錬金術師の隠れ家

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錦木千束には「外」がないー『リコリス・リコイル』の物語上の致命的な欠陥について

 2022年の7月から9月にかけて放送されたアニメ『リコリス・リコイル』は少女がガンアクションを行うというもはやありふれた設定ではあるものの、銃描写の精緻さや主人公バディの親密になっていく描写、そして主人公の寿命をめぐる視聴者の精神を揺れ動かすストーリー展開によって人気を博した。人気の指標のひとつとしてBD売上があるが、9月21日発売の完全生産限定版の第1巻が、2022/10/3付オリコン週間Blu-ray Discランキングにて初週売上2.1万枚を記録したという。アニメのBDが万単位で売れるのは大ヒットとみなしてよいだろう。
 
 とはいえ本作は楽しめこそすれ、問題の大きい作品でもある。まず国民の知らぬところで「犯罪を未然に防ぐ秘密組織」が暗躍しているという設定は、国民が代表者に権力の行使を委託するという民主主義の原則を無視している。それに、犯罪が生じる前に実行犯が射殺されるというのは、令状主義をを全く踏みにじっている。だが、万一冤罪だったとしたら?権力が犯罪を未然に防ぐ体制を作り上げたら一体どうなるのか?という『マイノリティ・リポート』(2002)のような批判的な問いは、一切感じられない。これだけみるとディストピアSFのように見えるにもかかわらず、本作全体を通じてこの体制に対する批判的な問いは一切ない。それどころか主人公の一人がそれを肯定してしまうのである。犯罪を未然に防ぐ秘密主義の組織であるにもかかわらず、セキュリティ管理や組織存在の秘匿が甘いようにみえたのも視聴者にとり不満であっただろう。
 
 筆者としても本作の体制を維持する暴力を肯定してしまっているのは問題があるのではないかとは思うが、本稿ではそうした価値観とはまた別に、『リコリス・リコイル』という作品の物語上の致命的な欠点を指摘したいと思う。「致命的」というのは、本作が物語がもつべき価値を有していないという意味である。
終盤の展開
 問題となるのは本作の終盤の展開、第8話から第13話にかけてのプロットである。主人公の一人錦木千束は自身に埋め込まれた人工心臓が電気ショックによる干渉を受けたことで、数ヶ月の命であることを宣告される。千束の命を救うために、もうひとりの主人公である井ノ上たきなは、かつて千束に人工心臓を与えた吉松シンジが持っているもう一つの人工心臓を手に入れようとする。ところが、千束に「殺しの才能」を見出した吉松は、あろうことか自身の身体に人工心臓を入れ、千束に自分を殺すことを強いることとなる。
 結局たきなも千束もスペアの心臓を手に入れることはできなかったのだが、最終的に千束の保護者であり吉松の恋人のミカが苦渋の末に吉松を殺害し、人工心臓を獲得する。千束はすべての戦いが終わった後に手術を受け、人工心臓の移植に成功する。(本当はこのプロットに千束とテロリストの真島との戦いが挟まっているのだが、ここは一旦置いておく)。
 
 
 問題点を指摘する前に、物語の基本的な形式をおさらいしておこう。評論家の大塚英志は、民俗学者のアラン・ダンデスの「モチーフ素」の概念を使用し、「面白い」物語のパターンというのは一般に次のようになっているのだということを指摘している(『キャラクター小説の作り方』、pp.215-217、2013)。
  1. 何かが欠けている
  2. 課題が示される
  3. 課題の解決
  4. 欠けていたものがちゃんとある状態になる
 
 具体例として「プリキュア」シリーズの展開をあげてみよう。プリキュアの話はたいてい最初に登場人物が友達と喧嘩したり、趣味が上手くいかないなどの(1)「欠如」が提示されている。それに対して仲直りや苦手の克服などの(2)「課題」が示され、途中に挟まる怪物との戦闘や、その間の敵役との押し問答(例えば「そんな趣味はくだらない!」「くだらなくなんかない!」のような展開のことである)を経て、怪物を倒したのちに、仲直りや苦手の克服が一緒になされ(3)「解決」する。その後、友達同士で円満に過ごす一枚絵が示されたり、趣味を楽しむ描写が入り、物語に(4)「平和」がもたらされる。10年以上も続いているシリーズであるにもかかわらず、「プリキュア」シリーズの1話ごとの展開はだいたいこうなっている。これが話作りの基礎であり、「欠けていたものが課題を経て埋め合わされる」という展開が「面白い」のだということが製作者や視聴者に共有されているのである。
 
 この図式に先の『リコリス・リコイル』の展開を当てはめて整理してみよう。一見すると、この構図にちゃんと当てはまるように見える。
  1. 千束の人工心臓が故障し、このままだと千束は死んでしまう。
  2. スペアの人工心臓を吉松が身に埋め込んでいるので、それを手に入れることを目指す。
  3. たきなは人工心臓取得に失敗するも、ミカが苦渋の末に吉松を殺害して獲得する。
  4. 千束に新たな人工心臓が移植され、千束は延命する。
 
 だがこのプロットをよく見て貰いたい。吉松と向き合って人工心臓を手に入れたのは、千束ではなくてミカである人工心臓を手に入れて延命するというこの件に関して千束はその実何もしていないのである。むしろ千束は短い人生を受け入れて、限りある人生を精一杯生きようという姿勢でいる。千束が自らの意志で命を勝ち取るというプロットでは決してない。言い換えると、千束は課題を解決していないのである。
 もちろん本作の終盤の展開において、千束は何もしていないわけではない。第11話、12話にてたきなとともにテロリストの真島と戦っているし、第13話では拘束を解いて再び現れた真島と1対1で戦っている。だがこの行動で獲得されるのは「テロを防ぎ、真島を倒す」という結果であり、「人工心臓を獲得する」という結果ではない。千束の目標が、心臓の獲得とテロの防止とで分離しており、そして千束の行為により成し遂げられるのは後者の方なのである。
 
千束には「外部」がない
 なぜ心臓の獲得にこだわるのだろうか。「テロの防止」も十分立派な目標ではないかと思うかもしれない。ここでは、物語の形式だけでなく、価値についても論じたい。
 
 漫画家の荒木飛呂彦によると、マイナスの状態にある主人公がひたすらプラスの状態を目指していくというのが物語の鉄則であるという(位置No914/2252、『荒木飛呂彦の漫画術』Kindle版、2015)。この鉄則は『ジョジョの奇妙な冒険』のどのシリーズでも貫かれている。第7部は典型だと思われるが、大会連勝を重ねるジョッキーの名声から一転して下半身不随になった主人公が、大陸横断レースを通じ、「遺体」や「回転」の謎を突き止めていくことで成長していき、最終的に強大な敵に勝利する。主人公は「回転」の力によって下半身不随をある程度克服できるようになるのだが、重要なのは身体障害の克服ではない。主人公のジョニィは旅を通じて成長することで、目的をなんとしてでも絶対に実現しようとする「漆黒の意思」を獲得する。その意志がジョニィが最終的に獲得するスタンド能力にも反映されており、われわれは主人公のスタンド能力の成長と精神的な成長を同時に祝えるのである。この「漆黒の意思」は当初の才能に甘んじていたジョニィにはなかったものだ。言い換えると、「漆黒の意思」は当初ジョニィの「外」にあったものといえ、成長するとともに内面化していくのである。
 
 対して、千束に「外」はあるだろうか?千束は『リコリス・リコイル』の物語を通じて、果たして成長したといえるだろうか?
 以下は千束の変化のなさを象徴する台詞である。
千束「大きな街が動き出す前の静けさが好き。先生と作ったお店、コーヒーの匂い、お客さん、街の人、美味しいものとか綺麗な場所、仲間、一生懸命な友達、それが私の全部」
 千束は今ある現状の社会を守ろうとする極めて保守的な思考の持ち主であることが伺え、それ自体批判の余地はあるだろうが、問題はそこではない。これは世界=内=存在であるところの私の「全部」を限界づけようという、なんとも傲慢な台詞である。この時点で(さらに少し先の未来の時点で)千束には知られていないことが数多く存在する。ミカがシンジにした所業、シンジの遺言、たきなの千束への感情……そして、これは可能性の一つとして十分に考えられることだが、そもそも「DAがない世界」という可能世界。そういったことを何一つ知らないまま、千束は今ある世界を牧歌的に受け入れてしまっている。
 要は、物語の最初から最後まで、千束は何も変わっていないのである。千束は過去にも電波塔ジャック事件を解決している。そして今回の延空木事件も解決した……。つまり、やっていることは過去の事件の反復である。たきなと出会った。しかし、たきなの方は千束との接触によって変化が生じているとはいえ、千束はそのたきなから受け取ったものは何もない。最終話に至っても「一生懸命な友達」止まりである。故障した人工心臓をシンジから新しいのを奪い延命した。しかしそれをやってのけたのはミカであり、千束は何も知らされないまま移植されただけであり、自分自身で獲得した人工心臓を使うことへの葛藤というものが生じ得ない。ワイハー?そんなものは単なるケに対するハレであり、単なる観光にしか見えない。「ハワイは同性婚の認められた土地である」というような視聴者が勝手に見出した匂わせに甘んじることなく、ハワイの資格に準じた変容というものを千束にもたらなければならなかったはずである。
 千束が日常を大事にする価値観の持ち主なのであれば、千束の日常に対する見方の変化が、たとえほんの少しだけでも描かれなければならないはずである。その変化は、千束がそれまで知らなかったことでなければならない。民主主義などの視聴者の我々が大切にしている価値であったり、あるいは我々の思いもよらないような価値観だったりするかもしれない(個人的には後者を見てみたい)。人間関係の変容でもよい。たきなの心情が千束に届くことで、何かしら関係や行動様式に変化が生じることを視聴者は期待していたのではないだろうか。
 
 参考までに、以前も参照したことのある『やがて君になる』第5巻の台詞を見てもらおう。
あの主人公は…三つの自分の中にどれか一つ「正解」があると思ってる。正解を見つけてその自分になるべきなんだって。過去の自分について見舞い客から話を聞いて日記やメールを探して最後は答えとして恋人といることを選ぶ。でもそれって今の主人公の意思じゃないんじゃない?昔の自分を基準に決めただけで今の彼女の選択じゃない。舞台の幕が上がって下りるまでの間観客が見てるのは今の主人公でしょ。記憶があったころの彼女じゃなく。なのに過去を基準にして結末を導くんじゃまるでこの劇の時間に意味がなかったみたいだ…(pp.21-23)
 
真島にも「外部」がない
 それでは真島はどうだろうか。本作における千束とたきなの最大の宿敵にして、単なる悪ではなく世界の不均衡を正さんとする革命家。千束が自身の正義を信じるのと同様に彼もまた自身の正義を信じ、ぶつかり合う。われわれはこの主張の衝突にカタルシスを覚えるのではないか?
 残念ながら、違う。前にも言ったように、千束は真島の主張を聞いたところで何一つ心を動かされてはいない。敵対者の言葉の一部に正当性を覚えて自分の糧にするというケースもあるが、そこまでする必要はない。倒した敵対者の言葉が呪いとなって主人公に降りかかり、そのような人物が二度と生まれないように世の中を良くしようとか、あるいはトラウマとなった敵の言葉を仲間の一言で振り払うとか、そうした心的なプロセスが普通は生じるはずである。それにしても敵対者との衝突を経て何も得るものがないというのは珍しいのではないか?
 それに、真島の今ある世界とは別様の世界の実現を目論む姿は、実は見かけだけのものである。それは次の台詞によく現れている。
 
真島「…そりゃあダメだ。モザイクなしの現実を見せないとなあ」
千束「なにそれ」
真島「俺は世界を守ってるんだぜ?自然な秩序を破壊するお前らからな」
千束「壊してんのは、あんたらテロリストでしょうよ」
真島「そう。お前らが壊すから、俺も壊す。バランスを取ってるだけだ。DAが消えれば、俺も消える」
千束「渋々悪人を演じてるって言うの?」
真島「ワルモンやってるつもりはねぇよ?俺はいつも弱いモンの味方だ。もしDAが劣勢なら、俺はお前らに協力するぜ?」

 要は、真島は国民が知らずして犯罪が事前に防がれている真実を暴露することで、世界のバランスを正そうとするいうのである。だが、「バランス」とは一体なんだろうか?そもそも犯罪者の事前処理が民主主義により禁じられている現実の日本では、そうした「バランス」は存在しえない。真島にはそもそもそうした「バランス」のない世界を想像することができないのである。これは、結局のところ真島には「外」がないということである。

 挙げ句弱い者の味方をきどり、DAが劣勢なら協力するとまで言ってしまう。これは世の革命家たちに嫌悪される主張、すなわち「日和見」である。あるいは誰が言ったか「陰陽論」といってもよい。世の中は陰と陽が均衡をとって成り立っているという思想であるが、これは「あるべき世界」の姿がすでに存在していることを前提とする。ただ釣り合いが悪くなったのを正す、というだけである。
 だがしかし、一般的に考えて世界を変えたいと望むものは、未だに実現していない、しかし望ましい世界を実現しようとするのである。「あるべき世界」は未だに到来していない、つまり「外」にある。その「外」としての理想を夢見ること、あるいは自分の予想だにしなかった「外」であっても、それに向かって突き進むはずである。
 真島にはこうした「外」の思考というものが存在しない。ただ自分が規定した「あるべき世界」を元に戻そうとしているだけである。だがそもそもDAが存在しない世界を知っているわれわれからすれば、それは釈迦の手のうえで踊る孫悟空にしか見えない。ここには真島には世界は自分が考える通りに存在しているという傲慢が垣間見える。ここでわれわれは、敵対している千束と真島が同じ穴の狢であることに思い至る。どちらも自分が考える世界の「外」を知らないし知ろうともしないからである。ここには物語の弁証法というものが存在せず、つまらない。
 
 
帰結
 思えば本作の登場人物、千束、真島、シンジは自分の信念を貫く者で、他者との衝突を経ても全く変化を見せることがないのだった。たきなは千束との交流でDAに依拠しない自分というものを獲得できたが、ただ依存先をDAから千束に変えた子犬のようにも見えてしまう。信念を曲げる偉業をやってのけたのはミカだけであるが、それは千束を「変えない」ためだった。愛するものの殺人という所業を行い、それで果たしてよいのか。真実を国民から隠す側であるリコリスが、真実から目を遠ざけられているという皮肉が生じているが、物語として果たしてそれでよいのかは疑問である。
 
 「物語の機能」を具体的に考えるために、他の作品も色々参照してみよう。『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメ第17話は物語の弁証法の流れがよくみえる作品である。カリスマJKアイドルの城ヶ崎美嘉は、常務の命で大人向けの高級路線への変更を余儀なくされる。部署の年長者としての責任から路線変更を引き受けるも、そこに自分の個性は表現できるのか、美嘉は悩む。赤城みりあとの交流で「大人ぶらなくてもいい」と諭されることで、美嘉はある挑戦をする。モデル撮影のなかで、高級路線を取りつつも、いつものギャルらしいポージングを少し取り入れるのである。本来の自分でないあり方と本来の自分のあり方が対話しあって新しいものを生み出すという弁証法的なプロセスが垣間見える。
 
 『リコリス・リコイル』と同時期に放送されていた『ラブライブスーパースター』の第2期。これは多くの視聴者から批判を浴びているようだが、これは実は物語の機能をきちんと果たしていると考えられる。孤立路線の実力主義をとる優勝候補のウィーン・マルガレーテに対し、仲間との具体的な交流と歌うことの楽しさをもって勝利するLiellaの姿は、一時期は後輩との分離路線をも考えたうえでの弁証法的な勝利といってよい。
 
 さらに、本当の意味で「カルト的な」人気を誇る『えんとつ町のプペル』の物語も考えてみたい。空が煙で覆われている町で育ち、他の人たちとは違い煙の向こうの星空の存在を信じている主人公が、ごみ人間のプペルとの交流や他の人達からの迫害を経て、やがて星空を見つけ出し、そして思いもよらなかった大切なものを見つけ出す。色々物議を醸す作品ではあるが、少なくともこの話の主人公にはちゃんと「外」がある。それは『リコリス・リコイル』にはなかったものである。
 
 結局のところ、優れた物語には「外」が必要なはずである。それは登場人物だけでなくわれわれを「外」に連れだすものである。それを登場人物の頑なさに折れてこしらえることのできなかった『リコリス・リコイル』から、われわれは果たして何を得ることができたのか?