錬金術師の隠れ家

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ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論①…ラブライブ二期の本当の思想

 本記事はおりあそ氏によるラブライブ2期・劇場版に対する批判(アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html ) への反論である。おりあそ氏と私はちょっとした知り合いで、百合好きという点でも作品に対する嗜好という点でも価値観を共有していたのだが、ラブライブ2期や劇場版への評価を巡って1年前から意見を激しく違えることになってしまった。当初は私もおりあそ氏の主張の正当性を認めていたのだが、しかし自分を納得させることができない点も残った。というのは、もし氏の批判が正当なら、アニメに対し批判的精神を働かせることのできる多くの人々が、2期を素直に楽しむことができたというのが不可解なことになってしまうからだ。私とて多少はカップリング萌えの観点から見ていたことは認めるものの、それにより私は自分の批判的精神を蒙昧にさせるようなことはしていなかったと思うし、我々の目が節穴だったということは決してなかったと信じたい。実際、氏のいう問題点を踏まえたうえで2期を再視聴したときも、私が物語から受けた印象はあまり変わらず感動するものがあったし、むしろ新たな発見に心躍った。だが他方で、氏の批判に対して見受けられた「キャラクターや曲を楽しむ作品なんだからラブライブに物語の整合性を求めても無駄」という論弁を放棄し開き直った主張にも私は抗したい。むしろ私を含む多くのラブライバーは2期に確かな物語とそこに表現された感動的な主題を間違いなく直感したのであり、それを論理的に示していく作業が必要だ。多少の問題点は理解できるものの、だからといって「2期は出来の悪いただの娯楽である」という主張にはどうしても合意できない。

 

 本当はラブライブを批評する際の方法論を先に整理してからおりあそ氏の主張へ批判を行おうと考えていたが、現時点で投稿から1日経っていないにもかかわらず氏の記事は大反響を呼び、2000RTを達成するまでになってしまった( https://twitter.com/oriaso/status/613011484893773824 )。私から言わせれば氏のものの見方にはやや一面的なところがあり、想像力が欠如しているのだが、それにもかかわらずこの記事がこれ以上拡散されてしまったら、氏の思想に感化されて『ラブライブ!』という作品に対し間違った判断を下す人が大勢現れかねない。なので先におりあそ氏の主張に直接応答することを決め、氏の主張の批判的な重要性がどのくらいのものなのか、どこがおかしいのか、そして私がラブライブに何を見ていたのかをこの記事で主張したい。

 本記事は二部構成で前半と後半に分けられる。前半はラブライブ2期についてのおりあそ氏の批判とそれに対する応答、後半は劇場版に対するそれだ。2期にかんする見解はおりあそ氏の記事には多くないが、ここでは本人から直接聞いた話も参考に氏の見解を再構成するようにしよう。また「二次元アイドルと三次元アイドルを比較して語ることに違和感を覚える」という反論が多数見受けられたが、私は三次元アイドルについてはよく知らないので別の人に任せたい。

 また、表記についてであるが、例えば1期の8話は 1-8 という風に簡略化して記すことにする。

 

 おりあそ氏の主張

 おりあそ氏が2期に関して主に問題視していたのは、記憶の限りだと以下の3点である。

①穂乃果中心主義とそれによる人間描写の欠如。2-6や2-10後半においては問題解決に関して誰もまともな解答を与えることができず、ラストになって穂乃果の鶴の一声で問題を解決してしまう。このとき8人は穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がってしまい、人間性の描写が失われている。(そしてこの問題点は劇場版にも見受けられる。)

②物語の不在。本作はラブライブ優勝に向けての物語であったのに、最大のライバルであるA-RISEと特に競い合う描写がされることもなくあっさり勝ってしまい、本戦でも他のスクールアイドルとの何かしらの競争が描かれることはなかった。「ラブライブ優勝」という主題が形骸化している。

③最終話のとってつけたような劇場版への橋渡し。2期後半は「μ'sの解散」という主題を掲げたにもかかわらずそれをラストで反故(ほご)にしてしまう。しかもだいぶいい加減である。

 

検討

 それでは順に吟味を加えていこう。まずは①②両方に見られる問題点を、以降は①②③それぞれの問題点を見ていく。

 

 ①②の2つの主張は実は私としてもある程度正当であると考えている。2-6は話としても深みがあるようには思えなかったし、2-10後半や2-12の屋上のシーンでも同じパターンを繰り返されるとさすがに食傷気味になってしまう。また仮にも「ラブライブ優勝」という目的を掲げている以上他のアイドルとの競争がまともに描かれないのは、特にA-RISEとの対決を期待していた人たちにとっては幻滅であっただろう。

 しかし2期を視聴しているとき私にはこの二つの論点は特に問題にはならなかった。穂乃果中心で話が転がるのは単なる物語の中だるみとして軽く受け流し、また昨今の勝利に拘らない各種アニメの情勢からしても、競争のモチーフが特に根本的な意味をもつものとは思えなかったのである。

 

 それに、①「8人が穂乃果に同調するただのマシーンに成り下がっている」というのはさすがに言い過ぎである。ここで氏は、あるキャラクターが物語の決定権をにぎっていないということと、その人物が一個の人物としてしっかりと描写されていないということを同一視している。この視点だけとると、物語においてどうでもいいように思われる余白の部分にも書き記された各キャラクターの呼吸や息遣いを見逃してしまう。氏は、十分に人間性を描写されていない浅薄なキャラクターを、萌えやカップリングという観点だけで安易に消費していると、多くのファンに批判的な眼差しを向けているが、ファンが感じ取っていたのは実はそうした呼吸であり、そこから個性を見出し、多様なイメージへと膨らませている。こうした想像力は単にプロットだけに目を向けているだけでは培うことができず、それがない貧困な想像力では単なる薄っぺらいキャラ付けに見えてしまうのだ。

 

 ②についても個別に検討しよう。確かにμ'sと他のスクールアイドルとの競争はほとんど描かれることがなく、A-RISEにも最終回以前にあっさりと勝ってしまった。この時点で物語の主題のひとつが失われてしまったことは事実だ。しかしその直後の2-11においてこの物語の本当の主題が姿を現わすわけである。

大会が終わったら、μ'sはおしまいにします。

 この瞬間『ラブライブ!』という作品の本当に表現したかったことが私の心に流れ込んできたような気がした。つまり、青春のわずかな期間に出会えた仲間達の奇跡と、限られた時間の中で最高の輝きを残し、そしてμ'sという名前を永遠の思い出にしよう、という滅びの美学である。ただ、この主題は唐突に現れたわけではなく、これまでの物語の中でも複数のメンバーの口から断片的に語られてきたものだった。思えば1-6での「みんながセンター」という穂乃果の発言や、希のこの9人が起こしたμ'sという奇跡を尊ぶ思想は、メンバーの脱退とともにグループは解散することを暗示していた。この見解と相反する「メンバーの卒業や脱退があっても、名前は変えずに続けていく。それがアイドルよ」というアイドル観をもつ矢澤でさえ、2-9では「みんながセンター」という見解に同意している。オープニングでも「次は絶対ゆずれないよ 残された時間を握りしめて」と歌っていたではないか。何より、私はあの夕日を忘れることはできない。1-10では皆で水平線より昇る朝日をみた。それは9人が揃ったμ'sの本当の始まりを象徴していたが、それに見事に呼応した2-11の海の彼方に沈む夕日は、μ'sの終わりを厳かに告げるものであった。

 もちろん本当の主題が存在することを根拠にして、2期前半で主張されていた「大会の優勝」という主題が十分に展開されていないことを正当化することはできない。しかし、逆に「大会の優勝」という主題ばかりに気を取られ、本当の主題に目を向けないということもまた誤りなのだ。実際、この「本当の主題」という観点はアニメ『ラブライブ!』という作品を読み解くうえで非常に重要なのである。というのも実は1期と2期とでこの作品は同じ構造をしているからだ。1期の「廃校から学校を救うこと」や2期の「大会優勝」は名目上の主題にすぎず、本当は「目標を失ったμまずは名目上の主題で物語をすすめつつ、その裏で本当の主題への布石を貼り、最終局面である1-12と2-11でようやくその本当の主題の全貌を露わにさせるという分かりにくい構造が、1期2期ともに存在しているのである。2期が筋の通ったストーリーをなしていない印象を与えるのは、こうした構造に目を向けていないためと考えられる。「本当の主題」に着目しないとこの作品に対して正当な評価を下すことはできなくなってしまう。そして「本当の主題」に触れた人々にとっては、「大会の優勝」という仮の主題が軽く扱われていたとしても特に致命的な瑕疵(かし)であるとは思わないのである。

 

③もっとも、1期とは異なり2期では、劇場版へ橋渡しする都合上から「μ'sの解散」が最終話のラストで反故にされてしまう。これは「真の主題」が琴線に触れた人々にとっては、物語が台無しになるという極めて致命的な問題に見えるが、実はそうではない。劇場版においてこの主題が解決されることは予想できるし、あくまで期限付きで先延ばしになったにすぎない。ただし、リアルタイムで放映版を見終えた直後の我々はあと1年を待たなければならず、大変もどかしい思いをした。結末が不明な以上、人々は判断を保留するか、あるいは延命措置そのものを根拠にクソアニメ認定するしか道はなかった。

 ひとつ擁護をさせてもらうと、製作陣としてもこの結末は不本意であったように思える。劇場版パンフレットにおける京極尚彦と花田十輝のコメントによると、劇場版の制作が決定したのは2期制作進行の途中であり、劇場版を意識したら進行に障害が生じると判断し2期で完結させることにしたらしい。そのため劇場版への橋渡しのシーンが不自然極まりなくみえてしまうのもやむを得ないという事情があるのだ。それにしてももっと上手く処置をとれなかったのかとは思うが……。私としてもこの点に関しては同情と非難を同時に抱えている。

 

小まとめ

 以上3点を吟味してみたが、③に関しては物語を2期でのみ完結させていないという問題点はあるものの、少なくとも物語の真の主題を必ずしも損なうものではないことは注意しておきたい。そして①②はどちらも大きな問題ではない。もちろんおりあそ氏の主張には一定の正当性が認められ、このため私は1年間頭を悩ましたものである。穂乃果中心で話を閉じるワンパターンや物語から競争が排除されている点は、批判を脚本家の側に建設的に還元するためにも指摘して然るべきである。だがこれらの点が作品を決定的に台無しにするかと言うとそうではない。既に示したように、これらの点は別に物語の真の主題やキャラクターの描写の豊かさに水を差すようなものではないのだから、軽く放っておけばよいのだ。これは開き直りではない。物語を見る上で必要なところに適切に目を向けどうでもいいところは無視することを奨励しているだけだ。

 かつておりあそ氏の指摘を受けたから言うのだが、一度批判を受け入れてしまうとその批判された点の別の側面がみえてこなくなるようなところが人間の性としてあるようだ。現に氏の記事をみて(そこでも取り上げられていた)①の論点に納得してしまっている人がいるようだが、おりあそ氏のものの見方は以上の私の指摘からわかるようにやや一面的であり、物語の余白に対する想像力を欠いたものであるのだから、氏の批判をそのまま受け入れてしまうと『ラブライブ!』という作品に対して狭いものの見方しかできなくなってしまう。作品を鑑賞するうえで大切なのは(こんなことをいうと自分にも跳ね返ってくるのだが)他人の言うことをそのまま鵜呑みにせず、自分の直感と照らし合わせて自分で吟味することである。自分の直感を信じて『ラブライブ!』を鑑賞してほしい。

 個人的には2期にはたいへんな感動を覚えた。突っ込みどころや最終話の延命措置はあるものの、彼女たちの息遣い、μ'sに対する各メンバーの想い、そしてそれらから導き出される解散にかかわる滅びの美学に心を奪われたものであった。そしてその感動は正しかったことがこうして記事にしてみることで自分の中でも納得できた。

 

[以下、劇場版ネタバレ注意]

 そして劇場版の内容を踏まえてこれらの問題点にさらに吟味すると、驚くことに、脚本家がこれら3つの問題点を意識しているようにみえる。

 ③については明らかにファンの期待を最終回で裏切ってしまったことに対する反省の念が伺える。グループ内の決断でしかなかった「μ'sの解散」という主題を掘り下げ、ファンや他のアイドルたち、第三回ラブライブとの連関のなかで、このまま以前の決断と同じく解散を実行するか、それともファンのためにμ’sを続けていくことを決意するか、穂乃果たちは悩むわけである。このように非常に丁寧な解散の主題の描写は、ファンの期待を裏切ってしまった償いとして真摯な態度に私には思えた。

 それに、おりあそ氏は劇場版においても①の問題点が見られるとなぜか主張しているのだが、①に関してもちゃんと反省が見られる。たとえば、NYの夜景を前にしてμ's全員が集合するシーンがあり、ここには「この街ってアキバに似ているんだよ」という発言がある。この台詞は、ニューヨークを自らのホームグラウンドとなぞらえることで、異国にありながらもμ'sに自分たちらしさを再確認させるという物語上重要なはたらきをしていた。この役割を考えるとこれはいかにも穂乃果の言いそうな台詞だと思われるだろうが、この発言の発話者はなのである。穂乃果ではなく凛をNYにもっとも馴染ませこの台詞に結びつけたことは、2期でのワンパターンの反省のあらわれだと考えられる。また、先取りになってしまうので詳しくは述べないが、全国のスクールアイドルを招いた大ライブを穂乃果が提案するという点は、別に「穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない」というような問題を抱えているわけではないと考えられる。

 さらに私たちは②で、二期では名目上の「ラブライブ優勝」という主題が十分展開されなかったことをみとめた。たしかに、μ’sと競い合うはずのA-RISEや他のスクールアイドルはほとんど描写されず、物語上で重要な役割を与えられなかった。しかし劇場版ではこの点を補うように、競争こそないものの、スクールアイドル皆でライブをするという大胆な方向に物語が展開した。A-RISEに関しては、卒業後もアイドルを続ける存在としてμ'sと対比され、μ'sの今後に示唆を与えるという物語にとって重要な存在として改めて描き出されたのである。

 

 このように劇場版は2期の問題点を克服したとても真摯な内容になっていると私は考えている。だがどういうわけか劇場版は、おりあそ氏の目には「唐突」、「どのような物語性もない」と映ってしまうようである。次回は後半に移り、氏の劇場版に対する批判を取り上げていきたい。