錬金術師の隠れ家

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「臨床医学の誕生」第7章:見ることと知ること

ゼミで読んだ章をupすることにする。フーコーの「臨床医学の誕生」(神谷訳)第7章:見ることと知ること、である。

議論は第6章から続いており、一連の議論においてフーコーは19世紀に誕生した臨床医学の特徴である「まなざし」が実は言語的構造を持っていることを解明する。以下第6章の内容を振り返ってみる。

 症例(病の本質を指示するもの)や徴候(病の時間的経過を示すもの)はそれまでのシニフィエとしての地位から、臨床医学誕生以降は病そのものを現わすものとして扱われるのである。なぜかというと、コンディヤックの経験論の影響もあって、見えるものはそのまま語られるものとみなす特徴が臨床医学にあったからである。こうして症状論から病因論へと移った。がしかし、症例の偶発的な事項を生のまま捉えることが困難となり、まなざしの中に言語学的、統計的構造(枠組み)が導入される。フーコーは臨床的知覚が感覚一元論という理想を目指しているようにみえて、その実まなざしの中にアプリオリな構造を潜めていることを指摘するのである。

 それでは本題の第7章に入ろう。各節の見出しは自分が勝手につけた。▼のつくパッセージは筆者による考えである。

 

要約
 この章では、臨床医学の経験における視覚と記述の相互関係を明らかにする。臨床講義での質問の際限のなさに限界を設けるため、次第に可視的なものから陳述可能なものへと臨床医学的思考は変容する。その背後に、純粋なまなざしはそのまま純粋な言語になるだろうという考えがある。しかしこの透明さは言語の地位を不透明なままにしておくため、さまざまな認識論的神話を生じさせる。つまり、疾患は言語論的、化学的方法論で語ることができ、経験は感受性と同一化するとされる。このレベルで言語的秩序をもつまなざしの構造は解体され、代わりに非言語的な一瞥の構造がその場を占める。

第1節 知覚と言語 (186-189頁)
臨床医学が認めた観察の特権がもつ2つのまなざし
・介入以前の、直接所与をそのままとりあげる純粋なまなざし
・論理的枠組みを介するまなざし
このような知覚の具体的行使とはどんなものであるかをこれから描き出す。

 観察するとき、まず理論や想像による障害を退ける相対的沈黙と、可視的なものを語る言語以前のすべての言語についての絶対的沈黙のなか、まなざしでもって事物を観察し、事物を知覚する瞬間同時にある言語を聞く。この言語を用いて実験者は事物を語る。
このまなざしは直接所与が真実をいいあらわすための構成の出発点、原理でなければならない。そしてまなざしは、構成のはたらき自体において一度示されたものを、まなざしに固有な作業のなかで再現しなくてはならない。

第2節 病院と教育 (189-193頁)
 臨床医的観察は病院と教育と結びつき、この二つもまた互いにつながっている。
家庭はかつては真理が自然に姿をあらわす場であったのが、病気の隠蔽、比較を不可能にする場として扱われるようになり、医学的知識が頻度を基準として定義されるようになると、中立的な場としての病院が要請されるようになった。 (第三章p82)
 病院がもたらす疾病形態への変化も、すべての症例が変化を病院という場で同一な意味で受けとる以上無効となる。臨床講義は、病院における変化を、恒常的な形において、経験へ統合することを可能になり、真理の分析が可能となる。
▼病院の領域に特有の条件の作用のもとにすべての医学的知識ができあがる。
 変化や反復が際限もなく作用するにつれ、(帰納によって恒常的なものの見極めがつくようになり)臨床講義は本質外のものを除外することを可能にし、真理へと至る。 reconnaître により connaître される。
臨床講義において真理を発現すると同時に真理を認識するため、教師の再認識と学生の認識の努力は同じ働きのもとでなされるという構造ができる。教師と学生は集団的な一主体をもつ。
 臨床講義において質問の際限のなさを回避するためには、質問と検査とが互いに語り合い、医師と患者との「出会いの場」を規定する必要がある。臨床講義の初めの形態においては、次の3方法によってこの場を決定しようとした。

 

 臨床講義の3つの決定方法 (193-199頁)
一 或る観察において、語られた契機と、知覚された契機とが交互に現れること
ピネルの理想的調査の図式:視覚的標識→何が知覚され得たかという標識→病気の経過の再知覚→ことば
死亡時には臨床医家はまなざしのために身体の解剖をおこなう。
ことば parole とまなざし regard が交互に現れるなかで、病気は次第にその真理をいいあらわすが、その文脈に存在する一つの意味 sense は、見る感覚と聞く感覚の二つの感覚でもってしか総体として復元されえない。


二 まなざしとことばとの相関関係を彫像的な形で規定しようとする努力
 同じ臨床医が眼によって知覚するものと病気が語る本質的なことばを聞き取るものとを、一つの図表の中に統合することができるのかという問題。
フォアダイス…可視的なものと、語られうるものの相関
ピネル…語られうるもの(病気が知覚に呈示する症状)と、症状の価値の相関
 図表は各々の可視的部分がある意味的価値を帯びるから、分析的機能をもつ。しかし、分析的構造が図表自体によって与えられるわけでもなく、現わされるわけでもない。症状と価値の相関関係は図表に先行する。


三 徹底的記述の理想
 見えるものと言いあらわしうるものの間の別な形の相関として、
記述の厳密さは、表現の正確さの結果であり、命名における規則正しさの結果である。
言語に与えられた2つの機能
・正確さを基準に可視的なものと表現可能な要素との間に相関を設定すること。
・表現可能な要素により、記述の内部で一つの命名的機能を働かせること(総体内部での語彙の専門化)。
 可視的なもののの総体から陳述可能な全体的構造への移行が徹底的で、あますところなく行われるとき、この移行の中で、知覚されたものの意味ある分析がはじめて成就されるのである。記述の内発的な力により、病理的事件の偶発的な場と、それらの真実の秩序が表現される教育的な領域との間の関係がむすばれる。記述的なものは現象の後追いと同時に見ることであり、知ることである。
対象の尺度と記述言語の尺度の双方に合わせた節度ある言語(内的尺度)を探求することが求められる。
 これらの方法を支配している神話がある。つまりある純粋な「まなざし」はそのまま、純粋な「言語 language」になるだろう、という考えである。眼は病院の場全体に注がれ、そこで起こる個々の事件の一つ一つを受け入れ、拾い集めるものと考えられている。次第に教える parole となるであろう。

 開かれた科学と実践は変容を蒙り、可視的なものが見えるというのは、language を知っているから、とう理由だけによることになる。臨床医学における記述は、他人に理解されないようにし同業組合的特権を維持することではなく、事物に対してはたらきかける支配力を獲得することを目的とする。
 
第3節 可視的なものと陳述可能なもの (199-203頁)
 しかし可視的なものが陳述可能であるというのは、あくまで一つの要請にとどまり、臨床医学の根源的な原理ではない。この理由として、コンディヤックが可視的なものと陳述可能なものとを同価に把握することを許さなかったことがある。コンディヤックの哲学は分析における発生の論理と計算の論理のあいだの両義性でためらった。
発生の論理…複雑な概念を単純な概念に還元し、これらの発生過程を辿ること。陳述の一貫性を求めるために構文が使われる。
計算の論理…目的のために諸概念を構成・分解して、これらを比較すること。確実さを求めるために組み合わせが使われる。
 しかし臨床医学の方法論では、その両義性をもちながらも、計算の要請から発生の主権へと再び降りて行く。根本的な作業は組み合わせのカテゴリーに属さず、構文上の転写のカテゴリーに属す(認識論的神話の三を参照)。
 当時は見ること言うことが直接的な透明さのなかで通じ合っていた。しかし透明さのこの一般的形態は、言語というものの地位を不透明なままにしておく。この欠陥はコンディヤックの論理学だけでなくいくかの認識論的神話に場を与えてしまう。

 認識論的神話 (p203-210)
一 疾患のアルファベット的構造。
それだけでは何も意味しないが、他の要素と組合わされば、意味と価値を帯び、語り始める

 

二 臨床医学的なまなざしは、疾患の実体 être に対して唯名論的還元をおよぼす。
疾患をすべて名称により記述し、単語に還元する。

 

三 臨床医学的なまなざしは、病理的な現象に対して、化学的なタイプの還元作用を及ぼす。
化学的作業のモデルによって構成要素を分離して組織を決定することができ、他の総体との共通点、類似点、相違点を設定することができるようになった。(半ば言語学的、半ば数学的な)分析の概念は臨床医学に純粋分離、組み合わせの図表化を可能とする。
組み合わせ combinatoire →構文 syntax →化合 combination
 まなざしは化学的燃焼に相当する機能をもつ。このまなざしによって現象の本質的純粋性はとりだされる。燃焼が火の烈しさそのものの中でのみその秘密を語るように、真理は臨床医の語りとまなざしが現象の上にあざやかな光を照らし出すことによりあらわとなる。
▼燃焼とまなざしのアナロジー。叙述としてこれは適当なのか?

四 臨床医学的経験は、すぐれた感受性と同一化する。
 すべての真理は感覚的真理である。分析の全次元は、ある美学のレベルでだけ展開され、技術的な規準を指定する。感覚的真理は五感に対してから感受性に対して開かれる。このレベルではまなざし regard のあらゆる構造は解体され、代わりに一瞥 le coup d’œil の構造がその場所を占める。(p13,28 からすると、まなざしの一種として一瞥がある?)


このことによって、臨床医学的経験に新しい空間が開けてくる。それは秘密の隠れている、不透明な、かの肉塊でもある。ここで症状論的医学は退行し、原因の医学へ。すなわちビシャの時代が到来する。