錬金術師の隠れ家

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悪へと向かう自由の讃歌 くわばらたもつ『ぜんぶ壊して地獄で愛して』(第2巻まで)

 

 

 

あらすじ

吉沢来未は生徒会長も務める優等生だが、母の束縛などのストレスで破滅的な願望を募らせていた。
ある日、教師の頼みで不登校気味なクラスメイト・直井と話をするが、上辺だけの言葉で話す吉沢を直井は蔑み、更には「ある動画」で脅してきた。その動画には、万引きをしようとする吉沢が映っていて…。

逃げ場のない毎日でもがく少女たちの、バイオレンス青春ストーリー。(https://ichijin-plus.com/comics/89324057887009

書評

人間は「悪」をなすとき、たいてい人のせいにする。 レイフ・クリスチャンソン作の『わたしのせいじゃない』という絵本では、男の子がないている原因を子どもたちに尋ねるが、みんながもっともらしい言い訳を重ねて自分が原因ではないと主張する。 

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そのような他責思考が、最悪のケースとしてホロコーストにつながったことを示すその結末は、子どもたちに他責思考の残虐さを教えている。日本でも政治家が裏金問題を秘書のせいにしようとするし、個人のレベルでも事実無根であるにもかかわらず相手のせいにして誹謗中傷を繰り返す暇アノンのような連中が社会問題となっている。林志弦『犠牲者意識ナショナリズム』では、ホロコースト以降の国際秩序において、原爆やホロコーストなどの巨大な被害に遭った国や人々がその「犠牲」を根拠として相手国を蹂躙したり、また自分たちが行ってきた加害の記憶を忘却しようとする思考法が批判されていた。

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このような「悪」の他責思考は、個人レベルから国家・集団レベルまで、さらには過去から現在、日本から世界に至るまで普遍的に蔓延っている。そういう問題ではないと承知でこうした思考法にあえて美的判断を行うとすれば、間違いなく「醜い」といえる。人間の行為は良かれ悪かれ「自分自身」が行ったと認めたことにこそ価値があるからだ。


『ぜんぶ壊して地獄で愛して』は、まだ2巻しか刊行されていないが、こうした「悪の他責思考」とのギリギリのせめぎ合いのなかで、はっきりと自らに因って立つ「悪」をなす勇姿を描き出している。主人公の吉沢は不登校のクラスメイトの直井に脅される形で、教師の物を盗んだり器物損壊を行ったりと犯罪行為を繰り返す。しないと万引き未遂の盗撮動画をばら撒くぞと脅迫された状態なので、この点では緊急避難が成り立つとはいえる。しかしフレーム入りのクラスの集合写真をわざわざ選んで盗んできたり、クラスメイトの伊佐沼の机に大きく傷をつけたのは吉沢の意思であり、何より「超イキイキしてた」と指摘されている。2巻終盤に机の件がばれて釈明するときも、ストレスとなる世間体や恋人の心の期待との葛藤の末、直井に見放されたくない一心で、自白したうえで伊佐沼を恫喝する。我々は「どうするのこれ?」と心配が頭の隅にありつつも、直井とともに教室を飛び出し、川向こうを眺める吉沢の姿にカタルシスを覚える。
直井の描写も興味深い。吉沢を脅すも実はそこまでの期待はしていなかったようではあるが、吉沢が一緒にはめを踏み外してくれたことに感動を覚え、好意さえ抱くようになる。本作は「やばい女(femme fatal)に脅されて女が犯罪行為をしでかす」のではなく、「破滅願望のある女が鬱屈とした思いを抱いていた女と一緒に悪をしでかす」作品なのだ。吉沢と直井は被害者と加害者でなく共犯者ということができる。
無論吉沢も直井も、親の教育や生活環境のせいでこうなったと説明することはできる。しかしそうでありながら他人のせいにせず自分でやったことを認めて晴れて「自由」になれたという展開に、ボードレール的な悪の輝きをみることができる。