錬金術師の隠れ家

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石原孝二『「感情移入」と「自己移入」 : 現象学・解釈学における他者認識の理論 (2)(3) シェーラーの他者論 (前)(後)』

 
 
 我々はよく「あのキャラクターに感情移入して物語を読む」とか「このドラマは感情移入できなかった」という風に「感情移入」という言葉でもって偉ぶって作品を評価する。それはプロの評論家もよく使用する概念である。だが、その「感情移入」という概念を正しく理解しているのだろうか。かの人たちは単に「登場人物と同じ気持ちになれる」という程度の曖昧な理解で使っているだけではないだろうか。
 私はそもそも「感情移入」概念というものに懐疑的である。読み手が登場人物と同じ気持ちになることはそもそもありうるのだろうか?単なるこちら側の思い込みではないのか?そんな思い込みで正当な作品評価など出来るのだろうか?といった疑問がつきまとうからである。
 本論文はまさしくこの「感情移入」概念を批判的に検討する論文である。リップスやヘルダーといった感情移入美学の代表者たちの理論に対する、哲学者シェーラーの批判がいかなるものなのかを読み解くという論文である。
 

感情移入とは何か。

   まずリップスらによる感情移入概念の定義を見てみよう。感情移入説とは、他者の心理を私が理解するためには、単に他者の身体像を知覚するだけではなく、それに自己の過去の心理的過程を投射するという作業が必要であり、この作業=感情移入の存在を認めるという立場のことである。
   この説は、我々は物理現象を知覚するのと同じ仕方では他者の心理を知覚することはできないという含意もふくんでいる。現代の我々には奇妙に思えるかもしれないが、19世紀の哲学においてはこうした説は比較的すんなりと受け入られていた。それというのも、知覚対象である心理的対象と物理的対象、そして、それぞれを知覚する感覚器官は、デカルトにならい厳密に区別されるものと考えられていたからである。
 
   また、ヘルダーやリップスに代表される感情移入説の前提は以下の2点が挙げられる。
1 :心もしくは自我は、確実に与えられるものであり、それは外的かつ不確実に知覚される対象とは区別されるものである。
2 :外的に与えられる感覚のうちに自我が自己自身を投入し、自我が対象と融合することによって、美的な経験もしくは他者の認知が得られる。 逆に言えば、そうした融合を可能にするものが美的な対象もしくは他者の身体である。
 
   つまり、心というものが存在し、心とは区別される外的な事物もまた存在する、というのが第一の前提だ。第二の前提は、第一の前提のもとで、私の心が他者の心や作品の登場人物の心と融合することで、自然や作品に対する認識や感動が生まれる、ということである。
 
   この二つを否定することによって、 シェーラーは 感情移入説を批判した。現代でも通用している感情移入説を批判するという私の目的からすると、この石原論文で紹介されているシェーラーの感情移入説批判は大変に役立つものに思われる。それでいて、このシェーラーの説は現象学の成立に関わったりと大変意義深いものであるというのが石原の見解である。
 

フッサール

   前史として、フッサールによる内的知覚説の批判があげられる。フッサールの『論理学研究』で内的知覚の特権性は批判されるのだ。
   内的知覚と外的知覚との区別は何に由来するのか、そもそもそんな区別を立てなくても、あらゆるものは同一の能力によって知覚できるとすればいいのではないか、そういう疑問が生じるだろう。だがデカルトから20世紀初期までの哲学者たちのメインストリームはそうではなかった。内的知覚と外的知覚との違いは「明証性」にあると考えられていた。「我思うゆえに我あり」から分かるように、己の心理状態は確実に知覚されるものであるのに対して、我々は外的事物に対してはときに錯覚を抱くことがある。外界の知覚は常に不確実なのに対して私の思考は確実だ。そこに内的知覚と外的知覚の差異の基準があるのだ。
 感情移入説の背景には、こうした内的知覚と外的知覚の区別があったのだ。他者の心は私からすれば「外界」に属するものだが、しかし他者本人にとっては「内界」に属するものである以上、私の外的知覚によっては他者の心=内的知覚を捉えることはできない。ではどうすれば捉えられるのか?という問いたてに応えるために、感情移入説は生まれたのである。他者理解は、外界に属する他者の心に対して、私の心を投影する、という仕方で行われているとすれば上手く説明がつくとされたのである。
   しかし、自我の心理状態と「私」の考えとは必ずしも一致しない。我々が心の内外の区別を考えるとき、「内」の領域が必ずしもコギトと一致するわけではない、とフッサールは考えたのである。
   フッサールは明証性は心理現象の知覚と物理現象の知覚の区別の基準にはならないと考え、別の基準を用意した。それが「十全性」である。知覚が十全であるとは、一つの感覚が私の現実的な経験から逐一成り立っているという意味である。その対となる「非十全的な知覚」とは、現に与えられた内容を超えて対象に向かうことを指す。つまり経験には存在していない要素(神や自由などの形而上学的な事柄に限らず、経験したことのない虚構も含まれると思われる)を取り込んだ飛躍的な知覚を行うとき、それを「非十全的な知覚」というのだ。
 

錯誤と誤謬

   シェーラーによると誤った知覚というのは錯誤と誤謬に分けられるとする。路面が濡れているとき、それを水だとみなすのが錯誤(実際はガソリン)。濡れてる第一印象から「さっき雨が降った」と判断するのが誤謬(実際は誰かが水を撒いた)。つまり知覚が実際と異なるのが錯誤、知覚に基づく推論が実際と異なるのが誤謬だ。
 

シェーラーの意図

   シェーラーによる感情移入説批判の要点は以下の二点である。
1:内的知覚による心理対象は、感覚器官の違いが物理的現象との差異をもたらすわけではない。自己認識は心理的過程とも物理的過程とも読み取れる。
   つまり、他者の身体の視覚像が心理的な現象か物理的な現象かは、単に知覚の「仕方」に依存し、本質的には同一のものである。だから他者の心理的過程は、自己の心理の投影などを行わなくても直接知覚することができる
 
2:内的知覚が関わる体験流は、自己の心理的過程だけでなく、他者の心理的過程をも知覚対象とすることができること。
 つまり、私の内的知覚を作り出すものは私だけでなく他者でもある、ということだ。言い換えると、私の体験流が、自分自身の体験のみならず、すべての他者の経験をも包括するのだ。
 
 で、他者の心理を知覚するため自己の心理を他者に投げかける現象としての感情移入は、シェーラーによれば、単なる「錯誤」である。
 他者の心理を読み誤りうるのであれば、当然、自己の心理も読み誤りうる、ということになる。
 
 シェーラーの主張をまとめると、次の二つになるだろう。第一に,われわれは原理的に,他者の体験を(自己の心を投げかけるプロセスを経なくても)「直接」知覚することが可能である。第二に,原理的に可能な体験(自己だけでなく他者のも)の知覚の中でわれわれが「実際に」知覚することができるのは,われわれが「表現」することのできるものだけである
※表現することと知覚することは区別される。
・私が身体によって表現できるものに限り直接知覚することができる。
・表現形式に注目する。詩人は既存の言語の枠組みを超える新たな表現形式を生み出すことで、われわれが知覚しうる体験の範囲を広げる。
表現形式の共有によって自己と他者の間で体験の転移が起こり、「これは私の体験だ」という錯誤が起こる。
 

コメント

 シェーラーの感情移入説批判の第二点を敷衍すると、次のような考察が得られる。他者理解は結局知覚者の過去の経験に還元にしても、しかし、その経験が他者によって、あるいはこう言い換えてよいなら「社会」によって構成されているものであるとしたら、経験は個別性を失い、社会性、集合性を帯びるはずだ。ここから、一見したところ「個人的」なものである「経験」における社会的側面を発見することができるのではないか、とみることができる。
 例えば、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「経験」概念の理解を参照してみよう。ここでフーコーを持ち出すと、『言葉と物』を読んだことがある人は「え?」ってなるだろう。というのも、シェーラーはフーコーの論敵だからである。シェーラーは「人間とは何か」という問いに哲学の見地から答えるための学問として「哲学的人間学」を創設して19,20世紀のドイツでブームを起こしたのだが、フーコーによると(シェーラーに限ったことではないが)「人間学」という学問潮流は超越論的な基礎と具体的な経験が互いに基礎付け合うような不毛な関係を生み出しており、いずれ消え行く定めにあるもの、と断言しているのである。こういうわけで、シェーラーとフーコーは一見水と油の関係にあるのだが、こと「経験」という観点からいうと妙に似通ったものが見えてくるように思えるのである。
 シェーラーは他者の経験は心を読むプロセスを経なくても直接知覚することができ、それは私たちが表現することによって理解することができると考える。他者理解のための表現には当然、私たち自身のそれまでの経験の蓄積が必要となろう。ところで、この経験の蓄積は、一体どこからくるのだろうか?勿論その人自身の個人誌に由来するといえばそうなのだが、我々が社会的存在である、つまり、私個人を超えて高い一般性を備えた「社会」によって、身分や役割、さらにはセクシュアリティ、健常さ、生きる資格などなどを規定されている存在だとしたら、その経験は私自身だけでなく、社会によっても規定されているということになる。その社会による規定は、条件を満たしている全ての人に降りかかるのだから、それを受けた人たちは当然、全く同じ経験をした、ということができる。勿論人はそれぞれ違うのだけれど、しかし同質の経験をしたことのある人たちでグルーピングされる、ということはありうるのである。