錬金術師の隠れ家

書評など。キーワード:フランス科学認識論、百合、鬼頭明里 https://twitter.com/phanomenologist

映画感想:『劇場版 響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(2016)

 8月29日に、新宿ピカデリーにて『劇場版 響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ』の特別特集上映があったので行ってきた。いうまでもなく、例の事件を踏まえた上映である。個人的には「そういえばまだ見てなかったな」という軽い気持ちで行ってきたのだが、果たして会場は重い空気に包まれていた。スタッフロールですすり泣く声が聴こえたりもした。
 映画自体はとても素晴らしく、アニメ1期の総集編ではあったものの、1つの作品として仕上がっており、こうした形式のため放映版では気がつかなかった新たな発見があったりした。もちろん、放映版でもよかったシーンも素晴らしかった。そして何と言っても「音響」である。吹奏楽を題材にしているだけあって、「音」を目当てに劇場に足を運んで見るだけの価値がある。これらを語ってみたいと思う。
 

画面が音を鳴らす

・冒頭が久美子の演奏するユーフォのベルの奥中から手前にパンするシーンから始まる。これの何が特徴的って、ベルの向きからして必然的に「斜めに」奏者を覗き込む視点へとフレーミングがシフトすることである。こうした画面構図はあまり見たことがないものだから新鮮だった。トランペットやトロンボーンだったら真正面に覗き込む構図になるからこうはいかないだろう。でも楽器がユーフォニアムなのだから当然ではないか、と思うかもしれないが、そもそも「ユーフォニアム」なんて地味な楽器が主役の音楽アニメはこの作品くらいしかないのだ。この作品は「ユーフォニアム」を主役にしてるからこそ「特別」なのだ、それを端的に効果的に見せる演出!満点の出だしだ。
 
・スカートの描写。入学式の朝、久美子が自室で冬服のスカートの裾を短くする描写が入るのだが、これはなかなか冒険的な描写に思えた。それというのも、青少年のキャラクターを「性的存在」として規定するからである。前者のモノローグで語られるのは性徴の話である。
 「高校に入ったら胸が大きくなるなんて噂、どうして信じちゃったんだろう。そんな事を思いつつ、わたしの高校生活は始まろうとしていた。」
 
原作だと男子の足を見る性的視線を内面化するという形で自らの性徴を語っていたのが、アニメでは他者の視線とは関係なく内省的な形で語られる。もちろん、「スカートが短い方が可愛い」というカジュアルな感覚でスカートを短くするという風にごまかすこともできただろうに、ここではあえて(原作より露骨ではないものの)性的存在としての己の自覚という形でスカートの裾を短くするのである。「足」は京都アニメーション(というより山田尚子)の作品において幾度となく象徴的に描かれてきた。
山田:「目は口ほどに物を言う」じゃないですけど、足もそうだろうと思ってました。足って普段は机の下に隠れちゃいますので人の本性が出ちゃうと思います。
 
「人間の本性」としての「足」が、「性的存在」としての「私」と結びつく、ここはそういうシーンである。
 なんでこの冒頭の「スカートを上げる」というどうでもいいような描写にこだわっているのかというと、終盤、同じく自室で冬服のスカートを着用するシーンが入るのだが、決定的な違いがある。その日は大会当日という公的舞台に立つ日であり、ハレの日であるが故に、久美子はスカートを下げるのである。公式の舞台に立つのでフォーマルにするのは当たり前のことだが、冬服に着替えるシーンが出てくるのはこの2シーンだけでありながらも、その「フォーマル」感を、序盤の描写と対比させる形で「スカートの裾を伸ばす」という描写で表現しているのである。足の見える面積が小さくなるのだから、ここでは性的存在としての自覚は語られない。そんなことよりも「大会本番」のことを考える方が大事だ。このアニメは登場人物をちゃんと性的な存在として描きはする。でも性とは逆立するような「大会の演奏に魂を込める存在」もちゃんと切り替えて描くよ。そうしたことを訴えかけてくるようだった。
 多分放映版でもこうした描写はあったかもしれないが、2時間以内に話を収める劇場版という媒体形式だからこそより対比として伝わってくるような印象があった。
 
・麗奈が再オーディションに臨むシーン。優子に頭を下げられた件もあったためか、普段は特別になりたいと願い強く振る舞う麗奈であったが、再オーディションを前にいつになく明らかに気がひけている。いつも眩い麗奈の顔が、今回に限って暗く曇る。あまつさえ顔が柱の影に隠れていて、とてもいつもの麗奈とは思えない。
 他方で、麗奈の思いを知った久美子の顔には、強い陽光が差し込んでいる。「特別になりたいんでしょう?」と久美子の方が、光差す側から麗奈を「特別」な方へさそいだす。あの日大吉山で受けた「愛の告白」を返されたことで、麗奈は再び眩い光を取り戻し、高らかな自信とともに決意の表情を見せる。

f:id:hiyamasovieko:20190901144150j:plain

(第10話 まっすぐトランペット より引用)
 
・久美子が滝先生から158小節目を吹くことを外される宣告をされるシーン、蝶が蜘蛛の巣に引っかかるカットがかかる。この描写は後の久美子が大会を辞退しようとするあすかを説得しようとして難儀するシーンでも見かけられる。久美子の悔しさや切実を昆虫の死で象徴するおぞましい描写。
 

音の風景

 本作品は画面だけでなく音に対するこだわりも非常に強い。気づいたことをあげてみよう。
・序盤の音楽。冒頭の地獄のオルフェを除けば、流れるのは北宇治の下手な演奏ばかりである。下手な演奏ばかり聴かされるせいで「大丈夫か?」という空気が漂う一方で、麗奈の上手い演奏が時折風のように通り抜けていく。川の淀みの中に一瞬砂金を見つけたかのような喜びといえようか。劇場版だとこの辺が徹底されていて、放映版だと滝先生が地獄のオルフェをスマホで流すシーンがあったのだが、劇場版ではそれがなくなっており、ひたすら北宇治の下手な演奏とそれに釘刺す麗奈の演奏ばかりになっているのがその証左となっている(これはこれで非常に技巧的なシーンなので放映版も見て欲しい)。こうした音の統制もあって、滝先生の鬼の指導の末仕上がった合奏は、本当に見違えるほど美しいものに感じられるのである。
 こうした駄演と名演のコントラストの中で一際目立つのが、麗奈の新世界第二楽章の演奏である。演奏も柔らかな音色で素晴らしいが、それを彩るのが柔らかな紫の夕焼けである。麗奈が演奏している場所は藤棚。本シリーズで象徴的な場面で幾度となく登場する舞台である。「紫」は日本ではかつて皇族しか使用できない高貴な色であるとされていた。去年大量に脱退者を出してしまうほどに堕落した北宇治高校吹奏楽部の淀んだ空気と対照的に、麗奈の演奏は誇り高く輝いていた。
 
・放映版でも思ったことだが、久美子と緑輝の最初の北宇治の演奏を聴いた時の反応が、楽器未経験者の生徒や葉月と明らかに違っているのが吹奏楽あるあるであった。ある程度経験を積んでみると、北宇治のあの演奏は音程バラバラ、テンポも合ってないとまるでダメな演奏であるということがはっきりとよく分かってくるのだけれど、初心者からしたらそうした違いは分からないものだから、楽器が鳴らせるだけでもすごいのである。このリアリティが吹奏楽経験者からしたら本当に「分かっている」と思えた。
 
・サンフェス本番のシーン。北宇治が立華などのトップ校の直後の出番になってしまったせいで部員たちがプレッシャーに押しつぶされそうになるなか、ここでなんと麗奈がまっすぐに音出しをする。控えにいるのだから普通音出しなんかしてはいけないはずである。空気の読まなさがまるで山岡士郎である。だがしかし、この空気の読まなさが緊張した空気を破壊して北宇治を良い方向に運んでいる。このまっすぐな音が、劇場で聴くと己に直に訴えかけてくるようでもあった。
 サンフェスの本番も、音だけでなく行進とステップによって我々の目を楽しませてくれる大変素晴らしいものだった。久美子の原作での台詞「楽しい!」が、台詞自体は聴こえないのに、「画面」から聴こえくるようだった。
 
・他にも、音響に対するこだわりが非常に強く感じられた。音楽室で優子が麗奈に詰め寄るシーンは、マットを敷いているため足音が鈍くなっている。オーディションのときの久美子の演奏に、タンギングやマウスピースに空気を吹き込んだときの音が紛れており、「奏者にしか聴こえない音」が聞こえてきて、画面だけでなく音においても久美子に一人称的にフォーカスしている感じが伝わってきた。
 

特別とは

 本作はとても素晴らしい内容であったが、このタイミングで見るとなるとどうしてもアクチュアリティと結びつけざるを得なくなってしまう。それを感じたのは麗奈の「特別になりたい」という言葉である。他人の空気に染まらず自分らしさを貫き、なりたい私を実現させようとする意志。それはまるで星のように輝いている。
 しかし他方で、歴史に名を残す凶悪殺人犯となることも、「特別」になることである。「特別」が「他の人と違うこと」であるとすれば、「何もない自分」から抜け出して「何かがある自分」になることが「特別」であるとすれば、この二つはどう違うのだろうか、という残酷な問いが訪れることになってしまった。
 これらを区別するには哲学者の助けを借りると良さそうである。ハイデッガーは世間の空気や雑談に耳を貸してばかりいて、自分らしさを持たない人間のことを das Man(世人)と呼び、こうならないためにはどうすれば良いのかを考えた。そして考え付いたのが、自分を「死せる存在」であることを自覚し、いずれ訪れるであろう死へと向かって自分の存在を投げかけることであった。
 他にも哲学者たちは「特別になる」方法を考えていったのだが、面白いことに、哲学者たちが提案する方法というのは実は「誰でもできる」方法なのである。「理想」を実現することは難しいことかもしれない。だがしかし、その出発点に立つことは誰でもできる。ただその出発点に立つことを恐れ何もしない人というのが大半ではないか。哲学は「勇気」とセットなのである。
 無論この「勇気」は「蛮勇」とは異なる。破れかけには「理想」がないからだ。
 こうして考えて見ると、麗奈の「特別」とは、最高の演奏をして、そして滝先生と結ばれるというような「理想」に向かって、一時は怯みつつも親友の声によって「勇気」を取り戻し歩つづける誇り高き意志であるようだ。
 もちろん「理想」も「勇気」も持てない人はいる。本シリーズでも自身に限界を感じて脱落する人間はいた。「特別」とは動機としては普遍的でありながらも、しかし実際実現するとなると極めて高いハードルであることは否めない。しかし他方で、自分のことを気にかけてくれる人もまた描かれるのが本シリーズでもある。生きる上で重要なのは特別になることというよりは、自分自身を肯定すること、それを許す友を見つけ出すことだ。本シリーズは「特別」をメインキーにしながらも、そうした人間関係の多様性を描いてもいるはずである。

石原孝二『「感情移入」と「自己移入」 : 現象学・解釈学における他者認識の理論 (2)(3) シェーラーの他者論 (前)(後)』

 
 
 我々はよく「あのキャラクターに感情移入して物語を読む」とか「このドラマは感情移入できなかった」という風に「感情移入」という言葉でもって偉ぶって作品を評価する。それはプロの評論家もよく使用する概念である。だが、その「感情移入」という概念を正しく理解しているのだろうか。かの人たちは単に「登場人物と同じ気持ちになれる」という程度の曖昧な理解で使っているだけではないだろうか。
 私はそもそも「感情移入」概念というものに懐疑的である。読み手が登場人物と同じ気持ちになることはそもそもありうるのだろうか?単なるこちら側の思い込みではないのか?そんな思い込みで正当な作品評価など出来るのだろうか?といった疑問がつきまとうからである。
 本論文はまさしくこの「感情移入」概念を批判的に検討する論文である。リップスやヘルダーといった感情移入美学の代表者たちの理論に対する、哲学者シェーラーの批判がいかなるものなのかを読み解くという論文である。
 

感情移入とは何か。

   まずリップスらによる感情移入概念の定義を見てみよう。感情移入説とは、他者の心理を私が理解するためには、単に他者の身体像を知覚するだけではなく、それに自己の過去の心理的過程を投射するという作業が必要であり、この作業=感情移入の存在を認めるという立場のことである。
   この説は、我々は物理現象を知覚するのと同じ仕方では他者の心理を知覚することはできないという含意もふくんでいる。現代の我々には奇妙に思えるかもしれないが、19世紀の哲学においてはこうした説は比較的すんなりと受け入られていた。それというのも、知覚対象である心理的対象と物理的対象、そして、それぞれを知覚する感覚器官は、デカルトにならい厳密に区別されるものと考えられていたからである。
 
   また、ヘルダーやリップスに代表される感情移入説の前提は以下の2点が挙げられる。
1 :心もしくは自我は、確実に与えられるものであり、それは外的かつ不確実に知覚される対象とは区別されるものである。
2 :外的に与えられる感覚のうちに自我が自己自身を投入し、自我が対象と融合することによって、美的な経験もしくは他者の認知が得られる。 逆に言えば、そうした融合を可能にするものが美的な対象もしくは他者の身体である。
 
   つまり、心というものが存在し、心とは区別される外的な事物もまた存在する、というのが第一の前提だ。第二の前提は、第一の前提のもとで、私の心が他者の心や作品の登場人物の心と融合することで、自然や作品に対する認識や感動が生まれる、ということである。
 
   この二つを否定することによって、 シェーラーは 感情移入説を批判した。現代でも通用している感情移入説を批判するという私の目的からすると、この石原論文で紹介されているシェーラーの感情移入説批判は大変に役立つものに思われる。それでいて、このシェーラーの説は現象学の成立に関わったりと大変意義深いものであるというのが石原の見解である。
 

フッサール

   前史として、フッサールによる内的知覚説の批判があげられる。フッサールの『論理学研究』で内的知覚の特権性は批判されるのだ。
   内的知覚と外的知覚との区別は何に由来するのか、そもそもそんな区別を立てなくても、あらゆるものは同一の能力によって知覚できるとすればいいのではないか、そういう疑問が生じるだろう。だがデカルトから20世紀初期までの哲学者たちのメインストリームはそうではなかった。内的知覚と外的知覚との違いは「明証性」にあると考えられていた。「我思うゆえに我あり」から分かるように、己の心理状態は確実に知覚されるものであるのに対して、我々は外的事物に対してはときに錯覚を抱くことがある。外界の知覚は常に不確実なのに対して私の思考は確実だ。そこに内的知覚と外的知覚の差異の基準があるのだ。
 感情移入説の背景には、こうした内的知覚と外的知覚の区別があったのだ。他者の心は私からすれば「外界」に属するものだが、しかし他者本人にとっては「内界」に属するものである以上、私の外的知覚によっては他者の心=内的知覚を捉えることはできない。ではどうすれば捉えられるのか?という問いたてに応えるために、感情移入説は生まれたのである。他者理解は、外界に属する他者の心に対して、私の心を投影する、という仕方で行われているとすれば上手く説明がつくとされたのである。
   しかし、自我の心理状態と「私」の考えとは必ずしも一致しない。我々が心の内外の区別を考えるとき、「内」の領域が必ずしもコギトと一致するわけではない、とフッサールは考えたのである。
   フッサールは明証性は心理現象の知覚と物理現象の知覚の区別の基準にはならないと考え、別の基準を用意した。それが「十全性」である。知覚が十全であるとは、一つの感覚が私の現実的な経験から逐一成り立っているという意味である。その対となる「非十全的な知覚」とは、現に与えられた内容を超えて対象に向かうことを指す。つまり経験には存在していない要素(神や自由などの形而上学的な事柄に限らず、経験したことのない虚構も含まれると思われる)を取り込んだ飛躍的な知覚を行うとき、それを「非十全的な知覚」というのだ。
 

錯誤と誤謬

   シェーラーによると誤った知覚というのは錯誤と誤謬に分けられるとする。路面が濡れているとき、それを水だとみなすのが錯誤(実際はガソリン)。濡れてる第一印象から「さっき雨が降った」と判断するのが誤謬(実際は誰かが水を撒いた)。つまり知覚が実際と異なるのが錯誤、知覚に基づく推論が実際と異なるのが誤謬だ。
 

シェーラーの意図

   シェーラーによる感情移入説批判の要点は以下の二点である。
1:内的知覚による心理対象は、感覚器官の違いが物理的現象との差異をもたらすわけではない。自己認識は心理的過程とも物理的過程とも読み取れる。
   つまり、他者の身体の視覚像が心理的な現象か物理的な現象かは、単に知覚の「仕方」に依存し、本質的には同一のものである。だから他者の心理的過程は、自己の心理の投影などを行わなくても直接知覚することができる
 
2:内的知覚が関わる体験流は、自己の心理的過程だけでなく、他者の心理的過程をも知覚対象とすることができること。
 つまり、私の内的知覚を作り出すものは私だけでなく他者でもある、ということだ。言い換えると、私の体験流が、自分自身の体験のみならず、すべての他者の経験をも包括するのだ。
 
 で、他者の心理を知覚するため自己の心理を他者に投げかける現象としての感情移入は、シェーラーによれば、単なる「錯誤」である。
 他者の心理を読み誤りうるのであれば、当然、自己の心理も読み誤りうる、ということになる。
 
 シェーラーの主張をまとめると、次の二つになるだろう。第一に,われわれは原理的に,他者の体験を(自己の心を投げかけるプロセスを経なくても)「直接」知覚することが可能である。第二に,原理的に可能な体験(自己だけでなく他者のも)の知覚の中でわれわれが「実際に」知覚することができるのは,われわれが「表現」することのできるものだけである
※表現することと知覚することは区別される。
・私が身体によって表現できるものに限り直接知覚することができる。
・表現形式に注目する。詩人は既存の言語の枠組みを超える新たな表現形式を生み出すことで、われわれが知覚しうる体験の範囲を広げる。
表現形式の共有によって自己と他者の間で体験の転移が起こり、「これは私の体験だ」という錯誤が起こる。
 

コメント

 シェーラーの感情移入説批判の第二点を敷衍すると、次のような考察が得られる。他者理解は結局知覚者の過去の経験に還元にしても、しかし、その経験が他者によって、あるいはこう言い換えてよいなら「社会」によって構成されているものであるとしたら、経験は個別性を失い、社会性、集合性を帯びるはずだ。ここから、一見したところ「個人的」なものである「経験」における社会的側面を発見することができるのではないか、とみることができる。
 例えば、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「経験」概念の理解を参照してみよう。ここでフーコーを持ち出すと、『言葉と物』を読んだことがある人は「え?」ってなるだろう。というのも、シェーラーはフーコーの論敵だからである。シェーラーは「人間とは何か」という問いに哲学の見地から答えるための学問として「哲学的人間学」を創設して19,20世紀のドイツでブームを起こしたのだが、フーコーによると(シェーラーに限ったことではないが)「人間学」という学問潮流は超越論的な基礎と具体的な経験が互いに基礎付け合うような不毛な関係を生み出しており、いずれ消え行く定めにあるもの、と断言しているのである。こういうわけで、シェーラーとフーコーは一見水と油の関係にあるのだが、こと「経験」という観点からいうと妙に似通ったものが見えてくるように思えるのである。
 シェーラーは他者の経験は心を読むプロセスを経なくても直接知覚することができ、それは私たちが表現することによって理解することができると考える。他者理解のための表現には当然、私たち自身のそれまでの経験の蓄積が必要となろう。ところで、この経験の蓄積は、一体どこからくるのだろうか?勿論その人自身の個人誌に由来するといえばそうなのだが、我々が社会的存在である、つまり、私個人を超えて高い一般性を備えた「社会」によって、身分や役割、さらにはセクシュアリティ、健常さ、生きる資格などなどを規定されている存在だとしたら、その経験は私自身だけでなく、社会によっても規定されているということになる。その社会による規定は、条件を満たしている全ての人に降りかかるのだから、それを受けた人たちは当然、全く同じ経験をした、ということができる。勿論人はそれぞれ違うのだけれど、しかし同質の経験をしたことのある人たちでグルーピングされる、ということはありうるのである。

ミシェル・フーコー『侵犯への序言』 DE No.13

 

 

   この論考は1963年にミシェル・フーコーが、1962年のジョルジュ・バタイユの死去に伴う「クリティック」誌のバタイユ特集に寄せたものである。この論考を最初読んだとき、何が書いてあるのかを理解できる人間はおそらく皆無に等しいだろう。フーコーバタイユの基本思想を知っておかないとついていけないだけに留まらず、この頃のフランスの思想家にありがちなことだが、どこが強調すべき論点なのかなかなか判然としないのである。
   私も最近になって再びこの論考に取り掛かってみたが、バタイユの思想がまだ理解できていないのもあってこの論考もやはり十分には理解できていない。しかし、どうせ分からないのであれば、キーワードを目印にある程度自分の方で筋を立てて、それに合わせて読解してみようと、人に言われたのを思い出した。その通りに美容院で理髪中に頭の中で再構成してみると、意外と言いたいことが分かってきたのである。以下は美容院で頭の中でまとめたことを文章にしたものである。


   バタイユの思想では神とセクシュアリテが対になり、神の神聖さが剥奪されているかのようにみえる。しかし、ニーチェ以後の言説においてそこで行われているのは、神への侵犯ではなく、不在の神への侵犯である。その「侵犯」には具体的な内容がなく(何せ「神」は死んだのだから)、したがって「侵犯」とは何かという形式的な問いが開かれることとなる。(それをフーコー自身の言葉で語るのが第2パートである。)
   現代における侵犯とは、その対となる「限界」の措定と破壊のいたちごっこであり、「限界」と共時的にしか行為しえないものである以上、それと共犯関係にあるといえる。なので「有限性」概念によって規定される現代において「侵犯」は必然的な概念なのである。この有限性はカントが形而上学と批判を接合したときに「人間学的な問い」として現れ、そしてヘーゲルなどによって弁証法の問いへと導かれていった。なので今日の不毛な限界と侵犯のいたちごっこを乗り越えるためには、それ以前の哲学の言語に立ち戻る必要がある。
   それをやってのけたのがバタイユである。バタイユは西洋哲学における「眼」の働きに注目する。眼はこれまで哲学的主体が認識を行う器官として特権化されてきたが、バタイユは眼球が眼球そのものの見られる働き、すなわち眼球の回転運動に着目し、その眼球を取り囲む肉の境界を直視し、侵犯する働きを見た。「バタイユの眼は言語と死とが帰属する空間を描き出す。そこで言語は自らの限界を超えることにおいてその存在をあらわにするのである。それが哲学の非弁証法的言語の形式なのだ。」18世紀末以来のヨーロッパの思考では人間は労働する動物であった。労働に伴う消費はただ欲求やそれを測る飢えによって一意的に定められてきた。それは人間学や生産の弁証法をも基礎づけた。しかし、サドがセクシュアリテを語り、ニーチェが神の死を語って以降、飢えを弁証法の言語で語るわけにはいかなくなった。セクシュアリテは言語に吸収され、言語自身による限界と侵犯のゲームの中におかれてしまった。このようにして、哲学は知(哲学とは別種のもの、多分科学のこと)や労働に対して二次的であるのみならず、言語に対しても二次的なものとして承認せざるを得なくなり、哲学的主体の至高性は失われてしまった。我々が有限性や存在を体験するには、言語を経由しなくてはならなくなった。この言語空間はそれまでの弁証法哲学にとっては絶望の暗闇だが、しかし非弁証法哲学にとっては希望の光となっている。

 

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

 

 



 

なぜ新条アカネは男子大学生たちにブチ切れたのかーーアニメキャラクターの「性」の尊重を目指す

 本稿では、2018年10月から放送中のテレビアニメ『SSSS.GRIDMAN』における敵ヒロイン新条アカネの行動の動機と、それに対する集合体としての視聴者の反応の間にある違和感について探ってみたい。

 

SSSS.GRIDMAN 第1巻 [Blu-ray]
 


 新条アカネの行動というのは、第4話にて、クラスメイトのなみことはっすに誘われて、かつて親友だった宝多六花と一緒に配信主の男子大学生たちと合コンに行ったときに起こった。グリッドマンのことについて何か知っていないか六花に探りを入れようとそばに座るも、男子大学生たちに声をかけられ邪魔をされる。それを払いのけてまた接近を試みるも、今度は身体を寄せられるスキンシップをされ、おまけにSNSアイコンの(ウルトラマンティガに登場した)レギュラン星人、あるいはダイナのヅウォーカ将軍(カラーリング的にこちらの方が濃厚であるので、以降はヅウォーカ将軍ということにしておこう)のアイコンをお馴染みのバルタン星人と勘違いされ、ついに逆上して帰ろうとする、というものである。その後、エレベーター内で「マジ最悪」と本心を吐露し、帰ったら即怪獣の人形を作成して謎の存在アレクシスに巨大化、生体化をしてもらい、怪獣を使って男子大学生たちを殺害しようとする。


 本作を見たことのない人からしたら、「なんて下らない理由で人を殺すんだ!」と驚愕することだろう。実際、アカネの行動動機は滅茶苦茶で、1話では主人公の響裕太にスペシャルサンドをあげようとしたときにクラスメイトの問川にボールを間違ってぶつけられた腹いせに、問川をほかのクラスメイトもろとも殺害してしまい、2話ではグリッドマンについて考え事をしていたときに歩きスマホをしてぶつかって謝らなかった担任を殺害しようとする。些細なストレスを動機に平然と人を殺す彼女の幼稚さや狂気は、我々に一種の恐怖やカタルシスを覚えさせるだろう。だが、4話での行動の動機には、(グリッドマン本人を直接ターゲットとした3話は例外として)1話や2話のとはどこか異質なところがあるような気がするのである。いや、むしろ1話や2話とある程度共通するも、妙に生々しい感覚が存在しているのである。このことは、ツイッター上の視聴者たちの反応と対照的な印象があった。

 

3種類の動機

 まず、殺害の原因となった出来事が少し分かりにくい。今回の動機は①会話を邪魔される②身体的スキンシップをとられる③アイコンをバルタン星人と間違えられる、と複合的な要因によって成り立っており、どれが決定的要因なのか判別しづらいのである。そして、どの理由をとってみてもアカネを怒らせるのに十分なように思われる。①②③のそれぞれの動機を詳しく検討してみよう。


 ①は、1話や2話の動機を参照してみると分かりやすい。アカネが響にサンドをあげる行動や、グリッドマンについての思弁、そして六花への探り入れと、ことごとくアカネ自身の行動が他人によって邪魔されたことが殺害の動機となっている。そう考えてみると、先に「例外」と位置づけた3話でのグリッドマンへの直接攻撃も、これらと同じ「自分の行動を邪魔されたこと」という動機によるものとみなすことができるだろう。


 ②は後回しにして、③を考察してみよう。オタクの人々にとってこれはとても分かりやすかったのではないだろうか。自分の趣味をにわかによって有名な別物と勘違いされるのはいい気分にはならない。どうみても違うのにヅウォーカ将軍をバルタン星人に間違えられるのはオタクとしての誇りが傷つく、そんな奴らぶっ殺してしまえ、そんな「共感」を覚えた人は多いようだ。


 しかし、見逃してはならないのは②である。アカネは男子大学生たちに何の興味もないのである。ただ、グリッドマンのことについて六花に探りを入れる目的で会合に参加し、六花が参加するのに任せていただけである。それにもかかわらず、男子大学生たちに執拗に言い寄られるのはとてもいい気分ではなかろう。


 念のため、男子大学生たちの名誉のために断っておくと、彼らはアカネと六花の思惑など知らないのであり、なみこやはっすと同じく自分たちに興味があるものと思い込んでいるのである。実際に会いに来ているのだし勘違いして肩を寄せる程度のスキンシップをとっても、特に責められるようなことではなかろうとも思われる。


 だがしかし、肩を寄せられたときのアカネの反応をちゃんとみて欲しい。ギョッとするように目を開いているのがわかるが、このときのアカネの像は魚眼レンズで撮ったかのような歪んだ映し方がされているのが分かる。

f:id:hiyamasovieko:20181031025306j:image

f:id:hiyamasovieko:20181031025311j:image

(上:4話   下:2話)

 この演出は、2話の担任にぶつけられたときと同じである。つまり、2話のシーンと同様に魚眼レンズによって彼女の歪んだ内面が映し出されるここのシーンの出来事が殺害の動機として決定打となった、とも読み取れるのである。考えてみると、「異性との不本意接触」という点でも2話と共通していたりする。新条アカネは、軽度とはいえ他者による身体領域の侵犯が殺人へと結びついてしまう、繊細な感性の持ち主だとも言えるのである。


 以上①から③を整理してみると、


①行為の侵害
②身体の侵害
③自尊心の侵害


となるだろう。そして、①と②はそれ以前の回でも確認することができる。これらが複合して、今回の怪獣イベントの原因となった、ということができる。


 そして、この中でも②が、殺害の決定的な動機となったことは魚眼レンズの演出や直後の不快な表情から強く推測される。2話でも接触はあったとはいえ、今回しつこくスキンシップを迫られたことはアカネには相当苦痛だったのだろう*1


視聴者の反応

 で、興味を抱いたのはこのシーンだけでなく、このシーンをみた視聴者の反応である。ツイッターでは主に、②身体の侵害ではなく、③自尊心の侵害が決定的要因として解釈される、という事態が起こったのである。アイコンの画像と一緒に『刃牙』の「オイオイオイ 死ぬわアイツ」で有名な1コマが貼られたり、#アカネちゃんも怪獣をけしかける一言  というハッシュタグが作成されかなりの数の投稿が認められることからもその様子は窺える。


 こう解釈された理由は、そのあまりの分かりやすさにあるだろう。先ほども述べたように、非オタクから自分のオタク趣味を適当な知見で語られるということはいい気分にならない。こうした「オタクあるある」が共感を呼び、ネット上でもネタとなっていったように思える。当然、アカネの怪獣をけしかける動機としても解釈されている。


 それに、「オタクの自尊心を蹂躙したリア充が怪獣に殺される」という展開には、内心スッキリした気分になったオタクも多いことだろう。怪獣というフィクションの醍醐味は「破壊」にある。怪獣によって変わり映えしない日常の街並みが破壊されたり、気に食わない人間が殺されたりする展開は、勿論不快に思う人もいるだろうが、一部の人々には強い快感をもたらす。現実世界で受けている抑圧が、フィクションのなかで破壊衝動として発散されるからである。オタクの受ける理不尽な仕打ちに対して、同じオタクのアカネちゃんが仕返ししてくれたのだ!というダークヒロイズムを感じ取った人も多かったことだろう。


 だが一方、アカネが怪獣をけしかけた動機の一部としての①行動の侵害や②身体の侵害に対する考察はあまり見られない。アカネの本来の目的を邪魔されているのだし、2話と共通する演出をみても肩を寄せてきた時点で決定的にブチ切れていることが分かる。しかし、話の流れや印象的な演出が絡んでくるにもかかわらず、探りを邪魔され、身体に触れられたアカネの心情に言及するのはほとんど見かけられなかった。これは一体どういうことなのだろうか。


 一つには、単に①と②が地味にみえるということだろう。会話を邪魔されたことに対するアカネの反応はわかりにくいし、接触されたシーンはほんの一瞬だけしか描かれない。それよりは、アイコンのシーンと、直後の顔を隠し不快感に襲われながら小声で「マジなんなのこのおっさん」と囁くシーンの方が、尺が多くとられている。ちょうどアイコンにまつわる大学生たちの会話と不快感を呈するシーンが重なるため、アイコンのシーンと動機づけのシーンに因果関係がこちらの認識において見いだされ、先にあった出来事は案外意識されないのかもしれない。


 そして、もう一つ決定的な要因はおそらくわれわれ視聴者の認識のうちにありそうだ。すなわち、自身のテリトリーに他者が侵入してくることへのアカネの嫌悪感を、われわれが全く理解しようとしなかったからなのではないだろうか。視聴者の多くがオタクとしての自尊心に強い共感を寄せている割には、彼らからは「興味のない異性から身体的にスキンシップを図られることは、不快なことである」という視点があまりに抜け落ちているような気がするのである。


 これは「性に対する感覚の無共有」とでも言い換えられるだろう。本回は予告の段階で、六花とアカネが男子大学生たちと遊びに行くという、いかにもなエロ同人誌の導入パターンを想像させる内容だったので、やらしい妄想を逞しくしたり、また(作中の響のように)危惧を覚えたりする人が多かった。実際に放映されてみても、学校内で出会い系SNSへの注意やエイズ検査のポスターが張り出されていたあたり、本回は性的な事象にまとわりつかれていることは明らかである。端的にいうと本回は「性」が主題の回である。だがそれにもかかわらず、多くの視聴者が性的事柄を想像する一方で、実際に彼女たちが感じた「言い寄られて迷惑だ」とか「身体に触れられて甚だしく不快だ」という感覚に注意が寄せられることはまるでなかった。彼女たちの性への興味はあるのに、彼女たちの性への理解がないのである。 誤解を承知で言えば、男性オタクの性的視線では女性キャラクターの性的実感を本当の意味で理解することができないのである*2。これでは、アカネに怪獣をけしかけられる男子大学生たちと同じである。


 生理的嫌悪感ではなくてアイコンを間違われたことの方が決定的要因なのでは、という解釈もありうるだろう。だが、一人エレベーターのなかで「マジ最悪」と吐露されるセリフからは、プライドだけでなく生理的嫌悪感もにじみ出ているようだった*3。キャラクターに寄り添って理解することがファンの役目なのだとすれば、彼女の目的意識や生理感覚にも目を向け、尊重してやらなくてはならないのではないだろうか。 


個人的反省

 このように、集合体としてのオタクには、アニメの中で起こった出来事を性に関してバイアスがかって見ることが確認された。ところでこれは、私事ではあるが、まさしく私自身がおかした過ちでもある。私自身、バルタン星人に引き摺られてアカネのプライバシー感覚を理解できてやれなかった人間の一人である。


 本件について私が強く反省を覚えるのは、10年ほど前に同じようなシーンを見たことがあったからである。漫画『鋼の錬金術師』の17巻に収録されている68話にて、オリヴィエ・ミラ・アームストロング少将が敵のレイヴン中将に探りを入れるシーンがある。そこで、少将が突如「ぶった斬って しまいたい!!!!」と内心怒りを露わにするのである。最初読んだとき、私にはなぜ少将がキレているのか分からなかった。だが、69話のホステスによる助平で傲慢だというレイヴン中将の悪評を聞いて、当のシーンの意味を理解した。中将に手を握られたことにキレていたのである。上の立場を利用して異性の手を握ってくるのはセクハラ以外の何物でもないのだが、それを一目で理解できなかったことに私は一度反省を覚えたのだった。


 今回もまた、女性キャラクターの生理的な嫌悪感を理解することができなかった自分の読解の未熟さを覚えている。作品やキャラクターに接近するためには、単に共感したり、読みたいように読んだりするだけでは不十分で、自分とは異なる存在が感じ取る不快感をも理解する必要もあるということである。

 

 

 



*1:付記その1:見逃していたのだが、今回生み出された怪獣の攻撃の仕方も関係があるのでは、という指摘が数多くあった。触手で相手を搦めとる攻撃を行うというのは、そのままアカネが身体を触られたことの不快感や復讐心を表している、というものである。重要な着眼点だが、あとで気付いたことなので注釈として触れておくことにする。

*2:付記その2:何の因果か、本稿をあげる2時間ほど前に、にゃるら氏によって同じく4話の新条アカネについて書かれた記事が上がっていた( http://nyalra.hatenablog.com/entry/2018/10/30/232338 )。そこで取り上げられている内容は、まさに本稿でとりあげた③に関係する事柄で、オタクは新条アカネのことを分かってあげられる、という身勝手な思いを抱いてしまう、というものだった。もちろんアカネが感じ取った身体接触の不快感についての言及はないのだが、本稿で語っていることとは表と裏の関係にあるのだろう。「こんなに、こんなにも「ここに自分が居たら彼女を喜ばせることができたのに」とオタクの身勝手な妄想を、自分でも、いやオタクな自分だからこそ相手してもらえると勝手に思い込んでしまうヒロインが居ていいのか。」

*3:付記その3:先に付記その1で挙げた触手による怪獣の攻撃も、身体へのしつこい「絡み」を怒りの源であるとする解釈を傍証するであろう。

なぜ『やがて君になる』は「百合漫画」に分類されるのか? その証明と意義の考察

 本論で一番主張したいのは第3節「「百合」から「演繹」する」のところです。時間がなければそこだけ読むことをお勧めします。

 

 今から仲谷鳰の漫画『やがて君になる』が、なぜ「百合漫画」に分類されるのかについて考えてみたい。

 一見奇妙な問いにみえるだろう。書店の百合漫画コーナーでこの漫画を手に取り、実際に主人公と先輩の同性間の恋愛が主題として描かれているのを読んだわれわれは「当たり前ではないのか?」「そんなこと問う必要がどこにあるのか?」と思うだろう。だがこれを百合漫画だと思って読まない人がいるのである。一度この漫画を取り上げた書店員による宣伝が炎上したことがあった。「この作品は本格的な百合漫画でありながら、その範疇に収まりきらない魅力で溢れ返っている。」と評したからである。当人にとっては褒めてるつもりだったのかもしれないが、百合に己の実存を賭け、このジャンルの繁栄を願っている作り手たちや読者たちからしたらたまったものではない。この人は百合を舐めている、なぜ異性愛には言わないことを百合に限っては言うのか、そういう反応が相次いだ。

https://kindou.info/75261.html

 これは20161111日に書かれた記事で、炎上したため謝罪が追記された。ほぼ2年前の出来事である。ところが、2018年の10月にアニメ化されることで本作を持ち上げる記事が数多く書かれるにあたって、これとそっくりな言説がまた生産されてしまった。

https://web.smartnews.com/articles/fcA9985fxYy

 この記事に至っては、「仲谷氏本人としても「百合漫画」を描こうとしているつもりはなく、「恋愛」を全面に押し出した作品を描いているつもりだと公言しているらしい。」という誤った情報を垂れ流している時点で、論じる意味すらないデマゴギーといえるのかもしれない。一応、先に挙げた記事とは、百合というジャンルの存在を軽視して、いわゆる「百合を超えた普遍的で尊い何か」という枠組みで語ろうとしている点で共通している。

 もっとも、実際不用意極まりない発言であったという点では同意するが、他方で「普遍性」の観点からこの作品を見ることはまあ不可能ではない、という印象も抱いた。直接の言及はなく断定はできないが、主人公の小糸侑は第1巻では異性愛者どころか同性愛でもない「アセクシュアル」らしき存在、もしくはそれに類する存在として描かれる。この点が味噌で、「誰も好きにならない」という主人公の気質に対して七海燈子は目をつける。とある理由から自己に対する愛情を遠ざけてしまうようになった燈子は、「誰も好きにならない」という侑ならば恋愛関係になってもそこまで自分の内面に入り込んでくれないだろうと思い、交際を持ちかける、というのが本作のあらすじである。この関係には別に百合というジャンルの核である「同性間の恋愛関係」は必ずしも必要とされない。一方が人に強い感情を抱くことがなく、他方が自分を愛さない人を欲するという構図があれば、どんな性別を当てはめてもよいような気もする。

 しかしそれによってこの漫画は「百合漫画を超えた何か」と言って良いのだろうか。作者やファンが喜んで受け入れているところの「百合漫画」というジャンルを否定してよいのだろうか。ジャンルを否定したら何かまずいことにならないだろうか。それが本稿で掲げる疑問である。

 結論からいうと、『やがて君になる』という漫画が分類される「百合漫画」というジャンルは、本作の読書経験に必要である。したがって「百合漫画」というジャンルは軽視するわけにはいかない。それを本作のあるシーンを取り上げて証明していくことになる。

 

「百合漫画」とは?

 まず、漫画のなかでもそもそも「百合漫画」とはどういうジャンルなのか?それを確認しておこう。第一に思い当たるのは「女性同士の恋愛を主に描くジャンル」という定義だろう。だが、恋愛に至る以前の片思いで終わることや、失恋を描くこともあるし、恋愛を意味しない性欲を描くこともある。あるいは、(激しく非難されることが多いものの)物語の一過程として男性との交際を描く場合もある。はては、恋愛として表現されているわけではない、もしくは明示されていないが、同性同士の強い絆、「引力」が描かれた作品も「百合漫画」としてカテゴライズされることもある。この手の作品に至っては、もはやジャンルによる規定を超えて、読者の構想力による働きかけがあって初めて「百合」であると認識される。こうした混沌のせいで、コミケのジャンルコードとして「百合・ GL」が未だに成立していないといえるのかもしれない。こうした事情もあってか、「百合」というジャンルは恣意的な使用をされることが多く、「百合作品」であることをキャッチコピーで謳いながら、読者の期待とは程遠いヘテロエンドを描くような作品が現れてはしばし批判されてきた。

 このように「百合漫画」を定義するのは大変難しく、歴史的背景の分析や認識論的考察をも伴うがために、それをきちんと考察するには本を一冊書く必要が生じるであろう。筆者にはそんな余裕はないので、「百合漫画」のジャンルがもつ難しさを考慮しつつ、ある程度便宜を図って狭義の定義を採用することにする。以下の2点がその核となるだろう。

① メディア面:「百合漫画である」と、実際にそう宣伝されている。

② 漫画表現面:女性同士の恋愛に関係する表現が描かれる。

 

「百合」を「帰納」する

 それでは、『やがて君になる』が「百合漫画」に分類されることを確認しておこう。まずは形式面。第1巻のあとがきを見るに、作者や編集担当者が本作を「百合漫画」として分類していることは明白である。また電撃コミックスの折り込みチラシでの宣伝文句は「今もっとも切ないガールズラブストーリー」である。公式で無料購読ができる ComicWalker のサイトをみると、「百合」がタグ付けされている。また「百合展」への展示に参加したり、書店の「百合漫画」コーナーで平積みされていたりと、『やがて君になる』が「百合漫画」として積極的に宣伝され、また受け手もそれに反発していないことは十分確認される。

 では、内容面はどうか?先ほども述べたように、メインカップルの侑と燈子の関係は一筋縄ではいかない。侑は恋愛感情を知らず、燈子はそんな彼女の性質に依存して、自分のことを好きにならないことを絶対の条件とした交際を申し出ている。いや、それどころか「付き合ってなんて言わないから」(第1巻, 105ページ)と、自分たちの関係を「付き合っている」とみなしていないがために、この関係に名前をつけることはなかなか難しい。だが、性的指向が女性から女性に向かうものではない、という要素があるからといって、「百合漫画」ではないとするのはいささか短絡的すぎる。それに、関係の内実はどうであれ、女性同士が交際している、という関係の「見かけ」は誰も否定できない。本作の人間関係の普遍的様式を読み取ろうとする読解は別に否定はしないが、本作の要となる人間関係の具体的様式を離れた読解は地に足がついていないと言わざるをえない。

 それに、メインどころではないのだが、本作では女性同士の交際や恋愛感情が、侑や燈子のそれとは全く違う、この二人と比べれば全然歪でない形で描かれているのである。第3巻で侑の国語教師の箱崎理子と喫茶店の店長の都が交際し同棲しているところが描かれる。それに、燈子の右腕の佐伯沙弥香が、実は中学時代に女の先輩と交際しており、現在も橙子に片思いしていることが判明する。他にも、第2巻には小ネタとして橙子が百合小説を購入するシーンがある。こうしたシーンをみるだけでも、『やがて君になる』は「百合漫画」というジャンルに属するという確信が強められる。

 以上、『やがて君になる』が「百合漫画」というジャンルに属することに対して帰納的に証明を図ってきた。ところで、実は本論で本当に論じたいのはこの、理子と都の交際が発覚するシーンの描き方である。

 

「百合」から「演繹」する

 第3巻での国語教師と喫茶店店長の関係の描かれ方をみていこう。燈子と侑、沙弥香、叶が喫茶店を訪れる場面の14ページ目、店に入ってきた理子に対して、ヒキのコマで店長が何食わぬ顔で「おかえり」と挨拶をしている。15ページでは沙弥香が「先生店長さんとお知り合いなんですか?さっきおかえりって」と問いかけ、それに対して理子は見るからに下手な誤魔化しをする。16ページの最後では沙弥香が意味深げに二人に視線を向ける二コマが挿入される。ページが進んで、24ページでこの二人が同居してることが発覚、26ページではキスをし、この二人が交際し、同棲していることが確定する。コマの運び方が見事で、理子と都が同棲しているという事実に至る導入部として実にうまく機能しているシークエンスである。

f:id:hiyamasovieko:20180907011701j:imagef:id:hiyamasovieko:20180907011707j:image

f:id:hiyamasovieko:20180907011713j:image

 

 しかし、実を言うと、国語教師と店長が付き合っているのではないかという推測は、シークエンス全体を見渡さなくても、箱崎と店長が顔を合わせるシーンが初めて導入される14ページの最初の一コマを見た時点で既に成り立っているのである。

 まず、日常的に「おかえり」が言える間柄なんてものは、共に暮らす家族か恋人、同居人くらいのものである、というのは一般的な慣習として確認されるだろう。もちろん、このたった1コマだけを二人が付き合っていることの推測の根拠とするのには若干不十分である。女性が女性に対して「おかえり」と言っているシチュエーションだけ拾えば、恋人以外の関係も考慮されるからだ。いわんや、異性愛中心の恋愛漫画にどっぷり浸かって百合モノを読まないような人であれば、このシチュエーションが与えられただけで、この女性同士が付き合っている可能性に思い当たることはないだろう。

 それでは、この時点でこの二人が恋人関係にあることを強く推測させる根拠は一体どこにあるのだろうか?

 それはまさしく、本作が「百合漫画」としてカテゴライズされている、という事実にある。「女性同士の恋愛関係が主題に描かれている」という情報を事前に把握していれば、主人公カップル以外にも女性の同性愛カップルが登場する可能性はあるだろう、という事前了解が可能となるのである。それゆえ、14ページの女性が女性に「おかえり」と挨拶しているシーンがたった一コマだけでも描かれていると、この二者がともに暮らしているという推測が成り立つだけでなく、「百合漫画なのだし、この二人は付き合ってるのでは?」という推測が可能となる。もちろんこのコマの時点では確証できないが、同性同士で付き合っているという推測の選択肢がそもそも候補にすら上がらないような作品群と比較すると、たった1コマを与えられただけでこうした推測が可能となるところに、「百合漫画」というジャンルの強い特徴があるように思える。

 この推測は正しいはずだ、という確信は15,6ページでますます強くなる。単に同居しているだけなら一緒に住んでいることを誤魔化す必要はないはずであり、「それができないのは、生徒たちにはあまり話したくないプライベートな事案があるのではないか?」という推測が新たに与えられる。そうした推測は、沙弥香が二人に眼差しを向けるコマが描かれることでさらに強化される。沙弥香も不審に思っているのだし、先生の発言はやはりどこかおかしい。やはり二人は付き合っているのではないか、と、沙弥香と読者の思考が共有されることとなる。ただし、沙弥香と読者とでこの出来事を見つめるうえで異なる点がある。沙弥香は本作が「百合漫画」に分類されていることを知らないが、対して我々はそれを知っている。それゆえ、14ページの1コマ目をの出来事を見た限りは沙弥香は「おや?」と思うだけで、いきなり理子と都が付き合っているのではないかと考えが飛躍することはないだろう。対してわれわれは、14ページのアケの部分からすでに、「この二人は付き合っているのではないか?」という疑問が確信に変わり、やがて事実として確定していくプロセスを楽しむことができる。もっとも、この時点で読者は沙弥香が経験則によって、この二人が「具体的な関係」にあるのではという疑問を抱いたのだということを知らないのであるが。

 ただ、このような読みは経験としては成立しているものの、つねに意識化されているわけではない。本作が百合漫画にカテゴライズされているのは読者は自明のものとして読んでいるのだし、本作のジャンルはなんだったかなんてことは、そのジャンルの意味と矛盾するような出来事が描かれでもしない限り意識されたりはしない。しかし、「おかえり」というたった一言の発話だけで、「この女性二人は付き合っているのでは」という推測の選択肢が現れるのは、本作が女性同士の恋愛を主題に扱っている、という読者の前了解によるのである。この推測は読者の主観的な想像ではなく、ジャンルという客観的な情報を知っていれば誰にでも可能となる。言い換えると、このときの読書経験は、ジャンルからの「演繹」であるといえるだろう。

 このように、百合というジャンルが指定されていると、上述のように人間関係を読み解くための手がかりになるのである。無論、ジャンルによって指し示される方向とは別の表現をすることで意外性を演出するということもありうる。14ページ以降の展開について言えば、沙弥香が二人は付き合っているのではと疑問を抱き問いただすも、別に付き合っていなかった、という展開になる可能性も考えられうる。しかし、ジャンルによる志向性も、ジャンルに背く意外性も、いずれにせよジャンルというベクトルが働くことによって読み取ることが可能となるのである。*1

 

まとめ 「ジャンル」の意義と、警鐘

 本稿では『やがて君になる』が「百合漫画」というジャンルにあたるということを、数々の情報から帰納的に証明していく作業を行なったうえで、「百合漫画」というジャンルが『やがて君になる』の読解作業に影響を及ぼしていることを確認した。「百合漫画」はジャンルとしては曖昧だという批判はあるが、少なくとも今回取り上げたシーンでは演繹するための原則として十分機能しているように思える。

 「百合を超える崇高な何か」という言説がなぜ生まれるのか、ということの分析は本論の範囲外だが、こうした言説が問題であることの理由は数多くあげられる。まず、百合を自らのアイデンティティとみなすファンや作者への中傷となるということ。次に、「百合を超える崇高な何か」とはおそらくは「ヒューマニズム」や「純文学」といった普遍的価値を有した「高等ジャンル」のことを指すのかもしれないが、それは「百合」というジャンルがもつ固有性を軽視し、抽象的な価値に貶めるものであるということ。

 そして本稿の議論によって、こうした言説に対しての批判をあらたに付け加えることができる。「百合漫画」というジャンルはわれわれの読書経験を導く道標なのである。それを作品紹介の時点で否定することは、新たな読者たちの読書経験の妨げになり甚だしく有害である、と。

*1: 本論で行なった『やがて君になる』第3巻の分析は、いわゆる「ジャンル批評」ではない。つまり、ある一つのジャンルに属する作品が、そのジャンルの形成発展に対してどのような寄与をしたか、ジャンルとして何が新しいのかをみる批評というわけではない。むしろ本論の分析は「読者反応批評」を念頭に置いている。読者反応批評とは、スタンリー・フィッシュとヴォルフガング・イーザーに代表される、「読む」という経験にあたって、テクストの作者やテクストそのものではなく、それを読む「読者」の読書行為を重視する文芸批評の分析手法である。テクストの内容はそれ自体が無時間的に与えられるのではなく、読者が1ページ、1行、1文字ずつ読んでいく過程を経ることで理解されていくものである。そのうえ、読者は作者と必ずしも共有されない時代や言語、考え方といったコンテクストを背負っている。読者反応批評はこうした「読者」という読書経験の1アクターの性質を重視して、テクストを読むにあたってどのようなことが生じているのか、ということを念頭において分析するのである。この方法によって明らかになるのは、「読む」という経験にあたって通常はまず意識されないような前提条件が何かということや、読むときどのような言葉の推測の作業を行なっているのか、という読解のアクチュアリティである。

 読者反応批評の方法論を(論者がドイツ語の授業でお世話になった)鍛治哲郎先生の言葉を借りてまとめると、以下のようになるだろう。まず、「高速度カメラを通して見るようにゆっくりと一語一語に注意を払いつつ読む。」そして「ある要素がなぜ取り上げられているかを尋ね、切り換え箇所や連結部分––そしてそこにあらわれる空白箇所や不確定箇所––に敏感に対応する。第二に、そのような要素や切り換え部分などに対して、多くの場合それと意識されずに発動される解釈戦略や規範などを掘り起こしてみる。第三に、テクストに編み込まれている作者を囲む時代と社会の慣習や知識・言説等にも意を用い、読者自らを構成するそれらとの違いを確認する。」(「「読み手」のあなたへ––読者反応論」, 丹治愛編, 『批評理論』, 2003,pp.38-39)

 本論においては、読者反応論の言葉を使うと、「おかえり」という発話行為の意味する一般的な慣習が、本作を条件づける「百合漫画」というジャンルと「結合」することで、当のシーンが注意を払うべきシーンとして「選択」され、「百合漫画」というジャンルの果たす機能が顕在化する、といえる。

映画感想:劇場版ポケットモンスター キミにきめた!(2017)

 劇場版『ポケットモンスター キミにきめた!』は、それまでの劇場版ポケットモンスターシリーズのイメージを一新しようとする試みであった。内容としては、ポケットモンスターの第1話をリメイクし、サトシとホウオウとの出会いを描くというもので、現行のファンのみならず、昔ポケモンをやっていたが今はやっていないというような層をもターゲットとし、事前評判でも大きな期待を集めていた。ホウオウはこの1話以降、ストーリーで特に言及されることがなく、「あれは一体何だったのか?」と訝しがるファンに対して20年ぶりに回答が与えられることになる、と思われていたのだ。

 だが、映画の情報公開が進むにつれ、いくつか批判の声が現れた。旅の仲間がタケシとカスミではなく本編には登場しないキャラクターであり、またその手持ちポケモンもまた放映当時はまだ存在していなかった第4世代のポケモンであった。さらに、ライバルキャラのポケモンも第7世代のポケモンであり、そのうえ最新シリーズの幻のポケモンまで出してしまったのだ。つまりこの映画では「歴史の改変」が行われている。本作は本編と地続きというわけではないのは明らかだった。

 それにもかかわらず、いやそれどころか、こうした改変は本作が投げかける問いに非常に密接に関係しているものであると、去年実際見に行ったとき私は感じたのである。現行シリーズのポケモンが登場するのは、まさしく「今」の設定でポケモン映画を作っているからである。つまり、「もし2017年現在のポケモンシリーズの設定でポケモン初期の話を作り直したら」という仮定法が働いているのである。この、我々が生きている「今」が重要なのである。タケシやカスミが出てこないことに対する不満はあってもまあ仕方がない。しかし、本作がもつ「if」の表現に意味がないなんてことは決してないのである。

 とりわけ私が本作を見て強く抱いたのは、「物語の作りが非常にしっかりしている」という印象だった。しっかりしているとは、物語の伝統に忠実であるということである。この伝統への忠実さは、「私たちにとってポケモンとは何か?」というポケモン20周年になって劇場版を通して突きつけられた問いとそのまま連関してあり、ポケモンというものを考えるうえで重要であるとも思えた。

 

偽主人公としてのクロス

 この物語の構造を体現しているのは、サトシとクロスの関係である。本編のオリジナルキャラクターであるクロスは、プロップなどの物語理論において「偽主人公」とされる存在である。偽主人公とは、物語において主人公と同格の存在でありながら、特別な資格を与えられなかった登場人物を指す。「悪役」や「ライバル」ともいう。例えば『シンデレラ』では、シンデレラに意地悪を働いていた姉はシンデレラと同じく王子様から差し出されたガラスの靴を履こうとするが、靴のサイズが合わなかったせいで無理に履こうと足を切り落とすことになる。このように、偽主人公とは物語において「特別」になれなかった、「主人公」になれなかった存在ということができる。

 クロスは典型的な偽主人公である。同じポケモントレーナーでありながら、ポケモンと友達になることを目的とするサトシと違い強さを至上とする価値観をもつ。ヒトカゲを見捨てたことでサトシに敵視され何度も敵対するが、最後の勝負で敗北しサトシに「勝者」の資格を明け渡す。ところがそこで告白したのは、なんと自分もサトシと同じく旅立ちの日にホウオウを見たことであった。同じ出来事を経験したのになぜ自分にはにじいろのはねという資格が与えられなかったのか、なぜ自分は虹の勇者として認められなかったのかという苦悩が嵩じて、サトシから羽を奪いホウオウに近づこうとして失敗する。

 一般に偽主人公の出番はだいたいここで終わり、あとは足を切り落として退場したシンデレラの姉や、女神に嘘をついたせいで実際落とした自分の鉄の斧を失った嘘つき男のような末路を辿るが、クロスの場合は更生のチャンスが与えられた。襲いかかってきた相棒のルガルガンを体を張って受け止め、相棒と出会った頃を思い出すことで、ルガルガンの暴走を止め改心に至る。


サトシのあり得たかもしれない可能性

 偽主人公とは「主人公になれなかった登場人物」であるが、逆に、主人公のサトシもまた、偽主人公のクロスのようになっていた可能性がある。まず、クロスの手持ちのルガルガンガオガエンは、現行のサンムーンシリーズでサトシが使っているポケモンと同じ種族である。これらのポケモンが偽主人公の使用ポケモンに採用されたのは、単にガラが悪くて悪役っぽいということもあるのだろうが、「サトシのあり得たかもしれない可能性」というものが、強さを求め弱きを見捨てるクロスの姿勢や手持ちポケモンには見受けられる。実際、クロスに敗北した時のサトシは相棒がより強いポケモンだったときの可能性に引かれ、にじいろのはねの美しい光沢を失いかけている。そして、「ポケモンがいなかった世界」の夢に溺れてしまう。

 クロスの非情な振る舞いは決して人ごとではない。昔はどれだけ正義感が強く友を大事にしていても、挫折を味わい人となりが変わってしまうことなんてザラにある。それがサトシの、もし遅刻しなかったらゼニガメフシギダネを選んでいたのに、という本編では決して発されることのないセリフに現れている。サトシとて今とは違う道を進む可能性があり、足を踏み入れかけたということである。サトシだけでなく、20年も経ってそのような心変わりを経験した人たちは少なくないはずだ。


未来の可能性

 それでも、未来にはさまざまな可能性が開かれている。サトシとマコトとソウジは別の道を歩む。この先何が起こるかはわからないが、しかし希望だけはある。希望があれば旅は続けられる。

 これまで見てきたように、本作にはサトシのあり得たかもしれない可能性という形での if が提起され続けている。これらの if は我々に対して問いかける。「もしあなたもクロスのようになっていたら?」「もしあなたがポケモンをやってこなかったら?」「もしポケモンがこの世になかったら?」「そもそもこの世にポケモンという存在はいないけれど、それでもあなたにとってポケモンとは何?」と。

 ポケモンにであったばかりの人には新たな可能性を抱かせ、長いこと知っていた人にはかつて抱いていた希望を思い起こさせてくれる、そんな映画だった。

傘木希美という「作品」ー『リズと青い鳥』を巡って(みぞれとは別の視点から考察する)

危機の存在するところ、救いもまた育つ。(ヘルダーリン)

 

 「物語はハッピーエンドがいいよ」とは、映画『リズと青い鳥』のなかで希美が言った言葉であるが、これは呪いの言葉である。それというのも、物語を楽しむ者は、実際に語られる出来事を無理にでもハッピーエンドにつながる出来事に解釈してしまいがちになるからだ。この呪いは鑑賞者だけでなく、語る本人にもふりかかる。希美はハッピーエンドを欲しているが、彼女が実際経験した出来事はハッピーエンドにつながるものといえたのだろうか。

 

危機

 こんなことは『リズと青い鳥』を最初に見たときは考えもつかなかった。それというのも、二人がハグを重ねた後に挿入される二羽の鳥が飛翔するイメージは、二人の永遠の愛を物語るハッピーエンドを示唆するものに見えたからである。だが、何度も見返しているうちに、その直前のシーンで画面と語調が雄弁に語るのは、とても明るい感情などではなかったと気づいた。

 みぞれが「大好きのハグ」を無理やりにでも希美に行うシーン。このゲームでは抱きしめるみぞれだけでなく抱きしめられた側の希美も相手を抱きしめて相手の好きなところを言わなくてはならない。みぞれが強い意志を抱いて希美を掴んで離さないのとは対照的に、希美はゲームのルールに強制されて手を添えているだけのようにみえる。劇伴はクライマックスを盛り立てるのでなく、二人の成り行きを見守り続けるかのような静かな音である。みぞれが希美の「すべて」を開陳するがごとく笑い方や足音の細部に至るまでを挙げ連ねるのに対して、希美はただ一言「みぞれのオーボエが好き」という。沈黙の後、ごちゃごちゃし出した感情をかき消すかのように笑い出した希美は、「ありがとう」と三回みぞれに語りかける。この「ありがとう」が問題で、かなり含みを込めた言い方になってるのである。

 極め付けに、舞台挨拶やパンフレットでの対談では、次のような証言がある。作品外の情報を参照するのは不粋であるし、作品内から導き出される解釈の妨げになりかねないのであまりしたくはないのだが、これは引用せざるを得なかった。これらの発言、結構気にしている人もいるのではないだろうか。

 

山田尚子:ラストの大好きのハグをするシーンで、希美がみぞれに言う「ありがとう」って、額面通りの「ありがとう」だけではないと思っていて。(パンフレット、p.13

 

東山奈央:未来に向かって進むことを選んだので、希美も前進はできていると思います。ただ、その清々しさって普通のものではないんですね。大好きなみぞれが、無口なみぞれが、言葉を尽くして希美のいいところをあげてくれても、そこに自分が大切にしていたフルートのことは入っていないんですよ。だから笑うしかない。「ありがとう」と告げるシーンも心からの感謝ではなくて、「もう結構です」という意味も込められているんです。だから、希美はあきらめつつ、前進を選んだという感じなのかなと思っています。(超!アニメディア: https://cho-animedia.jp/special/41881/ 2018.05.14アクセス)

 

 抱擁は人間関係を描く作品群のなかで常にクライマックスとして表現されてきた。それは和解の象徴であった。だが、『リズと青い鳥』では和解どころか、冒頭から繰り広げられている、一見仲の良さそうにみえてその実全く交わる様子のない希美とみぞれの二人のずれの延長が描かれているのである。

 これがハッピーエンドにつながるといえるどうして言えるだろうか。

 

救い

 ……と、反語調で本作に対する怨恨を叫ぶ人は多いだろうが、実は傘木希美は上手いことハッピーエンドなるものを導き出そうとしているのが、ハグの直後のシーンを見るとわかる。

 希美はみぞれと別れて一人になってから、みぞれを吹奏楽部に誘った過去を思い出している、あるいは覚えていることが示される。(思い出したのか覚えていたのかは判然としないが、それは問題とはならない。以降この行為は「思っている」ないしは「回想」とでも記述しておこう。)その後スーッと息を吸い込み、笑顔を取り戻し、前を向いて歩いていく。後ろ姿をみると、左手で右手を掴んでいる。

 ここで疑問が浮かぶ。先のシーンで希美は欲しい言葉を言って貰えなかったにもかかわらず、なぜ前向きな顔をしているのだろうか。

 このシーンでポイントとなるのは、①過去の回想を入れていること②色彩表現と相乗的な行為、の二点である。

 

 ①について。ここで希美はみぞれと初めて会った時のことを思っているが、それだけでも本作でかなり特異なシーンと言える。それというのも、希美による回想シーンは今まで一度も入ってこなかったからである。これは、希美との思い出が頻繁にイメージとして表現されていたみぞれとは対照的である。今まで一度もなかったものがここで導入されることに意義がないはずがない。

 みぞれは文字通り「過去を生きる」人である。「希美にとって何でもなくったって、私にとってはずっと今」という台詞にもある通り、希美と一緒にいる思い出に幸福を覚え、希美が去っていった過去に恐怖する。度重なる回想シーンだけでもよく分かるが、それだけでなく、みぞれが希美と単に顔を合わせるシーンや、離れるシーンだけでも過去が再現されていることがわかる。永遠に繰り返される喜劇と悲劇。それは、彼女の生の混沌を物語っているともいえる。

 それに対して希美は過去を過去として振り返るつもりはあまりない。むしろ、希美の口から二回も発せられる「ハッピーエンド」という未来を志向しているようにもみえる。

 この「ハッピーエンド」なるものが一体なんなのかは知る由もないが、少なくとも例のハグのシーンで希美がみぞれに望んでいたことを「ハッピーエンド」につながるものとみなすことはできる。物語のクライマックスに現れるハグは、和解の象徴であり、したがってハッピーエンドを導くのだから。だが、結局希美が望むところの「希美のフルートが好き」とはいってもらえなかったわけである。ここから希美はどう折り合いをつけていくのだろうか。

 ここで希美が持ち出した戦略というのは、まさしくみぞれが常日頃行なっている「過去を生きる」ことである。みぞれは希美と一緒にいるためにオーボエを続けてきた。みぞれは常に希美との思い出から承認を貰って生きている。こうした生存のスタイルを希美はここで初めて導入する。妬みもし愛しもする音を、自分のために作り上げてきた鎧塚みぞれという人物を音楽の道に誘ったのは、まさしく傘木希美自身であった。みぞれが希美の声によって未来に向けて旅立つ己の実存を呼び覚まされたのであれば、希美の場合はみぞれに声をかけたという記憶そのものが希美自身の実存を呼び覚ます。この回想の直後、希美が前向きになったのは、まさしく自分がみぞれを音楽の道に導いたことを自覚したからではないだろうか。

 ここで生じた感情の名前はなにか。言葉では表されてはいないが、少なくともこのシーンで行われている無意識的な行為の意味をみていくことで推測することはできる。

 

 ②希美が前向きになったことの確証は、本作の色彩表現や登場人物の行為にも現れている。

 本作では希美とみぞれという二人の人物の対照性を表現するために、両者の好きな色であるところの赤と青、暖色と寒色の対比が使用されている。 *1 希美が愛用するピンクの腕時計は本作全体を通じて希美という人物の存在を表象し、みぞれが希美から授かり大切にしている青い羽根は、依存と幸福、自由というみぞれのあり方を示す。また両者の目の色が互いをみているかのように互いを表す色を映しているところに、色彩による対比と相互性が明瞭に現れているといえる。また童話パートでも、青い鳥はいわずもがな、リズも赤みをおびた服を着ており、また赤い実の存在もあって、純色によって赤と青の対比が表されている。

 そして、両者の混色であるところの「紫」は、実は本作ではあまり用いられていない。他の登場人物の瞳が紫色であったりはするが、希美とみぞれの装飾品や背景に紫色はなかなかみられない。また、青や緑、黄色を用いてリノリウムの床を照らし出すことはあるが、紫がかった光景は不思議なくらいみられないのである(童話パートには紫の色相は普通に見られるが、むしろ本編の緊張感を和らげるために多様な色相を使っているとみるべきである)。そして、帰結部ではベン図のイメージで赤と青が混じり合い紫色を形成する様子が描かれる。 *2

 

 このように希美がみぞれと重なり合う色であるところの「紫」に至るために、希美は自分の色であるところの「赤」をどのように使用しているだろうか。注目すべきは希美の印象的なピンクの腕時計である。

 生物学室で希美とみぞれが対話するシーンでは、希美はみぞれに隠すように両手を後ろに回す。この動作が「私、みぞれが思ってるような人間じゃないよ。むしろ、軽蔑されるべき」という台詞と並行しているとすれば、このとき隠されることとなる希美の腕時計は、希美の存在そのものを表象しているといえる。そして、髪をいじる癖をやめてスカートの裾をしかと握りしめ、希美に思いの丈をぶつけるみぞれとは対照的に、しきりに足を交差したり、腕時計をいじったりと希美の動きには癖が多発する。特に自分の存在を表す時計を右手で思い切り握りしめてしまうのは、自分自身に対する自戒とみなして差し支えないだろう。この強く左手の腕時計を締め付ける動作は、みぞれがハグを強行することで中断させられる。

 回想直後のシーンに移ろう。希美が歩くのを後ろから映すカットであるが、ここでは先ほどとは逆に、左手で右手を軽くつかんでいることが確認される。先ほどの自嘲的な行為とは対称的な動作は、そのまま行為の意味の逆転も意味していると考えるべきであろう。そして、こうした逆転が可能になったのは、過去を思い出すことによる自身の実存の再構成によるのである。深呼吸をして自分自身に息を吹き込むのと同時に、フルートの音を好きといってもらえなかった絶望を、みぞれという存在に関わる別の感情に置き換える。それによって自嘲的な気分から抜け出すことができたとすれば、ここで生じるのはみぞれを音楽の道に誘ったことの「誇り」とでもいえるものだろうか。この誇りによって、自分で自分をしめつける苦しみから解放されるのである。

 

まとめ

 『リズと青い鳥』のクライマックスでは、少なくとも、みぞれが自分の欲しい言葉をくれなかったあのままでは、希美にとってのハッピーエンドになりえなかったのが、みぞれとの出会いを思い出すことによって、上手いことハッピーエンドに昇華できているようにみえる。出会ったときから希美に自身の存在理由を託していたみぞれと同様に、希美もまたみぞれを自分の存在の条件として自己を確立していくことになる。

 これはある意味で、自分という「作品」を作り上げるまでのプロセスであるといえる。希美の一言によって喜劇のクライマックスと悲劇のクライマックスを次々と繰り返すみぞれの生はいつも「最終回」であり、完結性を重んじる作品としては到底成り立たないという意味でも「狂気的」と言えた。それとは対照的に、希美はちゃんと物語の落とし所を物語という枠の終盤に落とし込み、自らの生という「作品」を作り上げるのである。

*1:宝島社の公式ホームページより( http://tkj.jp/info/euphonium/ )。厳密には、希美の好きな色は紫とピンクなのだが、本作では少なくとも希美が紫系のファッションをしている描写はない。

*2:紫色が効果的に使われるのは、「あぁ神様、どうして私にカゴの開け方を教えたのですか––。」と、希美が童話の最後の一説を呟くシーンである。ここでは希美が校庭の藤の木の絡むあずま屋のベンチに腰掛けて外を見ている。このシーンの重要性は、童話のセリフや校庭に一人で出るという行動でもそうであるが、色彩表現にも現れている。まず、希美とみぞれを表すところの赤と青が、ここで初めて、紫がかった空と街並みとして混じり合う。希美とみぞれが互いの立場の逆転を自覚するという仕方で、両者は混じり合っている。このシーンの直後、希美とみぞれの決定的な断絶が明らかになるのだが、少なくともそれを認識するための一歩を両者は共有したといえる。