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錬金術師の隠れ家

書評など。キーワード:現象学、記号論、漫画、技術哲学 https://twitter.com/phanomenologist

「羆嵐」吉村昭(1977)

 吉村昭の1977年の中編「羆嵐」は、1915年に発生した日本最大の獣害事件として名高い三毛別羆事件を題材にした小説である。今期「ユリ熊嵐」という明らかにこの小説を意識したアニメをやっているので、それに関連して読んでみた。

 

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)

 

 

ユリ熊嵐 (1) (バーズコミックス)

ユリ熊嵐 (1) (バーズコミックス)

 

 

 

 あらすじは明快。北海道の開拓村を突然一頭の巨大な羆(ひぐま)が襲い、わずか二日間の間に6名もの村民が犠牲となった。羆を退治しようと村民や警察たちは奮闘するものの、移住してきたばかりの村民と官僚主義的な警察には対処する術がなく、熊の恐怖に怯えるしかなかった。村民と警察を尻目に、一人のマタギが孤独に熊と対決する…。
 要は人が熊を退治する話なのだが、人と動物の戦いというテーマは珍しいだろう。小説というものは主に人間の心理を描くものなので、動物を主題に描くということは少ないと思われる。もっとも本作でも実は熊そのものが登場するシーンはさほど多くなく、ラストの熊を斃すシーンに至っては、熊が姿を現してから射殺されるまで、わずか4ページ(文庫本で)しか登場しない。それにもかかわらず襲撃され破壊された家屋の様子や、殺害された人々の生々しい遺体、人肉や髪の入り混じった排泄物など、熊の存在は寒村に根深い痕跡を残し、村民だけでなく読者にも恐怖を与える。人に害なす獣、ひいては自然の恐ろしさを見事に描いているといえる。
 ただここで注目したいのは人間の様相である。動物の話ではあるものの同時に人間をも描いてた小説でもあるのだ(そこに着目するのは野暮だろうか)。つまり、集団と個人の対立である。
 熊を斃すために六線沢の区長は最初に隣村の猟師たちや警察に助けを求めるのだが、最初彼らがとっていた村民に対する傲然な態度とは裏腹に、いざ出向いてみると熊の恐ろしさにすっかり怯んでしまいまるで役に立たない。主に指揮を取ろうとする警察という近代的な組織にとって、熊退治にあたっては大勢で出向いた方がより成功する確率が高くなるはずなのだろうが、マタギの銀四郎にいわせれば、熊は賢い動物なのだから大勢の人間にはすぐ気付いて逃げる。警察という人間相手に権威を振るう組織でも、熊という超越的自然に対しては何の役にも立たないのである。また六線沢の村民が警察の意思に反して囮のため遺体を放置したり銀四郎を呼びにやったりしたとき、分署長が怒る描写がある。組織は規律を遵守するからである。しかし規律は自然との戦いには何の役にもたっておらず、むしろこの場合障害となっている。
 他方で山岡銀四郎は100頭もの熊を撃ち殺してきた実績がある老練の猟師であるものの、素行が良くなく、普段は酒を飲んでは暴れて周囲に迷惑をかける嫌われ者である。そのため六線沢の者達も最初銀四郎を呼ぶことを躊躇い、呼んだらかえって自分たちの結束を乱すのではないのかと思案する。しかし警察の無力が明らかになったあとで初めて現れた彼は、噂とはまるで 別人の、危機的状況にあっても冷静で落ち着いた、大人しい人物であった。一応噂は本当で仕留めた後に住民に狼藉を働き報酬をせびるのだが、熊退治という本業にあっては誰よりもその場に相応しい態度を示すのである。熊に関する豊富な経験知をもち自然の中で生きるうえでの仕来りを知る。何より熊の恐怖に耐える精神力を培っている。それでも恐怖を感じないわけではなく、今まで仕留めたことのないほどの巨大熊を相手にして、仕留めた後も死者のように顔の血の気を失っている。熊を仕留める彼の姿を見ていた区長は、銀四郎が死の恐怖を紛らし、自分が熊にとって無力な存在であることの悲哀を癒すために酒を飲んで荒れるのだと悟る。マタギという生業を営むうえで必然的に抱え込むことになる悲哀は、他者への狼藉という形でしか癒せず、それは共同体にとっては害でしかない。それでも今回の熊事件のように銀四郎のような人間が必要とされる時がくるが、ただ通常時の村落にとっては厄介者でしかない。軍隊、警察という規律を重んじる組織にとっては尚更厄介であり、素行の悪さのため兵役からはすぐ除隊されており、騒動でも警察の意思とは別の行動をとっている。銀四郎が生きているのは近代の人間的な規律とは程遠い世界であり、共同体の論理は通用しないのである。
 熊退治に関して面白いのは、銀四郎が仕留めた人食い熊の肉を村民皆で食べることを「仕来り」として諭すところである。村民たちは隣人や家族を食べ消化した熊など食べる気にはなれなかったが、銀四郎いわくそれが仏への供養となるのだ。この仕来りはどこの地でも行われている習慣にすぎないのだが、入植者の集まりである三毛別の者たちには知られていなかった。結局鍋にして皆で食べることになる(肉はかたく、うまくはないらしい)。この場面での銀四郎は、単なる人の集まりや近代的な組織を超えた、自然に隷属するより巨大な共同体の「仕来り」に従っているといえる。この仕来りは、超越的な自然とともに生きる人々の間でいつしか生じたものであろう。銀四郎はここで村民に自然とともに生きるうえでの仕来りを教え諭す。職業柄抱え込むことになる感情と超越的な自然という共同幻想とともに、銀四郎は生きている。それは単なる人の集まりとしての、もしくは近代的な組織としての共同体のあり方においては忘れ去られるものなのだろうか。
 
追記:ユリ熊嵐との関連について。幾原監督いわく、あまり意識していないらしい。マタギについては誰も詳しくないから少し調べましたという程度で扱うのは良くないという判断だという(『ユリ熊嵐公式スターティングガイド』, 2015)。しかし今回考察したような羆嵐の「集団と個人」というモチーフは、ユリ熊嵐の「集団と真の友愛」というモチーフとどこか通じるところがあるかもしれない。「透明な嵐」という集団構造のなかで集団に馴染まず親友(恋人?)と対幻想に浸る者は悪として排除される。個人(自己幻想)と対幻想をパラレルに語るのは難しいだろうが、集団に混じり得ない人間の生き方という点で共通項を見出してみるのも良いかもしれない。
 

 

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド

ユリ熊嵐 公式スターティングガイド