錬金術師の隠れ家

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A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons

 駒場図書館が分厚い図書を要望に応えてわざわざ入れてくれたので、その中の論文を一つ読んでまとめることにする。European Philosophy of Science – Philosophy of Science in Europe and the Viennese Heritage, ed. by Maria Carla Galavotti, Elisabeth Nemeth, Friedrich Stadler, Dordrecht: Springer (2014) 収録の、“A matter of substance? Gaston Bachelard on chemistry’s philosophical lessons” by Christina Chimisso である。 European Philosophy of Science には他にも論理実証主義の勃興についての論文など科学哲学に関する興味深い論文が多数収録されているが、関心にそってひとまずこれをレビューする。興味がある人は借りて読んでほしい。何しろ200ドルもするので読まなきゃもったいない。
 
 哲学者たちは物理学ほどは化学に対して注意を払ってこなかった。しかし20世紀前半のフランスでは、カント的な意味での実体の問題をめぐって論争が交わされたのである。筆者は特にガストン・バシュラールの化学哲学を本稿で紹介し、以下の問いを発する:化学や化学史だけがバシュラールを、分析/総合の概念や実体の概念、科学的対象の概念に対する独自のものの見方や知識論へと導いていったのか?そこで筆者はバシュラール哲学において「化学」や「化学史」とは何かを内省し、科学者や哲学者らの論点の違いを浮き彫りにし、バシュラール独自の哲学的対象の構造へ寄与する哲学的思想の輪郭を簡潔に描く。
 
 「分析」と「総合」の化学上の概念に対するバシュラールの考えは、要は「分析より総合の方が偉い」ということである。「困難は分割せよ」というデカルトの標語以来、化学では物質を要素へと分析することで全体が理解でき真理に近づけると考えられてきた。バシュラールはこれに異議を申し立てる。例えばナトリウムの金属としての性質や塩素の有毒な性質を理解したところで、そこから合成産物の食塩の性質を理解することは難しいだろう。分析は化学の必要条件だが、知識を得る手順の1段階でしかないのである。化学において分析はむしろ、新たな物質を化学合成することを目的としているのである。複雑な物質を単純な要素へ分けるよりも、新たな物質を合成する方が、得るものは大きいのである。
 
 次に科学的対象の概念について。バシュラールの考えでは、単なる経験的対象と科学的対象はまるきり異なる。目の前の対象の素朴な実在を疑わず理論を打ち立てようとすると、認識論的障害、つまり物事の原因をとらえようとして精神を電波な夢想やイマージュに入り浸らせてしまうような傾向に陥ってしまう。バシュラールによると科学史はこうした障害を乗り越える歴史である。つまり、人間精神に伴う自然な傾向を理性によって取り除き続けるのである。こういうわけでバシュラールの認識論は歴史的でしかありえず、認識論が扱う科学に不動の状態はありえないのである。
 
 そして実体概念について。バシュラールによると、アリストテレス以降哲学においてその実在が疑われることはなかった実体(現象の背後に存在する不動の主語)は、化学史の展開に伴って否定されるのだ。初期の化学者たちはみな実体論者であったとバシュラールはいう。「実在論は唯一の生得の哲学である」と、バシュラールは人間には自然な実在論的傾向があり、実在の背後にある実体を想定してしまうと考えたのだ。しかしバシュラールの主張では物質は固定されたものではなくてプロセスである。「存在は単調関数ではない」、つまり、不動の実体が存在して、複数の変数によってその状態が定まるような代物ではないのだ。それは物質に対するエネルギーと時間の関係をみることで立証される。エネルギーはバシュラールにとって実体の統合された一部であり、後者は前者とおなじくらい実在的である。エネルギー交換は物質の変化を決定し、物質の変化はエネルギー交換を生む。これらの過程は時間的で、バシュラールにとって時間はエネルギーを介して物質に刻み込まれるのである。筆者はここで、実体概念の変化は化学だけでなく哲学にも適用されるという。(まとめに続く…)