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なぜ『やがて君になる』は「百合漫画」に分類されるのか? その証明と意義の考察

 本論で一番主張したいのは第3節「「百合」から「演繹」する」のところです。時間がなければそこだけ読むことをお勧めします。

 

 今から仲谷鳰の漫画『やがて君になる』が、なぜ「百合漫画」に分類されるのかについて考えてみたい。

 一見奇妙な問いにみえるだろう。書店の百合漫画コーナーでこの漫画を手に取り、実際に主人公と先輩の同性間の恋愛が主題として描かれているのを読んだわれわれは「当たり前ではないのか?」「そんなこと問う必要がどこにあるのか?」と思うだろう。だがこれを百合漫画だと思って読まない人がいるのである。一度この漫画を取り上げた書店員による宣伝が炎上したことがあった。「この作品は本格的な百合漫画でありながら、その範疇に収まりきらない魅力で溢れ返っている。」と評したからである。当人にとっては褒めてるつもりだったのかもしれないが、百合に己の実存を賭け、このジャンルの繁栄を願っている作り手たちや読者たちからしたらたまったものではない。この人は百合を舐めている、なぜ異性愛には言わないことを百合に限っては言うのか、そういう反応が相次いだ。

https://kindou.info/75261.html

 これは20161111日に書かれた記事で、炎上したため謝罪が追記された。ほぼ2年前の出来事である。ところが、2018年の10月にアニメ化されることで本作を持ち上げる記事が数多く書かれるにあたって、これとそっくりな言説がまた生産されてしまった。

https://web.smartnews.com/articles/fcA9985fxYy

 この記事に至っては、「仲谷氏本人としても「百合漫画」を描こうとしているつもりはなく、「恋愛」を全面に押し出した作品を描いているつもりだと公言しているらしい。」という誤った情報を垂れ流している時点で、論じる意味すらないデマゴギーといえるのかもしれない。一応、先に挙げた記事とは、百合というジャンルの存在を軽視して、いわゆる「百合を超えた普遍的で尊い何か」という枠組みで語ろうとしている点で共通している。

 もっとも、実際不用意極まりない発言であったという点では同意するが、他方で「普遍性」の観点からこの作品を見ることはまあ不可能ではない、という印象も抱いた。直接の言及はなく断定はできないが、主人公の小糸侑は第1巻では異性愛者どころか同性愛でもない「アセクシュアル」らしき存在、もしくはそれに類する存在として描かれる。この点が味噌で、「誰も好きにならない」という主人公の気質に対して七海燈子は目をつける。とある理由から自己に対する愛情を遠ざけてしまうようになった燈子は、「誰も好きにならない」という侑ならば恋愛関係になってもそこまで自分の内面に入り込んでくれないだろうと思い、交際を持ちかける、というのが本作のあらすじである。この関係には別に百合というジャンルの核である「同性間の恋愛関係」は必ずしも必要とされない。一方が人に強い感情を抱くことがなく、他方が自分を愛さない人を欲するという構図があれば、どんな性別を当てはめてもよいような気もする。

 しかしそれによってこの漫画は「百合漫画を超えた何か」と言って良いのだろうか。作者やファンが喜んで受け入れているところの「百合漫画」というジャンルを否定してよいのだろうか。ジャンルを否定したら何かまずいことにならないだろうか。それが本稿で掲げる疑問である。

 結論からいうと、『やがて君になる』という漫画が分類される「百合漫画」というジャンルは、本作の読書経験に必要である。したがって「百合漫画」というジャンルは軽視するわけにはいかない。それを本作のあるシーンを取り上げて証明していくことになる。

 

「百合漫画」とは?

 まず、漫画のなかでもそもそも「百合漫画」とはどういうジャンルなのか?それを確認しておこう。第一に思い当たるのは「女性同士の恋愛を主に描くジャンル」という定義だろう。だが、恋愛に至る以前の片思いで終わることや、失恋を描くこともあるし、恋愛を意味しない性欲を描くこともある。あるいは、(激しく非難されることが多いものの)物語の一過程として男性との交際を描く場合もある。はては、恋愛として表現されているわけではない、もしくは明示されていないが、同性同士の強い絆、「引力」が描かれた作品も「百合漫画」としてカテゴライズされることもある。この手の作品に至っては、もはやジャンルによる規定を超えて、読者の構想力による働きかけがあって初めて「百合」であると認識される。こうした混沌のせいで、コミケのジャンルコードとして「百合・ GL」が未だに成立していないといえるのかもしれない。こうした事情もあってか、「百合」というジャンルは恣意的な使用をされることが多く、「百合作品」であることをキャッチコピーで謳いながら、読者の期待とは程遠いヘテロエンドを描くような作品が現れてはしばし批判されてきた。

 このように「百合漫画」を定義するのは大変難しく、歴史的背景の分析や認識論的考察をも伴うがために、それをきちんと考察するには本を一冊書く必要が生じるであろう。筆者にはそんな余裕はないので、「百合漫画」のジャンルがもつ難しさを考慮しつつ、ある程度便宜を図って狭義の定義を採用することにする。以下の2点がその核となるだろう。

① メディア面:「百合漫画である」と、実際にそう宣伝されている。

② 漫画表現面:女性同士の恋愛に関係する表現が描かれる。

 

「百合」を「帰納」する

 それでは、『やがて君になる』が「百合漫画」に分類されることを確認しておこう。まずは形式面。第1巻のあとがきを見るに、作者や編集担当者が本作を「百合漫画」として分類していることは明白である。また電撃コミックスの折り込みチラシでの宣伝文句は「今もっとも切ないガールズラブストーリー」である。公式で無料購読ができる ComicWalker のサイトをみると、「百合」がタグ付けされている。また「百合展」への展示に参加したり、書店の「百合漫画」コーナーで平積みされていたりと、『やがて君になる』が「百合漫画」として積極的に宣伝され、また受け手もそれに反発していないことは十分確認される。

 では、内容面はどうか?先ほども述べたように、メインカップルの侑と燈子の関係は一筋縄ではいかない。侑は恋愛感情を知らず、燈子はそんな彼女の性質に依存して、自分のことを好きにならないことを絶対の条件とした交際を申し出ている。いや、それどころか「付き合ってなんて言わないから」(第1巻, 105ページ)と、自分たちの関係を「付き合っている」とみなしていないがために、この関係に名前をつけることはなかなか難しい。だが、性的指向が女性から女性に向かうものではない、という要素があるからといって、「百合漫画」ではないとするのはいささか短絡的すぎる。それに、関係の内実はどうであれ、女性同士が交際している、という関係の「見かけ」は誰も否定できない。本作の人間関係の普遍的様式を読み取ろうとする読解は別に否定はしないが、本作の要となる人間関係の具体的様式を離れた読解は地に足がついていないと言わざるをえない。

 それに、メインどころではないのだが、本作では女性同士の交際や恋愛感情が、侑や燈子のそれとは全く違う、この二人と比べれば全然歪でない形で描かれているのである。第3巻で侑の国語教師の箱崎理子と喫茶店の店長の都が交際し同棲しているところが描かれる。それに、燈子の右腕の佐伯沙弥香が、実は中学時代に女の先輩と交際しており、現在も橙子に片思いしていることが判明する。他にも、第2巻には小ネタとして橙子が百合小説を購入するシーンがある。こうしたシーンをみるだけでも、『やがて君になる』は「百合漫画」というジャンルに属するという確信が強められる。

 以上、『やがて君になる』が「百合漫画」というジャンルに属することに対して帰納的に証明を図ってきた。ところで、実は本論で本当に論じたいのはこの、理子と都の交際が発覚するシーンの描き方である。

 

「百合」から「演繹」する

 第3巻での国語教師と喫茶店店長の関係の描かれ方をみていこう。燈子と侑、沙弥香、叶が喫茶店を訪れる場面の14ページ目、店に入ってきた理子に対して、ヒキのコマで店長が何食わぬ顔で「おかえり」と挨拶をしている。15ページでは沙弥香が「先生店長さんとお知り合いなんですか?さっきおかえりって」と問いかけ、それに対して理子は見るからに下手な誤魔化しをする。16ページの最後では沙弥香が意味深げに二人に視線を向ける二コマが挿入される。ページが進んで、24ページでこの二人が同居してることが発覚、26ページではキスをし、この二人が交際し、同棲していることが確定する。コマの運び方が見事で、理子と都が同棲しているという事実に至る導入部として実にうまく機能しているシークエンスである。

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 しかし、実を言うと、国語教師と店長が付き合っているのではないかという推測は、シークエンス全体を見渡さなくても、箱崎と店長が顔を合わせるシーンが初めて導入される14ページの最初の一コマを見た時点で既に成り立っているのである。

 まず、日常的に「おかえり」が言える間柄なんてものは、共に暮らす家族か恋人、同居人くらいのものである、というのは一般的な慣習として確認されるだろう。もちろん、このたった1コマだけを二人が付き合っていることの推測の根拠とするのには若干不十分である。女性が女性に対して「おかえり」と言っているシチュエーションだけ拾えば、恋人以外の関係も考慮されるからだ。いわんや、異性愛中心の恋愛漫画にどっぷり浸かって百合モノを読まないような人であれば、このシチュエーションが与えられただけで、この女性同士が付き合っている可能性に思い当たることはないだろう。

 それでは、この時点でこの二人が恋人関係にあることを強く推測させる根拠は一体どこにあるのだろうか?

 それはまさしく、本作が「百合漫画」としてカテゴライズされている、という事実にある。「女性同士の恋愛関係が主題に描かれている」という情報を事前に把握していれば、主人公カップル以外にも女性の同性愛カップルが登場する可能性はあるだろう、という事前了解が可能となるのである。それゆえ、14ページの女性が女性に「おかえり」と挨拶しているシーンがたった一コマだけでも描かれていると、この二者がともに暮らしているという推測が成り立つだけでなく、「百合漫画なのだし、この二人は付き合ってるのでは?」という推測が可能となる。もちろんこのコマの時点では確証できないが、同性同士で付き合っているという推測の選択肢がそもそも候補にすら上がらないような作品群と比較すると、たった1コマを与えられただけでこうした推測が可能となるところに、「百合漫画」というジャンルの強い特徴があるように思える。

 この推測は正しいはずだ、という確信は15,6ページでますます強くなる。単に同居しているだけなら一緒に住んでいることを誤魔化す必要はないはずであり、「それができないのは、生徒たちにはあまり話したくないプライベートな事案があるのではないか?」という推測が新たに与えられる。そうした推測は、沙弥香が二人に眼差しを向けるコマが描かれることでさらに強化される。沙弥香も不審に思っているのだし、先生の発言はやはりどこかおかしい。やはり二人は付き合っているのではないか、と、沙弥香と読者の思考が共有されることとなる。ただし、沙弥香と読者とでこの出来事を見つめるうえで異なる点がある。沙弥香は本作が「百合漫画」に分類されていることを知らないが、対して我々はそれを知っている。それゆえ、14ページの1コマ目をの出来事を見た限りは沙弥香は「おや?」と思うだけで、いきなり理子と都が付き合っているのではないかと考えが飛躍することはないだろう。対してわれわれは、14ページのアケの部分からすでに、「この二人は付き合っているのではないか?」という疑問が確信に変わり、やがて事実として確定していくプロセスを楽しむことができる。もっとも、この時点で読者は沙弥香が経験則によって、この二人が「具体的な関係」にあるのではという疑問を抱いたのだということを知らないのであるが。

 ただ、このような読みは経験としては成立しているものの、つねに意識化されているわけではない。本作が百合漫画にカテゴライズされているのは読者は自明のものとして読んでいるのだし、本作のジャンルはなんだったかなんてことは、そのジャンルの意味と矛盾するような出来事が描かれでもしない限り意識されたりはしない。しかし、「おかえり」というたった一言の発話だけで、「この女性二人は付き合っているのでは」という推測の選択肢が現れるのは、本作が女性同士の恋愛を主題に扱っている、という読者の前了解によるのである。この推測は読者の主観的な想像ではなく、ジャンルという客観的な情報を知っていれば誰にでも可能となる。言い換えると、このときの読書経験は、ジャンルからの「演繹」であるといえるだろう。

 このように、百合というジャンルが指定されていると、上述のように人間関係を読み解くための手がかりになるのである。無論、ジャンルによって指し示される方向とは別の表現をすることで意外性を演出するということもありうる。14ページ以降の展開について言えば、沙弥香が二人は付き合っているのではと疑問を抱き問いただすも、別に付き合っていなかった、という展開になる可能性も考えられうる。しかし、ジャンルによる志向性も、ジャンルに背く意外性も、いずれにせよジャンルというベクトルが働くことによって読み取ることが可能となるのである。*1

 

まとめ 「ジャンル」の意義と、警鐘

 本稿では『やがて君になる』が「百合漫画」というジャンルにあたるということを、数々の情報から帰納的に証明していく作業を行なったうえで、「百合漫画」というジャンルが『やがて君になる』の読解作業に影響を及ぼしていることを確認した。「百合漫画」はジャンルとしては曖昧だという批判はあるが、少なくとも今回取り上げたシーンでは演繹するための原則として十分機能しているように思える。

 「百合を超える崇高な何か」という言説がなぜ生まれるのか、ということの分析は本論の範囲外だが、こうした言説が問題であることの理由は数多くあげられる。まず、百合を自らのアイデンティティとみなすファンや作者への中傷となるということ。次に、「百合を超える崇高な何か」とはおそらくは「ヒューマニズム」や「純文学」といった普遍的価値を有した「高等ジャンル」のことを指すのかもしれないが、それは「百合」というジャンルがもつ固有性を軽視し、抽象的な価値に貶めるものであるということ。

 そして本稿の議論によって、こうした言説に対しての批判をあらたに付け加えることができる。「百合漫画」というジャンルはわれわれの読書経験を導く道標なのである。それを作品紹介の時点で否定することは、新たな読者たちの読書経験の妨げになり甚だしく有害である、と。

*1: 本論で行なった『やがて君になる』第3巻の分析は、いわゆる「ジャンル批評」ではない。つまり、ある一つのジャンルに属する作品が、そのジャンルの形成発展に対してどのような寄与をしたか、ジャンルとして何が新しいのかをみる批評というわけではない。むしろ本論の分析は「読者反応批評」を念頭に置いている。読者反応批評とは、スタンリー・フィッシュとヴォルフガング・イーザーに代表される、「読む」という経験にあたって、テクストの作者やテクストそのものではなく、それを読む「読者」の読書行為を重視する文芸批評の分析手法である。テクストの内容はそれ自体が無時間的に与えられるのではなく、読者が1ページ、1行、1文字ずつ読んでいく過程を経ることで理解されていくものである。そのうえ、読者は作者と必ずしも共有されない時代や言語、考え方といったコンテクストを背負っている。読者反応批評はこうした「読者」という読書経験の1アクターの性質を重視して、テクストを読むにあたってどのようなことが生じているのか、ということを念頭において分析するのである。この方法によって明らかになるのは、「読む」という経験にあたって通常はまず意識されないような前提条件が何かということや、読むときどのような言葉の推測の作業を行なっているのか、という読解のアクチュアリティである。

 読者反応批評の方法論を(論者がドイツ語の授業でお世話になった)鍛治哲郎先生の言葉を借りてまとめると、以下のようになるだろう。まず、「高速度カメラを通して見るようにゆっくりと一語一語に注意を払いつつ読む。」そして「ある要素がなぜ取り上げられているかを尋ね、切り換え箇所や連結部分––そしてそこにあらわれる空白箇所や不確定箇所––に敏感に対応する。第二に、そのような要素や切り換え部分などに対して、多くの場合それと意識されずに発動される解釈戦略や規範などを掘り起こしてみる。第三に、テクストに編み込まれている作者を囲む時代と社会の慣習や知識・言説等にも意を用い、読者自らを構成するそれらとの違いを確認する。」(「「読み手」のあなたへ––読者反応論」, 丹治愛編, 『批評理論』, 2003,pp.38-39)

 本論においては、読者反応論の言葉を使うと、「おかえり」という発話行為の意味する一般的な慣習が、本作を条件づける「百合漫画」というジャンルと「結合」することで、当のシーンが注意を払うべきシーンとして「選択」され、「百合漫画」というジャンルの果たす機能が顕在化する、といえる。