でることの喜びを自覚させられるものの、3年生になったとき、再び希美との接点を失うことへの恐れから「本番なんて一生来なくていい」と思うに至っている。言葉にするのはなんとも容易い。

 
 こうした特定の他者に抱く強い感情というものは、実際青少年が抱くものとしては普遍的なもののように思われるのである。恋人に限らず、友人や家族などといった相手を大切にしたり依存したりすることは、未成年が自立するうえで実際通過する過程として現れることが多い。現に鎧塚みぞれ役の種崎敦美氏は、『リズと青い鳥』の4月4日の完成披露試写会で、同性の友達に対して強い感情を抱くことがある、という感想を表明していた。製作者が鎧塚みぞれというキャラクターを通して表現したいのは、まさしくそうした普遍的感情であろう。

 
種崎:「みぞれたちと同じくらいの時期にすごく大事な子が私にもいて。それこそ(みぞれと同じように)その子と一緒にいたいがために、同じ高校を選ぶくらい」「一緒にいないときは、その子がいるかもしれない方向を見る、とか」「でも、意外と女子ってそういうところある」(コミックナタリーより https://natalie.mu/comic/news/276562 )

 
 だが、自分が音楽をやる理由がただ一人の人間に帰せられているというのは、いくらなんでも動機付けとしては過剰ではないかという印象もあった。音楽をやる理由は人それぞれであり、もちろん消極的な理由で音楽をやる人間もいるであろう。しかし、音楽そのものが特に好きという訳ではないのに、ただ特定の個人と離れたくないという理由だけで、毎朝誰よりも早く練習しに音楽室に通うというのはとても常人にはできるものではない。あまつさえ、彼女は誰よりも高い演奏技術を身につけたのである。それは、『リズと青い鳥』で「普通の人」の希美が嫉妬を抱くほどの。

 
 実際、告白を聞いた久美子は言葉を失い、「こんな理由で楽器をやっている人がいるなんて、思いもしなかった」と理解不能の旨を示している。本作で相談役としての頭角を現しつつある主人公の久美子でさえ、まともに対応することのできないみぞれの目的は、あまりにも純粋すぎ、あまりにも音楽本来の目的とかけ離れているがために、普遍どころかむしろ「異端」であるということも、本作では提示されているのである。

 


文学的な狂気

   このような「普遍」と「異端」を両立させる鎧塚みぞれの傘木希美に対する志向性は一体何と呼ばれるのだろうか。直観やパンフレットに書かれてあったことを頼りにすれば、それは「」と呼ばれるものだろう。監督と脚本家の対談では「愛」と「恋」の違いが示されている。前者は持続的で、希美がみぞれに抱く感情がそれであり、後者は刹那的で、みぞれが希美に抱く感情がそれであるとされる。みぞれは希美とともにいる時間を瞬間瞬間生き抜いている。みぞれとの初めての出会いを終盤に思い出した希美とは対照的に、みぞれにとっては出会いや別離の記憶が常に現前している。それは刹那的であるがゆえにいつ終わるとも分からない。そんなみぞれの破滅的な生が「恋」の概念に現れている。

 

 だが、「恋」とはいかにも曖昧な言い方である。もちろんみぞれの感情は同性愛的なものと見ることもできるだろうが、それでは本作で意図されている、異性愛者も含む多くの人々が抱くであろう「親友への強い感情」を取りこぼしてしまう。みぞれの感情を同性愛や異性愛に共通するような「恋愛」と断定すると本作の目指す普遍的テーマからややずれるのである。そもそも、同性愛であってもみぞれほどに依存的になるとは限らない。万民に共通し、かつあまりにも程度が強いというみぞれの特性を表す概念としては、もっと別により良いものがありそうである。

 

 私としては、同性愛の可能性すら包括しながらも、恋愛感情に限らず友愛の感情にも幅広く該当し、尚且つこの感情の強さを表現するある一つの概念を提示したい。「狂気」である。

 「狂気」といっても、精神病理的な意味からは離れる。むしろ文学的な意味に近い。ロッテへの恋に狂うたヴェルテルや、信仰に全てを捧げる狂信者を想像してみるとよい。恋愛、信仰、友情の何でもよい。それらを巡る気持ちがあまりにも単純化され、理性とは程遠い見かけを呈するようになり、それが過剰に溢れ出て、破滅へと向かう状態。それは「狂気」と呼んでも差し支えないであろう。鎧塚みぞれに現れているのは、まさしくそうした「狂気」であるように思えるのである。「狂気」とは社会規範からの逸脱なのであるから「普遍」からは程遠いのではないか、という批判もあるであろう。しかし、理性的存在と同じ質料を得た感情的存在が、その理性を消失させ暴走するということはよく見られる事柄である。恋に我を忘れること、篤い信仰により視野が暗くなることは、普遍性をもつはずである。

 
 このように鎧塚みぞれというキャラクターに表れているのは、ある種の「狂気」であると思われるのである。この「狂気」は、久美子や麗奈のように音楽を目的として真剣に取り組む演奏者からは到底理解されるものではないが、それが逆説的にも「青春時代の経験」という普遍的なテーマを表すのである。

 
   次回は、鎧塚みぞれに現れる「狂気」が、本作においてどのような意義をもたらすのかを見ていきたい。

映画感想:『映画プリキュア スーパースターズ!』 ※政治的批評につき注意

   今永田町が荒れている。「嘘」という名の暴風雨でボロボロである。公文書の改竄が明らかになったというのもそうだが、その責任を一切認めず、昨日言ったことと全く違う答弁を連発するホラ吹き政治家の醜悪さは子どもでも分かる。嘘をついても許されるなんて、こんなみっともない大人の姿、子どもたちには見せたくないだろう。それよりは、嘘を許さず、しかしかつて約束を破ってしまったことを償うプリキュアの勇姿を応援させた方がはるかに教育的だ。

   『劇場版プリキュア スーパースターズ』をみて真っ先に思い浮かんだ感想はそれだった。本作に出てくる敵キャラは平気で嘘つくやつで、「嘘をついて開き直るなんて信じられない」という台詞がプリキュアの口から出てくるのである。その台詞を今総理大臣や財務大臣の椅子に座ってる面々に聞かせてやりたい、という印象が真っ先に出てきてしまったのである。プリキュアを使って政治的批評をするなんてあんまりしたくはないのだが、むしろ現実の醜悪な政治と比較してみることで春のプリキュア映画の魅力というものが強く認識されるものだと思い、今画面をフリックしている。本記事ではプリキュア映画が「春」に公開されることの意義に注目して論じよう。

 

   手始めに、知らない人のためにプリキュアの映画がどんな形態で公開されるのかにも触れておこう。プリキュア映画というのはなんと一年の春と秋に2本も新作が上映される。秋に公開されるのはその年のプリキュアのタイトルを冠したもので、当然その年のプリキュアが活躍する。他方で春に公開される映画は「カーニバル」や「スターズ」の言葉が多用されることからもわかるようにオールスター映画の性質を持っており、一昨年の『みんなで歌う♪奇跡の魔法!』では、なんと総勢44人ものプリキュアが参戦したのだ。このように春のプリキュア映画は往年のプリキュアファンやへのサービスや、本作をきっかけにメインターゲットである児童たちに過去作に興味を持ってもらおうという側面が強かったのである。

   流石に数が増えすぎたのか、去年からは前年ともう一つ前の2作にゲスト出演作を限定するようになったのだが、このとき春のプリキュア映画は重点が少しずれたように感じる。春の映画が特に要点に据えるようになったのは、前作と現行作の溝を埋めること、言うなれば「引き継ぎ」である。プリキュアが終了するのは例年1月末で、プリキュアの新作がスタートするのは例年2月のはじめ。つまり3月のプリキュア映画には、一つ前のプリキュアシリーズが終了して悲しみにくれている子どもたちに、成長したプリキュアたちの活躍を見せてあげるという側面があるのだ。「成長した」というのもミソで、前作のプリキュアたちは幾多の試練を乗り越えて立派に大きくなっている。そんな先輩の彼女たちが、プリキュアになってまだ一月しか(一部のキャラクターの場合はわずか数日)しか経っていない後輩たちにキラキラと戦う勇姿を見せたり手助けしたりしてくれるのである。『キラキラ☆プリキュアアラモード』が終了してしまい寂しさを覚えていた子どもたちも、キュアホイップたちが新しいプリキュアの先輩として元気に活躍しているのをみれば、さぞ満足することだろう。子どもたちの気持ちの面でも、プリキュア間の関係の面でも、「作品がまるきり変わる」というシリーズを続けていくうえでの避けがたい断絶を和らげる機能が春のプリキュア映画にはあるのである。

(註:もっとも、近年は放映中にこうした「引き継ぎ」を行うことも多くなった。最終回に新作の主人公がゲスト出演するのだ。『スーパースターズ』には主人公の野乃はなが『キラプリ』でのゲスト出演の経験から、キュアホイップたちに助けを求めに行くというシーンがある。世界観レベルでも繋がりを感じさせるようで実に興味深いシーンである。)

 

   テーマについても春と秋とで結構違ってくる。秋の映画は現行シリーズも大分進んで、恒例の新プリキュアや新アイテムも出揃った頃なので、プリキュアもそこそこ成長しているのである。テーマは現行のテーマの延長か補完であることが多く、描かれるのは主に主役のプリキュアや妖精の内面である。それに対して春の映画はお祭りであり、プリキュアもそんなに掘り下げはされていないので、現行シリーズに関してあまり踏み込んだことはできない。そのためかゲストキャラクターの悩みを題材にして、「異質なもの同士の友情」や「親子の愛」といった比較的普遍的なテーマを扱う。本作の「友達との約束を守る」というテーマも当然それにあたり、シンプルではあるが、過去の約束を果たすために過去作のプリキュアと協力して困難を乗り越えようとするハグプリの面々に我々は親しみを覚えるのである。

 

   醜い政治話に話を戻してしまうと、本作が今の政治とあまりにも対照的に見えたのは、まあ時期が重なったのは偶然にしても、春のプリキュア映画が普遍的な道徳をテーマにして、駆け出しのプリキュアと熟練のプリキュアとが協力して殊勝にも苦難を乗り越える、という構図を有する点が、「約束を守る」「嘘をつかない」という普遍道徳を無視し、責任を自ら取ることなく部下や友人になすりつけようとする首相の姿とあまりにかけ離れていたからであろう。拳や技に乗せられるプリキュアたちの勇気と友情、力強さに子どもたちはミラクルライトでエールを送るのである。それは荒んだ大人からすると単なる綺麗事にみえるかもしれないが、今の国会を見てみると実は最も必要とされていることなのかもしれない。というわけで皆さん、プリキュアを応援しよう。そして、プリキュアになろう。

映画感想:『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』

 『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』をみた。去年秋にやっていた『響け!ユーフォニアム』二期の内容を再編集して劇場版にしたもので、本編を再構成することによってかなり徹底してくみあすの話となっている。そのため二年生のしがらみや麗奈と久美子の関係描写はカットされている。その辺のエピソードが好きな人には残念かも知れないが、しかしそれによって、久美子とあすかの関係がより明瞭に見えるようになっている。内容自体は放映版と変わってないのだが、見せる場面がひたすら久美子とあすかのシーンに限定されているため、久美子とあすかが互いに互いの感情をぶつけ合い音を響かせ合う過程が強く印象に残る。
 再編集によって具体的に何が起こったのかというと、久美子とあすかがそれぞれどのような人間関係を抱えているか、それが彼女らの音楽活動にどのような影響を与えているのかが極めてわかりやすくなっているのである。キーは久美子とあすかのそれぞれの肉親(姉と父親)との関係である。
 久美子とあすかの話となっていることは先ほど確認したが、主人公はあくまで久美子である。受験を控えた高校生が担うことになる重責に対してあすかがどう決断するかという物語の中心点が、久美子の視点からみることによって、久美子姉とあすかの姿が、久美子の姉の姿が演奏中にあすかをみた直後フラッシュバックしたり、共通するセリフがあったりすることでだぶって見えるようになっている。しかし直接「あすか先輩って私の姉に似ている」だとか「姉と同じ道を歩んでほしくない」とかセリフで直接示すわけではないところがまた優れていて、映像への信頼とでもいえるものが垣間見られるようだ。先輩は自分の姉と同じく確実に後悔する道を歩もうとしている。それが嫌で、子どもでいいじゃないかと本音をぶつける。こうした麻美子-久美子-あすかのラインが、セリフや映像に無駄のない劇場版の再編成によってより重厚になっているのである。
 あすかと麻美子の姿が久美子の視点から重なるだけでなく、メインキャラクターの肉親であるあすか父と麻美子もまた似たような役割を演じているのがよくわかるようになっている。コンクールなんてどうでもいいと思っていたあすかも、審査員に父がいると知ることで、父に演奏を聴いてもらうことを目的とするようになる。久美子もまた、今まで一度も演奏会に来てくれなかった姉に演奏を聴いてもらいたがるようになる。久美子とあすかは両者ともに音楽を肉親との関係で位置付けるようになるわけだ。麗奈が態度で示すような音楽を純粋目的とする姿勢からは遠ざかるが、そもそも二人が楽器を始める動機が肉親からの影響であったことを踏まえると(これも冒頭にあすかの幼少時代のシーンが新たに加えられることですっと理解できるようになっている)、母親に遠ざけられたり不和を起こしたりで肉親との距離が遠くなった二人の高校生が、音楽を通じて、互いの関係を通じて肉親との距離を少しでも縮めていく、そういう話であることがよく理解できるような構成であった。
 ただこのように話を理解していくと一点だけ不満が残る。コンクール後の久美子と姉の再会のシーンがカットされているのである。確か放映版にはなかった客席に麻美子が姿をあらわすシーンがあったのはよかったが、それで満足したのか久美子が席を外す直後に戻って来てあすかに再会するという体になっている。客席のシーンやあすかとの会話、その後の手紙のシーンである程度久美子と姉の関係の改善という解決は見て取れるが、それでもやや片手落ちの印象が拭えない。私の見立てが大袈裟すぎるのかどうか……

 各シーンの内容や演出は、全体的な編集を除けば、おおむね放映版通りである。しかし元がいいだけに、劇場の音響のよさもあってとても見応えがある。あすかが早朝にユーフォを吹くシーン、職員室での三者面談のシーン、あすか宅の1630以降のシーン、河原でユーフォを吹くシーン、渡り廊下でのダイアログ、愛の告白のシーン、課題曲と自由曲……どれも何度でも見ていられる名シーンである。特に再び注目したいのは光の描写である。マンションのため蛍光灯なり白熱灯なりしか光源がない黄前邸とは異なり、田中邸は吹き通しがよく日がよく差す広い日本家屋である。そのためか、夕陽が差しこまれる時間帯になると、時間の経過とともに二人の心情が段々と彩度を上げて照らし出されることにより、暖色だというのに不安定な感じを醸し出すのである。しかしこの嫌な光も、河原にでていくと一転、消えつつある青空の色と交わることにより、暖色と寒色、さらに藤色がかった柔らかい色を醸し出し、河川敷を優しく彩り上げる。本編ではここで父親の曲『響け!ユーフォ二アム』を吹くのだが、劇場版ではこのシーンは分割され、ラストに演奏シーンがもって来られることとなる。この物語の帰結にふさわしく、優しい音色に優しい風景が調和する、アニメの面目躍如といった名シーンである。
 ただ先ほど音響を褒めたものの、それはテレビと劇場を比較すれば、という話であって、劇場の音響そのものは不完全に思えた。低音はよく鳴り響くのだが、パーカッション、特にシンバルの音がしょぼく聞こえた。今回見にいったのは新宿ピカデリーだったのだが、他の劇場では違ったりするのだろうか、それともソフトの音響設定に問題があるのか。

 総じて、若干不満は残るが、ユーフォという作品のよさを再確認できるとてもよい仕上がりだと思った。ちなみに来場特典はのぞみぞの性愛シーンだった。幕前芝居も二年生だったけれど、そこはなかよし川のいちゃつきがメインであった。

ユリイカに寄稿しました。

   文芸批評誌『ユリイカ』2016年9月臨時増刊号に寄稿させていただきました。

   論文のタイトルは「女性アイドルの「ホモソーシャルな欲望」   『アイカツ!』『ラブライブ!』の女同士の絆」です。

   アイドルアニメの百合の構造分析を行った文章です。よかったら買って読んでくださいね。

キーワード:ジェンダー、百合、女性のホモソーシャル