錬金術師の隠れ家

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林鼓子のミュージカル降板問題についてのファン当事者による考察ー『犠牲者意識ナショナリズム』の視点から

2026年4月3日、声優/俳優の林鼓子が、出演を予定していたミュージカル『妻と飛んだ特攻兵』への出演を辞退することが発表され、これがファンの間で騒ぎとなっていた。出演が発表された4月1日からわずか2日後のことである。

https://x.com/LIBERTE__2024/status/2040052413273608343

※以降林鼓子については「はやまる」と呼ぶことにする。彼女の初主演作『キラッとプリチャン』ならびにかつての所属グループ「Run Girls, Run!」時代からのファンとしてここだけは外せない。

※不巧的是,因为是日语报道,所以中文圈的人只能使用谷歌翻译等,如果有人能翻译中文的话,希望能配合一下。

 

理由については詳述されてはいないものの、背景はおおよそ推測されている。舞台の内容がアジア・太平洋戦争における旧日本軍兵士が爆弾を積んだ兵器に乗り込んで体当たり攻撃を行う軍事作戦、いわゆる「特攻」を扱ったものであり、日本による侵略戦争の記憶が継承されている中国のファンからの反発が相次いだのだ。はやまるは『BanG Dream!』シリーズの『MyGO!!!!!』のドラマーの椎名立希を演じ、それが日本を飛び越えて東アジアで大ヒットしたことがきっかけで中国国内にも数多くのファンを獲得した。なかにはバンドリシリーズを展開するブシロードの社長木谷高明にTwitter上で止めるように直接コメントするファンがおり、それに対し木谷はレスポンスを送っている。直接の因果関係は分からないが、少なくともブシロードやはやまる周囲の関係者にリスク認識が共有されていたのは間違いなさそうだ。

中国ファンの反応は次のように要約されるだろう。「先の大戦での日本の行いは中国に対する侵略戦争であり、それを日本軍の視点から再現するミュージカルに出演することは、大戦の生存者の子孫として耐え難い。」

対して日本ファンの反応は次のようなものが相次いでいる。「日本のミュージカルに対して外国人が干渉することは到底許される行いではない。」

ただ私は両者のどちらにも組しないことにし、その理由を述べようと思う。もちろん日中戦争が日本による侵略であったことは疑いようがないが、問題はミュージカルの「内容」である。

そこで、今回の問題における水掛け論をなんとか理性的な形にもっていけるようにするために、本論では以下を論じることにしたい。

 

 

なお筆者ははやまるをプリチャン時代から追っている。歌もダンスも十代のころからかなり優れていたことに衝撃を受けたのを記憶している。ランガの解散にショックを受け、二代目優木せつ菜就任の予想が当たって喜び、MyGO!!!!!の世界的なヒットに歓喜し、舞台アサルトリリィで稀星とともに草をはやし、最近の写真集発売に多少複雑な気持ちを抱く(でも購入はする)、そんな風にして彼女のことを追ってきたオタクである。


www.youtube.com

 

ミュージカルの内容

本論は降板騒動からすぐ書き始めたので、原作小説をまだ直接読んではいないのだが、ウェブの情報から簡単に調べたものを記すこととする。

ミュージカル『妻と飛んだ特攻兵』は、豊田正義のノンフィクション小説『妻と飛んだ特攻兵 8・19、満州最後の特攻』を原作とし、2026年6月18日から29日にかけての公演が予定されている。

https://www.gekidanmu.com/op-6-%E5%A6%BB%E3%81%A8%E9%A3%9B%E3%82%93%E3%81%A0%E7%89%B9%E6%94%BB%E5%85%B5

あらすじはまだ書かれていないのだが、ドラマ版のWikipediaを見るとおおよその筋書きを知ることができる。

昭和20年、満州で任務に就いていた陸軍の戦闘機パイロット・山内節夫少尉は、着任直前に結婚した妻・房子を呼び寄せ、夫婦水入らずの生活を始める。しかし、8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してくる。終戦直後の8月19日、節夫らの部隊は避難民をソ連軍から守るため、特攻していく。節夫は房子を、勇はキミ子をそれぞれ一緒に戦闘機に乗せて…。

https://ja.wikipedia.org/wiki/妻と飛んだ特攻兵

 

要するに玉音放送後の満州における、敗残兵日本兵とソ連軍との戦闘を描いた作品である。

原作者の豊田正義氏についてはどうだろうか。これもWikipediaの情報によるものだが、豊田氏は社会問題や第二次世界大戦に関するノンフィクション作品を数多く手掛けている作家である。

戦争を扱った作品は以下がある

  • 『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻』、2013年
  • 『ガマ 遺品たちが物語る沖縄戦』、講談社、2014年
  • 角川書店『原爆と戦った特攻兵』、角川書店、2015年

特に『原爆と戦った特攻兵』では、原爆症に対する国の責任を追及する記述があるようで、少なくとも旧日本軍の責任を無視するような考え方をしているわけではなさそうである。

豊田正義 - Wikipedia

もっとも、Twitter上では脚本家の岡本貴也氏が靖国神社に参拝したという情報が出回っているようなのだが、その目的が単なる取材なのか、それとも英霊崇拝のためなのか不透明であるため、ここでは保留とする。具体的な情報があれば共有してほしい。

以上を踏まえると、ミュージカルが中国国内での特攻作戦を扱った内容であるからといって、それは必ずしも、中国の多くのファンの危惧するような中国に対する日本の侵略を美化する内容であったとは必ずしもいえないのではないかと推測される。第一に原作者は百田尚樹のような極右であることは確認できない。第二に、確かに日本が不当占拠した満州を舞台にし、主人公は旧日本陸軍兵士ではあるが、本作は日本の敗戦前後の時系列を描いた作品であり、しかも戦闘の対象としているのは抗日民族統一戦線ではなく、満州に侵攻を開始したソ連軍である。

他方で、本作は近年日本国内で数多く輩出されている「特攻」を題材にした作品群に連なり、そして兵士が自らの命を犠牲として戦うことに感動を覚える、いわゆる「感動ポルノ」として消費されるのではないかという懸念は拭えない。それに、中国ではなくソ連を相手取った戦いを描くことには、後述するある戦略が見え隠れしている。

 

そもそもの戦争背景

ここで、日中戦争について簡単に振り返っておこう。記述はすべて山川出版社の『新もういちど読む山川日本史』に基づく。大戦の歴史を簡単に振り返るうえで簡潔にまとまっているので役に立ち、かつ、日本でもっとも信頼に足る教科書会社の出版する歴史書だからである。

https://honto.jp/ebook/pd_31816712.html

 

 

そもそもなんで日本軍が中国の満州にいるのかというと、1931年9月の柳条湖事件がきっかけである。武力による満州の制圧を企てた日本の関東軍が、奉天近郊の南満州鉄道の線路を爆破する自作自演工作を行い、戦争のきっかけをつくって奉天付近の中国軍への攻撃を開始した。これにより「満州事変」が起こり、日本軍は半年ほどで満州の主要地域を占領し、1932年3月に「満州国」の建国を行った。これは軍事・外交・内政の実権を日本人が掌握する傀儡国家であり、不戦条約および九カ国条約に違反するものとして国際的な非難をあびた。

1932年国際連盟からリットン調査団が派遣され、満洲国の実情が調査されたが、これは、満州事変を日本の武力侵略であるとする中国政府の訴えによる。調査結果として、満州における日本の特殊権益を認めつつも、満州に対する主権は中国にあり独立を否定するものとした。これを日本は不服として1933年国連を離脱した。

日中戦争の発端は1937年7月の盧溝橋事件である。北京郊外での日本軍と中国軍の武力衝突が発生し、これがきっかけで戦火が上海や中国中部にも広がった。1937年12月には日本軍は首都南京で虐殺事件を起こして国際的な非難を浴びた。

そして1945年8月14日に日本はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、15日に国民に知られることになり、9月2日に日本は降伏文書に調印することとなった。しかしその直前に行われた8月6日と9日の二度の原爆投下はもちろん、8月8日のソ連の日ソ中立条約を侵犯した対日宣戦の布告に基づく満州・千島などへの侵入も記憶にとどめておきたい。

以上日中戦争について基本的かつ公的な知識を、歴史記述に関して最も信頼できる出版社のひとつであるところの山川出版社の書物に基づいて見てきた。

本作の題材であるところの、日本における「終戦記念日」として語られることの多い8月15日以降に日本兵が妻とともにソ連に対し特攻を行ったという出来事は私も知らなかったのだが、日中戦争の文脈においては、それはむしろ中国の勝利が決定的となった後の出来事であり、また敵として設定されているのはソ連軍なので、(ソ連軍は中国共産軍を支援していたとはいえ)日中戦争における中国の直接の犠牲の記憶からややずれたところをターゲットにしたものといえる。

とはいえ、舞台が満州国であることは逃れられない以上、日ソの戦いと表現することでその踏み台になった中国の犠牲が無視される危険性はある。

日中戦争の記憶は当然中国人にも共有されており、日本による満州の不当占拠や、関東軍による中国人の大量虐殺は、「日本による侵略戦争」というナラティブに紐付けられて語られている。

日本における犠牲者意識ナショナリズム

日本において先の大戦の記憶は「敗北した戦争」として語られることは多いが、「日本による他国への侵略戦争」として語られることは少なくなってしまった。

NHKの2025年5月から7月にかけて行われた世論調査で、「先の戦争は、アジア近隣諸国に対する日本の侵略戦争だった」という意見について尋ねたところ、「わからない」と答えた人が全国では半数近くに上ったことが分かった。

https://news.web.nhk/newsweb/na/nb-5090034529

この調査のミソは、侵略戦争かと問われても「そう思わない」と答えたのが16%しかなかったのに対し、「わからない」が48%であったことである。一見すると「あれは侵略戦争ではなかった」という右翼的な回答をする人間は少数派で、戦争という複雑な問題に対して中立的立場で答えている人が国民の半数近くいるのだ、という風に読める。

しかしこれは、日本の歴史教育を含む第二次世界大戦を巡る言説空間が、「日本による侵略戦争」というナラティブを語ることに消極的であったことを意味する。「日本人は先の大戦の被害者ではあるが、そもそも戦争のきっかけを作った加害国である」ということは、(一部歴史修正主義勢力の編纂したものを除いて)歴史教科書を読めば違えることはないはずである。しかし、それを否認しようとする言説が極右やネット右翼によって拡散され、表立って支持することはないにしても、それが教科書的記述を補完する、歴史認識のオプションとしてうっすらと共有されてしまっているのが現状である。「そういう意見もあるんだな」と思わせた時点で歴史修正主義勢力の勝利なのである。そもそも、犠牲者の統計人数などの細かい部分では議論の余地があるにせよ、「アジア・太平洋戦争において日本は侵略国だった」ということは端的に公的な事実である。優秀な歴史学研究者たちによって長年一次資料が整理され、国の認定する教科書にも記載がある。にもかかわらず市民に「先の大戦は侵略戦争であった」と語ることを躊躇わせ、「わからない」と回答させること、つまり先の大戦における日本の過ちを否認に向かわせること。それが歴史修正主義者の目的である。

 

特攻についての日本人の認識も転倒していることが多い。本来非人道的作戦を行ってしまった国民の末裔として、二度とそのようなことは起こさせない責務が日本人にはあるはずなのだが、最近は『永遠のゼロ』や『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』など、むしろ特攻を美化する内容の作品が大ヒットしている。なぜだろうか。

特攻の美化は権力側からのイデオロギー的な働きかけでなされていると思われがちである。しかし特攻を「感動的」なものに仕立て上げた主な要因はそれではない。歴史研究者の林志弦氏の主著『犠牲者意識ナショナリズム』によると、神風特攻隊に対する戦後日本の感傷的な感情は、兵士に対して民間人が親近感を感じ、その犠牲に涙するという草の根的な「戦死者崇拝」を背景に持つという。

 

 

戦死者崇拝は本来国家という宗教に殉じた兵士を顕彰するものだが、林氏は「戦死者崇拝のポイントは、死の民主化であり国民化だった」と指摘する(Kindle版 99/637)。戦死者に対する親近感が上からの働きかけによらず自ずと発生したのだ。

戦死者崇拝の最も劇的な例は、神風特攻隊の犠牲者に対する儀礼だろう。「特攻の目的は戦果を挙げることではなく死ぬことだ」というある特攻隊指揮官の言葉のように、特攻という自殺攻撃の犠牲者たちは祖国への愛に充ち、汚染されていない最も純粋な形態の死を想像させる。

特攻隊は「平和の礎となり、戦後日本の民主的な成長と発展」を可能にする高貴な戦死から一歩進んで、死の美学を映し出す格好の素材を提供した。多くは未婚で跡継ぎを残せないだけでなく、遺体の痕跡すら残せない若い特攻隊員の死は特別だ。彼らの純粋な死は、「死者とまだ生まれてきていない世代の魂の結びつき」を母胎とする民族の語りへと昇華させやすい。鹿児島県の知覧特攻基地近くの食堂「富屋」の女将だった鳥濱トメと若い特攻隊員たちの逸話は、戦死者崇拝の集団心理を犠牲者意識ナショナリズムの心を動かす記憶として根付かせた。トメを母親のように慕った特攻隊員が出撃前日に「ホタルになって戻ってくる」と言い残し、翌日、実際にホタルが飛んできたという切ない話は典型的だ。

天皇のため桜のように散るという特攻隊員たちの遺書は、美学の軍事化を意味した。ヘゲモニー的な仕組みとしての市民宗教は、敗戦後も生き残った。丸山眞男や大塚久雄が力説した「戦後」啓蒙と主体性の動員は、市民宗教の戦後民主主義バージョンだった。(Kindle版 104/637)

要するに、大戦の反省から出発した戦後日本の民主主義が、皮肉にも大戦中に生まれた市民宗教たる戦死者崇拝と結びつき、市民側の草の根的な働きかけによって特攻隊員の「犠牲」を「主体的に」崇めようという動きが生じたのだ。

近年数多く出版されてきた特攻ものの作品の内容やその消費は、おそらくはこうした「戦死者崇拝」のメンタリティに基づくものだろう。実際、汐見夏衛『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』は、もともとは小説投稿サイト「野いちご」で連載されていたWEB小説がスターツ出版文庫として刊行され、TikTokで話題になったのをきっかけに発行部数を伸ばしたものである。これは別に国家のプロパガンダがなくとも、特攻隊員の死を「戦死者崇拝」として感傷的に受け取るメンタリティが市民に根付いていることを意味している。

戦死者崇拝の何が問題なのだろうか。それは、林氏が指摘する「犠牲者意識ナショナリズム」と関係する。犠牲者意識ナショナリズムとは、20世紀末から21世紀初頭にかけて、ナショナリズムの中心が「英雄」から「犠牲者」に移ったことを示す概念である。歴史の英雄と自分を結びつける時代から、犠牲者の継承者として自分の歴史の物語の中に位置づけ、これによって自分が道徳的に正しい地位にあると主張できるメカニズムを持ったナショナリズムである。

https://digital.asahi.com/articles/ASTC73DFHTC7UHMC009M.html?_requesturl=articles%2FASTC73DFHTC7UHMC009M.html

「犠牲者意識ナショナリズム」によって自分たちを歴史的な「被害者」であると位置づけることは、他者に対する加害が「それと比べたら些末なもの」として正当化される危険性をもたらす。このことは2026年4月現在も続いているイスラエルによるガザ地区攻撃を思い起こせば明白だろう。そして市民による戦死者崇拝は、「特攻隊員が命をかけて国を守ったからこそ今の自分は生きている」というナラティブを継承し、特攻隊員の犠牲と自分とを同化させることで、「自分たちは被害者だ」という「犠牲者意識ナショナリズム」を高揚させるものなのである。

犠牲者意識ナショナリズムの視点から『妻と飛んだ特攻兵』のあらすじを見てみると、ある戦略が見えてくる。敗戦前後にソ連軍の侵攻を受け、それに応戦する負け戦を描くということは、大戦における日本人が「被害者」のポジションに置かれていることを意味する。日本軍の侵略を受け虐殺の記憶の生々しい中国を相手どるのを避けることで、日本軍に対する英雄主義的な顕彰や日中戦争による日本の美化はなされずにすんでいる。しかし、中国だけでなくソ連が参戦したタイミングを題材にし、日本をソ連侵攻の「被害者」として演出することは、それまでの日本軍の中国や韓国、東南アジアなどの各地域を侵攻した記憶を隠蔽する一連の「犠牲者意識ナショナリズム」の系譜にその身を連ねることになりかねない。

もっとも、原作はその危険性にどう対応しているのかまだ確認できていないのだが、しかしミュージカルはこれから公演予定であり、どう脚色されるのかはまだ分からない。批判を受けて脚本を練り直すことも十分考えられたのに、批判に対し運営サイドが役者の降板で対応してしまうのは下策に思える。

ファンとしての提言

いずれにせよ、日本人ファンはMyGO!!!!!の世界的人気の獲得に喜びあぐらをかく一方で、戦後日本の国際的評価の前提となる歴史認識を無視し、文句があればファンをやめろと暴言を吐くのは端的にダブル・スタンダードである。それに、「自分たち日本人は中国からの批判によって表現の自由を制限された被害者である」と振る舞うことは、自分の属する国がかつて行った凶行の負の記憶を隠蔽することにつながる。これは、程度の差はあれど「犠牲者意識ナショナリズム」と同じ構造である。
中国人ファンの怒りは当然であるとは思うものの、そもそもミュージカルがまだ上演されていない現状において、その内容が批判的に検討される可能性があったにもかかわらず早々に降板を求めるのは、作品に対する評価の仕方としてはあまりよくはない。


ファンばかり責めているようだが、MyGO!!!!!の取り締まり元であるブシロードの対応は、もし巷で推測されている通りのことが行われたのであればもっと最悪であろう。先にも述べたように、木谷高明がはやまるの舞台出演に問題を感じた中国のファンのコメントにTwitter上で直接応答することがあった。実際にそれが舞台降板のきっかけになったのかはわからないが、とはいえ、もしも降板がブシロード社長の働きかけによるものであるとしたら、別にブシロードに直接所属しているわけではないはやまるならびに所属事務所のLIBERTE に対してどういう権利があるのか。無論、話し合いで解決したという可能性もなくはないので、真実を明らかにするためにもブシロードに説明責任はあるだろう。

いずれにせよ「中国ファンから苦情がきたから声優と舞台企画に申し入れて降板」とするのでなく、舞台の内容が軍国主義の復活を肯定するものではないこと、日本による中国侵略の歴史的事実を否認するものではないこと、そして舞台が意義深いものであることを声明文で説明すべきだった。無論、どうしても降板がやむを得ないのであれば、それを具体的に説明すべきである。でないとブシロードは中国での思わぬ大ヒットで権益をさらに拡大したいと目論むも、歴史認識を巡る衝突が起こっては事無かれ主義で無為無策に終わる矮小な三流企業のままである。

 

また日本の事業者にしろ中国人ファンにしろ、どちらの立場にもはやまるに対するパターナリズムが目立つ。「本ミュージカルに林を出演させるのはチャイナリスクがあるからやめさせよう」にしろ「林鼓子の未熟な行動を止めるべきだ」にせよ、はやまる自身が主体的に行動する大人であることを無視しているように思えてならない。

日本のファンについても昔パターナリズム的ないやらしさを感じることがあった。はやまるは昔画像ALT*1に感想文を載せることをよくやっていたのだが、ファンや外野の人から批判を受けたのか、ALTに感想文を載せるのはよくないのではないかと疑問を呈したことがあった。それに対し多くのファンは、まるで秦王朝を滅亡させた趙高のごとくはやまるに甘言を弄した。ALTの用法を反省しようとする声優に「キミはそのままでいいんだよ」と囁きかけるオタクは、別に声優のためを思ってるのではない。女性声優が自分より利口で有徳である事態が許せないから、自分と同等か下位の存在に引き留めてるだけだ。それに、例えば『アニ×パラ』のような視覚障害を扱ったアニメのオーディションをやるとしたら、ALTの誤用を続けることは明らかに不利に働くし、出演が決まってもALTの誤用のために炎上するリスクすらある。ALT誤用を擁護するオタクというものは、推してる声優がそうした作品に挑む可能性に対する想像力がなく、排除してすらいる。

日中どちらにしろ大事なのは、はやまるのことを受難の物語のヒロインに仕立て上げないことだ。先の大戦の負の記憶を正しく継承しつつ、彼女が自分自身で考えて行動するのを見守るのがファンの責務であると思われる。

 

*1:ALT(代替テキスト)とは、画像データの画像の内容をテキストで伝える属性のことで、主に視覚障害のあるユーザのサポートを目的とする。Twitterの画像機能にも実装されているのだが、140字以上の文字を書き込める特性もあってか、一部のユーザには画像に仕込まれた「隠しテキスト」として「誤用」されているという現状がある。これに対して、本来の用途を歪め、視覚障害者のユーザビリティを低下させるものだという批判がある。

2024年の読書(評論)ベスト7

今年はたくさん読書したのでそれをノートにまとめてみた。読んだなかでは以下がよかった。読んだ順に記載する。

なんというか、ライブのセトリみたいなチョイスになった。パレスチナがあんなことになっているので、ポストコロニアリズム理論の古典である『オリエンタリズム』を読もうと思い立ったのだが、読後もサイードに影響を与えた著作やサイードの別の著作、また『オリエンタリズム』の問題関心を引き継いだ著作を読むようになった次第である。この中で2024年発売の著作は『バトラー入門』と『東大ファッション論集中講義』である。
オリエンタリズム』は大学の頃に読んでおけばよかったと後悔している。方法論がもろにフーコーの学問知を権力の源泉とする権力論の発想に由来しているからだ。特にフランス国内の知識人層に書物を通じて共有されたオリエントに対する知見が偏見を産み、異国に対する現実的な理解を生み出さなかったことを指摘するのがかなりラディカルである。余談だが、パク・チャヌク監督の映画『お嬢さん』には、書物を通じた権力の行使、ならびにエロティシズムの共有が表現されており、日帝植民地下の韓国の話ということもあり『オリエンタリズム』の問題系から鑑賞することができる。

 

 


『黒い皮膚・白い仮面』はテレビ番組「100分de名著」でも取り上げられた著作で、白人社会における黒人アイデンティティの問題ないし必要性を論じたものである。当事者性をあえて色濃く残したような主観的な文体が、かえって問題を強く印象付けてくる。「科学的客観性は私に禁じられたものであった。というのも、疎外された者、神経症患者は私の兄弟であり、姉妹であり、父であったからだ。」

 

 


『バトラー入門』は文体がやけに軽くて脱線が多いのが、難解である『ジェンダー・トラブル』の敷居を大きく下げるのに一役買っているように思う。バトラーを哲学者ではなくエスター・ニュートンなどのフェミニストや運動家の系譜に位置づけているのも、バトラーを分かりやすくするだけでなく運動家としての忘れられがちな側面を掘り起こすようで好感が持てる。インターセクショナリティの概念の重要性が大きく取り上げられるのもあり、ジェンダーセクシュアリティの観点からポストコロニアリズムにアクセスすることが可能である。『黒い皮膚・白い仮面』では黒人女性や黒人男性の受難が分析されるのに、そのなかではセクシュアル・マイノリティの視点が欠けていたので、そこを補う可能性を与えてくれるともいえる。

 


社会学的想像力』のミルズはサイードが『知識人とは何か』で高く評価した社会学者である。ミルズは社会学の価値論的な側面を重視する。社会学がどの社会にも適用できる一般理論としてのグランドセオリー(パーソンズの社会システム論が念頭に置かれている)や観察された事象をすべて数値に還元する抽象化された経験主義(ラザースフェルトの計量社会学、ならびにその門下生)を、社会に対する具体的な問題関心から目をそらすものと批判する。個人が直面する私的問題(problem)が、構造を有した社会全体の問題(issue)と結びつくのではないかと想像する「社会学的想像力」が本書の主題であるが、かような想像力をもって研究者が社会に対し問題関心をもつこと、それがサイードにも引き継がれたエートスである。嬉しいことに付録に研究実践の方法論が掲載されている。クーン以前の著作ということもあり、論理実証主義に代表される科学哲学への批判にも1章を割いて論じられることも興味深い。

 

『異邦の香り』はサイードが小説家ジェラール・ド・ネルヴァルの紀行文『東方紀行』を批判せずむしろ評価していたのはなぜか、という問題関心から書かれたものである。異国での女性との出会いを求めて彷徨うもうまくいかず、一方でオリエントの人々や風俗を偏見なく眺め、むしろイベントに参加したりする旅人の境界なき有り様が紀行文に描かれていることを指摘している。

 


『東大ファッション論集中講義』は、そもそもなぜ今あるようなファッションが出来上がったのか、という問題意識に貫かれている。ファッション系の著作というとだいたいがファッションデザイナーが中心に記述されているらしいのだが、本書は最初「ファッション」の概念そのものの考察から始まり、ついで和服と洋服の裁断法の違いが続き、デザイナーの記述は後半になってようやく出てくるという異色の構成になっている。このためブランドに興味関心がなくても、ものづくりや概念分析、あるいは鷲田清一由来のファッションの哲学といった関心領域から本書を読むことが可能である。デザイナーに関しても、トップデザイナーが服飾一般や美術史に及ぼした影響というのを知ることができ、とりわけシャネルについては1章を割いて論じられることになる。ただポストコロニアリズムな側面は今回挙げた著作の中だと薄いように思う。

 

 

ホラー映画ー『大室家 dear friends』

 

 

 なもり作『ゆるゆり』の同作者によるスピンオフ『大室家』の劇場版。その後編。

 本作は『ゆるゆり』のごらく部や(さくひま除く)生徒会の面々の活躍が大きく削がれた代わりに、大室櫻子の家族(長女撫子、三女花子)や、その学友の面々にスポットが当てられている。『ゆるゆり』の黄金カップルの片割れの大室櫻子が主役なので、古谷向日葵との絡みを期待することもあろうが、意外にも出番はさして多くない。とはいえ、家族ぐるみの付き合いで当たり前のように大室家に出入りしている描写が、何度かごく自然に挟まれるので、もはや円熟期を通り越したさくひまの絶対的な強さをかえって感じさせてくれる。

 本映画は前後編であるが、特に後編が興味深かったところがあったのでレビューする。もちろん前編も面白く、後編ではあまり活躍していないキャラクターの活躍が見られるのがよい。

 

 後編は長女の撫子が恋人とメッセ上で喧嘩して空気が重くなったが、「ごめん」とメッセして仲直りしてめでたし、という典型的なラブストの流れである。しかし、これは原作からしてそうなのだが、そもそもその恋人が学友のめぐみ、藍、美穂の3人のうちの誰なのかがわからない、という根幹が不明な状態である。そんななか恋人候補の3人が、撫子の恋人との喧嘩と同期して揃って気分を悪くしているし、仲直りしたらしたらしたで皆が皆晴れやかな表情をしているので、なんかホラーを見たような気分になる。

 なお個人的には、本作に関してファンダムで結構盛り上がる話題であるところの「撫子の恋人は誰か」という問いには、「どうせ解明されることはないやろ」と分かりきってるので冷ややかに見ている。
 ヴィトゲンシュタインは次の言葉を残している。

六・五 答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。謎は存在しない。問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。(野矢茂樹訳、『論理哲学論考』、岩波書店

つまり「問いがちゃんとしていれば答えはちゃんと与えられうる。「答えがない問い」なんてものをお出ししてくるのは、お前の問いがヘタクソだからだ」ということだ。「答えがない問い」なんてものに取り組むのはやめて沈黙すべきなのだ。
 とはいえ、見ている自分としても「3人とも撫子の恋人やろ。1人と喧嘩して仲直りしているように見えるのは叙述トリックで、実は同じようなシーンが3回繰り返される」と答えを想定してしまうあたり、「撫子の恋人は誰か」という問いの吸引力というのは感じざるを得ない。
 この「どうせ解明されることのない問い」という前提は、しかし最後のところで揺さぶりをかけられる。なんと撫子は櫻子に恋人を教えるというのだ。マジで!?一体誰なんだ...?とかすかな期待を抱いたところで、案の定エンドロールに入り終了する。本作において「答え」は一応用意されているのだが、それは決して視聴者には明かされることがないということなのだろう。さながら『リズと青い鳥』のみぞれにだけ希美が表情を見せるラストを彷彿とさせた。

悪へと向かう自由の讃歌 くわばらたもつ『ぜんぶ壊して地獄で愛して』(第2巻まで)

 

 

 

あらすじ

吉沢来未は生徒会長も務める優等生だが、母の束縛などのストレスで破滅的な願望を募らせていた。
ある日、教師の頼みで不登校気味なクラスメイト・直井と話をするが、上辺だけの言葉で話す吉沢を直井は蔑み、更には「ある動画」で脅してきた。その動画には、万引きをしようとする吉沢が映っていて…。

逃げ場のない毎日でもがく少女たちの、バイオレンス青春ストーリー。(https://ichijin-plus.com/comics/89324057887009

書評

人間は「悪」をなすとき、たいてい人のせいにする。 レイフ・クリスチャンソン作の『わたしのせいじゃない』という絵本では、男の子がないている原因を子どもたちに尋ねるが、みんながもっともらしい言い訳を重ねて自分が原因ではないと主張する。 

www.iwasakishoten.co.jp

そのような他責思考が、最悪のケースとしてホロコーストにつながったことを示すその結末は、子どもたちに他責思考の残虐さを教えている。日本でも政治家が裏金問題を秘書のせいにしようとするし、個人のレベルでも事実無根であるにもかかわらず相手のせいにして誹謗中傷を繰り返す暇アノンのような連中が社会問題となっている。林志弦『犠牲者意識ナショナリズム』では、ホロコースト以降の国際秩序において、原爆やホロコーストなどの巨大な被害に遭った国や人々がその「犠牲」を根拠として相手国を蹂躙したり、また自分たちが行ってきた加害の記憶を忘却しようとする思考法が批判されていた。

str.toyokeizai.net

このような「悪」の他責思考は、個人レベルから国家・集団レベルまで、さらには過去から現在、日本から世界に至るまで普遍的に蔓延っている。そういう問題ではないと承知でこうした思考法にあえて美的判断を行うとすれば、間違いなく「醜い」といえる。人間の行為は良かれ悪かれ「自分自身」が行ったと認めたことにこそ価値があるからだ。


『ぜんぶ壊して地獄で愛して』は、まだ2巻しか刊行されていないが、こうした「悪の他責思考」とのギリギリのせめぎ合いのなかで、はっきりと自らに因って立つ「悪」をなす勇姿を描き出している。主人公の吉沢は不登校のクラスメイトの直井に脅される形で、教師の物を盗んだり器物損壊を行ったりと犯罪行為を繰り返す。しないと万引き未遂の盗撮動画をばら撒くぞと脅迫された状態なので、この点では緊急避難が成り立つとはいえる。しかしフレーム入りのクラスの集合写真をわざわざ選んで盗んできたり、クラスメイトの伊佐沼の机に大きく傷をつけたのは吉沢の意思であり、何より「超イキイキしてた」と指摘されている。2巻終盤に机の件がばれて釈明するときも、ストレスとなる世間体や恋人の心の期待との葛藤の末、直井に見放されたくない一心で、自白したうえで伊佐沼を恫喝する。我々は「どうするのこれ?」と心配が頭の隅にありつつも、直井とともに教室を飛び出し、川向こうを眺める吉沢の姿にカタルシスを覚える。
直井の描写も興味深い。吉沢を脅すも実はそこまでの期待はしていなかったようではあるが、吉沢が一緒にはめを踏み外してくれたことに感動を覚え、好意さえ抱くようになる。本作は「やばい女(femme fatal)に脅されて女が犯罪行為をしでかす」のではなく、「破滅願望のある女が鬱屈とした思いを抱いていた女と一緒に悪をしでかす」作品なのだ。吉沢と直井は被害者と加害者でなく共犯者ということができる。
無論吉沢も直井も、親の教育や生活環境のせいでこうなったと説明することはできる。しかしそうでありながら他人のせいにせず自分でやったことを認めて晴れて「自由」になれたという展開に、ボードレール的な悪の輝きをみることができる。

寄稿:若者は『きたかわ』を読むー『きたない君がいちばんかわいい』が青少年に読まれている実情についての分析

 

東京大学百合愛好会のnoteにて以下寄稿しました。よろしく。

 

 

若者は『きたかわ』を読むー『きたない君がいちばんかわいい』が青少年に読まれている実情についての分析

https://note.com/utokyo_yuri/n/n80c72bfd7731

百合姫に狂い咲くデカダンス まにお『きたない君がいちばんかわいい』(2019-2022)

あらすじ

瀬崎愛吏と花邑ひなこ。クラスではグループもカーストも違い接点のない二人だが、彼女たちには人には言えない秘密があった。それは、愛と打算と性癖に満ち溢れた少女たちの秘め事……
https://ichijin-plus.com/comics/2416091119671

 

 

 

 

書評(ネタバレ注意)

 神みたいな結末。いや悪魔か?
 ここでは『きたない君がいちばんかわいい』が一体何のジャンルに属するのかを考えてみたい。これは少し難しい問題である。まず百合ジャンルであることは間違いないが、ではサブジャンルはなんだろうか?第2巻を前後して作風が大きく変化していることに注意しよう。前半は筆者のネーミングだが「汚い高木さん」とでも言える作風だろう。つまり、二人の主要登場人物が、他の登場人物に隠れて妙な加虐・被虐関係にある行為を行い1話完結で話を進める作風といえる。もっとも、「からかい」程度では済まされないことも度々やっていて、それでここでは「汚い」と呼んでいる(タイトルにもある)。数々の変態プレイに昂じるカップルの姿を楽しむ作風といえる。
 ところで、前半はもう一つ、ある種のシチュエーションを内包する。エロ漫画における「他の者たちにバレそうになりながらセックスをする」というシチュエーションである。これはエロ漫画では結構定番のシチュエーションなのだが、注意すべき点がある。あくまで「バレそうになる」になるのであって、実際にはバレることは滅多にないということである。バレたらたいていセックスどころではなくなるし、他者に見られながらそれでもセックスを続行するのはどちらかというと公開プレイである。『きたない君がいちばんかわいい』も、誰もいなくなった教室や実習室で変態プレイに昂じ、「見られてたらどうしよう」と恐怖を覚えているあたりにそれを感じ取ることができる。
 ところが、後半からは作風がガラリと変わる。第1巻ラストに目撃者が現れ、第2巻を通じて秘密の暴露が行われてしまい、第3巻以降は愛吏のクラスでの孤立、引きこもり化が描かれ、もはや学校での変態プレイどころではなくなる。「人目を忍んで種々の快楽を味わう」というシチュエーションがなくなってしまったわけだ。変態プレイ自体は行われるものの、場所は愛吏の自室であり、人目を気にする必要は全くなくなる。というか行われるようになったのは初期にあったレパートリー豊かな変態プレイではなくて、ただのセックスである。盗撮を行う第三者が現れるものの、ひなこにすぐ気づかれてしまい、プライバシーはだいたい守られ、それどころか愛吏を人間不信に陥らせひなこに依存させるための材料にさせられてしまう。「変態プレイの博覧会」のようなものを期待していた読者からすると、ひょっとしたらつまらないものになったかもしれない。


 『きたかわ』後半で描かれるのは、愛吏の破滅、クラス内カーストの天変、ひなことの関係の逆転、そして逃避行の行く末の無理心中である。一言でいうと「デカダン」だろう。
 愛吏を扼殺した末にひなこもまた凍死するラストは、前半との違いを明確に印象づける。前半に見られた首絞めプレイはあくまで「プレイ」であった。虐げながらも相手に対する尊重、あるいは妥協があったからこそ殺さずにプレイで済ますのである。だが最後ひなこは愛吏を本当に絞め殺してしまう。生命の尽きかける愛吏にひなこは本物の愛情を注ぎ、自分を絞め殺すひなこの姿をみた愛吏の事切れる寸前の脳裏には「きれい」という言葉が浮かぶ。単なるごっこ遊びには本物の美はない、死にゆき、殺し、破滅する瞬間が「いちばんかわいい」のだというデカダン美学が、二人の愚かな人間を対比させる形で見事に表現されているのだ。

錦木千束には「外」がないー『リコリス・リコイル』の物語上の致命的な欠陥について

 2022年の7月から9月にかけて放送されたアニメ『リコリス・リコイル』は少女がガンアクションを行うというもはやありふれた設定ではあるものの、銃描写の精緻さや主人公バディの親密になっていく描写、そして主人公の寿命をめぐる視聴者の精神を揺れ動かすストーリー展開によって人気を博した。人気の指標のひとつとしてBD売上があるが、9月21日発売の完全生産限定版の第1巻が、2022/10/3付オリコン週間Blu-ray Discランキングにて初週売上2.1万枚を記録したという。アニメのBDが万単位で売れるのは大ヒットとみなしてよいだろう。
 
 とはいえ本作は楽しめこそすれ、問題の大きい作品でもある。まず国民の知らぬところで「犯罪を未然に防ぐ秘密組織」が暗躍しているという設定は、国民が代表者に権力の行使を委託するという民主主義の原則を無視している。それに、犯罪が生じる前に実行犯が射殺されるというのは、令状主義をを全く踏みにじっている。だが、万一冤罪だったとしたら?権力が犯罪を未然に防ぐ体制を作り上げたら一体どうなるのか?という『マイノリティ・リポート』(2002)のような批判的な問いは、一切感じられない。これだけみるとディストピアSFのように見えるにもかかわらず、本作全体を通じてこの体制に対する批判的な問いは一切ない。それどころか主人公の一人がそれを肯定してしまうのである。犯罪を未然に防ぐ秘密主義の組織であるにもかかわらず、セキュリティ管理や組織存在の秘匿が甘いようにみえたのも視聴者にとり不満であっただろう。
 
 筆者としても本作の体制を維持する暴力を肯定してしまっているのは問題があるのではないかとは思うが、本稿ではそうした価値観とはまた別に、『リコリス・リコイル』という作品の物語上の致命的な欠点を指摘したいと思う。「致命的」というのは、本作が物語がもつべき価値を有していないという意味である。
終盤の展開
 問題となるのは本作の終盤の展開、第8話から第13話にかけてのプロットである。主人公の一人錦木千束は自身に埋め込まれた人工心臓が電気ショックによる干渉を受けたことで、数ヶ月の命であることを宣告される。千束の命を救うために、もうひとりの主人公である井ノ上たきなは、かつて千束に人工心臓を与えた吉松シンジが持っているもう一つの人工心臓を手に入れようとする。ところが、千束に「殺しの才能」を見出した吉松は、あろうことか自身の身体に人工心臓を入れ、千束に自分を殺すことを強いることとなる。
 結局たきなも千束もスペアの心臓を手に入れることはできなかったのだが、最終的に千束の保護者であり吉松の恋人のミカが苦渋の末に吉松を殺害し、人工心臓を獲得する。千束はすべての戦いが終わった後に手術を受け、人工心臓の移植に成功する。(本当はこのプロットに千束とテロリストの真島との戦いが挟まっているのだが、ここは一旦置いておく)。
 
 
 問題点を指摘する前に、物語の基本的な形式をおさらいしておこう。評論家の大塚英志は、民俗学者のアラン・ダンデスの「モチーフ素」の概念を使用し、「面白い」物語のパターンというのは一般に次のようになっているのだということを指摘している(『キャラクター小説の作り方』、pp.215-217、2013)。
  1. 何かが欠けている
  2. 課題が示される
  3. 課題の解決
  4. 欠けていたものがちゃんとある状態になる
 
 具体例として「プリキュア」シリーズの展開をあげてみよう。プリキュアの話はたいてい最初に登場人物が友達と喧嘩したり、趣味が上手くいかないなどの(1)「欠如」が提示されている。それに対して仲直りや苦手の克服などの(2)「課題」が示され、途中に挟まる怪物との戦闘や、その間の敵役との押し問答(例えば「そんな趣味はくだらない!」「くだらなくなんかない!」のような展開のことである)を経て、怪物を倒したのちに、仲直りや苦手の克服が一緒になされ(3)「解決」する。その後、友達同士で円満に過ごす一枚絵が示されたり、趣味を楽しむ描写が入り、物語に(4)「平和」がもたらされる。10年以上も続いているシリーズであるにもかかわらず、「プリキュア」シリーズの1話ごとの展開はだいたいこうなっている。これが話作りの基礎であり、「欠けていたものが課題を経て埋め合わされる」という展開が「面白い」のだということが製作者や視聴者に共有されているのである。
 
 この図式に先の『リコリス・リコイル』の展開を当てはめて整理してみよう。一見すると、この構図にちゃんと当てはまるように見える。
  1. 千束の人工心臓が故障し、このままだと千束は死んでしまう。
  2. スペアの人工心臓を吉松が身に埋め込んでいるので、それを手に入れることを目指す。
  3. たきなは人工心臓取得に失敗するも、ミカが苦渋の末に吉松を殺害して獲得する。
  4. 千束に新たな人工心臓が移植され、千束は延命する。
 
 だがこのプロットをよく見て貰いたい。吉松と向き合って人工心臓を手に入れたのは、千束ではなくてミカである人工心臓を手に入れて延命するというこの件に関して千束はその実何もしていないのである。むしろ千束は短い人生を受け入れて、限りある人生を精一杯生きようという姿勢でいる。千束が自らの意志で命を勝ち取るというプロットでは決してない。言い換えると、千束は課題を解決していないのである。
 もちろん本作の終盤の展開において、千束は何もしていないわけではない。第11話、12話にてたきなとともにテロリストの真島と戦っているし、第13話では拘束を解いて再び現れた真島と1対1で戦っている。だがこの行動で獲得されるのは「テロを防ぎ、真島を倒す」という結果であり、「人工心臓を獲得する」という結果ではない。千束の目標が、心臓の獲得とテロの防止とで分離しており、そして千束の行為により成し遂げられるのは後者の方なのである。
 
千束には「外部」がない
 なぜ心臓の獲得にこだわるのだろうか。「テロの防止」も十分立派な目標ではないかと思うかもしれない。ここでは、物語の形式だけでなく、価値についても論じたい。
 
 漫画家の荒木飛呂彦によると、マイナスの状態にある主人公がひたすらプラスの状態を目指していくというのが物語の鉄則であるという(位置No914/2252、『荒木飛呂彦の漫画術』Kindle版、2015)。この鉄則は『ジョジョの奇妙な冒険』のどのシリーズでも貫かれている。第7部は典型だと思われるが、大会連勝を重ねるジョッキーの名声から一転して下半身不随になった主人公が、大陸横断レースを通じ、「遺体」や「回転」の謎を突き止めていくことで成長していき、最終的に強大な敵に勝利する。主人公は「回転」の力によって下半身不随をある程度克服できるようになるのだが、重要なのは身体障害の克服ではない。主人公のジョニィは旅を通じて成長することで、目的をなんとしてでも絶対に実現しようとする「漆黒の意思」を獲得する。その意志がジョニィが最終的に獲得するスタンド能力にも反映されており、われわれは主人公のスタンド能力の成長と精神的な成長を同時に祝えるのである。この「漆黒の意思」は当初の才能に甘んじていたジョニィにはなかったものだ。言い換えると、「漆黒の意思」は当初ジョニィの「外」にあったものといえ、成長するとともに内面化していくのである。
 
 対して、千束に「外」はあるだろうか?千束は『リコリス・リコイル』の物語を通じて、果たして成長したといえるだろうか?
 以下は千束の変化のなさを象徴する台詞である。
千束「大きな街が動き出す前の静けさが好き。先生と作ったお店、コーヒーの匂い、お客さん、街の人、美味しいものとか綺麗な場所、仲間、一生懸命な友達、それが私の全部」
 千束は今ある現状の社会を守ろうとする極めて保守的な思考の持ち主であることが伺え、それ自体批判の余地はあるだろうが、問題はそこではない。これは世界=内=存在であるところの私の「全部」を限界づけようという、なんとも傲慢な台詞である。この時点で(さらに少し先の未来の時点で)千束には知られていないことが数多く存在する。ミカがシンジにした所業、シンジの遺言、たきなの千束への感情……そして、これは可能性の一つとして十分に考えられることだが、そもそも「DAがない世界」という可能世界。そういったことを何一つ知らないまま、千束は今ある世界を牧歌的に受け入れてしまっている。
 要は、物語の最初から最後まで、千束は何も変わっていないのである。千束は過去にも電波塔ジャック事件を解決している。そして今回の延空木事件も解決した……。つまり、やっていることは過去の事件の反復である。たきなと出会った。しかし、たきなの方は千束との接触によって変化が生じているとはいえ、千束はそのたきなから受け取ったものは何もない。最終話に至っても「一生懸命な友達」止まりである。故障した人工心臓をシンジから新しいのを奪い延命した。しかしそれをやってのけたのはミカであり、千束は何も知らされないまま移植されただけであり、自分自身で獲得した人工心臓を使うことへの葛藤というものが生じ得ない。ワイハー?そんなものは単なるケに対するハレであり、単なる観光にしか見えない。「ハワイは同性婚の認められた土地である」というような視聴者が勝手に見出した匂わせに甘んじることなく、ハワイの資格に準じた変容というものを千束にもたらさなければならなかったはずである。
 千束が日常を大事にする価値観の持ち主なのであれば、千束の日常に対する見方の変化が、たとえほんの少しだけでも描かれなければならないはずである。その変化は、千束がそれまで知らなかったことでなければならない。民主主義などの視聴者の我々が大切にしている価値であったり、あるいは我々の思いもよらないような価値観だったりするかもしれない(個人的には後者を見てみたい)。人間関係の変容でもよい。たきなの心情が千束に届くことで、何かしら関係や行動様式に変化が生じることを視聴者は期待していたのではないだろうか。
 
 参考までに、以前も参照したことのある『やがて君になる』第5巻の台詞を見てもらおう。
あの主人公は…三つの自分の中にどれか一つ「正解」があると思ってる。正解を見つけてその自分になるべきなんだって。過去の自分について見舞い客から話を聞いて日記やメールを探して最後は答えとして恋人といることを選ぶ。でもそれって今の主人公の意思じゃないんじゃない?昔の自分を基準に決めただけで今の彼女の選択じゃない。舞台の幕が上がって下りるまでの間観客が見てるのは今の主人公でしょ。記憶があったころの彼女じゃなく。なのに過去を基準にして結末を導くんじゃまるでこの劇の時間に意味がなかったみたいだ…(pp.21-23)
 
真島にも「外部」がない
 それでは真島はどうだろうか。本作における千束とたきなの最大の宿敵にして、単なる悪ではなく世界の不均衡を正さんとする革命家。千束が自身の正義を信じるのと同様に彼もまた自身の正義を信じ、ぶつかり合う。われわれはこの主張の衝突にカタルシスを覚えるのではないか?
 残念ながら、違う。前にも言ったように、千束は真島の主張を聞いたところで何一つ心を動かされてはいない。敵対者の言葉の一部に正当性を覚えて自分の糧にするというケースもあるが、そこまでする必要はない。倒した敵対者の言葉が呪いとなって主人公に降りかかり、そのような人物が二度と生まれないように世の中を良くしようとか、あるいはトラウマとなった敵の言葉を仲間の一言で振り払うとか、そうした心的なプロセスが普通は生じるはずである。それにしても敵対者との衝突を経て何も得るものがないというのは珍しいのではないか?
 それに、真島の今ある世界とは別様の世界の実現を目論む姿は、実は見かけだけのものである。それは次の台詞によく現れている。
 
真島「…そりゃあダメだ。モザイクなしの現実を見せないとなあ」
千束「なにそれ」
真島「俺は世界を守ってるんだぜ?自然な秩序を破壊するお前らからな」
千束「壊してんのは、あんたらテロリストでしょうよ」
真島「そう。お前らが壊すから、俺も壊す。バランスを取ってるだけだ。DAが消えれば、俺も消える」
千束「渋々悪人を演じてるって言うの?」
真島「ワルモンやってるつもりはねぇよ?俺はいつも弱いモンの味方だ。もしDAが劣勢なら、俺はお前らに協力するぜ?」

 要は、真島は国民が知らずして犯罪が事前に防がれている真実を暴露することで、世界のバランスを正そうとするいうのである。だが、「バランス」とは一体なんだろうか?そもそも犯罪者の事前処理が民主主義により禁じられている現実の日本では、そうした「バランス」は存在しえない。真島にはそもそもそうした「バランス」のない世界を想像することができないのである。これは、結局のところ真島には「外」がないということである。

 挙げ句弱い者の味方をきどり、DAが劣勢なら協力するとまで言ってしまう。これは世の革命家たちに嫌悪される主張、すなわち「日和見」である。あるいは誰が言ったか「陰陽論」といってもよい。世の中は陰と陽が均衡をとって成り立っているという思想であるが、これは「あるべき世界」の姿がすでに存在していることを前提とする。ただ釣り合いが悪くなったのを正す、というだけである。
 だがしかし、一般的に考えて世界を変えたいと望むものは、未だに実現していない、しかし望ましい世界を実現しようとするのである。「あるべき世界」は未だに到来していない、つまり「外」にある。その「外」としての理想を夢見ること、あるいは自分の予想だにしなかった「外」であっても、それに向かって突き進むはずである。
 真島にはこうした「外」の思考というものが存在しない。ただ自分が規定した「あるべき世界」を元に戻そうとしているだけである。だがそもそもDAが存在しない世界を知っているわれわれからすれば、それは釈迦の手のうえで踊る孫悟空にしか見えない。ここには真島には世界は自分が考える通りに存在しているという傲慢が垣間見える。ここでわれわれは、敵対している千束と真島が同じ穴の狢であることに思い至る。どちらも自分が考える世界の「外」を知らないし知ろうともしないからである。ここには物語の弁証法というものが存在せず、つまらない。
 
 
帰結
 思えば本作の登場人物、千束、真島、シンジは自分の信念を貫く者で、他者との衝突を経ても全く変化を見せることがないのだった。たきなは千束との交流でDAに依拠しない自分というものを獲得できたが、ただ依存先をDAから千束に変えた子犬のようにも見えてしまう。信念を曲げる偉業をやってのけたのはミカだけであるが、それは千束を「変えない」ためだった。愛するものの殺人という所業を行い、それで果たしてよいのか。真実を国民から隠す側であるリコリスが、真実から目を遠ざけられているという皮肉が生じているが、物語として果たしてそれでよいのかは疑問である。
 
 「物語の機能」を具体的に考えるために、他の作品も色々参照してみよう。『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメ第17話は物語の弁証法の流れがよくみえる作品である。カリスマJKアイドルの城ヶ崎美嘉は、常務の命で大人向けの高級路線への変更を余儀なくされる。部署の年長者としての責任から路線変更を引き受けるも、そこに自分の個性は表現できるのか、美嘉は悩む。赤城みりあとの交流で「大人ぶらなくてもいい」と諭されることで、美嘉はある挑戦をする。モデル撮影のなかで、高級路線を取りつつも、いつものギャルらしいポージングを少し取り入れるのである。本来の自分でないあり方と本来の自分のあり方が対話しあって新しいものを生み出すという弁証法的なプロセスが垣間見える。
 
 『リコリス・リコイル』と同時期に放送されていた『ラブライブスーパースター』の第2期。これは多くの視聴者から批判を浴びているようだが、これは実は物語の機能をきちんと果たしていると考えられる。孤立路線の実力主義をとる優勝候補のウィーン・マルガレーテに対し、仲間との具体的な交流と歌うことの楽しさをもって勝利するLiellaの姿は、一時期は後輩との分離路線をも考えたうえでの弁証法的な勝利といってよい。
 
 さらに、本当の意味で「カルト的な」人気を誇る『えんとつ町のプペル』の物語も考えてみたい。空が煙で覆われている町で育ち、他の人たちとは違い煙の向こうの星空の存在を信じている主人公が、ごみ人間のプペルとの交流や他の人達からの迫害を経て、やがて星空を見つけ出し、そして思いもよらなかった大切なものを見つけ出す。色々物議を醸す作品ではあるが、少なくともこの話の主人公にはちゃんと「外」がある。それは『リコリス・リコイル』にはなかったものである。
 
 結局のところ、優れた物語には「外」が必要なはずである。それは登場人物だけでなくわれわれを「外」に連れだすものである。それを登場人物の頑なさに折れてこしらえることのできなかった『リコリス・リコイル』から、われわれは果たして何を得ることができたのか?