もう二週間ぐらい前になりますが、風立ちぬみました。正直堀辰雄 原作、声優が庵野、零戦作るってことしか事前に知らなかったので すが、反則です。ヒコーキ作るという男のロマン、戦前のホモソー シャル的世界観に夫婦愛というヘテロ的なものを(宮崎作品にして は異例なくらいに)露骨に導入して、これで感動しない訳がない。 タバコ、評判通りやたらと出てきたけど、これないとカストルプ( 仮)氏との交流も味気なくなるし、何より、結核に響くかもしれん のに菜穂子に望まれてタバコ吸うという名シーンが存在し得なかっ た。もちろんこのシーンには賛否あるでしょうが、それでもこのシ ーンには何か胸の奥を揺さぶる何かがあった。なかなか言語化できないのですが、死の可能性を早めるかもしれない行為でもあるにもかかわらず、タバコという二郎の逸楽は、実は夫婦の共同的な形で菜穂子夫人にも承認・共有され、今を生きる生、夫婦愛が強調される感じがするのです。他にもこの映画は我 々の精神に直接訴えかけるようなものが数多くありました。でも未 だうまいこと言語化できていないので、断片的な形で挙げておきま す。語末も「だ」、「です」でバラバラです。
キーワード
ホモ的なものとヘテロ的なもの
引用の文脈(魔の山、堀辰雄)
夢か現か
夫婦の実存
かなり教養感溢れる映画でした。字幕なしの独語仏語伊語、ポール ・ヴァレリーの一節、畳み掛けるような専門知識の数々、トーマス ・マンの「魔の山」。療養先がまんま魔の山だっただけでなく、ド イツ人のおっさんが手紙内で主人公のカストルプに例えられていた ことに気づいた人はあまりいなかろうと思われます。まああれだけ 宣伝してれば名前バレくらいするでしょうが。サナトリウム文学の 最高峰、大戦期を代表する教養小説(Bildungsroman )の要素が、日本を代表するアニメ監督の総決算に引用されてると いうことだけで個人的には胸熱なのですが、何故ドイツ人にカスト ルプの名前を与えたのか、そしてそれが作品に何を投げかけている のか、気になるところではあります。
零戦設計者という、どう考えても戦争に加担していた人間を、その 伝記を通じてひたすら戦争人ではなく「夢を追いかけた者」として 描く試み。それは偽善なのか、エゴなのか。
一見右翼的な内容に見えるのですが、その実軍事に関わった人間の 半生を通じて、戦争の醜さや格差の矛盾をカストルプや本庄から突 きつけられ苦渋しながらも、それでも自己の、引いては夫婦の夢の ために軍部に加担する。夢を貫こうとした人間の悲劇を通じて戦争 の呪われた力を浮き彫りにするのであって、決してナショナリズム に与した内容ではないと思うのだが。堀越のアイデンティティが軍 属ではないということを示すのがラストの、菜穂子夫人が高原へ戻 って行くのを察するシーン。夢であったはずの零戦試行についに成 功したのに、視線は飛行機ではなくて山脈を向いている。夢として 、また実用化の観点からも喜ぶ他者たちとのコントラスト。勿論飛 行機を蔑ろにしているわけでは無いのだが、堀越にとって飛行機の 夢(ホモソーシャル的)と夫婦愛(ヘテロ的)は等価なのである。 現実の堀越二郎の時代的にも分野的にもホモソーシャル的な生と、 堀辰雄の小説のヘテロ的な生の奇妙な会合。
時系列順に語られる割には、やけに場面転換がさらっとしすぎとい うか、移り変わりが分かりにくい。ハウルでもソフィーがいつの間 にか変身してたりしてたけど。あと「夢か現か」という表現がしっ くりし過ぎるくらり夢と現実の境目が曖昧だった。全体的にそうだ がそれが極まるのは勿論ラスト。
関東大地震の描写とか、冒頭で割と操縦のリアルな(まあ子供が操 縦してる点あり得ないのだけれど)夢の描写してたり、描写そのも のがとても地震とは思えないというか、駿らしくファンタジックに バウンドしてるような描き方してるので、初めこれが現実だとは思 えなかった。「夢か現か」の一つ。
堀越二郎の決して軍事と夢の葛藤に揺れながらも軍事的要請に溺れ ることなく夢を夢としてつき通そうとする姿勢、死の床にいる夫人 とともに夢を目指し死への先駆を行う(最後は独り生きるけど)姿 勢にはかなりハイデッガーと共鳴するところがあると思うのだが… ただハイデッガーは個人の実存様式しか究明しておらず、風立ちぬ の夫婦のような共同で死へ先駆するような存在者には特に言及して いるわけではない。むしろハイデッガーにとっては共同するのは頽 落だ。恋愛の現象学、多分誰かやってると思うのだけれど。以前読 んだ吉本隆明の理論やそれの上野千鶴子の説明が有用かもしれない 。うろ覚えだけれど、人間の存在様式には次の3つがある。個人と しての存在、集団としての存在、そしてカップルとしての存在。こ れらを現象学的に扱えればよいのだが…