錬金術師の隠れ家

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ミシェル・フーコー『侵犯への序言』 DE No.13

 

 

   この論考は1963年にミシェル・フーコーが、1962年のジョルジュ・バタイユの死去に伴う「クリティック」誌のバタイユ特集に寄せたものである。この論考を最初読んだとき、何が書いてあるのかを理解できる人間はおそらく皆無に等しいだろう。フーコーバタイユの基本思想を知っておかないとついていけないだけに留まらず、この頃のフランスの思想家にありがちなことだが、どこが強調すべき論点なのかなかなか判然としないのである。
   私も最近になって再びこの論考に取り掛かってみたが、バタイユの思想がまだ理解できていないのもあってこの論考もやはり十分には理解できていない。しかし、どうせ分からないのであれば、キーワードを目印にある程度自分の方で筋を立てて、それに合わせて読解してみようと、人に言われたのを思い出した。その通りに美容院で理髪中に頭の中で再構成してみると、意外と言いたいことが分かってきたのである。以下は美容院で頭の中でまとめたことを文章にしたものである。


   バタイユの思想では神とセクシュアリテが対になり、神の神聖さが剥奪されているかのようにみえる。しかし、ニーチェ以後の言説においてそこで行われているのは、神への侵犯ではなく、不在の神への侵犯である。その「侵犯」には具体的な内容がなく(何せ「神」は死んだのだから)、したがって「侵犯」とは何かという形式的な問いが開かれることとなる。(それをフーコー自身の言葉で語るのが第2パートである。)
   現代における侵犯とは、その対となる「限界」の措定と破壊のいたちごっこであり、「限界」と共時的にしか行為しえないものである以上、それと共犯関係にあるといえる。なので「有限性」概念によって規定される現代において「侵犯」は必然的な概念なのである。この有限性はカントが形而上学と批判を接合したときに「人間学的な問い」として現れ、そしてヘーゲルなどによって弁証法の問いへと導かれていった。なので今日の不毛な限界と侵犯のいたちごっこを乗り越えるためには、それ以前の哲学の言語に立ち戻る必要がある。
   それをやってのけたのがバタイユである。バタイユは西洋哲学における「眼」の働きに注目する。眼はこれまで哲学的主体が認識を行う器官として特権化されてきたが、バタイユは眼球が眼球そのものの見られる働き、すなわち眼球の回転運動に着目し、その眼球を取り囲む肉の境界を直視し、侵犯する働きを見た。「バタイユの眼は言語と死とが帰属する空間を描き出す。そこで言語は自らの限界を超えることにおいてその存在をあらわにするのである。それが哲学の非弁証法的言語の形式なのだ。」18世紀末以来のヨーロッパの思考では人間は労働する動物であった。労働に伴う消費はただ欲求やそれを測る飢えによって一意的に定められてきた。それは人間学や生産の弁証法をも基礎づけた。しかし、サドがセクシュアリテを語り、ニーチェが神の死を語って以降、飢えを弁証法の言語で語るわけにはいかなくなった。セクシュアリテは言語に吸収され、言語自身による限界と侵犯のゲームの中におかれてしまった。このようにして、哲学は知(哲学とは別種のもの、多分科学のこと)や労働に対して二次的であるのみならず、言語に対しても二次的なものとして承認せざるを得なくなり、哲学的主体の至高性は失われてしまった。我々が有限性や存在を体験するには、言語を経由しなくてはならなくなった。この言語空間はそれまでの弁証法哲学にとっては絶望の暗闇だが、しかし非弁証法哲学にとっては希望の光となっている。

 

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

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