錬金術師の隠れ家

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映画感想:『劇場版 響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(2016)

 8月29日に、新宿ピカデリーにて『劇場版 響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』の特別特集上映があったので行ってきた。いうまでもなく、例の事件を踏まえた上映である。個人的には「そういえばまだ見てなかったな」という軽い気持ちで行ってきたのだが、果たして会場は重い空気に包まれていた。スタッフロールですすり泣く声が聴こえたりもした。
 映画自体はとても素晴らしく、アニメ1期の総集編ではあったものの、1つの作品として仕上がっており、こうした形式のため放映版では気がつかなかった新たな発見があったりした。もちろん、放映版でもよかったシーンも素晴らしかった。そして何と言っても「音響」である。吹奏楽を題材にしているだけあって、「音」を目当てに劇場に足を運んで見るだけの価値がある。これらを語ってみたいと思う。
 

画面が音を鳴らす

・冒頭が久美子の演奏するユーフォのベルの奥中から手前にパンするシーンから始まる。これの何が特徴的って、ベルの向きからして必然的に「斜めに」奏者を覗き込む視点へとフレーミングがシフトすることである。こうした画面構図はあまり見たことがないものだから新鮮だった。トランペットやトロンボーンだったら真正面に覗き込む構図になるからこうはいかないだろう。でも楽器がユーフォニアムなのだから当然ではないか、と思うかもしれないが、そもそも「ユーフォニアム」なんて地味な楽器が主役の音楽アニメはこの作品くらいしかないのだ。この作品は「ユーフォニアム」を主役にしてるからこそ「特別」なのだ、それを端的に効果的に見せる演出!満点の出だしだ。
 
・スカートの描写。入学式の朝、久美子が自室で冬服のスカートの裾を短くする描写が入るのだが、これはなかなか冒険的な描写に思えた。それというのも、青少年のキャラクターを「性的存在」として規定するからである。前者のモノローグで語られるのは性徴の話である。
 「高校に入ったら胸が大きくなるなんて噂、どうして信じちゃったんだろう。そんな事を思いつつ、わたしの高校生活は始まろうとしていた。」
 
原作だと男子の足を見る性的視線を内面化するという形で自らの性徴を語っていたのが、アニメでは他者の視線とは関係なく内省的な形で語られる。もちろん、「スカートが短い方が可愛い」というカジュアルな感覚でスカートを短くするという風にごまかすこともできただろうに、ここではあえて(原作より露骨ではないものの)性的存在としての己の自覚という形でスカートの裾を短くするのである。「足」は京都アニメーション(というより山田尚子)の作品において幾度となく象徴的に描かれてきた。
山田:「目は口ほどに物を言う」じゃないですけど、足もそうだろうと思ってました。足って普段は机の下に隠れちゃいますので人の本性が出ちゃうと思います。
 
「人間の本性」としての「足」が、「性的存在」としての「私」と結びつく、ここはそういうシーンである。
 なんでこの冒頭の「スカートを上げる」というどうでもいいような描写にこだわっているのかというと、終盤、同じく自室で冬服のスカートを着用するシーンが入るのだが、決定的な違いがある。その日は大会当日という公的舞台に立つ日であり、ハレの日であるが故に、久美子はスカートを下げるのである。公式の舞台に立つのでフォーマルにするのは当たり前のことだが、冬服に着替えるシーンが出てくるのはこの2シーンだけでありながらも、その「フォーマル」感を、序盤の描写と対比させる形で「スカートの裾を伸ばす」という描写で表現しているのである。足の見える面積が小さくなるのだから、ここでは性的存在としての自覚は語られない。そんなことよりも「大会本番」のことを考える方が大事だ。このアニメは登場人物をちゃんと性的な存在として描きはする。でも性とは逆立するような「大会の演奏に魂を込める存在」もちゃんと切り替えて描くよ。そうしたことを訴えかけてくるようだった。
 多分放映版でもこうした描写はあったかもしれないが、2時間以内に話を収める劇場版という媒体形式だからこそより対比として伝わってくるような印象があった。
 
・麗奈が再オーディションに臨むシーン。優子に頭を下げられた件もあったためか、普段は特別になりたいと願い強く振る舞う麗奈であったが、再オーディションを前にいつになく明らかに気がひけている。いつも眩い麗奈の顔が、今回に限って暗く曇る。あまつさえ顔が柱の影に隠れていて、とてもいつもの麗奈とは思えない。
 他方で、麗奈の思いを知った久美子の顔には、強い陽光が差し込んでいる。「特別になりたいんでしょう?」と久美子の方が、光差す側から麗奈を「特別」な方へさそいだす。あの日大吉山で受けた「愛の告白」を返されたことで、麗奈は再び眩い光を取り戻し、高らかな自信とともに決意の表情を見せる。

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(第10話 まっすぐトランペット より引用)
 
・久美子が滝先生から158小節目を吹くことを外される宣告をされるシーン、蝶が蜘蛛の巣に引っかかるカットがかかる。この描写は後の久美子が大会を辞退しようとするあすかを説得しようとして難儀するシーンでも見かけられる。久美子の悔しさや切実を昆虫の死で象徴するおぞましい描写。
 

音の風景

 本作品は画面だけでなく音に対するこだわりも非常に強い。気づいたことをあげてみよう。
・序盤の音楽。冒頭の地獄のオルフェを除けば、流れるのは北宇治の下手な演奏ばかりである。下手な演奏ばかり聴かされるせいで「大丈夫か?」という空気が漂う一方で、麗奈の上手い演奏が時折風のように通り抜けていく。川の淀みの中に一瞬砂金を見つけたかのような喜びといえようか。劇場版だとこの辺が徹底されていて、放映版だと滝先生が地獄のオルフェをスマホで流すシーンがあったのだが、劇場版ではそれがなくなっており、ひたすら北宇治の下手な演奏とそれに釘刺す麗奈の演奏ばかりになっているのがその証左となっている(これはこれで非常に技巧的なシーンなので放映版も見て欲しい)。こうした音の統制もあって、滝先生の鬼の指導の末仕上がった合奏は、本当に見違えるほど美しいものに感じられるのである。
 こうした駄演と名演のコントラストの中で一際目立つのが、麗奈の新世界第二楽章の演奏である。演奏も柔らかな音色で素晴らしいが、それを彩るのが柔らかな紫の夕焼けである。麗奈が演奏している場所は藤棚。本シリーズで象徴的な場面で幾度となく登場する舞台である。「紫」は日本ではかつて皇族しか使用できない高貴な色であるとされていた。去年大量に脱退者を出してしまうほどに堕落した北宇治高校吹奏楽部の淀んだ空気と対照的に、麗奈の演奏は誇り高く輝いていた。
 
・放映版でも思ったことだが、久美子と緑輝の最初の北宇治の演奏を聴いた時の反応が、楽器未経験者の生徒や葉月と明らかに違っているのが吹奏楽あるあるであった。ある程度経験を積んでみると、北宇治のあの演奏は音程バラバラ、テンポも合ってないとまるでダメな演奏であるということがはっきりとよく分かってくるのだけれど、初心者からしたらそうした違いは分からないものだから、楽器が鳴らせるだけでもすごいのである。このリアリティが吹奏楽経験者からしたら本当に「分かっている」と思えた。
 
・サンフェス本番のシーン。北宇治が立華などのトップ校の直後の出番になってしまったせいで部員たちがプレッシャーに押しつぶされそうになるなか、ここでなんと麗奈がまっすぐに音出しをする。控えにいるのだから普通音出しなんかしてはいけないはずである。空気の読まなさがまるで山岡士郎である。だがしかし、この空気の読まなさが緊張した空気を破壊して北宇治を良い方向に運んでいる。このまっすぐな音が、劇場で聴くと己に直に訴えかけてくるようでもあった。
 サンフェスの本番も、音だけでなく行進とステップによって我々の目を楽しませてくれる大変素晴らしいものだった。久美子の原作での台詞「楽しい!」が、台詞自体は聴こえないのに、「画面」から聴こえくるようだった。
 
・他にも、音響に対するこだわりが非常に強く感じられた。音楽室で優子が麗奈に詰め寄るシーンは、マットを敷いているため足音が鈍くなっている。オーディションのときの久美子の演奏に、タンギングやマウスピースに空気を吹き込んだときの音が紛れており、「奏者にしか聴こえない音」が聞こえてきて、画面だけでなく音においても久美子に一人称的にフォーカスしている感じが伝わってきた。
 

特別とは

 本作はとても素晴らしい内容であったが、このタイミングで見るとなるとどうしてもアクチュアリティと結びつけざるを得なくなってしまう。それを感じたのは麗奈の「特別になりたい」という言葉である。他人の空気に染まらず自分らしさを貫き、なりたい私を実現させようとする意志。それはまるで星のように輝いている。
 しかし他方で、歴史に名を残す凶悪殺人犯となることも、「特別」になることである。「特別」が「他の人と違うこと」であるとすれば、「何もない自分」から抜け出して「何かがある自分」になることが「特別」であるとすれば、この二つはどう違うのだろうか、という残酷な問いが訪れることになってしまった。
 これらを区別するには哲学者の助けを借りると良さそうである。ハイデッガーは世間の空気や雑談に耳を貸してばかりいて、自分らしさを持たない人間のことを das Man(世人)と呼び、こうならないためにはどうすれば良いのかを考えた。そして考え付いたのが、自分を「死せる存在」であることを自覚し、いずれ訪れるであろう死へと向かって自分の存在を投げかけることであった。
 他にも哲学者たちは「特別になる」方法を考えていったのだが、面白いことに、哲学者たちが提案する方法というのは実は「誰でもできる」方法なのである。「理想」を実現することは難しいことかもしれない。だがしかし、その出発点に立つことは誰でもできる。ただその出発点に立つことを恐れ何もしない人というのが大半ではないか。哲学は「勇気」とセットなのである。
 無論この「勇気」は「蛮勇」とは異なる。破れかけには「理想」がないからだ。
 こうして考えて見ると、麗奈の「特別」とは、最高の演奏をして、そして滝先生と結ばれるというような「理想」に向かって、一時は怯みつつも親友の声によって「勇気」を取り戻し歩つづける誇り高き意志であるようだ。
 もちろん「理想」も「勇気」も持てない人はいる。本シリーズでも自身に限界を感じて脱落する人間はいた。「特別」とは動機としては普遍的でありながらも、しかし実際実現するとなると極めて高いハードルであることは否めない。しかし他方で、自分のことを気にかけてくれる人もまた描かれるのが本シリーズでもある。生きる上で重要なのは特別になることというよりは、自分自身を肯定すること、それを許す友を見つけ出すことだ。本シリーズは「特別」をメインキーにしながらも、そうした人間関係の多様性を描いてもいるはずである。