錬金術師の隠れ家

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準異邦的存在としての佐藤聖ーMarta Fanasca "Tales of lilies and girls’ love. The depiction of female/ female relationships in yuri manga"(2020)

 本稿(邦名:「百合物語とガールズ・ラブ。百合漫画における女/女関係の描写について」(拙訳))では、2000年代以降に発展した「百合漫画」ジャンルの間メディア性・間テクスト性の分析が行われる。つまり、「百合漫画」が戦前の吉屋信子エス文化などの少女文化や、1970年代にたくさん描かれた少女同士の恋愛を描いた少女漫画との関係を示している。

Firenze University Press - Università degli Studi di Firenze - Tales of lilies and girls’ love. The depiction of female/female relationships in yuri manga

 

 筆者は2000年代以降に現れた「百合」ジャンルの特徴として

①1970年代の漫画と違い同性愛認識が肯定的

②現実的なレズビアンの関係を描いたものではない 

という2つの点を挙げている。

 

 ①については、山岸凉子の「白い部屋の二人」や一条ゆかりの『摩耶の葬列』を読めば分かるとは思うが、1970年代の少女漫画では女性同性愛はたいてい悲恋で終わる。あるいは、同性愛的表現があるものの、結末としては異性との恋愛に向かうものもある。藤本由香里はこうした悲観的な描き方の原因を経済的要因に求め、女性同士で幸福を追求することが「リアル」とはみなされなかったと見る。しかし2000年代以降の百合作品では、社会的な判断が作品の結末に影響するということはあまりなくなったと筆者はみている。評者のなじみの言葉で言い換えると、1970年代のレズビアンを扱った少女漫画と、2000年代の百合漫画との間には「認識論的切断」がみられる、ということだろう。

 

 ②についてはマリみてが取り上げられる。マリみては戦前のエス関係というロマンチックな友情を再現したものだが、それがヘテロ規範から離れた女子校の在学期間だけの、閉鎖的な環境での純粋にプラトニックな感情を表現するという点も継承している。

 「佐藤聖がいるではないか」という反論も想定されるだろうが、本稿ではマリみてにおけるアノマリーとして佐藤聖に着目している。聖のロサ・ギガンティアであるにも関わらず非規範的な振る舞いや日本人離れした容姿は、彼女の本作における辺境的な立場を象徴する。佐藤聖はかつて下級生の同性の恋人をもつも駆け落ちの末に向こうが手を引くという悲恋を経験している。こうした彼女の経験は、エス関係でもヘテロ規範でもない、性的魅力に基づいた感情であり、本作にとり準異邦的な概念である。

 

 ①②は次のように言い換えられる。「百合漫画(特に2010年までに出版された作品)は、レズビアン関係を表しているのではなく、多かれ少なかれエス関係の概念と密接に結びついた少女と少女の恋愛物語なのである。このような理由から、百合物語は(1970 年代のマンガのように)ネガティブでダークな結末を迎えることはなく、女性の同性愛に対するスティグマの影響も受けない。」(p.61)

 

 とはいえ、百合漫画はレズビアンの現実を描かないのかというと、そういうわけでもなく、本論は2000年以降の百合作品を3つの段階で描写し、3つ目の段階でそれが描かれるようになったという。

1. マリみてなどのエスの継承。しかしレズビアン関係はむしろ辺境に置かれる

2. ストパニなど、ホモエロティック描写を取り込みながらのハッピーエンド展開を描くようになった作品。

3. Citruややが君など、物語の舞台が閉鎖的でなく、経験される感情が思春期特有のものとすることが否定され、レズビアンにとっての現実を描くようになった作品。

 

 結論部では現在の百合漫画を3つに分ける(先の段階分類とは微妙に対応していないので注意)

1 古典的百合。恋愛というより10代の憧憬感情を表現する。女子校という時空の枠に限定される。

2 過去の伝統や少女文化とのつながりを保ちつつも、キスやセックスなどの斬新な要素を取り入れ、少女たちの愛をより理想的に描き、レズビアンカップルの現実に近い問題を取り入れた作品。

3 少女文化の伝統はまったくなく、幅広い年齢層のキャラクターによる、レズビアンの個人やカップルが経験する問題をよりリアルに描いた作品。『Love my life』(やまじえびね 2006)、『さびしくてレズ風俗に生きてみましたレポ』(永田カビ 2016)など。LGBTQ+としてより明確に定義される。

 

コメント

 本論は「現実のレズビアン描写との関係」から、2000年代以降に確立してきた「百合漫画」という作品のジャンルを3つに分類する試みといえる。個人的には佐藤聖の扱いが興味深かった。佐藤聖レズビアンのキャラクターとして描かれるので、『マリア様がみてる』を百合作品とみなす際のひとつの傍証として扱われるのが多かったのだが、本作においては逆に例外的なものであり、本作に内在する規範性や閉鎖性を象徴すると解釈することも可能なのかと勉強にはなった。それを踏まえると、以下のサイトにおける「ガチンコ百合」としての佐藤聖に対する言及も、単なるギャグとは別様の意味をもつように思えてくる。

そんな祐巳をそっと影から見守るのは唯一ガチンコ百合を実践し純粋培養の女学生たちを喰い散らかす聖リリアン学院のハンニバルこと白薔薇さまだったのです!

www.mangaoh.co.jp

 

 とはいえ若干誤読も目立つ。佐藤聖アメリカ人というのは、幼少時の鳥居江利子が日本人離れした容姿を「アメリカ人」と呼んだだけで、確かアメリカ人の血が流れているとかそういう描写はなかったはずである。また佐藤聖は作中人物や読者にかなり人気があって、あまつさえ主人公福沢祐巳の精神的支柱にもなっている。佐藤聖は『マリみて』において結構重要な役割どころで、祐巳にちょっかいをかけてそれを祥子が咎めるというような形で祐巳と祥子の姉妹関係を撹乱する一方で、祐巳が祥子と仲違いした際はその相談相手になってくれたりもするのである。無論スールの藤堂志摩子との深い関係も、同僚の蓉子や江利子との気のおけない関係もある。それを踏まえると、久保栞との関係は本作における例外状態といえるとはいえ、佐藤聖本人は必ずしも本作におけるつながりのネットワークから孤立していたわけではないとはいえる。

 

 また『マリア様がみてる』と吉屋信子作品との関係を自明のものとするのは実はかなり警戒を必要とする。筆者の今野緒雪は実はマリみて執筆まで吉屋作品を読んだことがなかったからである(『ユリイカ 百合文化の現在』 2014, p.40)。無論「いばらの森」の執筆までに読んだ可能性はあるが、『花物語』の「黄薔薇」と関係があるのかどうかは果たして定かではない。だいたい佐藤聖白薔薇であり「黄薔薇」ではない。マリみての世界観は知り合いのBL作家たちのエスに対するイメージを取り入れてできたとみることもできるが、作者の女子校での経験をある程度盛り込んだものであるとみることもできる(ロマンティックな要素は想像であろうが)。マリみてエス文化とのつながりは言説的なものというよりは、どちらかというと「女子校」という空間に継承されていたのだと見ることができるのではないか。