錬金術師の隠れ家

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傘木希美という「作品」ー『リズと青い鳥』を巡って(みぞれとは別の視点から考察する)

危機の存在するところ、救いもまた育つ。(ヘルダーリン)

 

 「物語はハッピーエンドがいいよ」とは、映画『リズと青い鳥』のなかで希美が言った言葉であるが、これは呪いの言葉である。それというのも、物語を楽しむ者は、実際に語られる出来事を無理にでもハッピーエンドにつながる出来事に解釈してしまいがちになるからだ。この呪いは鑑賞者だけでなく、語る本人にもふりかかる。希美はハッピーエンドを欲しているが、彼女が実際経験した出来事はハッピーエンドにつながるものといえたのだろうか。

 

危機

 こんなことは『リズと青い鳥』を最初に見たときは考えもつかなかった。それというのも、二人がハグを重ねた後に挿入される二羽の鳥が飛翔するイメージは、二人の永遠の愛を物語るハッピーエンドを示唆するものに見えたからである。だが、何度も見返しているうちに、その直前のシーンで画面と語調が雄弁に語るのは、とても明るい感情などではなかったと気づいた。

 みぞれが「大好きのハグ」を無理やりにでも希美に行うシーン。このゲームでは抱きしめるみぞれだけでなく抱きしめられた側の希美も相手を抱きしめて相手の好きなところを言わなくてはならない。みぞれが強い意志を抱いて希美を掴んで離さないのとは対照的に、希美はゲームのルールに強制されて手を添えているだけのようにみえる。劇伴はクライマックスを盛り立てるのでなく、二人の成り行きを見守り続けるかのような静かな音である。みぞれが希美の「すべて」を開陳するがごとく笑い方や足音の細部に至るまでを挙げ連ねるのに対して、希美はただ一言「みぞれのオーボエが好き」という。沈黙の後、ごちゃごちゃし出した感情をかき消すかのように笑い出した希美は、「ありがとう」と三回みぞれに語りかける。この「ありがとう」が問題で、かなり含みを込めた言い方になってるのである。

 極め付けに、舞台挨拶やパンフレットでの対談では、次のような証言がある。作品外の情報を参照するのは不粋であるし、作品内から導き出される解釈の妨げになりかねないのであまりしたくはないのだが、これは引用せざるを得なかった。これらの発言、結構気にしている人もいるのではないだろうか。

 

山田尚子:ラストの大好きのハグをするシーンで、希美がみぞれに言う「ありがとう」って、額面通りの「ありがとう」だけではないと思っていて。(パンフレット、p.13

 

東山奈央:未来に向かって進むことを選んだので、希美も前進はできていると思います。ただ、その清々しさって普通のものではないんですね。大好きなみぞれが、無口なみぞれが、言葉を尽くして希美のいいところをあげてくれても、そこに自分が大切にしていたフルートのことは入っていないんですよ。だから笑うしかない。「ありがとう」と告げるシーンも心からの感謝ではなくて、「もう結構です」という意味も込められているんです。だから、希美はあきらめつつ、前進を選んだという感じなのかなと思っています。(超!アニメディア: https://cho-animedia.jp/special/41881/ 2018.05.14アクセス)

 

 抱擁は人間関係を描く作品群のなかで常にクライマックスとして表現されてきた。それは和解の象徴であった。だが、『リズと青い鳥』では和解どころか、冒頭から繰り広げられている、一見仲の良さそうにみえてその実全く交わる様子のない希美とみぞれの二人のずれの延長が描かれているのである。

 これがハッピーエンドにつながるといえるどうして言えるだろうか。

 

救い

 ……と、反語調で本作に対する怨恨を叫ぶ人は多いだろうが、実は傘木希美は上手いことハッピーエンドなるものを導き出そうとしているのが、ハグの直後のシーンを見るとわかる。

 希美はみぞれと別れて一人になってから、みぞれを吹奏楽部に誘った過去を思い出している。その後スーッと息を吸い込み、笑顔を取り戻し、前を向いて歩いていく。後ろ姿をみると、左手で右手を掴んでいる。

 ここで疑問が浮かぶ。先のシーンで希美は欲しい言葉を言って貰えなかったにもかかわらず、なぜ前向きな顔をしているのだろうか。

 このシーンでポイントとなるのは、①過去の回想を入れていること②色彩表現と相乗的な行為、の二点である。

 

 ①について。ここで希美はみぞれと初めて会った時のことを思い出しているが、それだけでも本作でかなり特異なシーンと言える。それというのも、希美による回想シーンは今まで一度も入ってこなかったからである。これは、希美との思い出が頻繁にイメージとして表現されていたみぞれとは対照的である。今まで一度もなかったものがここで導入されることに意義がないはずがない。

 みぞれは文字通り「過去を生きる」人である。「希美にとって何でもなくったって、私にとってはずっと今」という台詞にもある通り、希美と一緒にいる思い出に幸福を覚え、希美が去っていった過去に恐怖する。度重なる回想シーンだけでもよく分かるが、それだけでなく、みぞれが希美と単に顔を合わせるシーンや、離れるシーンだけでも過去が再現されていることがわかる。永遠に繰り返される喜劇と悲劇。それは、彼女の生の混沌を物語っているともいえる。

 それに対して希美は過去を過去として振り返るつもりはあまりない。むしろ、希美の口から二回も発せられる「ハッピーエンド」という未来を志向しているようにもみえる。

 この「ハッピーエンド」なるものが一体なんなのかは知る由もないが、少なくとも例のハグのシーンで希美がみぞれに望んでいたことを「ハッピーエンド」につながるものとみなすことはできる。物語のクライマックスに現れるハグは、和解の象徴であり、したがってハッピーエンドを導くのだから。だが、結局希美が望むところの「希美のフルートが好き」とはいってもらえなかったわけである。ここから希美はどう折り合いをつけていくのだろうか。

 ここで希美が持ち出した戦略というのは、まさしくみぞれが常日頃行なっている「過去を生きる」ことである。みぞれは希美と一緒にいるためにオーボエを続けてきた。みぞれは常に希美との思い出から承認を貰って生きている。こうした生存のスタイルを希美はここで初めて導入する。妬みもし愛しもする音を、自分のために作り上げてきた鎧塚みぞれという人物を音楽の道に誘ったのは、まさしく傘木希美自身であった。みぞれが希美の声によって未来に向けて旅立つ己の実存を呼び覚まされたのであれば、希美の場合はみぞれに声をかけたという記憶そのものが希美自身の実存を呼び覚ます。この回想の直後、希美が前向きになったのは、まさしく自分がみぞれを音楽の道に導いたことを自覚したからではないだろうか。

 ここで生じた感情の名前はなにか。言葉では表されてはいないが、少なくともこのシーンで行われている無意識的な行為の意味をみていくことで推測することはできる。

 

 ②希美が前向きになったことの確証は、本作の色彩表現や登場人物の行為にも現れている。

 本作では希美とみぞれという二人の人物の対照性を表現するために、両者の好きな色であるところの赤と青、暖色と寒色の対比が使用されている。 *1 希美が愛用するピンクの腕時計は本作全体を通じて希美という人物の存在を表象し、みぞれが希美から貰い大切にしている青い羽根は、依存と幸福、自由というみぞれのあり方を示す。また両者の目の色が互いをみているかのように互いを表す色を映しているところに、色彩による対比と相互性が明瞭に現れているといえる。また童話パートでも、青い鳥はいわずもがな、リズも赤みをおびた服を着ており、また赤い実の存在もあって、純色によって赤と青の対比が表されている。

 そして、両者の混色であるところの「紫」は、実は本作ではあまり用いられていない。他の登場人物の瞳が紫色であったりはするが、希美とみぞれの装飾品や背景に紫色はなかなかみられない。また、青や緑、黄色を用いてリノリウムの床を照らし出すことはあるが、紫がかった光景は不思議なくらいみられないのである(童話パートには紫の色相は普通に見られるが、むしろ本編の緊張感を和らげるために多様な色相を使っているとみるべきである)。そして、帰結部ではベン図のイメージで赤と青が混じり合い紫色を形成する様子が描かれる。 *2

 

 このように希美がみぞれと重なり合う色であるところの「紫」に至るために、希美は自分の色であるところの「赤」をどのように使用しているだろうか。注目すべきは希美の印象的なピンクの腕時計である。

 生物学室で希美とみぞれが対話するシーンでは、希美はみぞれに隠すように両手を後ろに回す。この動作が「みぞれが思ってるような人間じゃないよ。むしろ、軽蔑されるべき」という台詞と並行しているとすれば、このとき隠されることとなる希美の腕時計は、希美の存在そのものを表象しているといえる。そして、髪をいじる癖をやめてスカートの裾をしかと握りしめ、希美に思いの丈をぶつけるみぞれとは対照的に、しきりに足を交差したり、腕時計をいじったりと希美の動きには癖が多発する。特に自分の存在を表す時計を右手で思い切り握りしめてしまうのは、自分自身に対する自戒とみなして差し支えないだろう。この強く左手の腕時計を締め付ける動作は、みぞれがハグを強行することで中断させられる。

 回想直後のシーンに移ろう。希美が歩くのを後ろから映すカットであるが、ここでは先ほどとは逆に、左手で右手を軽くつかんでいることが確認される。先ほどの自嘲的な行為とは対称的な動作は、そのまま行為の意味の逆転も意味していると考えるべきであろう。そして、こうした逆転が可能になったのは、過去を思い出すことによる自身の実存の再構成によるのである。深呼吸をして自分自身に息を吹き込むのと同時に、フルートの音を好きといってもらえなかった絶望を、みぞれという存在に関わる別の感情に置き換える。それによって自嘲的な気分から抜け出すことができたとすれば、ここで生じるのはみぞれを音楽の道に誘ったことの「誇り」とでもいえるものだろうか。この誇りによって、自分で自分をしめつける苦しみから解放されるのである。

 

まとめ

 『リズと青い鳥』のクライマックスでは、少なくとも、みぞれが自分の欲しい言葉をくれなかったあのままでは、希美にとってのハッピーエンドになりえなかったのが、みぞれとの出会いを思い出すことによって、上手いことハッピーエンドに昇華できているようにみえる。出会ったときから希美に自身の存在理由を託していたみぞれと同様に、希美もまたみぞれを自分の存在の条件として自己を確立していくことになる。

 これはある意味で、自分という「作品」を作り上げるまでのプロセスであるといえる。希美の一言によって喜劇のクライマックスと悲劇のクライマックスを次々と繰り返すみぞれの生はいつも「最終回」であり、完結性を重んじる作品としては到底成り立たないという意味でも「狂気的」と言えた。それとは対照的に、希美はちゃんと物語の落とし所を物語という枠の終盤に落とし込み、自らの生という「作品」を作り上げるのである。

*1:宝島社の公式ホームページより( http://tkj.jp/info/euphonium/ )。厳密には、希美の好きな色は紫とピンクなのだが、本作では少なくとも希美が紫系のファッションをしている描写はない。

*2:紫色が効果的に使われるのは、「あぁ神様、どうして私にカゴの開け方を教えたのですか––。」と、希美が童話の最後の一説を呟くシーンである。ここでは希美が校庭の藤の木の絡むあずま屋のベンチに腰掛けて外を見ている。このシーンの重要性は、童話のセリフや校庭に一人で出るという行動でもそうであるが、色彩表現にも現れている。まず、希美とみぞれを表すところの赤と青が、ここで初めて、紫がかった空と街並みとして混じり合う。希美とみぞれが互いの立場の逆転を自覚するという仕方で、両者は混じり合っている。このシーンの直後、希美とみぞれの決定的な断絶が明らかになるのだが、少なくともそれを認識するための一歩を両者は共有したといえる。