錬金術師の隠れ家

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光と実体

 卒論で使うかもしれないので読んだ論考をまとめてみた。G. バシュラールの『エチュード』収録、『光と実体』である。

 この論考では、光化学の歴史が
・ベーコン的方法の挫折
・実体論的な思考の危険性

を示すことを明かしている。もっとも、ベーコン的方法の挫折については論者はよくわからなかった。また、実体論は科学的思考に危険であることは認めるとして、それは実体の存在を否定することになるのか、そこは疑問である。

 これは『科学的精神の形成』にも通じる話であり、最初の漠然として一般的な経験からはじめて、精密で特殊な関係を織り上げることがいかに困難であるかを示すのである。しかし、『形成』と異なるのは、前科学的精神に立ちはだかる障害の存在だけでなく、ある程度科学が進んだ段階、すなわちフレネル以降の光学がいかにして障害にぶつかり、それを克服していったのかをも説明している点である。結論からいうとそれは振動の数学化、相対論、量子化による質量概念の修正によって実体の概念は否定されるのである。


第1節では18cの化学において光がいかに実体的に扱われ、それが科学的理解を妨げたのかをみている。この分析においてバシュラールは、「吸収」という概念が物質主義的直観を示していることを明らかにしている。

第2節ではショーペンハウアーへの盛大なdisが展開されている。生物学に明るかったショーペンハウアーも、物理学・化学においては前時代的な思考の持ち主であったことが暴露されるのである。そしてその誤った理解の原因としての実体論認識を明らかにする。がしかし、注意しておきたいのは、参照されている文献がなぜかショーペンハウアーの著作リストのどこにも見当たらないことである。訳者も見つけられなかったという。筆者のミスか、偽書の可能性もある。

第3節では近現代においても光の実体論的認識の可能性があることを、保存、写真術、光の振動の例から示している。あまり関係なさそうなので少し端折る。

第4節では、色彩の原因を発色団に帰属させるという実体論的認識が生まれたが、これがいかに現代の科学的精神に近いかを示している。だがそれだけでは光の理解には不十分であり、そこからさらに一歩進めて、実体論に基づかない光の現代的な理解を提示する。しかし難解なので、あまりうまくまとめられていないので、要点だけを示すことにする。

 また分かりやすさのため各節には副題を勝手につけた。▼は論者のコメントである。

I 18cの科学者の実体論的思考—吸収、反射

 例えばニュートンは、光の粒子が物質に変換される、と主張したり、「数日間屋外に置かれた水は浸出液を生じる。ビールを作る発芽大麦の浸出液のように、それはさらに時間がたつにつれて沈殿物やアルコールを生じ、腐敗しないうちは動物や植物に適した栄養となる」という馬鹿げた記述を行う。この思考の混乱の背景にあるのは、光と物質の相互変換は自然の過程としてふさわしいという実体論的思考である。このように 18cにおいて化学者は誰も一つの現象が一つの実体に属していないとは想像もできなかったのである。

 現代の科学は合理論的統一性を求めるが、当時の科学は自然の統一を探究していたのであり、実体論的な思考に陥ってしまうのである。例えば水素の燃焼で水ができることを観察したことで有名なマケは、植物が光を取り入れる際、光は燃素となり、色彩を生じさせるという。すべてを説明するのはいつでも、水がしみ込むように物質が吸収を行うイマージュなのだ。19c初期において化学者のフールクロワは、物質は吸収できない光を単純に返し、返さないものは吸収するという単純な説明を与える。だがしかし色彩の現象は単に反射・吸収だけで語れるものではないのはないはずだ。

 光が植物に影響を及ぼすからといって、光と物質の関係が導きだすことは許されないという教訓をこの2人の化学者の事例から知ることができる。物質主義的直観と、その頂点にある光の現象の包括的で一般的な概念が、初期の化学の実験の不振をまねいたのだと筆者は主張する。

▼だが本当なのかは事例が少なすぎるような気がする。もっと詳細な研究がみたいところ。


II 哲学者の誤り—ショーペンハウアー

ショーペンハウアーの光学への無理解

 光を宝石が吸収して数週間は輝きつづける、光は熱の実体的本質に同化するなど、光の極性の理論への無知を暴露する。しかもそれは光の本性を究明する一つの方法だと主張しているだけに、開いた口がふさがらない、とまで筆者は苦言を呈す。ショーペンハウアーは直観において、自然は直接的でしかも一般に開かれていると考える。しかし実際は、最初の接触では、非科学的な、漠然とした事実を与えるだけだ。予め理論的システムがなければ科学的事実は定義されえないのである。


 ショーペンハウアーにおいて物質的な考え方は自然のものとして明快に与えられ、それで心理学が解明できるとまで考えている。背後には独身男の吝嗇(『形成』二二四-二五四頁参照。宝石などの貴重な物質に薬学的効用があるなど数多の価値を付与させる傾向のこと。)が存在する。このようにして人は吸収作用の直観の根柢にいたる。

 ショーペンハウアーは生物学の知見に関して、洞察力と直観でもって優れた思索を繰り広げながらも、同様に物理学にも挑戦できると思い込み失敗した。直観が最初の錯覚である見事な例である。また無媒介な実体論的説明が人を惑わす説明であることの証拠でもある。


III 保存、写真術、光の振動における物質的思考

 光の振動を物質の振動として解釈するケースがあまりにも多かった。現代では、振動はその数学的特徴によってとらえられる。方程式のあとでそのイマージュを使うのであって、逆ではない。

▼視覚表象が科学的発見の根拠となったケースはあるのではないのか?


IV 有機体の色彩の構成化、エネルギーの量子化

 現代の科学的精神において、実在は無媒介で最初のものであることを否定され、理論体系のなかで再構成される。ミクロな物理学では質、量、連続、不連続という概念は相互に交換されるという弁証法的な過程をとり、実在性は確率的な手段によってのみ予見可能とされる。時間と空間の絶対的分離の上に全面的に組み立てられている実体の観念は、おそらく根本的な修正を受けなければならない。

①粗雑な実体論的な直観に近い形式でも、吸収の法則を理論に取り入れることでそれを数学的に研究できる。しかしそれでも物理実験の数学化の真の価値は与えられない。

 例えば有機体について、色彩の選別的吸収は化合物組成における基の存在による。この化学的な基によって、もっとも不透明な、もっとも濃密な、もっとも甚だしい実体論的な質についていえる。つまり発色の原因を、ニトロ基やアゾ基などの発色団に帰属させるわけだ。それまでは「インクは光を吸収する」という風に帰属のカテゴリーのもとで述べられるに過ぎなかった。色彩は実体的に存在するのではなくて、構成されるというわけだ。

さらに化学者は均一的思考の理論として、実体的な性質決定の問題からエネルギーの量決定の問題に移行する。エネルギーの構造的性質を解明するとき、光化学によった。このとき、直接的な実在論から、理論先行の思考が生じたが、このとき、実在は本源的価値を失い、理論的な形で実在化するのである。

▼百頁の記述だが、全くよくわからなかった。

 新たな科学的精神における科学の特徴を論者が勝手に挙げてまとめると以下のようになるだろう。

・実在が無媒介で最初のものでなくなり、理論的体系のなかで実在を再構築する必要がある。

・ミクロな世界において、質、量、連続、不連続というような外観は、相互に交換される弁証法的思考が行われる。マクロな世界で考えられてきたように実体論的に質と量を分離することはできない。

・ミクロ物理学における実在性は確率的な手段によってのみ予見可能である。


 時間と空間の絶対的分離の上に全面的に組み立てられている実体の観念は、おそらく根本的な修正を受けなければならない。エネルギーのタイプの一つが、ある普遍的定数と振動数との積として表現されるとき(hν)、エネルギーは実体であり、不変量であり、恒常的要素であるといえなくなる。そのとき直観的教養を逆転しなければならない。物質が精神に第一の教えをもたらすべきなのではない。放射能と光がもたらすべきなのである。光を物質によって説明すべきではなく、物質を光によって、実体を振動によって説明すべきなのである。

▼構造化学についてもっとよく勉強しておこうと思った。


出典

G. バシュラール 「光と実体」『エチュード : 初期認識論集』収録 及川馥訳、法政大学出版局、1989。

参考文献

G. バシュラール 『科学的精神の形成』 及川馥訳、平凡社ライブラリー、2012、二二四-二五四頁。