錬金術師の隠れ家

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日本の同性愛ドラマの問題点について

 最近、渋谷区のパートナーシップ制度や東小雪同性結婚が呼び水となり、LGBTブームなるものが到来しているらしい。ビジネスではLGBT産業に金脈が見出され、それを表現するドラマも増えてきた。『偽装の夫婦』ではゲイとレズビアンが登場し、11月からは義理の姉妹の恋愛もの(『トランジット・ガールズ』)をやるらしい。
 しかし、われわれ百合ストはこうした現在進行形のドラマの試みにどうしても不安を抱いてしまい、期待したくても全く期待できないのである。この記事からは不穏な文字が躍っている。すなわち、「"禁断"のガールズラブ」というフレーズである。われわれがこのたったワンフレーズに不安を抱いているといっても、二次元作品における百合やBLを愛好する習慣のない人たちにはまるでピンとこないであろう。そこで、なぜわれわれがこのドラマに期待できないのか、そこからさらに敷衍して、日本の同性愛を扱ったドラマや映画の多くに共通してみられる問題点を、「禁断の愛」という言説と、作り手と受け手の意識の違いから解説しよう。なお、挙げる例がレズビアン映画や百合ものに偏っているが、自分は百合男子でBLにあまり明るくないのでそうなってしまった。同性愛ものを論じるにあたって必要な教養が偏っていることをおわびしたい。
 
 周知の通り日本のドラマは恋愛ものが多く、ほぼ例外なくヘテロ恋愛ものであった。もっとも最近では有名な俳優やアイドルを主役に投入しても視聴率がとれることがなかなかできなくなり、ドラマの方針の改革が必要なのではといたるところで言われている。最近のLGBTブームの追い風もあり、作り手の側も同性愛をテーマに盛り込んだ新規性のある映像作品を作ってみようという風潮が高まっているのだろう。
 
 だが、出来上がった作品はどういうわけか似通った性質を抱いているように私には思えるのである。①物語のカタルシスを得ようと、「禁断の愛」として同性愛を物語の障害とし、クライマックスにそれを克服した究極の愛を屹立させてハッピーエンドとしたり、逆に心中など悲劇的な結末を迎えたりする。それに②現在放映中の「偽装の夫婦」にみられるゲイとレズビアンにもみられる特徴だが、ゲイはオネエっぽい、レズビアンはかつて男に酷い目にあわされたからそういう性指向なのだというステレオタイプも、LGBTを扱った多くの作品で散見される。さらに③製作者たちは同性愛を問題化しようとするあまり、同性愛差別を具体的に扱ったり、またセクシュアリティの揺れ動きを表現するために、あえて男性とのセックスを描こうとしたりする
 
「禁断」という罠
 ①は先ほど問題視した「"禁断"のガールズラブ」に関連することは明らかだろう。「禁断の愛」からわれわれは何を想起するだろうか。ロメオとジュリエットのように両家の争いの中で生じた恋、つまり「家」という規範から外れた恋だとか、ゲルマン民族の少年とユダヤ人の少女の間の「民族」という規範から外れた恋、また近親相姦という文化的規範から外れた恋もあるだろう。つまり「禁断の恋」という概念には必ず「社会一般が常識として抱いている規範」が伴うわけである。そして「規範」か「恋」のどちらかが間違っているという問題提起が行われる。家同士の争いやアーリア人中心主義は間違った規範として批判され、近親相姦は多くのパターンではたいてい駆け落ちか心中、別離という終わり方を迎え、規範そのものに対する批判や修正が施されることなく規範は保存される。
 
 では「同性愛」はどうなのだろうか。多くの作品が「規範」が間違っているとして問題提起を行おうとするのはいいのだが、同時にこの言葉は近親相姦と同じく物語を盛り上げる要素として「同性愛」という「恋」を誤ったものとして「禁断化」しているのである。もし同性愛が自然なことであると認識していれば、同性愛を「禁断の恋」であるとみなすことは行い得ないはずなのである。こうした禁断化はLGBT当事者からしたら、自らのセクシュアリティを誤ったものとしてレッテルを貼られることであり、まぎれもない差別なのである。
 
 平等主義者が本当に実現したいのは「社会の常識から外れた同性愛であっても許容する寛容な社会」ではなくて、「同性愛が恋愛の形式としてごく当たり前に通用し、異性愛と同等の権利を受けている社会」なのである。つまり「あなたたちは同性愛者だけどわれわれ異性愛者は受け入れてやる」という異性愛者による上から目線な社会ではなく、同性愛者がカムアウトすることに障害を感じることがなく、同等な婚姻の権利や制限の撤廃などが実現されている社会を望んでいる。「禁断」を強調することは「異性愛者と同性愛者が対等であるということはありえない」という言説を再生産することであり、望ましいことではない。
 
意識の高い作り手たち
 ②③は一見正反対に見える。前者は同性愛者に対する偏見を助長している点で作品の質を落としめており、後者は同性愛者のリアリティを描くことで作品の質を高めようとする。だが実のところ、①も含めてだが、「受け手が望んでいないことが多い」という点で共通している。もちろん『アデル-ブルーは熱い色』などの同性愛のリアリティを克明に描いた作品は評価されてしかるべきだが、だがステレオタイプでもリアリティでも、それだけでは受け手が他に見たいものを取りこぼしているのである。もちろん「同性愛は普通のことだ」と明確に主張したり、社会問題として問いかけることにもそれなりに意味はあるのだろうが、それにしても日本の三次元映像作品はあまりにも「同性愛」を「社会問題」として捉えるものが多すぎるのではないのか。
 
 参考として日本のボーイズラブガールズラブのアニメや漫画を見て欲しい。もちろん同性愛を社会問題として取り上げる作品もあるが、ヘテロの恋愛ものと同様に描くものも数多く存在する。つまり、同性愛を社会規範との関係のもとで描くのではなく、片思いや三角関係、友情と恋愛の線引きなどヘテロ恋愛ではごく普通に、しかし魅力的に使われるモチーフで純粋な愛情を描く作品である。『桜Trick』の春香と優の恋愛で描かれるのは、「好き」という感情がそもそも何を意味するのか、二人の間で意味が違っているのではないかという、ヘテロ恋愛ものにおいては古典的な問いだ。だがそれだけでもわれわれは十分に楽しんでいる。ヘテロ恋愛においてエンタメとして普通に享受されているものが三次元作品のホモセクシュアルにおいてはどういうわけか描かれないのである。同性愛を扱うというからにはドラマや映画の作り手はつい意識が高くなってリアリティを追求しようとするのだろうが、社会的な意味でのリアリティだけではなく、社会的なものから解放された恋愛としてのリアリティや受け手が恋愛として楽しめるものも本当は描いて欲しいのだ。
 
 ところで『トランジット・ガールズ』では男キャラも出てくるらしい( http://www.crank-in.net/entertainment/news/39502 )が、これも不安要素である。というのも、物語の途中で男とのセックスをするという描写が多くの作品で散見されたからである(『ジェリーフィッシュ』では男とのセックスは具体的に描写される癖に、女同士のそれは精神的なものが強調され行為をやめてしまう)。「同性愛もの」と銘打っているにもかかわらず男との恋愛描写をいれるのは、リアリティを追求する要素としてはよいかもしれないが、それは「同性愛もの」に期待する受け手が求めるものと食い違ってしまうのではないだろうか。「期待を裏切る」ということは作品に驚きをもたらすうえで必要だとしても、その実そういう作品は多く、愛好家たちはそうした経験を幾度となくしてきたのであり、正直うんざりしている。同性同士の関係「だけ」描くこともそれだけで十分意味のあることなのだ。
 
 エンタメとしての同性愛作品が求められていることは、恋愛を純粋に描く作品だけでなく、同性愛的関係「のように見ることができる」作品や、あるにはあるがあまり発展させることなく描く作品が百合厨や腐女子腐男子に絶大な支持を受けていることからも理解できる(百合の例でいえば、前者は「ドキドキ!プリキュア」や「アイカツ!」「アナと雪の女王」、後者は「ゆるゆり」「ラブライブ!」があげられる)。これらの作品群はたとえ同性愛の社会的な実像を描いていないとしても、うんざりするような偏見要素や「禁断の愛」という用語が一切出て来ない分、エンタメとして気軽に楽しむことができる。またクィアスタディーズの観点から解釈を提供できたり、「異性愛的偏見にとらわれない作品」として評価することも可能である。同性愛のリアリティを追求しようとする作り手はこうした作品群を軽視するかもしれないが、その実こちらの方が「同性同士の関係」の真理に近いということも考えられるのである。
 
まとめ
 ドラマや映画において映像作品についても「禁断の愛」やステレオタイプは求めるべきではないし、社会問題を扱おうとする作品群の供給過多に受け手はうんざりしている。作り手は「エンタメなんて意識が低い」と考えるかもしれないが、異性愛ものでは頻繁にエンタメとしての映像作品が制作されるにもかかわらず、同性愛ものではあまり描かれないのはどうも奇妙であるし、ある意味で偏見を助長しているようにもみえる。そもそも同性愛におけるリアリティは必ずしも社会的規範と関連して形作られるわけではなく、そうした規範の存在しない社会(古代ギリシアや江戸時代、LGBTのコミュニティ、そして将来の異性愛規範のなくなった世界)における同性愛のリアリティを想像して描くことも十分意義のあることである。「同性愛はこれこれこのように描かねばならない」という規範が作り手にはあるのかもしれないが、それは受け手が望んでいるものと食い違っていることがあまりにも多いうえ、実際ありきたりでつまらない作品になりがちである。同性愛を描くからには、一方には異性愛規範を内面化した部門と、他方には異性愛規範から解放された部門とを区別して、後者の存在を意識した方がよいのではないだろうか。