2026年4月3日、声優/俳優の林鼓子が、出演を予定していたミュージカル『妻と飛んだ特攻兵』への出演を辞退することが発表され、これがファンの間で騒ぎとなっていた。出演が発表された4月1日からわずか2日後のことである。
https://x.com/LIBERTE__2024/status/2040052413273608343
※以降林鼓子については「はやまる」と呼ぶことにする。彼女の初主演作『キラッとプリチャン』ならびにかつての所属グループ「Run Girls, Run!」時代からのファンとしてここだけは外せない。
※不巧的是,因为是日语报道,所以中文圈的人只能使用谷歌翻译等,如果有人能翻译中文的话,希望能配合一下。
理由については詳述されてはいないものの、背景はおおよそ推測されている。舞台の内容がアジア・太平洋戦争における旧日本軍兵士が爆弾を積んだ兵器に乗り込んで体当たり攻撃を行う軍事作戦、いわゆる「特攻」を扱ったものであり、日本による侵略戦争の記憶が継承されている中国のファンからの反発が相次いだのだ。はやまるは『BanG Dream!』シリーズの『MyGO!!!!!』のドラマーの椎名立希を演じ、それが日本を飛び越えて東アジアで大ヒットしたことがきっかけで中国国内にも数多くのファンを獲得した。なかにはバンドリシリーズを展開するブシロードの社長木谷高明にTwitter上で止めるように直接コメントするファンがおり、それに対し木谷はレスポンスを送っている。直接の因果関係は分からないが、少なくともブシロードやはやまる周囲の関係者にリスク認識が共有されていたのは間違いなさそうだ。
中国ファンの反応は次のように要約されるだろう。「先の大戦での日本の行いは中国に対する侵略戦争であり、それを日本軍の視点から再現するミュージカルに出演することは、大戦の生存者の子孫として耐え難い。」
対して日本ファンの反応は次のようなものが相次いでいる。「日本のミュージカルに対して外国人が干渉することは到底許される行いではない。」
ただ私は両者のどちらにも組しないことにし、その理由を述べようと思う。もちろん日中戦争が日本による侵略であったことは疑いようがないが、問題はミュージカルの「内容」である。
そこで、今回の問題における水掛け論をなんとか理性的な形にもっていけるようにするために、本論では以下を論じることにしたい。
なお筆者ははやまるをプリチャン時代から追っている。歌もダンスも十代のころからかなり優れていたことに衝撃を受けたのを記憶している。ランガの解散にショックを受け、二代目優木せつ菜就任の予想が当たって喜び、MyGO!!!!!の世界的なヒットに歓喜し、舞台アサルトリリィで稀星とともに草をはやし、最近の写真集発売に多少複雑な気持ちを抱く(でも購入はする)、そんな風にして彼女のことを追ってきたオタクである。
ミュージカルの内容
本論は降板騒動からすぐ書き始めたので、原作小説をまだ直接読んではいないのだが、ウェブの情報から簡単に調べたものを記すこととする。
ミュージカル『妻と飛んだ特攻兵』は、豊田正義のノンフィクション小説『妻と飛んだ特攻兵 8・19、満州最後の特攻』を原作とし、2026年6月18日から29日にかけての公演が予定されている。
あらすじはまだ書かれていないのだが、ドラマ版のWikipediaを見るとおおよその筋書きを知ることができる。
昭和20年、満州で任務に就いていた陸軍の戦闘機パイロット・山内節夫少尉は、着任直前に結婚した妻・房子を呼び寄せ、夫婦水入らずの生活を始める。しかし、8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してくる。終戦直後の8月19日、節夫らの部隊は避難民をソ連軍から守るため、特攻していく。節夫は房子を、勇はキミ子をそれぞれ一緒に戦闘機に乗せて…。
https://ja.wikipedia.org/wiki/妻と飛んだ特攻兵
要するに玉音放送後の満州における、敗残兵日本兵とソ連軍との戦闘を描いた作品である。
原作者の豊田正義氏についてはどうだろうか。これもWikipediaの情報によるものだが、豊田氏は社会問題や第二次世界大戦に関するノンフィクション作品を数多く手掛けている作家である。
戦争を扱った作品は以下がある
- 『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻』、2013年
- 『ガマ 遺品たちが物語る沖縄戦』、講談社、2014年
- 角川書店『原爆と戦った特攻兵』、角川書店、2015年
特に『原爆と戦った特攻兵』では、原爆症に対する国の責任を追及する記述があるようで、少なくとも旧日本軍の責任を無視するような考え方をしているわけではなさそうである。
もっとも、Twitter上では脚本家の岡本貴也氏が靖国神社に参拝したという情報が出回っているようなのだが、その目的が単なる取材なのか、それとも英霊崇拝のためなのか不透明であるため、ここでは保留とする。具体的な情報があれば共有してほしい。
以上を踏まえると、ミュージカルが中国国内での特攻作戦を扱った内容であるからといって、それは必ずしも、中国の多くのファンの危惧するような中国に対する日本の侵略を美化する内容であったとは必ずしもいえないのではないかと推測される。第一に原作者は百田尚樹のような極右であることは確認できない。第二に、確かに日本が不当占拠した満州を舞台にし、主人公は旧日本陸軍兵士ではあるが、本作は日本の敗戦前後の時系列を描いた作品であり、しかも戦闘の対象としているのは抗日民族統一戦線ではなく、満州に侵攻を開始したソ連軍である。
他方で、本作は近年日本国内で数多く輩出されている「特攻」を題材にした作品群に連なり、そして兵士が自らの命を犠牲として戦うことに感動を覚える、いわゆる「感動ポルノ」として消費されるのではないかという懸念は拭えない。それに、中国ではなくソ連を相手取った戦いを描くことには、後述するある戦略が見え隠れしている。
そもそもの戦争背景
ここで、日中戦争について簡単に振り返っておこう。記述はすべて山川出版社の『新もういちど読む山川日本史』に基づく。大戦の歴史を簡単に振り返るうえで簡潔にまとまっているので役に立ち、かつ、日本でもっとも信頼に足る教科書会社の出版する歴史書だからである。
https://honto.jp/ebook/pd_31816712.html
そもそもなんで日本軍が中国の満州にいるのかというと、1931年9月の柳条湖事件がきっかけである。武力による満州の制圧を企てた日本の関東軍が、奉天近郊の南満州鉄道の線路を爆破する自作自演工作を行い、戦争のきっかけをつくって奉天付近の中国軍への攻撃を開始した。これにより「満州事変」が起こり、日本軍は半年ほどで満州の主要地域を占領し、1932年3月に「満州国」の建国を行った。これは軍事・外交・内政の実権を日本人が掌握する傀儡国家であり、不戦条約および九カ国条約に違反するものとして国際的な非難をあびた。
1932年国際連盟からリットン調査団が派遣され、満洲国の実情が調査されたが、これは、満州事変を日本の武力侵略であるとする中国政府の訴えによる。調査結果として、満州における日本の特殊権益を認めつつも、満州に対する主権は中国にあり独立を否定するものとした。これを日本は不服として1933年国連を離脱した。
日中戦争の発端は1937年7月の盧溝橋事件である。北京郊外での日本軍と中国軍の武力衝突が発生し、これがきっかけで戦火が上海や中国中部にも広がった。1937年12月には日本軍は首都南京で虐殺事件を起こして国際的な非難を浴びた。
そして1945年8月14日に日本はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、15日に国民に知られることになり、9月2日に日本は降伏文書に調印することとなった。しかしその直前に行われた8月6日と9日の二度の原爆投下はもちろん、8月8日のソ連の日ソ中立条約を侵犯した対日宣戦の布告に基づく満州・千島などへの侵入も記憶にとどめておきたい。
以上日中戦争について基本的かつ公的な知識を、歴史記述に関して最も信頼できる出版社のひとつであるところの山川出版社の書物に基づいて見てきた。
本作の題材であるところの、日本における「終戦記念日」として語られることの多い8月15日以降に日本兵が妻とともにソ連に対し特攻を行ったという出来事は私も知らなかったのだが、日中戦争の文脈においては、それはむしろ中国の勝利が決定的となった後の出来事であり、また敵として設定されているのはソ連軍なので、(ソ連軍は中国共産軍を支援していたとはいえ)日中戦争における中国の直接の犠牲の記憶からややずれたところをターゲットにしたものといえる。
とはいえ、舞台が満州国であることは逃れられない以上、日ソの戦いと表現することでその踏み台になった中国の犠牲が無視される危険性はある。
日中戦争の記憶は当然中国人にも共有されており、日本による満州の不当占拠や、関東軍による中国人の大量虐殺は、「日本による侵略戦争」というナラティブに紐付けられて語られている。
日本における犠牲者意識ナショナリズム
日本において先の大戦の記憶は「敗北した戦争」として語られることは多いが、「日本による他国への侵略戦争」として語られることは少なくなってしまった。
NHKの2025年5月から7月にかけて行われた世論調査で、「先の戦争は、アジア近隣諸国に対する日本の侵略戦争だった」という意見について尋ねたところ、「わからない」と答えた人が全国では半数近くに上ったことが分かった。
https://news.web.nhk/newsweb/na/nb-5090034529
この調査のミソは、侵略戦争かと問われても「そう思わない」と答えたのが16%しかなかったのに対し、「わからない」が48%であったことである。一見すると「あれは侵略戦争ではなかった」という右翼的な回答をする人間は少数派で、戦争という複雑な問題に対して中立的立場で答えている人が国民の半数近くいるのだ、という風に読める。
しかしこれは、日本の歴史教育を含む第二次世界大戦を巡る言説空間が、「日本による侵略戦争」というナラティブを語ることに消極的であったことを意味する。「日本人は先の大戦の被害者ではあるが、そもそも戦争のきっかけを作った加害国である」ということは、(一部歴史修正主義勢力の編纂したものを除いて)歴史教科書を読めば違えることはないはずである。しかし、それを否認しようとする言説が極右やネット右翼によって拡散され、表立って支持することはないにしても、それが教科書的記述を補完する、歴史認識のオプションとしてうっすらと共有されてしまっているのが現状である。「そういう意見もあるんだな」と思わせた時点で歴史修正主義勢力の勝利なのである。そもそも、犠牲者の統計人数などの細かい部分では議論の余地があるにせよ、「アジア・太平洋戦争において日本は侵略国だった」ということは端的に公的な事実である。優秀な歴史学研究者たちによって長年一次資料が整理され、国の認定する教科書にも記載がある。にもかかわらず市民に「先の大戦は侵略戦争であった」と語ることを躊躇わせ、「わからない」と回答させること、つまり先の大戦における日本の過ちを否認に向かわせること。それが歴史修正主義者の目的である。
特攻についての日本人の認識も転倒していることが多い。本来非人道的作戦を行ってしまった国民の末裔として、二度とそのようなことは起こさせない責務が日本人にはあるはずなのだが、最近は『永遠のゼロ』や『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』など、むしろ特攻を美化する内容の作品が大ヒットしている。なぜだろうか。
特攻の美化は権力側からのイデオロギー的な働きかけでなされていると思われがちである。しかし特攻を「感動的」なものに仕立て上げた主な要因はそれではない。歴史研究者の林志弦氏の主著『犠牲者意識ナショナリズム』によると、神風特攻隊に対する戦後日本の感傷的な感情は、兵士に対して民間人が親近感を感じ、その犠牲に涙するという草の根的な「戦死者崇拝」を背景に持つという。
戦死者崇拝は本来国家という宗教に殉じた兵士を顕彰するものだが、林氏は「戦死者崇拝のポイントは、死の民主化であり国民化だった」と指摘する(Kindle版 99/637)。戦死者に対する親近感が上からの働きかけによらず自ずと発生したのだ。
戦死者崇拝の最も劇的な例は、神風特攻隊の犠牲者に対する儀礼だろう。「特攻の目的は戦果を挙げることではなく死ぬことだ」というある特攻隊指揮官の言葉のように、特攻という自殺攻撃の犠牲者たちは祖国への愛に充ち、汚染されていない最も純粋な形態の死を想像させる。
特攻隊は「平和の礎となり、戦後日本の民主的な成長と発展」を可能にする高貴な戦死から一歩進んで、死の美学を映し出す格好の素材を提供した。多くは未婚で跡継ぎを残せないだけでなく、遺体の痕跡すら残せない若い特攻隊員の死は特別だ。彼らの純粋な死は、「死者とまだ生まれてきていない世代の魂の結びつき」を母胎とする民族の語りへと昇華させやすい。鹿児島県の知覧特攻基地近くの食堂「富屋」の女将だった鳥濱トメと若い特攻隊員たちの逸話は、戦死者崇拝の集団心理を犠牲者意識ナショナリズムの心を動かす記憶として根付かせた。トメを母親のように慕った特攻隊員が出撃前日に「ホタルになって戻ってくる」と言い残し、翌日、実際にホタルが飛んできたという切ない話は典型的だ。
天皇のため桜のように散るという特攻隊員たちの遺書は、美学の軍事化を意味した。ヘゲモニー的な仕組みとしての市民宗教は、敗戦後も生き残った。丸山眞男や大塚久雄が力説した「戦後」啓蒙と主体性の動員は、市民宗教の戦後民主主義バージョンだった。(Kindle版 104/637)
要するに、大戦の反省から出発した戦後日本の民主主義が、皮肉にも大戦中に生まれた市民宗教たる戦死者崇拝と結びつき、市民側の草の根的な働きかけによって特攻隊員の「犠牲」を「主体的に」崇めようという動きが生じたのだ。
近年数多く出版されてきた特攻ものの作品の内容やその消費は、おそらくはこうした「戦死者崇拝」のメンタリティに基づくものだろう。実際、汐見夏衛『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』は、もともとは小説投稿サイト「野いちご」で連載されていたWEB小説がスターツ出版文庫として刊行され、TikTokで話題になったのをきっかけに発行部数を伸ばしたものである。これは別に国家のプロパガンダがなくとも、特攻隊員の死を「戦死者崇拝」として感傷的に受け取るメンタリティが市民に根付いていることを意味している。
戦死者崇拝の何が問題なのだろうか。それは、林氏が指摘する「犠牲者意識ナショナリズム」と関係する。犠牲者意識ナショナリズムとは、20世紀末から21世紀初頭にかけて、ナショナリズムの中心が「英雄」から「犠牲者」に移ったことを示す概念である。歴史の英雄と自分を結びつける時代から、犠牲者の継承者として自分の歴史の物語の中に位置づけ、これによって自分が道徳的に正しい地位にあると主張できるメカニズムを持ったナショナリズムである。
「犠牲者意識ナショナリズム」によって自分たちを歴史的な「被害者」であると位置づけることは、他者に対する加害が「それと比べたら些末なもの」として正当化される危険性をもたらす。このことは2026年4月現在も続いているイスラエルによるガザ地区攻撃を思い起こせば明白だろう。そして市民による戦死者崇拝は、「特攻隊員が命をかけて国を守ったからこそ今の自分は生きている」というナラティブを継承し、特攻隊員の犠牲と自分とを同化させることで、「自分たちは被害者だ」という「犠牲者意識ナショナリズム」を高揚させるものなのである。
犠牲者意識ナショナリズムの視点から『妻と飛んだ特攻兵』のあらすじを見てみると、ある戦略が見えてくる。敗戦前後にソ連軍の侵攻を受け、それに応戦する負け戦を描くということは、大戦における日本人が「被害者」のポジションに置かれていることを意味する。日本軍の侵略を受け虐殺の記憶の生々しい中国を相手どるのを避けることで、日本軍に対する英雄主義的な顕彰や日中戦争による日本の美化はなされずにすんでいる。しかし、中国だけでなくソ連が参戦したタイミングを題材にし、日本をソ連侵攻の「被害者」として演出することは、それまでの日本軍の中国や韓国、東南アジアなどの各地域を侵攻した記憶を隠蔽する一連の「犠牲者意識ナショナリズム」の系譜にその身を連ねることになりかねない。
もっとも、原作はその危険性にどう対応しているのかまだ確認できていないのだが、しかしミュージカルはこれから公演予定であり、どう脚色されるのかはまだ分からない。批判を受けて脚本を練り直すことも十分考えられたのに、批判に対し運営サイドが役者の降板で対応してしまうのは下策に思える。
ファンとしての提言
いずれにせよ、日本人ファンはMyGO!!!!!の世界的人気の獲得に喜びあぐらをかく一方で、戦後日本の国際的評価の前提となる歴史認識を無視し、文句があればファンをやめろと暴言を吐くのは端的にダブル・スタンダードである。それに、「自分たち日本人は中国からの批判によって表現の自由を制限された被害者である」と振る舞うことは、自分の属する国がかつて行った凶行の負の記憶を隠蔽することにつながる。これは、程度の差はあれど「犠牲者意識ナショナリズム」と同じ構造である。
中国人ファンの怒りは当然であるとは思うものの、そもそもミュージカルがまだ上演されていない現状において、その内容が批判的に検討される可能性があったにもかかわらず早々に降板を求めるのは、作品に対する評価の仕方としてはあまりよくはない。
ファンばかり責めているようだが、MyGO!!!!!の取り締まり元であるブシロードの対応は、もし巷で推測されている通りのことが行われたのであればもっと最悪であろう。先にも述べたように、木谷高明がはやまるの舞台出演に問題を感じた中国のファンのコメントにTwitter上で直接応答することがあった。実際にそれが舞台降板のきっかけになったのかはわからないが、とはいえ、もしも降板がブシロード社長の働きかけによるものであるとしたら、別にブシロードに直接所属しているわけではないはやまるならびに所属事務所のLIBERTE に対してどういう権利があるのか。無論、話し合いで解決したという可能性もなくはないので、真実を明らかにするためにもブシロードに説明責任はあるだろう。
いずれにせよ「中国ファンから苦情がきたから声優と舞台企画に申し入れて降板」とするのでなく、舞台の内容が軍国主義の復活を肯定するものではないこと、日本による中国侵略の歴史的事実を否認するものではないこと、そして舞台が意義深いものであることを声明文で説明すべきだった。無論、どうしても降板がやむを得ないのであれば、それを具体的に説明すべきである。でないとブシロードは中国での思わぬ大ヒットで権益をさらに拡大したいと目論むも、歴史認識を巡る衝突が起こっては事無かれ主義で無為無策に終わる矮小な三流企業のままである。
また日本の事業者にしろ中国人ファンにしろ、どちらの立場にもはやまるに対するパターナリズムが目立つ。「本ミュージカルに林を出演させるのはチャイナリスクがあるからやめさせよう」にしろ「林鼓子の未熟な行動を止めるべきだ」にせよ、はやまる自身が主体的に行動する大人であることを無視しているように思えてならない。
日本のファンについても昔パターナリズム的ないやらしさを感じることがあった。はやまるは昔画像ALT*1に感想文を載せることをよくやっていたのだが、ファンや外野の人から批判を受けたのか、ALTに感想文を載せるのはよくないのではないかと疑問を呈したことがあった。それに対し多くのファンは、まるで秦王朝を滅亡させた趙高のごとくはやまるに甘言を弄した。ALTの用法を反省しようとする声優に「キミはそのままでいいんだよ」と囁きかけるオタクは、別に声優のためを思ってるのではない。女性声優が自分より利口で有徳である事態が許せないから、自分と同等か下位の存在に引き留めてるだけだ。それに、例えば『アニ×パラ』のような視覚障害を扱ったアニメのオーディションをやるとしたら、ALTの誤用を続けることは明らかに不利に働くし、出演が決まってもALTの誤用のために炎上するリスクすらある。ALT誤用を擁護するオタクというものは、推してる声優がそうした作品に挑む可能性に対する想像力がなく、排除してすらいる。
日中どちらにしろ大事なのは、はやまるのことを受難の物語のヒロインに仕立て上げないことだ。先の大戦の負の記憶を正しく継承しつつ、彼女が自分自身で考えて行動するのを見守るのがファンの責務であると思われる。
*1:ALT(代替テキスト)とは、画像データの画像の内容をテキストで伝える属性のことで、主に視覚障害のあるユーザのサポートを目的とする。Twitterの画像機能にも実装されているのだが、140字以上の文字を書き込める特性もあってか、一部のユーザには画像に仕込まれた「隠しテキスト」として「誤用」されているという現状がある。これに対して、本来の用途を歪め、視覚障害者のユーザビリティを低下させるものだという批判がある。











