※本論は『ジェンダー・トラブル』の邦訳旧版(1999)から引用
エルキュリーヌ・バルバンは1838年に生まれてからフランスの修道院で育ち、1868年に自殺した人物です。この人物がなぜ注目されることになったのかというと、彼/女は出生時は女性として診断されるも、のちに半陰陽であることが分かり、医師や法律家によって強制的に男性へと法的変更を迫られたためです。彼/女の自殺の原因はまさしくこうした医学や法の抑圧によるものでした(エルキュリーヌは法的変更後の名前で、それ以前の名前は「アレクシナ」といいます)。バルバンによる自伝を哲学者ミシェル・フーコーが当時の医学や裁判の文献を調査するなかで発見し、序文をつけて英訳して出版したのです(1980)*1。彼/女の誕生日である11月8日は「インターセックスの日」という記念日となっています。
この序文は「真のセックスは本当に必要だろうか?」という挑戦的な一文で始まり、既存の男女二元論のセックスのカテゴリーに当てはまらないエルキュリーヌの身体の多様な可能性を封じ、単なる「男性」へと彼/女を押し込め死に追いやった医学や法に対する痛烈な批判を繰り広げています。フーコーによると法的変更を迫られるまでのエルキュリーヌの生は「アイデンティティのない幸福な中間状態」であり、教師や恋人のサラを相手に既存のセクシュアリティには当てはまらない多様な快楽を享受することができたということです。
しかし、両性具有に多様な快楽の場を夢想するフーコーの説に批判を唱えた人物がいました。アメリカの哲学者ジュディス・バトラーです。
バトラーは自身の著書『ジェンダー・トラブル』(1990=1999)の第3章第2節(p.172-198)にて、フーコーの主著『性の歴史』の第一巻「知への意志」(1976)と、この序文とで明らかに主張が異なることを指摘しています。『知への意志』ではセックスは権力によって社会統制を行うセクシュアリティ装置の結果であり、性的快楽や性的欲望すらも装置によって形成されたものであるとされています。しかし「序文」ではセックスのカテゴリーの消失した世界には快楽の多様性があるとされています。カテゴリーを通じた抑圧がないおかげでそれに囚われない快楽の可能性があるというのです*2。この2つを並べると矛盾が生じているように見えますが、バトラーは後者に誤りを見出します。
バトラーの議論は錯綜してて追いづらいので整理してみましょう。バトラーが批判したいフーコーの主張は下記のようになります。
①「性的アイデンティティ(私はこの性別である、こんな身体である、こんな性的指向である……など)」としてのセックスがエルキュリーヌ・バルバンの修道院時代には存在しない。
②セックスのカテゴリー以前の快楽が存在する。
③性的アイデンティティがないことは、同性愛の文脈で生産されるものであり、セックスのカテゴリーの打倒手段である。言い換えると、同性愛者にとって性的アイデンティティは快楽を差し金として抑圧をもたらすものなのだから、ないほうがよい。
これらを主張はははたして妥当なのか、ということをバトラーは検討することになります。
①性的アイデンティティはある
フーコーはエルキュリーヌの「アイデンティティのない幸福な中間状態(limbo=洗礼を受けずに亡くなった赤ん坊やキリストが生まれる以前に亡くなった善人が向かうところ)」は、ほとんど女しかいない排他的な空間に隔離されたために可能になったとほのめかします。この排他的な環境は規範によって修道女たちに「アイデンティティのない幸福なlimbo」を巧みに奨励していく構造をもちます。しかし、なんでアイデンティティがないのかというと、フーコーは修道女同士で身体が似通っているからだといいます。
「この場合、信仰生活と学校生活で単一の性が保たれることによって、性的にアイデンティティがないがゆえに発見され導き出される優しい快楽を育む。それは、互いに似通った身体どうしの間では、性的アイデンティティが迷子になってしまうからである。」(introduction)
ところがエルキュリーヌは自分を男性の「簒奪者」だと位置づけています。それは、彼/女が自分が拒否している男性性に参画していること、同時にそのカテゴリーが脱自然化されるトラブルが生じうることを意味します。その一例として、エルキュリーヌは恋人のサラと互いに身体が異なっていることを認識し、あまつさえ性交に際して彼女の身体を支配するというイメージを抱いています。アイデンティティがないというよりは、アイデンティティに参与しつつ撹乱している、というところでしょうか。
②快楽はすでに生産されている
「だが彼の読みが根本的に誤読していることは、このような快楽は、あまねく存在しているが分節化されない法のなかに、つねにすでに埋め込まれており、それが歯向かっているはずの法によって、実際には生産されていると言うことである。」(『ジェンダー・トラブル』、p.178)
エルキュリーヌが味わっていた医学や法に裁かれる以前の快楽すら、そもそも彼/女が半陰陽として生を受けた最初から、その実法によって生産されていたものであるとバトラーは言います。どういうことか。エルキュリーヌの身体はまさしく既存の医学や法律に囚われない「二律背反」の身体であったわけですが、それは医学や法によって断罪されるあの地点だけでなく、教師や恋人と親密な関係を築いていた修道院時代にも効果を及ぼしています。「男性の簒奪者」としてのエルキュリーヌのアイデンティティは、明らかに男女二元論のセクシュアリティを前提とし、それを侵犯・撹乱するという形で築かれています。既存の性交様式に囚われない快楽も、結局は既存のセクシュアリティ装置を前提として成り立っているということです。
③性的アイデンティティは必要
なぜフーコーは性的アイデンティティを拒否するのでしょうか。それも、手記のなかでは筆者が恋人との身体的違いを認めているのを無視してまで。
フーコーは「恋人がタクシーで帰るとき」というインタビューで、ラディカルレズビアンによるゲイとレズビアンの違いを、特に対人関係の持ち方の違いを強調する姿勢を一笑に付しています。なんで笑ったのかというと、こうした差異はセックスの領域に「同一性」と「他者性」の二分法をを設定するからです。異性愛体制のなかで、ことさらに「自分たちはこういう性的アイデンティティである」ということを強調し(同一性)、「あの人たちはああいう性的アイデンティティだ」と判断して自分たちと区別を図ること(他者性)の間にある区別、これはいずれひとつにジンテーゼされてしまう弁証法を生み出す危険性があります。歴史から取りこぼされてしまったもの、社会の周縁にあるものを重視するフーコーはそれを危惧したのです。
だがしかし、セックスの領域における同一性と他者性の弁証法は偽の二分法であるとバトラーは言います。イリガライを引用することで、そもそもセクシュアリティ装置において同一性は「男性主体」の同一性であること、さらには他者性とはその「男性主体」を構成するのを補助する差分であることを指摘します。この意味で、そこから外れる女性のセックスは「ひとつではない女の性」であるといえます。それは、セクシュアリティ装置によって女性は実体的なアイデンティティを付与されるのではなく、自分自身を不在のものとみなす機構(セクシュアリティ装置)とのあいだにつねに不決定な差異の関係しかもてないからです。女性やエルキュリーヌの快楽の複数性はまさにそこに起因するのです。
しかしそれはエルキュリーヌが法の外にいることを意味しません。エルキュリーヌの「笑い」との関係は、第一に他者から笑われることへの恐怖であり、第二に医者が自分をうまく診断できなかったことに対する嘲笑です。これらはどちらも人を断罪する法に明らかに関連するものであります。そもそもエルキュリーヌの性的気質は最初から二律背反的で、それは修道院の義務と禁止と解釈できるような、セクシュアリティの生産構造の二律背反を反復したものであります。
バトラーにとり、性的アイデンティティは運動当事者にとり必要なものです。しかしそれは同一性と他者性の弁証法を呼び込むものとしてではなく、偽りの二分法を生み出す男性主体中心のセクシュアリティ体制を撹乱するものとして必要なのです。
しまいに
なぜバトラーはフーコーの性的アイデンティティを拒否する姿勢を批判するのでしょうか。『ジェンダー・トラブル』の序文によると、「性差に対する問題含みの無関心」(p.12)がフーコーの著作に見られることを指摘しています(③での議論ですね)。それどころかフーコーの批判それ自体が、彼の批判対象の医学実践をなぞっているとさえ言います。フーコーが医学実践をなぞっているのは、フーコーがセックスを単一的な、多様性を許さないカテゴリーとして捉えていることに起因します。セックスのカテゴリーをモノフォニー的、それ以前の快楽をポリフォニー的なものとみなすことで、フーコーは人工的な文化の法と自然な異種混淆性としての快楽の二分法を構築してしまっているというのです。これはフーコーが批判しているはずの抑圧的な医学言説(機能、感覚、欲動など……)の構造であり、観察言語を通じて自然のようにセックスを解剖する態度につながるものです。
ある意味で、フーコー自身も徹底することのできなかった『知への意志』の主張をその奥まで推し進めたのが、バトラーの『ジェンダー・トラブル』であるということができます。

