錬金術師の隠れ家

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ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェ、川那部和恵訳『イマジネール』(2008,2020;邦訳 2022)

 ガストン・バシュラールの想像力論に感銘を受けて、「想像力」の哲学を現代日本文化に適用した著作がないか探したことがある。そこで気づいたことなのだが、「想像力」と題しているのに「想像力」についての理論的検討が見られない著作が数多く見受けられるのだ。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(2008)や雑誌『ゲンロン』の各種特集などがそれだ。日本だと大江健三郎中村雄二郎といったバシュラールの影響下にある文人が想像力の理論を展開していたり、佐々木健一の『美学辞典』が「想像力」の理論をひとつの系譜や一覧にしていたりはするのだが、こうした著作をちゃんと参照しているのかは微妙なところである。論壇において「想像力」は単にキャッチーなフレーズとしてカジュアルに使われていないだろうか?
 そもそも「想像力」という言葉はなかなか曲者である。バシュラールの想像力論は、科学的思考とはまた異なった想像力による文化への寄与を描き出すことに成功していて見事ではあるのだが、「想像力」という心の能力の理論を応用して何か作品がたりをしようとすると、それは心理主義の傾向を帯びてしまう。お前の論じたことは所詮は「想像力」という一人称語りでしかもふわっとした単語に依拠した単なる主観ではないのか、という疑念がどうしても付きまとってしまうのである。

 

 


 こうした「想像力」の濫用される傾向や心理主義的な問題点を、哲学者ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェの『イマジネール』は解決してくれるように思われた。ヴュナンビュルジェが扱うテーマは「イマジネール(imaginaire)」である。日本では全く聞き慣れない単語であろう。語感から「想像力(imagination)」と混合して使うこともよくあると思われる。実際フランス語でもこのタームは最近登録されたものらしく、多くの言語では知られていないことは筆者も承知している。フランス語だとこの2つは全然異なるニュアンスをもつ。
 「想像力」はカントが認識の条件としての心の一能力として使用したように、18、19世紀の哲学においてはよく使用されていた。ところが「ある種の哲学的心理学の衰退とともに(二十世紀半ば)、 また人文諸科学に迫られて、イメージ豊かな作品や、その特性及び効果についての研究が、つまりイマジネールが、しだいに想像力の伝統的な問題に取って代わることになった。 別言すれば、イメージの世界が、その心理学的形成を乗り越えたのである」(p.36)。20世紀半ばに構造主義が台頭し、主体の哲学の乗り越えが図られたことを言っているのだろう。


かくして「イマジネール」は以下のように定義される。


想像上のものにせよ作品のなかに具体化されたものにせよ、視覚的イメージ(絵画、デッサン、写真)と言語的イメージ(メタファー、シンボル、物語)の基盤をなし、そして、知覚されたか理解された現実を変化させあるいは豊かにする、本義と転義のはめ込みという意味である象徴機能に属している、ダイナミックで首尾一貫した諸集合体を作りあげている生産活動のダイナミックな一群(p. 42)


 バシュラールの著作はしばし想像力の哲学として認識されることが多いが、心理主義の傾向が批判されてきた。ヴュナンビュルジェはバシュラールの著作を「イマジネール」の観点から整理し、心理主義から構造主義の方へと読みの転換を図っているように見える。例えばバシュラールの次の箇所である。


想像力に対応する基本語、それはイマジネールだ。イマジネールのおかげで、想像力は本質的に開かれている。想像力は人間の心的現象において、開きの体験そのもの、新しさの体験そのものである。(『空と夢』)


イメージを生み出したり変化させたりする人間の心的能力である「想像力」は、個人の意識を超えてイメージの生産を行う集合体である「イマジネール」を基礎とし、各人の想像力はイマジネールとの交流によって新しさの経験を行うのである。イマジネールは主体を超え、構造を有するのだ。(とはいえそれはポスト構造主義的な「戯れ」のモデルに近づくだろうことが予想されている)(p. 46)。


 本書のイマジネールの理論においてバシュラール の他に重要な位置を占めているのはジルベール・デュランである。デュランは「イマジネールと合理性の対立関係に異議を唱えてバシュラールとの違いを示しているのではあるが、一方ではイメージがどれほど神経生物学の面から文化面にまで及ぶ人類学的行程に組み込まれているかを証明することで、バシュラールの方針を継いでいる。かくしてイメージの形成は、イメージの統語論の下部構造をはっきりと表す三つの反射学体系に根を張っている。具体的には、直立姿勢を支配する姿勢反射、物質の摂取・排泄という消化に関する反射、そして、肉体のリズム体操によって引き起こされる性交姿勢の 三つが、イメージ形成の主要なタイプを構成しているのである」(p. 24)。


 本書の射程は単に理論上の整理に留まらず、第4章にて具体的にどのようなイマジネールが存在しているか、それらが環境保護運動や統治支配にてどのように「実践」されているかを描出している。「自然と人工物のイマジネール」や「歴史と政治的指導者のイマジネール」である。これらの記述が前3章とはまるきり異なり、どこか生き生きとした筆の感触を覚えるのと同時に、環境や政治に人間をコミットさせるイマジネールの恐ろしさとでもいうものを感じさせられる章であった。ヴュナンビュジェは科学主義の台頭によるイマジネールの忘却を批判し、合理性とイマジネールの双方の重要性を説く。個人的にはどちらかというと逆に思う。イマジネールの一種としての「神話」や「陰謀論」が台頭し、科学的合理性を無視して各地で政治に混乱をきたしているのが現状だからである。とはいえ双方が欠けることなく、双方を批判検討し使えることになるのが重要であることは変わりないだろう。


 バシュラールは聞いたことがあるがデュランは知らなかったという人は多いと思われる(自分も本書を読むまでそうだった)。実際、バシュラールの著作は(イメージ論においては)邦訳が揃っている一方で、デュランの邦訳は『象徴の想像力』(1964,2003;1990)はあるのだが、本書で引かれる『イマジネールの人類学的構造』(1960)や『イマジネール』(1994)は未だ存在していない。文化におけるイメージの生産や変容、そしてそこから引き起こされる政治的実践を語る基礎として、イマジネールの構造理論は有用であると考えられる。デュランやヴュナンビュジェの他著作の邦訳もまた必要とされるだろう。