錬金術師の隠れ家

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批評の意義とは何かー『やがて君になる』第5巻を参考に

   批評の意義とはなんだろうか?作品は作品だけあればよいのではないのか?そんな議題を本日9月4日、アニクリ編集者・寄稿者の方々たちと話し合ったので、個人的に思ったことを書いてみる。


   私としてはこの問題設定を聞いた時真っ先に、『やがて君になる』第5巻のワンシーンが思い浮かんだ。主人公の侑が劇脚本担当のこよみに、劇の結末の変更を申し出るシーンである。劇中劇のあらすじはこうである。記憶喪失の主人公が元の自分の手がかりを見つけるべく、かつて親しくしていたという三人の人物に話を訊くのだが、三人それぞれによる過去の自分の人物像がバラバラであるあまり、どれが本当の自分なのかわからなくなる…

   最初の結末では、主人公は三人のうち恋人のいう人物像を本物として選び取る、ということになっていた。だが、侑はそれに疑問を呈するのである。以下その部分の台詞の引用である。


あの主人公は…三つの自分の中にどれか一つ「正解」があると思ってる。正解を見つけてその自分になるべきなんだって。過去の自分について見舞い客から話を聞いて日記やメールを探して最後は答えとして恋人といることを選ぶ。

でもそれって今の主人公の意思じゃないんじゃない?昔の自分を基準に決めただけで今の彼女の選択じゃない。舞台の幕が上がって下りるまでの間観客が見てるのは今の主人公でしょ。記憶があったころの彼女じゃなく。なのに過去を基準にして結末を導くんじゃまるでこの劇の時間に意味がなかったみたいだ…(pp.21-23)

 

やがて君になる(5) (電撃コミックスNEXT)

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   物語は見る人間を変える力を持っている、とよくいわれる。もちろん変えない場合もあるだろうが、物語を見るものが望むのは、物語を見ることによって「楽しかった」と感じること、「泣いた」と感じること、「学んだ」と感じることを経験することである。物語に時間を費やすことによって、何かしらの意味が自分のなかで芽生えることを望んでいるのが普通であろう。しかし、見るものを変容させる意志がないような物語は、与えられた選択肢から一つを選ぶだけの結末は、果たしてわざわざ時間を割いて見る意味があるのだろうか?侑の指摘はもっともであるし、本編の物語内容と関連させて言うならば、劇を演じる燈子にもまた過去から与えられた選択肢にこだわらずに新しい自分を見つけて欲しい、という願いも込められている濃密なシーンなのである。


   「見る者を変容させる意志」、ここに創作の本質があるように思える。「見る者に影響を与える意志」といってもいい。「瞬間的な面白み」「葛藤を克服することによる満足」「物語の後も残るお土産」を見る者は求めているからだ。それを満足させられよう、物語は最適化される必要がある。もちろん見る者にも好みというものがあるから、「この物語は私には不満足だった」という感想も出てくることだろう。しかし、最初から見る者を満足させようとしないことと、見る者を満足させようと努力することとは違うことだ。話者は最初から諦めてはいけない。形式を知り、趣向を凝らして、自分の伝えたいを伝える意志はせめて示すべきなのだ。

(上述の物語の意義については、詳しくはヒグチ氏のブログがたいへん参考になった。

http://yokoline.hatenablog.com/entry/2014/08/09/174717 )

 

   批評もまた作品の一つとするなら、同様に侑の指摘は大変示唆的である。批評の意義は何かと訊かれたら、読者に対象作品に対する新しい視座を与え、対象作品に対する評者の熱い思いをぶつけることだ、と答えることだろう。作品そのもののうちで起こったことをただ語るだけでは「批評」という「作品」にはなりえない。せいぜい個人用のメモか、よくわからない人のための解説か、忙しい人のための概要か、背景が分からない人のための注釈にしかなりえない。解説、概要、注釈はもちろん需要はあるのだが、「その作品をみてあなたはどう変わったのか、あなたの文章によって私たちはどう変わりうるのか」が提示されることはない。読者にとっての変容のモデルとしての「評者自身」、これが実際に作品を見たことで変容したことの痕跡もまた「批評」になりうる。このとき、評者はひとつの作品を書いたことになるのだ。