錬金術師の隠れ家

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実存主義とは何か : 実存主義はヒューマニズムである / サルトル著 ; 伊吹武彦訳(1955)

 映画『アデル、ブルーは熱い色』にこの著作に言及する箇所が出てきたので、興味をもっていたのだが、昨日たまたまブックオフに置いてあったので早速買って読んでみた。「実存主義の入門書」として分かりやすいと評判のようで期待して読んでいたのだが…クソ本だった。ざっとまとめるけど、深夜なので適当に書いて寝る。

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

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①スコラ的
 実存が本質に先立つ場合、われわれの行為選択は責任を、それも全人類の責任を負うているとサルトルはいう。なぜわれわれはそんな重い責任を負うことになるのか。
「われわれが選ぶものはつねに善であり、何ものも、われわれにとって善でありながら万民にとって善でない、ということはありえないのである」(p.20)。つまり人間の決断は常に善を目指すのであり、その善は全人類と共通のものであるから、個人の行為は全人類の善を代表したものだというのである。そんなわけないだろと反論したくなる。第一「善」とは一体なんなのか、道徳哲学の中心問題のひとつだが、この公演において他に善について触れられているところは他にない。サルトルの「人間は自由の刑に処されている」という重大テーゼの根拠ともいえるかなり重要な部分なだけに、ここだけ妙にスコラ的になってしまっているのがいただけない。

②コギト中心主義(50p)

 この講演でサルトルはやたらとデカルト主義者である。もの(対自存在)の蓋然性に対して人間主体(即自存在)の確実性を保証するためにデカルトのコギト説を採用する。これによって絶対的真理の存在や人間の尊厳の擁護が可能となる。しかし主体性に対する批判はフーコースピヴァクといったポストモダンの論客によって、それもサルトルも重視している現実世界の経験に基づいて何度も行われている。第一20世紀にもなってコギトを堂々と持ち出すのはさすがにどうかと思う。

アンガージュマンの条件
 人間は無動機状態のように自分の状況を知らないわけではなく、「組織化された状況のなかにあり、彼自身そのなかにアンガジェされ、自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする。しかも選ぶことを避けられない」(p.58)とサルトルはいう。これだとアンガジェするためには自分の状況をちゃんと知っていなければならない。将来のことはまるで想像がつかないといわれるが、キュウベエの契約のように将来確実に不幸を招く選択肢に対しろくな情報も与えられずにアンガジェするということも普通に行われていることだ。これは果たして適切なアンガージュマンといえるのか。

 自分では批判を書いていてなかなか要領を得ないと感じていた。形式的には割と整っているので突っ込んでも簡単に批判が返ってきそうなのだが、釈然としない。それに本書で示されているような道徳理論に従って生活することで何か得るところがあるのか、はなはだ疑わしい。別に入門書として読むには構わないのだ。ただ、これだけ読んで『存在と無』の厳密な議論にろくに触れることなく学生運動に身を投じていった学生のことを思うと、なかなか罪深い部分がある。