技術への問い
この記事では、ハイデッガーの技術論について考えていきたいと思う。現代の原子力技術、ひいては今回の福島第一原発事故を語るうえで有力な概念であるように思えるからである。方針としては、ハイデッガーの技術論のエッセンスが詰められたテクスト「技術への問い」を解題しながら、中心概念「集-立(Ge-stell)」を検討していき、それが現代のわれわれの経験した原発事故を語るうえで有効であるかどうか、検討する。
背景
議論の中心となるテクスト『技術への問い』は、1953年の講演をもとに編纂された論考であるが、その年の前後でハイデッガーにとって技術は彼の存在論にとり重要なテーマであった。当然技術論の背景には大戦における原爆使用、原子力の平和利用の風潮、そしてハイデッガー自身のナチス関与も関係していると思われる。エルンスト・ユンガーの政治哲学を読んでいたこともあり、政治的な次元をも見せている。
技術のギリシャにおける定義
ドイツ語:Technik
ギリシャ語:τεχνικόν(テクニコン)…τέχνη(テクネー)に属するもの。
目的:技術との自由な関係
技術の道具的規定…正しい、しかし、必ずしも真ではない。(目前の事態に確かに則するが、事態の本質を必ずしも露呈しない)
問い
・道具的なものとは、それ自体なんであるか?
・手段と目的というようなものは、どこに属するのか?
四原因(質料因(銀)、形相因(皿)、目的因(供え物を捧げる儀式)、動力因(銀細工師))は責めを負うことの相互に属し合う四重のしかたである。
では四原因の統一はどこに由来するのか?
… Her-vor-bringen(ポイエーシス:こちらへと、前へと、もたらすこと;製作)
「〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉とは、伏蔵性(verborgenheit)からこちらへと、不伏蔵性のうちへと、前へともたらすのである。」 (SZ で語られる存在の開示との関連)
つまり、因果関係は現前していないものを現前させるはたらきに本質がある。
不伏蔵的なものに至るのは、開蔵(Entbergen)
bergen: を収容する、を救い出す;を所蔵している
開蔵(Entbergen)…アレーテイア=真理を生起すること
われわれはどこに迷い込んだのだろうか?
テクネーの二つの意味
・ポイエーシス。テクネーは手仕事だけでなく、芸術、詩の領域にも属する
・真理認識の形式。まだ手許にはないようなものをもたらす。したがってさまざまな結果にもなりうる。 (SZの議論とも関連)
普通技術とは目的のための手段と考えられているが、しかし四原因を考慮すると、目的のために手段として用いるだけではなく、ものの方から製作することを働きかける構造も存在する
p21「この開蔵は、あらかじめ船や家の形相と質料とを、完全に観取され仕上げられたものに向けて収集するのであり、そのものから製作のしかたを決めるのである。」 (道具的連関との関連)
技術は開蔵のひとつのしかたである。技術の本質が発揮されるのは、開蔵・不伏蔵の領域、すなわち真理が生起する領域である。
現代技術 p22
近代科学とむすびついた技術
現代技術はポイエーシスとして〈こちらへと-前へと-もたらす〉のではない。
Hervorbringenとしてその働きを展開することはなく、その開蔵は一種の挑発(Herausfordern)である。
自然に対して、エネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せと要求すること。自然に身を任せるあり方から、自然を挑発(つまり、開発)するあり方へと変化した。
土地は炭坑として現出する。農耕はいまや機械化された食品工業である。
ウランは破壊あるいは平和利用のために放出される原子エネルギーのために調達されるのである。
水力発電所がライン河に据えられている(gestellt sein)
据える→調達→稼働→作り出す(herstellen)→供給のため用立てる
このプロセスにライン河もなんらかの用立て(bestellen)られたものとして現出する。
建て(bauen) られる橋とちがい、河が発電所の用材として使わ(verbauen)れている。
用立て可能な物件(bestellbaures Objekt)
現代技術を支配する挑発による開蔵は、それ自身複雑な経過を経る。
用象(Bestand: 「在庫」の意味も)…対象とは異なる、用立てられたもののあり方(Stand)。用立てられるときはじめて技術は存立する。
旅客機のたとえ…旅客機は確かにひとつの対象であるが、そもそもそれが何であり、いかにあるかという点で伏蔵される。輸送のためにはこの機械自体の全体構造が、用立て可能になっていなければならない。つまり離陸可能になっていなければ。
挑発する調達を行うのは明らかに人間だが、「そのつど現実的なものが姿を現したり、あるいは退去したりする不伏蔵性という領域を、人間は意のままにすることはできない。」
「すでに人間のほうが自然エネルギーを開発するゆおに挑発されている場合にのみ、このような用立てする開蔵は起こりうる。」そのような場合には、人間もむしろ自然よりいっそう根源的に、用象に属するのではないか?
p31 物質や人間など現実的なものを人間が開蔵するように挑発する体制…Ge-stell
Ge-stell とは
Gestell:台、骨組み、棚、フレーム、骸骨;やせこけた人
Ge…集められる(例 Berg : 山 → Gebirge : 山脈 )
stell…立てる
訳語としては、集-立、総かり立て体制(政治的ニュアンス?)、徴発性、などがある。
がっちり組み合わさっているが、どこかガサツな感じで組合わさっているような背後の組み合わせ。外部からわれわれに働きかけるのではなく、密かにわれわれの内部に巣くっていて、逃れることができない。
自然科学の Ge-stell への寄与
自然科学の応用として技術があるのではなく、自然科学が自然それ自体を算定可能な諸力の関係として提示することにより用立てることで、Ge-stell を用意する。
「自然についての近代物理学理論は、先駆者であるとはいえ、まずもって技術の先駆者であるというのではなく、現代技術の本質の先駆者なのである。というのは、用立てる開蔵へと挑発しつつ収集することは、すでに物理学のうちにも存するからである。」
「現代技術の本質はGe-stellにもとづいている。だから、現代技術は精密な自然科学を利用せざるをえない。このことによって、現代技術とは自然科学を応用したものであるという虚偽の見かけが生じてくる。この見かけがもちこたえうるのは、近代科学の本質由来も、現代技術の本質さえも、十分徹底的に問われないあいだだけである。」
p37「Ge-stell そのものがそれ自体であるところのものを熟慮するなら、われわれは自分がどこにもたらされたと思うだろうか?」
人間の Ge-stell によって挑発されるあり方
「Ge-stell そのものがその本質を発揮している領域にわれわれはことさらに参入しているかどうか、参入しているならどのようにしてか」
技術の本質との関係にどのようにして達するべきかでなく、どのように参入しているかを問うべき
現代技術の本質は人間を開蔵するよう導くのだが、その開蔵は、現実的なものをすべて用象にしてしまうような開蔵。
開蔵、自由、命運
自由になるために大事なのはこの技術の命運に隷属することではなく、それを傾聴することなのだ。
救い p46
「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」
「技術の本質は、救う者の傾聴をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」
どのようにかというと、
技術の本質たる Ge-stell を熟慮すること。そうしないと技術の本質のなかの救うものを洞察できない。
Ge-stell は具体的な器具や用象にとっての一般的な概念を意味しない。
「人間の本質の尊厳は、あらゆる本質の不伏蔵性と、これとともにそのつどそれに先立ってあらゆる本質の伏蔵性を、この大地のうえで見守ることにある。」
「それゆえ、きわめて考えがたいことではあるが、技術においてその本質を発揮しつづけているものは、それ自体のうちに救うものが立ち現れうることを蔵しているのである。」
技術の原初的あり方=芸術的なあり方に立ち戻る
問題点・論点
・風車と原発の違いは?
—風車は風に頼るが、原発はウランを利用する
・果たしてこれらの議論から現代技術の問題に対する解決策を示すことができるのか?つまり、脱原発すべきか否か、なにか帰結は導けないものだろうか。
・本質主義的側面がどうしても避けられない。
批判点
加藤尚武:「(挑発は)昔日の風車にも言えないだろうか?いや、そうはいえない。たしかに風車の跳ねは風で周り、風の吹くのに直接身をゆだねている。しかし、風車は貯蔵するために気流のエネルギーを開発したりしない」。しかし、風車もヨーロッパにもたらされた当初は、なじみのない不気味なもの、まさに Ge-stell であった。
村田純一:ハイデッガーの想定する技術の時代とは、技術が完全な計算性、機能性でもって人間存在を支配する世界であって、今回のような技術の欠陥による現実の危機としての原発事故は想定にいれていないのでは。
「もし原子力の制御が成功しますならば、そしてそれは成功するでしょうが、その時、技術的世界の従来とは違ったまったく新しい発展が始まるでしょう。(GA16, 524)」
年表
45 終戦
46-51 教職追放
49 ブレーメン講演(虚無化。水素爆弾による絶滅可能性の根柢にある「戦慄に陥れるもの」)
53 講演「技術への問い」、アイゼンハワー演説
57 フライブルク講演
(53年の講演は、学術界への復帰を賭けという意味もあった)
参考
ジャン=リュック・ナンシー「技術とは諸々の操作的な手段の総体のことではなく、われわれの存在様態なのだ…。この様態は、われわれをこれまで未聞の合目的性の条件へとさらす。すなわち、あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段になるという条件である。ある意味では、目的も手段ももはやない。一般的等価性は、こうした両義的な意味をも有している。あらゆるものが相互に送り返されるなかで作動するのは、あらゆる構築物の破壊ばかりではなく、それとともに、集め合わせることなき堆積(assemblage)という意味で、私が集積(struction)と呼びたいものなのである。」
道具分析とは(SZ)
世界内存在としての現存在の内世界的存在者との関わりのあり方において現れる。
世界における日常的な交渉のあり方は、「仕事をしつつ、〈道具〉を使用しつつ、配慮すること」。このときの道具のあらわれ方を「手許存在(Zuhandensein)」という。この存在は「客体的存在(Vorhandensein)」とは異なり、単に現存在の手前に現前するのではなく、有用性のもとで現れる。ハンマーを使用するとき現存在はそれと意識すること無く釘を打ち付ける。さらに道具は「…のための(Um-zu)」という性格を現わし、目的を指示する。ハンマーは釘を打つための、釘は柱を固定するための、柱は家を成り立たせるための、家は住まうための…というような全体的指示連関の構造を示す。(倫理学 6, 17-26, 1988-00-00 筑波大学 を参考にまとめた)
参考文献
ハイデッガー, M : 関口浩訳「技術への問い」 (平凡社 2009)
「科学と技術への問い―ハイデッガー研究会第三論集」(理想社 2012)
SZ は [Sein und Zeit] の略
GA は Heidegger 全集[Gesamtausgabe] の略 (http://gesamtausgabe.wordpress.com)
ドキドキ!プリキュアの衣装について:プリキュア達とレジーナ
アニメ―ジュのプリキュア小特集にて、キャラデザの高橋氏のインタヴューが載っていた。レジーナの衣装は「コンセプト的には、ほぼプリキュアの衣装です」という発言があったので、少し気になった。レジーナは体裁上はキングジコチューの娘として、敵側に位置するはずなのに、やたらとマナと(いくらなんでも百合百合しすぎではと思えるくらいに)仲良くなったり、果ては一度は反抗してプリキュア側に寝返ったりする。現在進行形のストーリー展開でも、愛を失い父親のためにプリキュアに敵対しているにもかかわらず、キュアハートはレジーナを「救う」ことを目的の一つとする。単純な勧善懲悪の物語展開ではこんなことまずあり得ないわけで、敵は敵、見方は見方である。ダースベイダーのように寝返ることはあるだろうけれど、とらわれの姫君でもない敵の状態のままの相手を救済する物語なんてあまりお目にかかれない。大体デザイン的にも他のジコチューたちと全然違う(髪の色、耳の羽根、目の色、etc)し、多分伏線かなにかをすでにデザインの段階で仕込んでいるのだろう。ただ展開的だけじゃなくて、この物語の意味内実の解釈においてもレジーナのポジションは重要な要素となりえるのだが、ここではそれは置いといて、レジーナのキャラ造形がいかに「どっちつかず」かを見ていくことにしてみたい。レジーナは敵でも見方でもないのだ。このインタヴューからすると、それは衣装にも表れているのだと考えることもできる。そこで同誌に載っているキャラデザインを見てみて、レジーナとプリキュアたちとの共通点を調べてみることにしたい。まず他のプリキュアたちの衣装の共通する特徴を見てみよう。
①髪のロール。全員が変身後髪が伸び、ぜんまい型に毛先を巻いている。エースは若干分かりにくいが、変身前と比べて髪型が丸みを帯びているようなので同じ傾向とみなしてよかろう。ぷにぷに感やフワフワ感を出すためらしい。
②花弁のモティーフ。スカートや袖等に注目すると、合弁花のごとく身体のまわりをまとっているように見える。またハートのこめかみや腰のリボンは桜の花びらに見え、ハート、ソードのシュシュ、ダイヤのカチューシャも合弁花の形をしている。ロゼッタは具体的に花の形をしており(何の花かはよく分からない。ダリアが近いかもしれない)、エースは…ない?代わりに他の4人にはない蝶型があるけれど…
③ハート型。4人が左胸(心臓の位置)に、エースが胸中央と頭部のリボンにハートの飾りをあしらえている。キュアハートは勿論それだけでなく、手足にもそれぞれ飾りを、またリボンもよく見るとハートの意匠がある。イヤリングもそう。
④トランプ柄。名前の元ネタなんだから当然入ってるはずなのだが、意外と押しが少ない。キュアハートは前述の通りだが、エース除くほか三人はイヤリングと頭部にあしらえている程度。エースはイヤリングはよく分からず、例の化粧道具(ラブアイズパレット)入れるバッグにあしらえられているのが分かる。でもそれだけ。アニメだとトランプ柄やたら見かける気がするけど、多分ポージングのせいだ。
⑤リボン。全員ウェストあたりに大きなリボンがある。エースは後ろにまわし、また前述のとおり頭部にも蝶リボンがある。ロゼッタ・ソードは腕飾りにつけ、ロゼッタだけはブーツにもあしらえている。
⑥ヒール。ロゼッタ除いて総じて高めのヒールをしている。ロゼッタはバンクでも分かりやすいと思うが、若干低め。低身長に合わせたためか(そもそもヒールは全長高くするためにあるはずだけれど。)以前だとヒールは女性の身体的自由を拘束するとしてやたらとリブなんかでバッシングされていたけれど、現在はどうなんだろ。てか、あれで運動できんのかな…?
⑦チョーカー。分かりにくいけれどみんなこれつけてるのは意外だった。
⑧全体的に服に白色の要素がある。
…かなり長くなったが、概して8つの特徴が挙げられると思う。あとみんなかわいい。ではレジーナの衣装について見てみるとする。
概評としてはこんな感じ
①× ②◎ ③△ ④× ⑤◎ ⑥◎ ⑦◎ ⑧×
こうして見てみると案外高橋氏のいう通り共通点をかなり見て取ることができる。服は全面的に合弁花をあしらえているし、ヒールもチョーカーもある。リボンはいわずもがな。ハート型も飾りはないものの、リボンがしっかりかわいいハート型に結んである(一応そのへん意識しているようだ)。悪堕ちしてリボンの色が赤から紫になったのは、プシュケーが黒く染まるシーンをそのまま服装に表象しているように考えることができるだろう。
ないものを見ていこう。④がないのは当然だが、①⑧がないのは大きい。プリキュアたちは愛の象徴としてデザインからも抱擁感を感じさせる。レジーナにはそれがない。変身前のマナと似て若干髪が外はねだが、それは子供らしい外部への興味、または悪意か。そしてレジーナには白色の部分が存在しない。あるのは白と対照的な特徴的な黒。多分これがプリキュアと隔てる要因となっているのだろうか。
総じて見ると、一見異質などす黒いゴスロリ的デザインに見えて、実はプリキュアたちと相当共通点をもたせていることが分かる。基本的にプリキュアたちは変身によりヒールや飾り等、派手な要素を身につけるのであるが、レジーナにはそれが最初から備わっているのである(まあそのままの姿で戦うからというのもあるけれど)。相違点もハートが少ないとかトランプ柄がないとか些細なもので、髪もキャラの個性としては丸よりも現状のほうがふさわしい気もするし、必要要素に思える。こうして見てみるとレジーナは衣装的にも「悪堕ちしたプリキュア」の要素を存分にあしらえていることが分かる。それが何を展開的に意味するのかは、今後の展開に任せるとして、キャラクターのコードとしては、プリキュアの装飾をもち主人公に愛されながらも、敵将の娘というアイデンティティをひっさげて敵対するという、なんとも奇妙な構図を隠し持っていて、それがとても興味深いのである。
百合とは何か:恋愛ラボの事例より
恋愛ラボでとうとう男が登場しました。男女のリコとは対照的に女の子みたいで、しかも5年前に振られたナギと、性格悪いけどマキの前だと何故か天然ジゴロになってしまうヤンです。原作見てたときは「おっ、ついに男か、しかもフラグまで立ててる!」とニヤニヤしながら読んでいたのですが、一部の百合厨にとってはこの展開は処刑ものだったようで。単にラブコメ展開に入っただけなのに、なんで拒絶反応が起こるのかな、他のラブコメに対しては特に文句はないではないか、と思うのですが、恋愛ラボに関しては、以下の理由によりガチ百合であると誤解されていた節があるようです(随所で言われているようにタイトルからして気づけといいたいところですが)。
・男が最初から登場しない(原作では2巻から、アニメでは6話から登場)
・藤女の雰囲気が百合的(生徒がリコ、マキにラブ)
・制作会社(ゆるゆり作ってる)
もっとも個人的には男が登場するからといって恋愛ラボから百合的要素が喪失されるとは思っていません;それは極論です。今後の展開においても女同士の友情は依然ないがしろにされることはなく、むしろストーリーにおいても正直恋愛そのものより力点が置かれます。つまり、恋愛成就という目的を果たすために、友人の助けを借りたり、共同して何かするというパターンが多く見られます;それはまさしく、男のためでありながら男が存在しない、ホモ的(同性的)世界観といってもよいものです。また逆に、友情という目的のために一時的に男の方から助言なり箴言なりが来ることがあります;それも相当重要なファクターとして機能します。抽象的に考えると、物語的に目的と介在という2つのカテゴリーが存在するのですが、この2つは切り離すことができないものであり、それでいてそれぞれの領域において異性が混じり合うことはなく、ホモ的要素とヘテロ的要素がそれぞれ上手く機能する、という構造が時折見られます(もっとも、友人関係において同性の助言を受けることもあるし、この構造はあくまで全体の一部にすぎないのですが)
このように、ヘテロ的恋愛の展開においても、百合が失われることはない。この場合の百合とは、明らかに恋愛とは言えないものですが、それでいて単なる友情、馴れ合いをも超越します。友人の恋愛のために応援・奮起し、逆に助けられもする。男の介在を受けることにより益々同性同士の関係を深めたりする。我々がフィクションの中で追い求める、清清しい関係。これに名前をつけるしたら、馴れ合いのように軽いものでも、友情のように馴れ合いの一歩手前のようなものでもなく、「百合」以外に思い当たらない。
もちろんここで定義の撹乱みたいなものが起こっています:百合から恋愛要素が除去されてしまっている。でもこれって恋愛ラボに限ったことじゃあなく、他の作品にも当てはまることに思えるのですが、どうでしょう。