錬金術師の隠れ家

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映画感想:『映画プリキュア スーパースターズ!』 ※政治的批評につき注意

   今永田町が荒れている。「嘘」という名の暴風雨でボロボロである。公文書の改竄が明らかになったというのもそうだが、その責任を一切認めず、昨日言ったことと全く違う答弁を連発するホラ吹き政治家の醜悪さは子どもでも分かる。嘘をついても許されるなんて、こんなみっともない大人の姿、子どもたちには見せたくないだろう。それよりは、嘘を許さず、しかしかつて約束を破ってしまったことを償うプリキュアの勇姿を応援させた方がはるかに教育的だ。

   『劇場版プリキュア スーパースターズ』をみて真っ先に思い浮かんだ感想はそれだった。本作に出てくる敵キャラは平気で嘘つくやつで、「嘘をついて開き直るなんて信じられない」という台詞がプリキュアの口から出てくるのである。その台詞を今総理大臣や財務大臣の椅子に座ってる面々に聞かせてやりたい、という印象が真っ先に出てきてしまったのである。プリキュアを使って政治的批評をするなんてあんまりしたくはないのだが、むしろ現実の醜悪な政治と比較してみることで春のプリキュア映画の魅力というものが強く認識されるものだと思い、今画面をフリックしている。本記事ではプリキュア映画が「春」に公開されることの意義に注目して論じよう。

 

   手始めに、知らない人のためにプリキュアの映画がどんな形態で公開されるのかにも触れておこう。プリキュア映画というのはなんと一年の春と秋に2本も新作が上映される。秋に公開されるのはその年のプリキュアのタイトルを冠したもので、当然その年のプリキュアが活躍する。他方で春に公開される映画は「カーニバル」や「スターズ」の言葉が多用されることからもわかるようにオールスター映画の性質を持っており、一昨年の『みんなで歌う♪奇跡の魔法!』では、なんと総勢44人ものプリキュアが参戦したのだ。このように春のプリキュア映画は往年のプリキュアファンやへのサービスや、本作をきっかけにメインターゲットである児童たちに過去作に興味を持ってもらおうという側面が強かったのである。

   流石に数が増えすぎたのか、去年からは前年ともう一つ前の2作にゲスト出演作を限定するようになったのだが、このとき春のプリキュア映画は重点が少しずれたように感じる。春の映画が特に要点に据えるようになったのは、前作と現行作の溝を埋めること、言うなれば「引き継ぎ」である。プリキュアが終了するのは例年1月末で、プリキュアの新作がスタートするのは例年2月のはじめ。つまり3月のプリキュア映画には、一つ前のプリキュアシリーズが終了して悲しみにくれている子どもたちに、成長したプリキュアたちの活躍を見せてあげるという側面があるのだ。「成長した」というのもミソで、前作のプリキュアたちは幾多の試練を乗り越えて立派に大きくなっている。そんな先輩の彼女たちが、プリキュアになってまだ一月しか(一部のキャラクターの場合はわずか数日)しか経っていない後輩たちにキラキラと戦う勇姿を見せたり手助けしたりしてくれるのである。『キラキラ☆プリキュアアラモード』が終了してしまい寂しさを覚えていた子どもたちも、キュアホイップたちが新しいプリキュアの先輩として元気に活躍しているのをみれば、さぞ満足することだろう。子どもたちの気持ちの面でも、プリキュア間の関係の面でも、「作品がまるきり変わる」というシリーズを続けていくうえでの避けがたい断絶を和らげる機能が春のプリキュア映画にはあるのである。

(註:もっとも、近年は放映中にこうした「引き継ぎ」を行うことも多くなった。最終回に新作の主人公がゲスト出演するのだ。『スーパースターズ』には主人公の野乃はなが『キラプリ』でのゲスト出演の経験から、キュアホイップたちに助けを求めに行くというシーンがある。世界観レベルでも繋がりを感じさせるようで実に興味深いシーンである。)

 

   テーマについても春と秋とで結構違ってくる。秋の映画は現行シリーズも大分進んで、恒例の新プリキュアや新アイテムも出揃った頃なので、プリキュアもそこそこ成長しているのである。テーマは現行のテーマの延長か補完であることが多く、描かれるのは主に主役のプリキュアや妖精の内面である。それに対して春の映画はお祭りであり、プリキュアもそんなに掘り下げはされていないので、現行シリーズに関してあまり踏み込んだことはできない。そのためかゲストキャラクターの悩みを題材にして、「異質なもの同士の友情」や「親子の愛」といった比較的普遍的なテーマを扱う。本作の「友達との約束を守る」というテーマも当然それにあたり、シンプルではあるが、過去の約束を果たすために過去作のプリキュアと協力して困難を乗り越えようとするハグプリの面々に我々は親しみを覚えるのである。

 

   醜い政治話に話を戻してしまうと、本作が今の政治とあまりにも対照的に見えたのは、まあ時期が重なったのは偶然にしても、春のプリキュア映画が普遍的な道徳をテーマにして、駆け出しのプリキュアと熟練のプリキュアとが協力して殊勝にも苦難を乗り越える、という構図を有する点が、「約束を守る」「嘘をつかない」という普遍道徳を無視し、責任を自ら取ることなく部下や友人になすりつけようとする首相の姿とあまりにかけ離れていたからであろう。拳や技に乗せられるプリキュアたちの勇気と友情、力強さに子どもたちはミラクルライトでエールを送るのである。それは荒んだ大人からすると単なる綺麗事にみえるかもしれないが、今の国会を見てみると実は最も必要とされていることなのかもしれない。というわけで皆さん、プリキュアを応援しよう。そして、プリキュアになろう。