錬金術師の隠れ家

書評など。キーワード:フランス科学認識論、百合、鬼頭明里 https://twitter.com/phanomenologist

ストロベリーパニック 総括

アニメ「ストロベリーパニック」全話をみた。百合アニメ界でもマリみてのスール的世界観に直接的な性描写を導入して表現をより幅広くすることに一役買ったと思われるが、同時に変な笑いの出るアニメで、突っ込みどころや惜しいところがあまりにも多すぎるので、総括する必要を感じた。なおラスト3話より前は数ヶ月前にみたので記憶が曖昧であまり多くは語れない。ただラスト3話があまりにもアレなので、それだけでも十分な気もする。
 
はじめに
・原作は読者を「兄」として語りかける文体になっていることからも、男性読者を想定していることは明白。
・別に男性視聴者のサービスとしてのレズセックスを描いた作品ではないと感じた。
 ・シーンは三種類。要と桃実(なんども出てくる。軽薄にみえるが、実は要の本心は別の女に向いていたこととのコントラスト)、静馬と花織(想い出)、天音と光莉。どれも意味がある。
 
よいとこ
・演劇。主役を巡る政治的駆け引き、千華留様を主役にもってくることのうまさ。なんだかんだ渚砂が途中代役になるが、(ニセコイのそれと比べれば)嫌な感じはしなかった。
・要の本心。なぜか光莉を狙ったり意味不明な口説き文句を放ったり演劇に茶々いれたりと奇行が目立ったが、23話でかなり納得がいった。口下手な二人が本心をぶつけ合うためのテニスコートという舞台。ライバルとの戦いをきっかけにエトワール選出馬を決めたというのもまた熱く、桃実のレズビンタもまた切ない。それだけに直後なんでああなってしまったのかが本当に悔やまれる。
・音楽が美しい。
・一期EDは伝説。
 
なにがよくないのか
・まず作画が全体的によくない。世界観の美しさを売りとする百合モノにとっては致命的なんじゃ。作画監督複数の回多すぎ。
・飛躍が多い。
・SEがださい。
・序盤で静馬が行事に参加してないの本当謎だったな…なにか訳ありなんだろうなと思ったら本当になにもなかったとか、静馬様の魅力ガタ落ちじゃ(静馬様の印象が悪くなるのはこれだけにとどまらない)
・静馬と花織の顛末がなあ…病人ととも選挙に出るのは流石に色事を政治に持ち込んでいるとしかいいようがなく評価できん。
・ラスト3話。記憶喪失はもう殆ど禁じ手でしょう。これを2話連続で引っ張るのも辛い。
 ・厩に泊まるのはいいけど、せめて連絡して差し上げろと…みんな心配してるというのに
・最終話。いきなり式場に乗り込んできて渚砂ちゃんを連れて逃げ出す。静馬様の暴走としか…いや、渚砂ちゃん本当にこれでいいの?的な仕込みはちゃんとあったけれど、もう1クッション欲しかった。
 ・玉青ちゃん可哀想とはよくいわれる。確かに別に悪い子じゃないし、「結婚式の最中に別の男に花嫁を奪われる当て馬」の役割はあまりにも不憫かな。
 
その他
・エトワール制が意味不明。色事を政治に持ち込むのに非常に違和感があるのだがそんなものなのだろうか。要はレズカップルが選ばれるのか…そういえば作中のエトワールになった先代と新しいカップル、どっちも直前にレズセックスしてたな…
 
結論
・「どのカップルがエトワールになるか」「誰が劇の主役になるか」を巡って行われる政治的駆け引きがなんだかんだで魅力的だった。
 ・それが、最終話で学校の伝統が…とか仕来りが…とかいってられなくなるほどぶっ飛んだことになってしまった。
・考えてみたらこの作品を一番引っ掻き回したの、要と桃実じゃなくて静馬様だったんじゃ…
 ・ピアノもフランス語もできて、一緒に踊るとすごく美しい。情の出しどころを間違えたんだ…
・スール的世界観にセックスを再定着させるという点においてはなんだかんだで意義はある。エロいけど別に欲望を掻き立てるというよりは精神的つながりを示すまたは離れていることを示すものとして表現されている。同時期に少女セクトも刊行されたことも興味深い。
・余談だが、いちご舎の三角形状がユリ熊嵐の校舎の形状と似ていることに関心がある。
 

ベンヤミンの《救済》の概念-「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」

 卒論書くにあたって、昔手掛けたなかでもっとも長いレポート(5000字くらい)を振り返って自分を見つめ直す。われながら良い出来だと思うので掲載することにする。結論はともかく、導入がかなりよい。批判論でたった一回しか登場しない概念を別のテクストと照らし合わせることでその意義を誇示してみせる離れ業である。締め切りギリギリで研究室泊まり込みで書いていたのが懐かしい。13年夏:高橋哲哉「『暴力批判論』を読む」の単位修得にあたって提出した、ヴァルター・ベンヤミンの2冊の著作「暴力批判論」と「ゲーテの親和力」に登場する一概念を検討するものである。
 
《救済》の概念
 本稿では本講義()で精読したヴァルター・ベンヤミンの論文『暴力批判論』における「神的暴力」の意味を、彼の本来の仕事である批評において重要な概念である「解放・救済(Erlösung; 以下《救済》と表記することにする)」を用いて明らかにしていくことを試みる。この論考において《救済》の用語が登場するのはただ1回だけ(『暴力批判論』, 241)だが、それはベンヤミンの歴史哲学において意識されていた問題であり、彼の主たる活動である文芸批評でも重要な位置を占めていた。この言葉を理解することは、この論文においても難解な概念であった神的暴力を理解するうえでも大切であるように思える。本稿では『暴力批判論』の他に、彼が唯一批評の対象を一作品に限って徹底的に論じたとされる批評『ゲーテの「親和力」(以下、「親和力論」とする)』を主に解釈し参照する。
 

 ベンヤミンは『学生の生活』において「危機(Krisis)と批判(Kritik)にみちた精神生活をおくることは学生の義務(村上, 1990 を参照)」であると述べている。そしてこの問題意識は文芸批評(Kritik)にも持ち越されることになる。一般に、批評・批判=Kritik の語源である古代ギリシャ語の krisis は、「判決・決定」の意味をもっており、またそこから派生した別の語が 'Krise=危機' であったことも考慮すると、批評・批判の本来の意味は、歴史の危機における判決を下すことであると考えることができる。さらに krisis の判決の意味がユダヤ的な意味を帯びると、「神の審判(歴史の終末における神の救済)」を意味するようになった。ユダヤの聖職者は聖書で語られる「生命の書」に書かれている救済されるべき者の名前を明らかにするのである。ユダヤ思想を色濃く受け継いだベンヤミンの批評もそのような性格をもっており、つまり作品の《救済》を行う。どういうことかというと、初期ロマン主義批評の方法論にならい、作品の善し悪しを判断するのではなく、作品の秘密として込められた真理内実を反省を繰り返し解釈することにより見つけ出す。つまり書かれてある事象内実(テクストに書かれてある事実の総体)から、真理内実(テクストに秘められた真理)を明らかにするのであるが、その真理こそ、救済を待つ憐れな人間の名前なのである。

 このように、彼の批評において《救済》の概念は重要な位置を占める。もっとも、ここで示された意味での《救済》はテクストの解釈の方法であり、暴力・法・正義の関係の叙述を目的とした『暴力批判論』とは無関係に思えるが、この《救済》という言葉は、先に述べた通りただ1回だけしかこの論文に登場しないものの、しかし「神的暴力」の性格を形作っている可能性を示しているのである。

「…一切の暴力を完全にかつ原理的に排除してしまったのでは、…これまでのすべての世界史的な地上的存在状況の勢力圏からの解放[救済](Erlösung)を思い浮かべることは、あくまで不可能であるから、あらゆる法理論が注視する種類のものとは異なる種類の暴力(論者註. 神的暴力のこと)についての問いが、有無を言わせず迫ってくる。(『暴力批判論』, 261,2)」つまり、人類の世界史的歴史的現状からの《救済》という、法哲学の大問題の解決のためには、それまでの法的性格を孕んだ神話的暴力でなく、神的暴力が必要とされる、言い換えると、神的暴力は《救済》なのである。しかし、《救済》の概念はこの論考では1度しか触れられていないうえ、神的暴力の定義も周知の通り謎めいた調子を帯びている。

 
 この他にも『親和力論』は『暴力批判論』は互いに共通するモティーフを用いて論証を展開している。例えば、このロマーンの登場人物たちの破滅の運命をベンヤミンは法がもたらす「神話的な暴力」によるものとする(ibid, 51)。いうなれば哲学理論の批評における実践版である。ところでベンヤミンはこの作品形式のロマーン(長編小説)と対比される、第二部第十章に挿入された『奇妙な隣同士の子供たち』というタイトルのノヴェレ(短編小説)を引き合いに出す。ロマーンの登場人物たちが闘争に身を任せることはなく、それにもかかわらず自然の強大な力により自ら犠牲を供することになるのとは対照的に、ノヴェレの登場人物たちは激しい行動をとり、強い決断力によって神と対峙し、犠牲を供することなく神と真に和解する。この場合、「ロマーンのもろもろの神話的モティーフには、ノヴェレのそれが《救済》的モティーフとして照応しているのだ(ibid, 127)。」よって、ベンヤミンにおける救済がユダヤ的なものを暗示させるとすれば、この場合の「救済」は、暴力批判論における「神的」と類縁関係をもっているとみなせるのである。執筆背景としても、両者の著作の成立時期はだいたい同じで、1920年代の前半であり、用語上だけでなく思想上も連関があることは明らかである。4人の男女の不倫の末、人間の自由意志を打ち砕く運命の力により悲劇的な結末を迎えるという救いのない物語に思えるが、『親和力論』では何度も《救済》という言葉を使い、作品の《救済》を図っている。それゆえ、この批評における《救済》の意味を明らかにすることで、先に述べたよりも『暴力批判論』における《救済》の意味を明らかにできるだろうと考えられるのである。以降、 《救済》について触れている箇所に注目して解釈を加えていこう。

 

 『親和力論』訳本の78頁に、《救済》=Erlösung の語が初めて登場するが、それは訳では「解放」となっている。この箇所では、不貞による法違反という神話的罪過が作品において主人公たちの破滅によって贖われているのだというゲーテ本人の言葉を批判し(註1)、『親和力』における法の侵害に起因する破滅は贖罪ではなく、婚姻という雁字搦めの状態からの「解放」に他ならなかったのである。それというのも、ゲーテがいうようには義理と恋情のあいだの戦いは存在していないうえ、結末にて倫理的なものの勝利を祝うわけではないからである。グンドルフのいうように、従来はこの作品の最後はオッティーリエの贖罪による聖化と考えられていた。しかし、それは外在的な道徳に基づく見方であって、事象内実から真理内実に迫るベンヤミンの方法論とは性格を異にする。ベンヤミンゲーテの問題意識に注目し、ゲルヴィーヌスの著におけるシラーのゲーテ宛の手紙から、ゲーテの晩年の生の不安を指摘している。それは沈黙として、彼の内部に閉じ込められる。生の根柢に潜むもろもろの象徴が表れるのは、作品においてなのである。ただし悲劇のように自己の内奥の本質として表現されるのではない。贖罪によって獲得される自由は詩人の生にはどうでもよく、自分の生をも対象とするような《救済》の可能性が問題となるのである。「このゲーテの生にとっても、悲劇の主人公が死において見出す自由ではなく、永遠なる生における《救済》こそが、問題の核心となる(ibid, 96)。」

(註1ベンヤミンが影響を受けた初期ロマン主義批評では、作品解釈による芸術への寄与を主張しているが、ゲーテはこれに批判的で、作品はそれ自体自立して成り立ち、批評は不要であると唱える。しかしベンヤミンはこのゲーテの立場を批判し(ドイツ・ロマン主義, 129; )、彼の作品に批評を加えることを正当化しているのである。もっとも、それはゲーテの作品に込めた生の意識まで否定するものではなく、上述のように生の象徴の現れる、《救済》の場として作品を見ている。)

 ここから分かるように、《救済》は決して贖罪を意味するのではない。不貞を働いたために子供を失いやがて自死に追い込まれるという話の流れからも推測できるように、贖罪は神話的な法秩序が要求する、法維持的な暴力といえるのである。しかし贖罪を退け生を救済するといっても、ベンヤミンは従来のように作品に創作者の生を見出し本質をつかもうとする方法は誤謬であると考える。いわば、作者を神話的英雄とみなし、人類の代理人として神々の前に立ち、人類の解放者=《救済》者といて扱う考え方をベンヤミンは否定する。このような見方の代表ともいえるのが、ゲーテ研究で高名なグンドルフなのであるが、ベンヤミンはグンドルフの試みを断固拒絶することでより「救済をもたらす内実が発している光の核心への洞察」へ導かれると確信する。

 作品に表れる神話的なもの、すなわち、不貞にたいする自然による神話的・法的な力の働きかけと、それに対する人間の無力、宥和と犠牲は、ベンヤミンによれば作品の認識の根柢をなし得ない。神話的な力という、ある意味では外部からの拘束力といえるものから批評を解放し、作品の事象内実から解釈を行い、真理内実へ至ろうとするのである。ではベンヤミンが注目した事象は何かというと、それが、上述したロマーンとノヴェレの関係、神話的なものと《救済》的なものの関係である。前者が犠牲を要求するのとは対照的に、後者では犠牲を供することなく神と真に和解する。

 まとめの部分で彼はオッティーリエの役割をこう結論づけている:ゲーテをこの作品世界に呪縛した(論者註:詩人の言葉を自分に託しているということ)のはまさにオッティーリエという人物、いやその名にほかならず、そしてそれは、ひとりの滅び行く女を真に救い出すため、ひとりの恋人をこの作品世界のなかで《救済》するためだったのだ(ibid, 180)。」エードゥアルトとの不義の愛のため神話的な裁きを受けることになりつつも、ゲーテは救済の可能性を与える。星の表象のもとにかつて彼の目に立ち現れたことのあった「愛し合う者たちのためにゲーテが抱かずにはいられなかった希望」が、批評により再び掘り起こされ、死にゆくものへの《救済》となる。注意したいのは、この希望を与える役割を担うのは、詩人でも作中の登場人物でもなく、他ならぬ語り手すなわち読解者なのである。「希望という感情において出来事の意味を全うすることができるのは語り手だけなのであって…。(ibid, 182)」「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。」
 
 これらのことから『親和力論』において何がいえるか。まず文学および批評の使命を考えると、文学の創作は神の使命ではなく、逆にそれは神の使命からも言葉を自由にするのである。そして批評というものは、作者を英雄や神とみなし彼により作品に与えられた法規範などの外在的な意味を解読していくものではなく、作品の事象内実に基づき真理を明らかにしていく。この過程において事象内実における神話的なものは退けられる。それは、法や道徳という作品を束縛する力、いうなれば「神話的な暴力(ibid, 51)」が本来的な批評を妨げるのを止める。そこから提示される批評は、ノヴェレをきっかけにロマーンを補完する形で《救済》の可能性を提示する。これらのことから、《救済》の二重の意味が考えられる。ベンヤミンはグンドルフを激しく批判し、それまでの神話的な読解を排除することに非常に拘っていた。神話的内実を傍に退け作品の内実からそこに刻まれた「名」を明らかにしていくという批評の方法論そのものが、《救済》の一つと考えられるかもしれない。そしてベンヤミンは実際に「オッティーリエ」という名前を、その神話的な悲劇から《救済》した。それは、死において見出す自由に対抗して、死後における永遠の生を悲劇のヒロインに与えるのである。
 ここで『暴力批判論』に立ち戻ろう。この論考においては神話的暴力と神的暴力が対比されていた。神話的暴力は生を途絶えさせ、罪からでなく法から浄め、たんなる生に対する、暴力それ自体のための血の暴力であり、犠牲を要求する。他方神的暴力は生を滅ぼし、罪を浄める、あらゆる生に対する生ある者のための純粋な暴力であり、そして犠牲を受け入れる。ここで、『親和力論』において神話的なものと《救済》の可能性が対比されており、またユダヤ的文脈における共通性を考えると、やはり神的暴力と《救済》の類縁関係はかなり強いといえる。神話的暴力がそれ自体のための暴力であるのに対して、神的暴力が生あるものの《救済》のための暴力であると考えられる。また批評における《救済》のニュアンスをそのまま適用するとするならば、歴史を生きる我々が蒙る暴力の、ひとつの解釈可能性であると考えられる。それは『暴力批判論』の最後の段落にもあるように人間には不可知である。しかし、弔いという形で実践することはある程度は可能なようにも思える。
 

 

 

引用文献

Benjamin, W. : 浅井健二郎訳, 『暴力批判論』, 『ドイツ悲劇の根源』下巻収録, ちくま学芸文庫, 1999

Benjamin, W. : 久保哲司訳, 浅井健二郎編訳, 『ゲーテの『親和力』』, 『ベンヤミン・コレクション I 近代の意味』収録, ちくま学芸文庫, 1995

参考文献

村上隆夫, 『ベンヤミン 人と思想 88』, 清水書院, 1990
Goethe, J, W. : 望月市恵訳, 『親和力』, 『ゲーテ全集』第七巻収録, 人文書院, 1960
平野篤司, 『批評と救済:ヴァルター・ベンヤミンの『親和力論』』, 人文・自然研究, 7: 299-333, 2013-03-31


 

 

「臨床医学の誕生」第7章:見ることと知ること

ゼミで読んだ章をupすることにする。フーコーの「臨床医学の誕生」(神谷訳)第7章:見ることと知ること、である。

議論は第6章から続いており、一連の議論においてフーコーは19世紀に誕生した臨床医学の特徴である「まなざし」が実は言語的構造を持っていることを解明する。以下第6章の内容を振り返ってみる。

 症例(病の本質を指示するもの)や徴候(病の時間的経過を示すもの)はそれまでのシニフィエとしての地位から、臨床医学誕生以降は病そのものを現わすものとして扱われるのである。なぜかというと、コンディヤックの経験論の影響もあって、見えるものはそのまま語られるものとみなす特徴が臨床医学にあったからである。こうして症状論から病因論へと移った。がしかし、症例の偶発的な事項を生のまま捉えることが困難となり、まなざしの中に言語学的、統計的構造(枠組み)が導入される。フーコーは臨床的知覚が感覚一元論という理想を目指しているようにみえて、その実まなざしの中にアプリオリな構造を潜めていることを指摘するのである。

 それでは本題の第7章に入ろう。各節の見出しは自分が勝手につけた。▼のつくパッセージは筆者による考えである。

 

要約
 この章では、臨床医学の経験における視覚と記述の相互関係を明らかにする。臨床講義での質問の際限のなさに限界を設けるため、次第に可視的なものから陳述可能なものへと臨床医学的思考は変容する。その背後に、純粋なまなざしはそのまま純粋な言語になるだろうという考えがある。しかしこの透明さは言語の地位を不透明なままにしておくため、さまざまな認識論的神話を生じさせる。つまり、疾患は言語論的、化学的方法論で語ることができ、経験は感受性と同一化するとされる。このレベルで言語的秩序をもつまなざしの構造は解体され、代わりに非言語的な一瞥の構造がその場を占める。

第1節 知覚と言語 (186-189頁)
臨床医学が認めた観察の特権がもつ2つのまなざし
・介入以前の、直接所与をそのままとりあげる純粋なまなざし
・論理的枠組みを介するまなざし
このような知覚の具体的行使とはどんなものであるかをこれから描き出す。

 観察するとき、まず理論や想像による障害を退ける相対的沈黙と、可視的なものを語る言語以前のすべての言語についての絶対的沈黙のなか、まなざしでもって事物を観察し、事物を知覚する瞬間同時にある言語を聞く。この言語を用いて実験者は事物を語る。
このまなざしは直接所与が真実をいいあらわすための構成の出発点、原理でなければならない。そしてまなざしは、構成のはたらき自体において一度示されたものを、まなざしに固有な作業のなかで再現しなくてはならない。

第2節 病院と教育 (189-193頁)
 臨床医的観察は病院と教育と結びつき、この二つもまた互いにつながっている。
家庭はかつては真理が自然に姿をあらわす場であったのが、病気の隠蔽、比較を不可能にする場として扱われるようになり、医学的知識が頻度を基準として定義されるようになると、中立的な場としての病院が要請されるようになった。 (第三章p82)
 病院がもたらす疾病形態への変化も、すべての症例が変化を病院という場で同一な意味で受けとる以上無効となる。臨床講義は、病院における変化を、恒常的な形において、経験へ統合することを可能になり、真理の分析が可能となる。
▼病院の領域に特有の条件の作用のもとにすべての医学的知識ができあがる。
 変化や反復が際限もなく作用するにつれ、(帰納によって恒常的なものの見極めがつくようになり)臨床講義は本質外のものを除外することを可能にし、真理へと至る。 reconnaître により connaître される。
臨床講義において真理を発現すると同時に真理を認識するため、教師の再認識と学生の認識の努力は同じ働きのもとでなされるという構造ができる。教師と学生は集団的な一主体をもつ。
 臨床講義において質問の際限のなさを回避するためには、質問と検査とが互いに語り合い、医師と患者との「出会いの場」を規定する必要がある。臨床講義の初めの形態においては、次の3方法によってこの場を決定しようとした。

 

 臨床講義の3つの決定方法 (193-199頁)
一 或る観察において、語られた契機と、知覚された契機とが交互に現れること
ピネルの理想的調査の図式:視覚的標識→何が知覚され得たかという標識→病気の経過の再知覚→ことば
死亡時には臨床医家はまなざしのために身体の解剖をおこなう。
ことば parole とまなざし regard が交互に現れるなかで、病気は次第にその真理をいいあらわすが、その文脈に存在する一つの意味 sense は、見る感覚と聞く感覚の二つの感覚でもってしか総体として復元されえない。


二 まなざしとことばとの相関関係を彫像的な形で規定しようとする努力
 同じ臨床医が眼によって知覚するものと病気が語る本質的なことばを聞き取るものとを、一つの図表の中に統合することができるのかという問題。
フォアダイス…可視的なものと、語られうるものの相関
ピネル…語られうるもの(病気が知覚に呈示する症状)と、症状の価値の相関
 図表は各々の可視的部分がある意味的価値を帯びるから、分析的機能をもつ。しかし、分析的構造が図表自体によって与えられるわけでもなく、現わされるわけでもない。症状と価値の相関関係は図表に先行する。


三 徹底的記述の理想
 見えるものと言いあらわしうるものの間の別な形の相関として、
記述の厳密さは、表現の正確さの結果であり、命名における規則正しさの結果である。
言語に与えられた2つの機能
・正確さを基準に可視的なものと表現可能な要素との間に相関を設定すること。
・表現可能な要素により、記述の内部で一つの命名的機能を働かせること(総体内部での語彙の専門化)。
 可視的なもののの総体から陳述可能な全体的構造への移行が徹底的で、あますところなく行われるとき、この移行の中で、知覚されたものの意味ある分析がはじめて成就されるのである。記述の内発的な力により、病理的事件の偶発的な場と、それらの真実の秩序が表現される教育的な領域との間の関係がむすばれる。記述的なものは現象の後追いと同時に見ることであり、知ることである。
対象の尺度と記述言語の尺度の双方に合わせた節度ある言語(内的尺度)を探求することが求められる。
 これらの方法を支配している神話がある。つまりある純粋な「まなざし」はそのまま、純粋な「言語 language」になるだろう、という考えである。眼は病院の場全体に注がれ、そこで起こる個々の事件の一つ一つを受け入れ、拾い集めるものと考えられている。次第に教える parole となるであろう。

 開かれた科学と実践は変容を蒙り、可視的なものが見えるというのは、language を知っているから、とう理由だけによることになる。臨床医学における記述は、他人に理解されないようにし同業組合的特権を維持することではなく、事物に対してはたらきかける支配力を獲得することを目的とする。
 
第3節 可視的なものと陳述可能なもの (199-203頁)
 しかし可視的なものが陳述可能であるというのは、あくまで一つの要請にとどまり、臨床医学の根源的な原理ではない。この理由として、コンディヤックが可視的なものと陳述可能なものとを同価に把握することを許さなかったことがある。コンディヤックの哲学は分析における発生の論理と計算の論理のあいだの両義性でためらった。
発生の論理…複雑な概念を単純な概念に還元し、これらの発生過程を辿ること。陳述の一貫性を求めるために構文が使われる。
計算の論理…目的のために諸概念を構成・分解して、これらを比較すること。確実さを求めるために組み合わせが使われる。
 しかし臨床医学の方法論では、その両義性をもちながらも、計算の要請から発生の主権へと再び降りて行く。根本的な作業は組み合わせのカテゴリーに属さず、構文上の転写のカテゴリーに属す(認識論的神話の三を参照)。
 当時は見ること言うことが直接的な透明さのなかで通じ合っていた。しかし透明さのこの一般的形態は、言語というものの地位を不透明なままにしておく。この欠陥はコンディヤックの論理学だけでなくいくかの認識論的神話に場を与えてしまう。

 認識論的神話 (p203-210)
一 疾患のアルファベット的構造。
それだけでは何も意味しないが、他の要素と組合わされば、意味と価値を帯び、語り始める

 

二 臨床医学的なまなざしは、疾患の実体 être に対して唯名論的還元をおよぼす。
疾患をすべて名称により記述し、単語に還元する。

 

三 臨床医学的なまなざしは、病理的な現象に対して、化学的なタイプの還元作用を及ぼす。
化学的作業のモデルによって構成要素を分離して組織を決定することができ、他の総体との共通点、類似点、相違点を設定することができるようになった。(半ば言語学的、半ば数学的な)分析の概念は臨床医学に純粋分離、組み合わせの図表化を可能とする。
組み合わせ combinatoire →構文 syntax →化合 combination
 まなざしは化学的燃焼に相当する機能をもつ。このまなざしによって現象の本質的純粋性はとりだされる。燃焼が火の烈しさそのものの中でのみその秘密を語るように、真理は臨床医の語りとまなざしが現象の上にあざやかな光を照らし出すことによりあらわとなる。
▼燃焼とまなざしのアナロジー。叙述としてこれは適当なのか?

四 臨床医学的経験は、すぐれた感受性と同一化する。
 すべての真理は感覚的真理である。分析の全次元は、ある美学のレベルでだけ展開され、技術的な規準を指定する。感覚的真理は五感に対してから感受性に対して開かれる。このレベルではまなざし regard のあらゆる構造は解体され、代わりに一瞥 le coup d’œil の構造がその場所を占める。(p13,28 からすると、まなざしの一種として一瞥がある?)


このことによって、臨床医学的経験に新しい空間が開けてくる。それは秘密の隠れている、不透明な、かの肉塊でもある。ここで症状論的医学は退行し、原因の医学へ。すなわちビシャの時代が到来する。

光と実体

 卒論で使うかもしれないので読んだ論考をまとめてみた。G. バシュラールの『エチュード』収録、『光と実体』である。

 この論考では、光化学の歴史が
・ベーコン的方法の挫折
・実体論的な思考の危険性

を示すことを明かしている。もっとも、ベーコン的方法の挫折については論者はよくわからなかった。また、実体論は科学的思考に危険であることは認めるとして、それは実体の存在を否定することになるのか、そこは疑問である。

 これは『科学的精神の形成』にも通じる話であり、最初の漠然として一般的な経験からはじめて、精密で特殊な関係を織り上げることがいかに困難であるかを示すのである。しかし、『形成』と異なるのは、前科学的精神に立ちはだかる障害の存在だけでなく、ある程度科学が進んだ段階、すなわちフレネル以降の光学がいかにして障害にぶつかり、それを克服していったのかをも説明している点である。結論からいうとそれは振動の数学化、相対論、量子化による質量概念の修正によって実体の概念は否定されるのである。


第1節では18cの化学において光がいかに実体的に扱われ、それが科学的理解を妨げたのかをみている。この分析においてバシュラールは、「吸収」という概念が物質主義的直観を示していることを明らかにしている。

第2節ではショーペンハウアーへの盛大なdisが展開されている。生物学に明るかったショーペンハウアーも、物理学・化学においては前時代的な思考の持ち主であったことが暴露されるのである。そしてその誤った理解の原因としての実体論認識を明らかにする。がしかし、注意しておきたいのは、参照されている文献がなぜかショーペンハウアーの著作リストのどこにも見当たらないことである。訳者も見つけられなかったという。筆者のミスか、偽書の可能性もある。

第3節では近現代においても光の実体論的認識の可能性があることを、保存、写真術、光の振動の例から示している。あまり関係なさそうなので少し端折る。

第4節では、色彩の原因を発色団に帰属させるという実体論的認識が生まれたが、これがいかに現代の科学的精神に近いかを示している。だがそれだけでは光の理解には不十分であり、そこからさらに一歩進めて、実体論に基づかない光の現代的な理解を提示する。しかし難解なので、あまりうまくまとめられていないので、要点だけを示すことにする。

 また分かりやすさのため各節には副題を勝手につけた。▼は論者のコメントである。

I 18cの科学者の実体論的思考—吸収、反射

 例えばニュートンは、光の粒子が物質に変換される、と主張したり、「数日間屋外に置かれた水は浸出液を生じる。ビールを作る発芽大麦の浸出液のように、それはさらに時間がたつにつれて沈殿物やアルコールを生じ、腐敗しないうちは動物や植物に適した栄養となる」という馬鹿げた記述を行う。この思考の混乱の背景にあるのは、光と物質の相互変換は自然の過程としてふさわしいという実体論的思考である。このように 18cにおいて化学者は誰も一つの現象が一つの実体に属していないとは想像もできなかったのである。

 現代の科学は合理論的統一性を求めるが、当時の科学は自然の統一を探究していたのであり、実体論的な思考に陥ってしまうのである。例えば水素の燃焼で水ができることを観察したことで有名なマケは、植物が光を取り入れる際、光は燃素となり、色彩を生じさせるという。すべてを説明するのはいつでも、水がしみ込むように物質が吸収を行うイマージュなのだ。19c初期において化学者のフールクロワは、物質は吸収できない光を単純に返し、返さないものは吸収するという単純な説明を与える。だがしかし色彩の現象は単に反射・吸収だけで語れるものではないのはないはずだ。

 光が植物に影響を及ぼすからといって、光と物質の関係が導きだすことは許されないという教訓をこの2人の化学者の事例から知ることができる。物質主義的直観と、その頂点にある光の現象の包括的で一般的な概念が、初期の化学の実験の不振をまねいたのだと筆者は主張する。

▼だが本当なのかは事例が少なすぎるような気がする。もっと詳細な研究がみたいところ。


II 哲学者の誤り—ショーペンハウアー

ショーペンハウアーの光学への無理解

 光を宝石が吸収して数週間は輝きつづける、光は熱の実体的本質に同化するなど、光の極性の理論への無知を暴露する。しかもそれは光の本性を究明する一つの方法だと主張しているだけに、開いた口がふさがらない、とまで筆者は苦言を呈す。ショーペンハウアーは直観において、自然は直接的でしかも一般に開かれていると考える。しかし実際は、最初の接触では、非科学的な、漠然とした事実を与えるだけだ。予め理論的システムがなければ科学的事実は定義されえないのである。


 ショーペンハウアーにおいて物質的な考え方は自然のものとして明快に与えられ、それで心理学が解明できるとまで考えている。背後には独身男の吝嗇(『形成』二二四-二五四頁参照。宝石などの貴重な物質に薬学的効用があるなど数多の価値を付与させる傾向のこと。)が存在する。このようにして人は吸収作用の直観の根柢にいたる。

 ショーペンハウアーは生物学の知見に関して、洞察力と直観でもって優れた思索を繰り広げながらも、同様に物理学にも挑戦できると思い込み失敗した。直観が最初の錯覚である見事な例である。また無媒介な実体論的説明が人を惑わす説明であることの証拠でもある。


III 保存、写真術、光の振動における物質的思考

 光の振動を物質の振動として解釈するケースがあまりにも多かった。現代では、振動はその数学的特徴によってとらえられる。方程式のあとでそのイマージュを使うのであって、逆ではない。

▼視覚表象が科学的発見の根拠となったケースはあるのではないのか?


IV 有機体の色彩の構成化、エネルギーの量子化

 現代の科学的精神において、実在は無媒介で最初のものであることを否定され、理論体系のなかで再構成される。ミクロな物理学では質、量、連続、不連続という概念は相互に交換されるという弁証法的な過程をとり、実在性は確率的な手段によってのみ予見可能とされる。時間と空間の絶対的分離の上に全面的に組み立てられている実体の観念は、おそらく根本的な修正を受けなければならない。

①粗雑な実体論的な直観に近い形式でも、吸収の法則を理論に取り入れることでそれを数学的に研究できる。しかしそれでも物理実験の数学化の真の価値は与えられない。

 例えば有機体について、色彩の選別的吸収は化合物組成における基の存在による。この化学的な基によって、もっとも不透明な、もっとも濃密な、もっとも甚だしい実体論的な質についていえる。つまり発色の原因を、ニトロ基やアゾ基などの発色団に帰属させるわけだ。それまでは「インクは光を吸収する」という風に帰属のカテゴリーのもとで述べられるに過ぎなかった。色彩は実体的に存在するのではなくて、構成されるというわけだ。

さらに化学者は均一的思考の理論として、実体的な性質決定の問題からエネルギーの量決定の問題に移行する。エネルギーの構造的性質を解明するとき、光化学によった。このとき、直接的な実在論から、理論先行の思考が生じたが、このとき、実在は本源的価値を失い、理論的な形で実在化するのである。

▼百頁の記述だが、全くよくわからなかった。

 新たな科学的精神における科学の特徴を論者が勝手に挙げてまとめると以下のようになるだろう。

・実在が無媒介で最初のものでなくなり、理論的体系のなかで実在を再構築する必要がある。

・ミクロな世界において、質、量、連続、不連続というような外観は、相互に交換される弁証法的思考が行われる。マクロな世界で考えられてきたように実体論的に質と量を分離することはできない。

・ミクロ物理学における実在性は確率的な手段によってのみ予見可能である。


 時間と空間の絶対的分離の上に全面的に組み立てられている実体の観念は、おそらく根本的な修正を受けなければならない。エネルギーのタイプの一つが、ある普遍的定数と振動数との積として表現されるとき(hν)、エネルギーは実体であり、不変量であり、恒常的要素であるといえなくなる。そのとき直観的教養を逆転しなければならない。物質が精神に第一の教えをもたらすべきなのではない。放射能と光がもたらすべきなのである。光を物質によって説明すべきではなく、物質を光によって、実体を振動によって説明すべきなのである。

▼構造化学についてもっとよく勉強しておこうと思った。


出典

G. バシュラール 「光と実体」『エチュード : 初期認識論集』収録 及川馥訳、法政大学出版局、1989。

参考文献

G. バシュラール 『科学的精神の形成』 及川馥訳、平凡社ライブラリー、2012、二二四-二五四頁。

技術への問い

 この記事では、ハイデッガーの技術論について考えていきたいと思う。現代の原子力技術、ひいては今回の福島第一原発事故を語るうえで有力な概念であるように思えるからである。方針としては、ハイデッガーの技術論のエッセンスが詰められたテクスト「技術への問い」を解題しながら、中心概念「集-立(Ge-stell)」を検討していき、それが現代のわれわれの経験した原発事故を語るうえで有効であるかどうか、検討する。

背景

 議論の中心となるテクスト『技術への問い』は、1953年の講演をもとに編纂された論考であるが、その年の前後でハイデッガーにとって技術は彼の存在論にとり重要なテーマであった。当然技術論の背景には大戦における原爆使用、原子力の平和利用の風潮、そしてハイデッガー自身のナチス関与も関係していると思われる。エルンスト・ユンガーの政治哲学を読んでいたこともあり、政治的な次元をも見せている。

技術のギリシャにおける定義

ドイツ語:Technik

ギリシャ語:τεχνικόν(テクニコン)…τέχνη(テクネー)に属するもの。

 

目的:技術との自由な関係 

技術の道具的規定…正しい、しかし、必ずしも真ではない。(目前の事態に確かに則するが、事態の本質を必ずしも露呈しない)

問い

・道具的なものとは、それ自体なんであるか?

・手段と目的というようなものは、どこに属するのか?

 

四原因(質料因(銀)、形相因(皿)、目的因(供え物を捧げる儀式)、動力因(銀細工師))は責めを負うことの相互に属し合う四重のしかたである。 

では四原因の統一はどこに由来するのか?

… Her-vor-bringen(ポイエーシス:こちらへと、前へと、もたらすこと;製作) 

「〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉とは、伏蔵性(verborgenheit)からこちらへと、不伏蔵性のうちへと、前へともたらすのである。」   (SZ で語られる存在の開示との関連)

つまり、因果関係は現前していないものを現前させるはたらきに本質がある。

不伏蔵的なものに至るのは、開蔵(Entbergen

bergen: を収容する、を救い出す;を所蔵している

開蔵(Entbergen)…アレーテイア=真理を生起すること

 

われわれはどこに迷い込んだのだろうか?

テクネーの二つの意味

・ポイエーシス。テクネーは手仕事だけでなく、芸術、詩の領域にも属する

・真理認識の形式。まだ手許にはないようなものをもたらす。したがってさまざまな結果にもなりうる。               (SZの議論とも関連)

 

普通技術とは目的のための手段と考えられているが、しかし四原因を考慮すると、目的のために手段として用いるだけではなく、ものの方から製作することを働きかける構造も存在する

p21「この開蔵は、あらかじめ船や家の形相と質料とを、完全に観取され仕上げられたものに向けて収集するのであり、そのものから製作のしかたを決めるのである。」 (道具的連関との関連)

 

技術は開蔵のひとつのしかたである。技術の本質が発揮されるのは、開蔵・不伏蔵の領域、すなわち真理が生起する領域である。

 

 

現代技術 p22

近代科学とむすびついた技術

現代技術はポイエーシスとして〈こちらへと-前へと-もたらす〉のではない。

Hervorbringenとしてその働きを展開することはなく、その開蔵は一種の挑発(Herausfordern)である。

自然に対して、エネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せと要求すること。自然に身を任せるあり方から、自然を挑発(つまり、開発)するあり方へと変化した。

土地は炭坑として現出する。農耕はいまや機械化された食品工業である。

ウランは破壊あるいは平和利用のために放出される原子エネルギーのために調達されるのである。

水力発電所がライン河に据えられている(gestellt sein)

据える→調達→稼働→作り出す(herstellen)→供給のため用立てる

このプロセスにライン河もなんらかの用立て(bestellen)られたものとして現出する。

建て(bauen) られる橋とちがい、河が発電所の用材として使わ(verbauen)れている。

用立て可能な物件(bestellbaures Objekt)

 

現代技術を支配する挑発による開蔵は、それ自身複雑な経過を経る。

用象(Bestand: 「在庫」の意味も)…対象とは異なる、用立てられたもののあり方(Stand)。用立てられるときはじめて技術は存立する。

旅客機のたとえ…旅客機は確かにひとつの対象であるが、そもそもそれが何であり、いかにあるかという点で伏蔵される。輸送のためにはこの機械自体の全体構造が、用立て可能になっていなければならない。つまり離陸可能になっていなければ。

挑発する調達を行うのは明らかに人間だが、「そのつど現実的なものが姿を現したり、あるいは退去したりする不伏蔵性という領域を、人間は意のままにすることはできない。」

「すでに人間のほうが自然エネルギーを開発するゆおに挑発されている場合にのみ、このような用立てする開蔵は起こりうる。」そのような場合には、人間もむしろ自然よりいっそう根源的に、用象に属するのではないか?

p31 物質や人間など現実的なものを人間が開蔵するように挑発する体制…Ge-stell

 

Ge-stell とは

Gestell:台、骨組み、棚、フレーム、骸骨;やせこけた人

Ge…集められる(例 Berg : 山 → Gebirge : 山脈 )

stell…立てる

訳語としては、集-立、総かり立て体制(政治的ニュアンス?)、徴発性、などがある。

がっちり組み合わさっているが、どこかガサツな感じで組合わさっているような背後の組み合わせ。外部からわれわれに働きかけるのではなく、密かにわれわれの内部に巣くっていて、逃れることができない。

 

自然科学の Ge-stell への寄与

自然科学の応用として技術があるのではなく、自然科学が自然それ自体を算定可能な諸力の関係として提示することにより用立てることで、Ge-stell を用意する。

「自然についての近代物理学理論は、先駆者であるとはいえ、まずもって技術の先駆者であるというのではなく、現代技術の本質の先駆者なのである。というのは、用立てる開蔵へと挑発しつつ収集することは、すでに物理学のうちにも存するからである。」

「現代技術の本質はGe-stellにもとづいている。だから、現代技術は精密な自然科学を利用せざるをえない。このことによって、現代技術とは自然科学を応用したものであるという虚偽の見かけが生じてくる。この見かけがもちこたえうるのは、近代科学の本質由来も、現代技術の本質さえも、十分徹底的に問われないあいだだけである。」

 

p37「Ge-stell そのものがそれ自体であるところのものを熟慮するなら、われわれは自分がどこにもたらされたと思うだろうか?」

人間の Ge-stell によって挑発されるあり方

「Ge-stell そのものがその本質を発揮している領域にわれわれはことさらに参入しているかどうか、参入しているならどのようにしてか」

技術の本質との関係にどのようにして達するべきかでなく、どのように参入しているかを問うべき

現代技術の本質は人間を開蔵するよう導くのだが、その開蔵は、現実的なものをすべて用象にしてしまうような開蔵。

 開蔵、自由、命運

自由になるために大事なのはこの技術の命運に隷属することではなく、それを傾聴することなのだ。

 

救い p46

「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」

「技術の本質は、救う者の傾聴をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」

どのようにかというと、

技術の本質たる Ge-stell を熟慮すること。そうしないと技術の本質のなかの救うものを洞察できない。

Ge-stell は具体的な器具や用象にとっての一般的な概念を意味しない。

 

「人間の本質の尊厳は、あらゆる本質の不伏蔵性と、これとともにそのつどそれに先立ってあらゆる本質の伏蔵性を、この大地のうえで見守ることにある。」

「それゆえ、きわめて考えがたいことではあるが、技術においてその本質を発揮しつづけているものは、それ自体のうちに救うものが立ち現れうることを蔵しているのである。」

技術の原初的あり方=芸術的なあり方に立ち戻る

 

問題点・論点

・風車と原発の違いは?

—風車は風に頼るが、原発はウランを利用する

・果たしてこれらの議論から現代技術の問題に対する解決策を示すことができるのか?つまり、脱原発すべきか否か、なにか帰結は導けないものだろうか。

・本質主義的側面がどうしても避けられない。

 

批判点

加藤尚武:「(挑発は)昔日の風車にも言えないだろうか?いや、そうはいえない。たしかに風車の跳ねは風で周り、風の吹くのに直接身をゆだねている。しかし、風車は貯蔵するために気流のエネルギーを開発したりしない」。しかし、風車もヨーロッパにもたらされた当初は、なじみのない不気味なもの、まさに Ge-stell であった。

 

村田純一:ハイデッガーの想定する技術の時代とは、技術が完全な計算性、機能性でもって人間存在を支配する世界であって、今回のような技術の欠陥による現実の危機としての原発事故は想定にいれていないのでは。

「もし原子力の制御が成功しますならば、そしてそれは成功するでしょうが、その時、技術的世界の従来とは違ったまったく新しい発展が始まるでしょう。(GA16, 524)」

 

 

年表

45 終戦

46-51 教職追放

49 ブレーメン講演(虚無化。水素爆弾による絶滅可能性の根柢にある「戦慄に陥れるもの」)

53 講演「技術への問い」、アイゼンハワー演説

57 フライブルク講演

(53年の講演は、学術界への復帰を賭けという意味もあった)

 

参考

ジャン=リュック・ナンシー「技術とは諸々の操作的な手段の総体のことではなく、われわれの存在様態なのだ…。この様態は、われわれをこれまで未聞の合目的性の条件へとさらす。すなわち、あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段になるという条件である。ある意味では、目的も手段ももはやない。一般的等価性は、こうした両義的な意味をも有している。あらゆるものが相互に送り返されるなかで作動するのは、あらゆる構築物の破壊ばかりではなく、それとともに、集め合わせることなき堆積(assemblage)という意味で、私が集積(struction)と呼びたいものなのである。」

 

道具分析とは(SZ)

世界内存在としての現存在の内世界的存在者との関わりのあり方において現れる。

世界における日常的な交渉のあり方は、「仕事をしつつ、〈道具〉を使用しつつ、配慮すること」。このときの道具のあらわれ方を「手許存在(Zuhandensein)」という。この存在は「客体的存在(Vorhandensein)」とは異なり、単に現存在の手前に現前するのではなく、有用性のもとで現れる。ハンマーを使用するとき現存在はそれと意識すること無く釘を打ち付ける。さらに道具は「…のための(Um-zu)」という性格を現わし、目的を指示する。ハンマーは釘を打つための、釘は柱を固定するための、柱は家を成り立たせるための、家は住まうための…というような全体的指示連関の構造を示す。(倫理学 6, 17-26, 1988-00-00 筑波大学 を参考にまとめた)

参考文献

ハイデッガー, M : 関口浩訳「技術への問い」 (平凡社 2009)

「科学と技術への問い―ハイデッガー研究会第三論集」(理想社 2012)

加藤尚武編「ハイデガーの技術論」(理想社 2003)

SZ は [Sein und Zeit] の略

 

GA は Heidegger 全集[Gesamtausgabe] の略 (http://gesamtausgabe.wordpress.com)

「風立ちぬ」について 断章

もう二週間ぐらい前になりますが、風立ちぬみました。正直堀辰雄原作、声優が庵野、零戦作るってことしか事前に知らなかったのですが、反則です。ヒコーキ作るという男のロマン、戦前のホモソーシャル的世界観に夫婦愛というヘテロ的なものを(宮崎作品にしては異例なくらいに)露骨に導入して、これで感動しない訳がない。タバコ、評判通りやたらと出てきたけど、これないとカストルプ(仮)氏との交流も味気なくなるし、何より、結核に響くかもしれんのに菜穂子に望まれてタバコ吸うという名シーンが存在し得なかった。もちろんこのシーンには賛否あるでしょうが、それでもこのシーンには何か胸の奥を揺さぶる何かがあった。なかなか言語化できないのですが、死の可能性を早めるかもしれない行為でもあるにもかかわらず、タバコという二郎の逸楽は、実は夫婦の共同的な形で菜穂子夫人にも承認・共有され、今を生きる生、夫婦愛が強調される感じがするのです。他にもこの映画は我々の精神に直接訴えかけるようなものが数多くありました。でも未だうまいこと言語化できていないので、断片的な形で挙げておきます。語末も「だ」、「です」でバラバラです。

キーワード
ホモ的なものとヘテロ的なもの
引用の文脈(魔の山堀辰雄)
夢か現か
夫婦の実存

かなり教養感溢れる映画でした。字幕なしの独語仏語伊語、ポール・ヴァレリーの一節、畳み掛けるような専門知識の数々、トーマス・マンの「魔の山」。療養先がまんま魔の山だっただけでなく、ドイツ人のおっさんが手紙内で主人公のカストルプに例えられていたことに気づいた人はあまりいなかろうと思われます。まああれだけ宣伝してれば名前バレくらいするでしょうが。サナトリウム文学の最高峰、大戦期を代表する教養小説(Bildungsroman)の要素が、日本を代表するアニメ監督の総決算に引用されてるということだけで個人的には胸熱なのですが、何故ドイツ人にカストルプの名前を与えたのか、そしてそれが作品に何を投げかけているのか、気になるところではあります。

零戦設計者という、どう考えても戦争に加担していた人間を、その伝記を通じてひたすら戦争人ではなく「夢を追いかけた者」として描く試み。それは偽善なのか、エゴなのか。
一見右翼的な内容に見えるのですが、その実軍事に関わった人間の半生を通じて、戦争の醜さや格差の矛盾をカストルプや本庄から突きつけられ苦渋しながらも、それでも自己の、引いては夫婦の夢のために軍部に加担する。夢を貫こうとした人間の悲劇を通じて戦争の呪われた力を浮き彫りにするのであって、決してナショナリズムに与した内容ではないと思うのだが。堀越のアイデンティティが軍属ではないということを示すのがラストの、菜穂子夫人が高原へ戻って行くのを察するシーン。夢であったはずの零戦試行についに成功したのに、視線は飛行機ではなくて山脈を向いている。夢として、また実用化の観点からも喜ぶ他者たちとのコントラスト。勿論飛行機を蔑ろにしているわけでは無いのだが、堀越にとって飛行機の夢(ホモソーシャル的)と夫婦愛(ヘテロ的)は等価なのである。現実の堀越二郎の時代的にも分野的にもホモソーシャル的な生と、堀辰雄の小説のヘテロ的な生の奇妙な会合。

時系列順に語られる割には、やけに場面転換がさらっとしすぎというか、移り変わりが分かりにくい。ハウルでもソフィーがいつの間にか変身してたりしてたけど。あと「夢か現か」という表現がしっくりし過ぎるくらり夢と現実の境目が曖昧だった。全体的にそうだがそれが極まるのは勿論ラスト。
関東大地震の描写とか、冒頭で割と操縦のリアルな(まあ子供が操縦してる点あり得ないのだけれど)夢の描写してたり、描写そのものがとても地震とは思えないというか、駿らしくファンタジックにバウンドしてるような描き方してるので、初めこれが現実だとは思えなかった。「夢か現か」の一つ。

堀越二郎の決して軍事と夢の葛藤に揺れながらも軍事的要請に溺れることなく夢を夢としてつき通そうとする姿勢、死の床にいる夫人とともに夢を目指し死への先駆を行う(最後は独り生きるけど)姿勢にはかなりハイデッガーと共鳴するところがあると思うのだが…ただハイデッガーは個人の実存様式しか究明しておらず、風立ちぬの夫婦のような共同で死へ先駆するような存在者には特に言及しているわけではない。むしろハイデッガーにとっては共同するのは頽落だ。恋愛の現象学、多分誰かやってると思うのだけれど。以前読んだ吉本隆明の理論やそれの上野千鶴子の説明が有用かもしれない。うろ覚えだけれど、人間の存在様式には次の3つがある。個人としての存在、集団としての存在、そしてカップルとしての存在。これらを現象学的に扱えればよいのだが…

 

ドキドキ!プリキュアの衣装について:プリキュア達とレジーナ

 アニメ―ジュのプリキュア小特集にて、キャラデザの高橋氏のインタヴューが載っていた。レジーナの衣装は「コンセプト的には、ほぼプリキュアの衣装です」という発言があったので、少し気になった。レジーナは体裁上はキングジコチューの娘として、敵側に位置するはずなのに、やたらとマナと(いくらなんでも百合百合しすぎではと思えるくらいに)仲良くなったり、果ては一度は反抗してプリキュア側に寝返ったりする。現在進行形のストーリー展開でも、愛を失い父親のためにプリキュアに敵対しているにもかかわらず、キュアハートはレジーナを「救う」ことを目的の一つとする。単純な勧善懲悪の物語展開ではこんなことまずあり得ないわけで、敵は敵、見方は見方である。ダースベイダーのように寝返ることはあるだろうけれど、とらわれの姫君でもない敵の状態のままの相手を救済する物語なんてあまりお目にかかれない。大体デザイン的にも他のジコチューたちと全然違う(髪の色、耳の羽根、目の色、etc)し、多分伏線かなにかをすでにデザインの段階で仕込んでいるのだろう。ただ展開的だけじゃなくて、この物語の意味内実の解釈においてもレジーナのポジションは重要な要素となりえるのだが、ここではそれは置いといて、レジーナのキャラ造形がいかに「どっちつかず」かを見ていくことにしてみたい。レジーナは敵でも見方でもないのだ。このインタヴューからすると、それは衣装にも表れているのだと考えることもできる。そこで同誌に載っているキャラデザインを見てみて、レジーナとプリキュアたちとの共通点を調べてみることにしたい。まず他のプリキュアたちの衣装の共通する特徴を見てみよう。

 

①髪のロール。全員が変身後髪が伸び、ぜんまい型に毛先を巻いている。エースは若干分かりにくいが、変身前と比べて髪型が丸みを帯びているようなので同じ傾向とみなしてよかろう。ぷにぷに感やフワフワ感を出すためらしい。

②花弁のモティーフ。スカートや袖等に注目すると、合弁花のごとく身体のまわりをまとっているように見える。またハートのこめかみや腰のリボンは桜の花びらに見え、ハート、ソードのシュシュ、ダイヤのカチューシャも合弁花の形をしている。ロゼッタは具体的に花の形をしており(何の花かはよく分からない。ダリアが近いかもしれない)、エースは…ない?代わりに他の4人にはない蝶型があるけれど…

③ハート型。4人が左胸(心臓の位置)に、エースが胸中央と頭部のリボンにハートの飾りをあしらえている。キュアハートは勿論それだけでなく、手足にもそれぞれ飾りを、またリボンもよく見るとハートの意匠がある。イヤリングもそう。

④トランプ柄。名前の元ネタなんだから当然入ってるはずなのだが、意外と押しが少ない。キュアハートは前述の通りだが、エース除くほか三人はイヤリングと頭部にあしらえている程度。エースはイヤリングはよく分からず、例の化粧道具(ラブアイズパレット)入れるバッグにあしらえられているのが分かる。でもそれだけ。アニメだとトランプ柄やたら見かける気がするけど、多分ポージングのせいだ。

⑤リボン。全員ウェストあたりに大きなリボンがある。エースは後ろにまわし、また前述のとおり頭部にも蝶リボンがある。ロゼッタ・ソードは腕飾りにつけ、ロゼッタだけはブーツにもあしらえている。

⑥ヒール。ロゼッタ除いて総じて高めのヒールをしている。ロゼッタはバンクでも分かりやすいと思うが、若干低め。低身長に合わせたためか(そもそもヒールは全長高くするためにあるはずだけれど。)以前だとヒールは女性の身体的自由を拘束するとしてやたらとリブなんかでバッシングされていたけれど、現在はどうなんだろ。てか、あれで運動できんのかな…?

⑦チョーカー。分かりにくいけれどみんなこれつけてるのは意外だった。

⑧全体的に服に白色の要素がある。

 

 …かなり長くなったが、概して8つの特徴が挙げられると思う。あとみんなかわいい。ではレジーナの衣装について見てみるとする。

 概評としてはこんな感じ

 ①× ②◎ ③△ ④× ⑤◎ ⑥◎ ⑦◎ ⑧×

 こうして見てみると案外高橋氏のいう通り共通点をかなり見て取ることができる。服は全面的に合弁花をあしらえているし、ヒールもチョーカーもある。リボンはいわずもがな。ハート型も飾りはないものの、リボンがしっかりかわいいハート型に結んである(一応そのへん意識しているようだ)。悪堕ちしてリボンの色が赤から紫になったのは、プシュケーが黒く染まるシーンをそのまま服装に表象しているように考えることができるだろう。

 ないものを見ていこう。④がないのは当然だが、①⑧がないのは大きい。プリキュアたちは愛の象徴としてデザインからも抱擁感を感じさせる。レジーナにはそれがない。変身前のマナと似て若干髪が外はねだが、それは子供らしい外部への興味、または悪意か。そしてレジーナには白色の部分が存在しない。あるのは白と対照的な特徴的な黒。多分これがプリキュアと隔てる要因となっているのだろうか。

 総じて見ると、一見異質などす黒いゴスロリ的デザインに見えて、実はプリキュアたちと相当共通点をもたせていることが分かる。基本的にプリキュアたちは変身によりヒールや飾り等、派手な要素を身につけるのであるが、レジーナにはそれが最初から備わっているのである(まあそのままの姿で戦うからというのもあるけれど)。相違点もハートが少ないとかトランプ柄がないとか些細なもので、髪もキャラの個性としては丸よりも現状のほうがふさわしい気もするし、必要要素に思える。こうして見てみるとレジーナは衣装的にも「悪堕ちしたプリキュア」の要素を存分にあしらえていることが分かる。それが何を展開的に意味するのかは、今後の展開に任せるとして、キャラクターのコードとしては、プリキュアの装飾をもち主人公に愛されながらも、敵将の娘というアイデンティティをひっさげて敵対するという、なんとも奇妙な構図を隠し持っていて、それがとても興味深いのである。