錬金術師の隠れ家

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鎧塚みぞれという「狂気」-『リズと青い鳥』を巡って(前編)

 本稿ではアニメ『響け!ユーフォニアム2』(2016)と『リズと青い鳥』(2018)を題材にして、鎧塚みぞれというキャラクターの性質、ならびにそれが作品において表す機能を考察する。特定人物に対し素朴で重い感情を向けるみぞれの心のあり方が、経験則や作者の意図から判断すると普遍的なものとみられると同時に、作中の言説や同じく経験則からしても異端めいてみえることに着目し、鎧塚みぞれが一つの「狂気」の形象として現れること、それが『リズと青い鳥』の物語を動かすよう機能していることを指摘する。

 

「恋に狂うとは言葉が重複している。恋とは既に狂気なのだ。」(ハイネ)

 
普遍と異端

 私が『響け!ユーフォニアム』の二期第4話の鎧塚みぞれの告白を聞いて抱いたのは、「素朴だ」という印象だった。鎧塚みぞれは百合的に「ヤバい」という前評判を聞いていたし、1話からしてみぞれの面倒をみる吉川と希美の復帰を手伝う中川の立場の違いや、復帰を拒否する副部長の思惑といった政治が繰り広げられていたのもあって、真相は一体どんなものだろうかと身構えていたのだ。しかし、実際放映されたのを見てみると、そこで吐露されたのはさほど複雑な感情ではなかったと思ったのである。孤独だった自分と友達になり、音楽の道に誘ってくれたことから、希美を自分の存在理由としていて、希美とともにいるただそれだけのためにオーボエを続けていた。しかし、一年前希美が部活から去って以降、取り残された苦しみを抱き続けており、希美との絆が切れるのを恐れ唯一残されたオーボエを吹き続ける。優子に喝を入れられて、京都大会で金賞を取ったときの喜びや音楽を奏でることの喜びを自覚させられるものの、3年生になったとき、再び希美との接点を失うことへの恐れから「本番なんて一生来なくていい」と思うに至っている。言葉にするのはなんとも容易い。

 
 こうした特定の他者に抱く強い感情というものは、実際青少年が抱くものとしては普遍的なもののように思われるのである。恋人に限らず、友人や家族などといった相手を大切にしたり依存したりすることは、未成年が自立するうえで実際通過する過程として現れることが多い。現に鎧塚みぞれ役の種崎敦美氏は、『リズと青い鳥』の4月4日の完成披露試写会で、同性の友達に対して強い感情を抱くことがある、という感想を表明していた。製作者が鎧塚みぞれというキャラクターを通して表現したいのは、まさしくそうした普遍的感情であろう。

 
種崎:「みぞれたちと同じくらいの時期にすごく大事な子が私にもいて。それこそ(みぞれと同じように)その子と一緒にいたいがために、同じ高校を選ぶくらい」「一緒にいないときは、その子がいるかもしれない方向を見る、とか」「でも、意外と女子ってそういうところある」(コミックナタリーより https://natalie.mu/comic/news/276562 )

 
 だが、自分が音楽をやる理由がただ一人の人間に帰せられているというのは、いくらなんでも動機付けとしては過剰ではないかという印象もあった。音楽をやる理由は人それぞれであり、もちろん消極的な理由で音楽をやる人間もいるであろう。しかし、音楽そのものが特に好きという訳ではないのに、ただ特定の個人と離れたくないという理由だけで、毎朝誰よりも早く練習しに音楽室に通うというのはとても常人にはできるものではない。あまつさえ、彼女は誰よりも高い演奏技術を身につけたのである。それは、『リズと青い鳥』で「普通の人」の希美が嫉妬を抱くほどの。

 
 実際、告白を聞いた久美子は言葉を失い、「こんな理由で楽器をやっている人がいるなんて、思いもしなかった」と理解不能の旨を示している。本作で相談役としての頭角を現しつつある主人公の久美子でさえ、まともに対応することのできないみぞれの目的は、あまりにも純粋すぎ、あまりにも音楽本来の目的とかけ離れているがために、普遍どころかむしろ「異端」であるということも、本作では提示されているのである。

 


文学的な狂気

   このような「普遍」と「異端」を両立させる鎧塚みぞれの傘木希美に対する志向性は一体何と呼ばれるのだろうか。直観やパンフレットに書かれてあったことを頼りにすれば、それは「」と呼ばれるものだろう。監督と脚本家の対談では「愛」と「恋」の違いが示されている。前者は持続的で、希美がみぞれに抱く感情がそれであり、後者は刹那的で、みぞれが希美に抱く感情がそれであるとされる。みぞれは希美とともにいる時間を瞬間瞬間生き抜いている。みぞれとの初めての出会いを終盤に思い出した希美とは対照的に、みぞれにとっては出会いや別離の記憶が常に現前している。それは刹那的であるがゆえにいつ終わるとも分からない。そんなみぞれの破滅的な生が「恋」の概念に現れている。

 

 だが、「恋」とはいかにも曖昧な言い方である。もちろんみぞれの感情は同性愛的なものと見ることもできるだろうが、それでは本作で意図されている、異性愛者も含む多くの人々が抱くであろう「親友への強い感情」を取りこぼしてしまう。みぞれの感情を同性愛や異性愛に共通するような「恋愛」と断定すると本作の目指す普遍的テーマからややずれるのである。そもそも、同性愛であってもみぞれほどに依存的になるとは限らない。万民に共通し、かつあまりにも程度が強いというみぞれの特性を表す概念としては、もっと別により良いものがありそうである。

 

 私としては、同性愛の可能性すら包括しながらも、恋愛感情に限らず友愛の感情にも幅広く該当し、尚且つこの感情の強さを表現するある一つの概念を提示したい。「狂気」である。

 「狂気」といっても、精神病理的な意味からは離れる。むしろ文学的な意味に近い。ロッテへの恋に狂うたヴェルテルや、信仰に全てを捧げる狂信者を想像してみるとよい。恋愛、信仰、友情の何でもよい。それらを巡る気持ちがあまりにも単純化され、理性とは程遠い見かけを呈するようになり、それが過剰に溢れ出て、破滅へと向かう状態。それは「狂気」と呼んでも差し支えないであろう。鎧塚みぞれに現れているのは、まさしくそうした「狂気」であるように思えるのである。「狂気」とは社会規範からの逸脱なのであるから「普遍」からは程遠いのではないか、という批判もあるであろう。しかし、理性的存在と同じ質料を得た感情的存在が、その理性を消失させ暴走するということはよく見られる事柄である。恋に我を忘れること、篤い信仰により視野が暗くなることは、普遍性をもつはずである。

 
 このように鎧塚みぞれというキャラクターに表れているのは、ある種の「狂気」であると思われるのである。この「狂気」は、久美子や麗奈のように音楽を目的として真剣に取り組む演奏者からは到底理解されるものではないが、それが逆説的にも「青春時代の経験」という普遍的なテーマを表すのである。

 
   次回は、鎧塚みぞれに現れる「狂気」が、本作においてどのような意義をもたらすのかを見ていきたい。