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ベンヤミンの《救済》の概念-「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」

 卒論書くにあたって、昔手掛けたなかでもっとも長いレポート(5000字くらい)を振り返って自分を見つめ直す。われながら良い出来だと思うので掲載することにする。結論はともかく、導入がかなりよい。批判論でたった一回しか登場しない概念を別のテクストと照らし合わせることでその意義を誇示してみせる離れ業である。締め切りギリギリで研究室泊まり込みで書いていたのが懐かしい。13年夏:高橋哲哉「『暴力批判論』を読む」の単位修得にあたって提出した、ヴァルター・ベンヤミンの2冊の著作「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」に登場する一概念を検討するものである。
 
《救済》の概念
 本稿では本講義()で精読したヴァルター・ベンヤミンの論文『暴力批判論』における「神的暴力」の意味を、彼の本来の仕事である批評において重要な概念である「解放・救済(Erlösung; 以下《救済》と表記することにする)」を用いて明らかにしていくことを試みる。この論考において《救済》の用語が登場するのはただ1回だけ(『暴力批判論』, 241)だが、それはベンヤミンの歴史哲学において意識されていた問題であり、彼の主たる活動である文芸批評でも重要な位置を占めていた。この言葉を理解することは、この論文においても難解な概念であった神的暴力を理解するうえでも大切であるように思える。本稿では『暴力批判論』の他に、彼が唯一批評の対象を一作品に限って徹底的に論じたとされる批評『ゲーテの「親和力」(以下、「親和力論」とする)』を主に解釈し参照する。
 

 ベンヤミンは『学生の生活』において「危機(Krisis)と批判(Kritik)にみちた精神生活をおくることは学生の義務(村上, 1990 を参照)」であると述べている。そしてこの問題意識は文芸批評(Kritik)にも持ち越されることになる。一般に、批評・批判=Kritik の語源である古代ギリシャ語の krisis は、「判決・決定」の意味をもっており、またそこから派生した別の語が 'Krise=危機' であったことも考慮すると、批評・批判の本来の意味は、歴史の危機における判決を下すことであると考えることができる。さらに krisis の判決の意味がユダヤ的な意味を帯びると、「神の審判(歴史の終末における神の救済)」を意味するようになった。ユダヤの聖職者は聖書で語られる「生命の書」に書かれている救済されるべき者の名前を明らかにするのである。ユダヤ思想を色濃く受け継いだベンヤミンの批評もそのような性格をもっており、つまり作品の《救済》を行う。どういうことかというと、初期ロマン主義批評の方法論にならい、作品の善し悪しを判断するのではなく、作品の秘密として込められた真理内実を反省を繰り返し解釈することにより見つけ出す。つまり書かれてある事象内実(テクストに書かれてある事実の総体)から、真理内実(テクストに秘められた真理)を明らかにするのであるが、その真理こそ、救済を待つ憐れな人間の名前なのである。

 このように、彼の批評において《救済》の概念は重要な位置を占める。もっとも、ここで示された意味での《救済》はテクストの解釈の方法であり、暴力・法・正義の関係の叙述を目的とした『暴力批判論』とは無関係に思えるが、この《救済》という言葉は、先に述べた通りただ1回だけしかこの論文に登場しないものの、しかし「神的暴力」の性格を形作っている可能性を示しているのである。

「…一切の暴力を完全にかつ原理的に排除してしまったのでは、…これまでのすべての世界史的な地上的存在状況の勢力圏からの解放[救済](Erlösung)を思い浮かべることは、あくまで不可能であるから、あらゆる法理論が注視する種類のものとは異なる種類の暴力(論者註. 神的暴力のこと)についての問いが、有無を言わせず迫ってくる。(『暴力批判論』, 261,2)」つまり、人類の世界史的歴史的現状からの《救済》という、法哲学の大問題の解決のためには、それまでの法的性格を孕んだ神話的暴力でなく、神的暴力が必要とされる、言い換えると、神的暴力は《救済》なのである。しかし、《救済》の概念はこの論考では1度しか触れられていないうえ、神的暴力の定義も周知の通り謎めいた調子を帯びている。

 
 この他にも『親和力論』は『暴力批判論』は互いに共通するモティーフを用いて論証を展開している。例えば、このロマーンの登場人物たちの破滅の運命をベンヤミンは法がもたらす「神話的な暴力」によるものとする(ibid, 51)。いうなれば哲学理論の批評における実践版である。ところでベンヤミンはこの作品形式のロマーン(長編小説)と対比される、第二部第十章に挿入された『奇妙な隣同士の子供たち』というタイトルのノヴェレ(短編小説)を引き合いに出す。ロマーンの登場人物たちが闘争に身を任せることはなく、それにもかかわらず自然の強大な力により自ら犠牲を供することになるのとは対照的に、ノヴェレの登場人物たちは激しい行動をとり、強い決断力によって神と対峙し、犠牲を供することなく神と真に和解する。この場合、「ロマーンのもろもろの神話的モティーフには、ノヴェレのそれが《救済》的モティーフとして照応しているのだ(ibid, 127)。」よって、ベンヤミンにおける救済がユダヤ的なものを暗示させるとすれば、この場合の「救済」は、暴力批判論における「神的」と類縁関係をもっているとみなせるのである。執筆背景としても、両者の著作の成立時期はだいたい同じで、1920年代の前半であり、用語上だけでなく思想上も連関があることは明らかである。4人の男女の不倫の末、人間の自由意志を打ち砕く運命の力により悲劇的な結末を迎えるという救いのない物語に思えるが、『親和力論』では何度も《救済》という言葉を使い、作品の《救済》を図っている。それゆえ、この批評における《救済》の意味を明らかにすることで、先に述べたよりも『暴力批判論』における《救済》の意味を明らかにできるだろうと考えられるのである。以降、 《救済》について触れている箇所に注目して解釈を加えていこう。

 

 『親和力論』訳本の78頁に、《救済》=Erlösung の語が初めて登場するが、それは訳では「解放」となっている。この箇所では、不貞による法違反という神話的罪過が作品において主人公たちの破滅によって贖われているのだというゲーテ本人の言葉を批判し(註1)、『親和力』における法の侵害に起因する破滅は贖罪ではなく、婚姻という雁字搦めの状態からの「解放」に他ならなかったのである。それというのも、ゲーテがいうようには義理と恋情のあいだの戦いは存在していないうえ、結末にて倫理的なものの勝利を祝うわけではないからである。グンドルフのいうように、従来はこの作品の最後はオッティーリエの贖罪による聖化と考えられていた。しかし、それは外在的な道徳に基づく見方であって、事象内実から真理内実に迫るベンヤミンの方法論とは性格を異にする。ベンヤミンゲーテの問題意識に注目し、ゲルヴィーヌスの著におけるシラーのゲーテ宛の手紙から、ゲーテの晩年の生の不安を指摘している。それは沈黙として、彼の内部に閉じ込められる。生の根柢に潜むもろもろの象徴が表れるのは、作品においてなのである。ただし悲劇のように自己の内奥の本質として表現されるのではない。贖罪によって獲得される自由は詩人の生にはどうでもよく、自分の生をも対象とするような《救済》の可能性が問題となるのである。「このゲーテの生にとっても、悲劇の主人公が死において見出す自由ではなく、永遠なる生における《救済》こそが、問題の核心となる(ibid, 96)。」

(註1ベンヤミンが影響を受けた初期ロマン主義批評では、作品解釈による芸術への寄与を主張しているが、ゲーテはこれに批判的で、作品はそれ自体自立して成り立ち、批評は不要であると唱える。しかしベンヤミンはこのゲーテの立場を批判し(ドイツ・ロマン主義, 129; )、彼の作品に批評を加えることを正当化しているのである。もっとも、それはゲーテの作品に込めた生の意識まで否定するものではなく、上述のように生の象徴の現れる、《救済》の場として作品を見ている。)

 ここから分かるように、《救済》は決して贖罪を意味するのではない。不貞を働いたために子供を失いやがて自死に追い込まれるという話の流れからも推測できるように、贖罪は神話的な法秩序が要求する、法維持的な暴力といえるのである。しかし贖罪を退け生を救済するといっても、ベンヤミンは従来のように作品に創作者の生を見出し本質をつかもうとする方法は誤謬であると考える。いわば、作者を神話的英雄とみなし、人類の代理人として神々の前に立ち、人類の解放者=《救済》者といて扱う考え方をベンヤミンは否定する。このような見方の代表ともいえるのが、ゲーテ研究で高名なグンドルフなのであるが、ベンヤミンはグンドルフの試みを断固拒絶することでより「救済をもたらす内実が発している光の核心への洞察」へ導かれると確信する。

 作品に表れる神話的なもの、すなわち、不貞にたいする自然による神話的・法的な力の働きかけと、それに対する人間の無力、宥和と犠牲は、ベンヤミンによれば作品の認識の根柢をなし得ない。神話的な力という、ある意味では外部からの拘束力といえるものから批評を解放し、作品の事象内実から解釈を行い、真理内実へ至ろうとするのである。ではベンヤミンが注目した事象は何かというと、それが、上述したロマーンとノヴェレの関係、神話的なものと《救済》的なものの関係である。前者が犠牲を要求するのとは対照的に、後者では犠牲を供することなく神と真に和解する。

 まとめの部分で彼はオッティーリエの役割をこう結論づけている:ゲーテをこの作品世界に呪縛した(論者註:詩人の言葉を自分に託しているということ)のはまさにオッティーリエという人物、いやその名にほかならず、そしてそれは、ひとりの滅び行く女を真に救い出すため、ひとりの恋人をこの作品世界のなかで《救済》するためだったのだ(ibid, 180)。」エードゥアルトとの不義の愛のため神話的な裁きを受けることになりつつも、ゲーテは救済の可能性を与える。星の表象のもとにかつて彼の目に立ち現れたことのあった「愛し合う者たちのためにゲーテが抱かずにはいられなかった希望」が、批評により再び掘り起こされ、死にゆくものへの《救済》となる。注意したいのは、この希望を与える役割を担うのは、詩人でも作中の登場人物でもなく、他ならぬ語り手すなわち読解者なのである。「希望という感情において出来事の意味を全うすることができるのは語り手だけなのであって…。(ibid, 182)」「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。」
 
 これらのことから『親和力論』において何がいえるか。まず文学および批評の使命を考えると、文学の創作は神の使命ではなく、逆にそれは神の使命からも言葉を自由にするのである。そして批評というものは、作者を英雄や神とみなし彼により作品に与えられた法規範などの外在的な意味を解読していくものではなく、作品の事象内実に基づき真理を明らかにしていく。この過程において事象内実における神話的なものは退けられる。それは、法や道徳という作品を束縛する力、いうなれば「神話的な暴力(ibid, 51)」が本来的な批評を妨げるのを止める。そこから提示される批評は、ノヴェレをきっかけにロマーンを補完する形で《救済》の可能性を提示する。これらのことから、《救済》の二重の意味が考えられる。ベンヤミンはグンドルフを激しく批判し、それまでの神話的な読解を排除することに非常に拘っていた。神話的内実を傍に退け作品の内実からそこに刻まれた「名」を明らかにしていくという批評の方法論そのものが、《救済》の一つと考えられるかもしれない。そしてベンヤミンは実際に「オッティーリエ」という名前を、その神話的な悲劇から《救済》した。それは、死において見出す自由に対抗して、死後における永遠の生を悲劇のヒロインに与えるのである。
 ここで『暴力批判論』に立ち戻ろう。この論考においては神話的暴力と神的暴力が対比されていた。神話的暴力は生を途絶えさせ、罪からでなく法から浄め、たんなる生に対する、暴力それ自体のための血の暴力であり、犠牲を要求する。他方神的暴力は生を滅ぼし、罪を浄める、あらゆる生に対する生ある者のための純粋な暴力であり、そして犠牲を受け入れる。ここで、『親和力論』において神話的なものと《救済》の可能性が対比されており、またユダヤ的文脈における共通性を考えると、やはり神的暴力と《救済》の類縁関係はかなり強いといえる。神話的暴力がそれ自体のための暴力であるのに対して、神的暴力が生あるものの《救済》のための暴力であると考えられる。また批評における《救済》のニュアンスをそのまま適用するとするならば、歴史を生きる我々が蒙る暴力の、ひとつの解釈可能性であると考えられる。それは『暴力批判論』の最後の段落にもあるように人間には不可知である。しかし、弔いという形で実践することはある程度は可能なようにも思える。
 

 

 

引用文献

Benjamin, W. : 浅井健二郎訳, 『暴力批判論』, 『ドイツ悲劇の根源』下巻収録, ちくま学芸文庫, 1999

Benjamin, W. : 久保哲司訳, 浅井健二郎編訳, 『ゲーテの『親和力』』, 『ベンヤミン・コレクション I 近代の意味』収録, ちくま学芸文庫, 1995

参考文献

村上隆夫, 『ベンヤミン 人と思想 88』, 清水書院, 1990
Goethe, J, W. : 望月市恵訳, 『親和力』, 『ゲーテ全集』第七巻収録, 人文書院, 1960
平野篤司, 『批評と救済:ヴァルター・ベンヤミンの『親和力論』』, 人文・自然研究, 7: 299-333, 2013-03-31