錬金術師の隠れ家

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セオドア・M・ポーター. 藤垣裕子訳『数値と客観性』、みすず書房、2013年

キーワード:数値、客観性、信頼、定量化、没個人性、コミュニケーション、科学者共同体

数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得

 

 

 物理学に代表される理想的な科学像は、厳密に操作された実験による再現可能性、数量化による客観的な手続きを想定しているとされる。だが、現実の科学はそれを律儀にこなすものだろうかと、筆者は疑義をつきつける。筆者は科学においてどのようにして知識が生産されるかに着目する。そこでは真なる知識が生産できるとしても、それは社会的プロセスを経ることが不可欠とされているというのである。

 実験室で生み出された知識は他の実験室と共有することではじめて客観的なものと認められるが、そのためのコミュニケーションは難解な内容を伝える必要があるため、論文だけを介することにとどまらずしばし個人的接触をともなう。他方で実験の再現可能性や数量化の手続きは必ずしも必要とされず、それよりも実験室の間で築かれた研究者同士の信頼関係の方が重視されるのである。きわめて閉鎖性が強く、エリート主義の強い類の科学者共同体は、社会の干渉を受けるような性質を有していない限り「強い共同体」にとどまりつづけることができる。

 このように科学者共同体における科学的知識の情報伝達の経路は閉鎖的側面をもつが、科学の発展によるネットワークの拡大や社会に対する応答の必要性とともにコミュニケーションのあり方に変化が生じる。知識を伝達するためには信頼性が獲得されるように、実験対象や科学分野、果ては科学者といった知識の様々な要素が標準化されている必要が生じるのだ。標準化のためのツールとして非常に有効だったのが定量化である。一般に定量化は自然現象を正確に知るための手段とみなされているが、ポーターは自然現象の真の原因を追い求める実在論よりも、数字を用いた自然現象のモデル形成や定量的記述に専念する実証主義の方が科学の発展に大きく寄与したことを数学的統計学の創始者であるカール・ピアソンを引き合いに出し主張している。他者と情報共有するにはあまりに難解な経験的知識より、数値という共有可能な媒体を介した情報の方が科学を推進する力となった。定量化科学は「偶発的なもの、説明できないもの、あるいは個人的なものを平均して切り捨て、広域的な規則性のみを残した」(p.125)のである。

 定量化は単に自然科学にとどまらず倫理的側面をもっていた。定量化は厳密さや中立性という意味での客観性のもとで、ひとを王権によってでなく法則によって支配することを可能にした。ピアソンは科学教育により実験を遂行するための没個人化や自己犠牲を進めることを推奨した。ピアソンの客観主義にもとづけば、「人間主体さえも物としての客体に変えられ、社会の要求に即して形成され、厳密で一様な基準に照らして判断されるだろう」(p.111)。こうして、客観性をもつとされた定量化主義は一種の規範性を帯びるようになり、権力を行使することで人々を規範に従う者とそうでない者とに選別する。定量化は科学の領域だけにとどまらず強い社会性を帯びることとなる。

 なぜ定量化を科学者が採用するのかについて筆者は独自の説を提唱する。本来科学者にとっては定量化よりも実験室同士の信頼関係の方が重視されており、科学者共同体は閉鎖的性格をもっていた。ところが力をもつ部外者が専門性に対して疑いを向けたとき、その適応として定量化が推し進められるのである。その代表としてポーターがあげているのが1930年代のアメリカの会計士たちである。彼らは政府による会社の会計に対する規制から自分たちを守るため、「客観性」の名のもとに手続きを標準化し、エキスパート・ジャッジメントに基づく共同体内の綿密なコミュニケーションを犠牲に、社会から信頼を獲得する戦略をとった。会計や保険数学や費用便益分析の研究における「客観性の追求は、アカウンタビリティ(説明責任)によって弱体化されることはなく、むしろアカウンタビリティによって定義されるのである。厳密な定量化は、これらの文脈において必要とされる。なぜなら、主観的な判断力が疑われているからである。機械的な客観性が、個人的な信頼の代替を果たす」(p.130)。客観性は、その方法を採用しなければ自律性を完全に失っていたであろう会計士たちによってとりわけ推進されたのである。

 このように社会に対し応答責任が生じる性質の強い科学者共同体は「弱い共同体」として、自分たちの手続きを数値を用いて標準化せざるをえなくなる。共同体は閉鎖的なゲマインシャフトであることをやめ、社会構成員との交渉を受け入れるゲゼルシャフト的性格をもつようになる。そして科学の「客観的」な性格を考慮するならば、科学者共同体の本質は「強い共同体」ではなく「弱い共同体」にあると考えた方がよいと、筆者は従来の科学観の転倒を図る。最先端物理学のような強い共同体において営まれる科学分野は「私たちが通常、科学的精神と関連づけているもの––客観性の強い主張、書かれた文書を必要とする主張、厳密な定量化の強い主張––が驚くほど欠けているのである」(p298)。真に現代科学のモデルとして考察すべきは物理学ではなく会計に代表されるような統計学なのだ。

 

 本書の意義の一つに科学のあり方の転換がある。ポーターは科学論上あまり注目されてこなかった会計や費用便益分析に着目した。もし科学が客観性を重んじる学問であるとするならばその模範は先端物理学ではなく統計学であるという主張は、科学のモデルとして物理学を考察してきた科学哲学や科学論のあり方に大きな転換を迫ることになる。科学に対するエクスターナルアプローチへの寄与だけでなく、「科学とはなにか」という問いに重要な示唆を与えることになろう。

 また科学者共同体の倫理を考える際にも本書は役立つ。科学者共同体は一般に、科学の独立性を強調し、外部からの倫理的判断を忌避する傾向があるが、科学者共同体が定量化という方法により社会性を帯び、本来的に外に開かれ、外部への応答の形で自律性を保持していったとするならば、科学者共同体が外部との交渉に応じないのは批判されるべき事柄ということになる。本書は科学者共同体の外部による倫理的判断の正当性にも寄与するのである。

 

 ここで、ポーターの科学論をフランスのエピステモロジーと関連づけてみよう。エピステモロジーは科学の歴史的形成過程における時間や質量などの基本概念の変化や科学的認識を基礎づける根本思想の変遷を解明する学問であるが、しばし社会との関係を考慮せず科学内部のみを研究対象とする内在主義をとってきた、明らかに本書の外在主義の立場と逆の方法論をとる学問である。例えばガストン・バシュラールの科学論だと、科学的知識は歴史とともに順次蓄積されていくのではなく、認識上の切断を経てその理論や概念を一新させるのだが、切断の前後で理論の主観的、もしくは実在論的な性格は薄れていく。想像に基づく素朴な認識から客観的な科学的認識へと精神は変遷をとげるわけだが、ここで前提とされているのは客観的な現代の物理学や化学を模範とし、それまでの科学の歴史に審判を下すという視線である。もし本書が示すように客観的とされる現代物理学はその実科学的精神を欠いているとするなら、この視線は不適切であるという指摘が与えられる。だが他方で物理学や化学に対してしかバシュラールが適用していない「科学的精神」がむしろ社会的圧力により発展した統計的学問にみられるとするならば、内在主義における政治を語ることの不可能性に対して風穴をあけることができると考えられる。

 同時にバシュラールの領域確定性の議論を参照するとポーターの議論の難点が見えてくる。科学的思考の合理性がどのように形成されるかの問題をバシュラールは考える。彼はあらかじめ総体的な合理主義を一挙に語るのではなく、各々の学問領域を確定してそれぞれにおいて完結した小さな合理主義をまず考える。次いで確定した各領域が網の目のなかの結節点のように連合していることを確認するわけがだが、その際彼が注目するのが理論の代数的形式である。例えば、理想気体の状態方程式と水溶液の浸透圧を求める公式は、ともにPV=RTという代数式で表すことができる。異なる合理主義の領域で生み出された理論であっても、代数的形式が類似していることのなかに感覚界を越えた本体界としての根源規定性を見出すことができるのである。それに対してポーターの議論では代数的形式は外部圧力に応じるための手段としての定量化の結果にすぎない。代数的形式が現象の本体的性格を示すというバシュラールの議論からすれば、ポーターの議論は一面的ということにならないだろうか。このとき、客観性の概念は社会的プロセスのなかで形成されたというポーターの主張は弱められる。客観性の概念は結局のところ、社会的プロセスに注目するだけでなく、科学者共同体内部の知識形成プロセスに純粋に注目した研究によっても探究されなければならないのではないだろうか。