錬金術師の隠れ家

書評など。キーワード:フランス科学認識論、百合、鬼頭明里 https://twitter.com/phanomenologist

仲谷鳰『やがて君になる』第1話を読んでみた。

 筆者の所属する東京大学百合愛好会の催し的なもので、仲谷鳰の『やがて君になる』の第1話を読むというのがあったので、今回個人的に感じたことを記事にまとめてみることにした*1

 

あらすじ:恋する気持ちのわからない小糸侑は、中学卒業の時に仲の良い男子に告白された返事をできずにいた。そんな折に出会った生徒会役員の七海燈子は、誰に告白されても相手のことを好きになれないという。燈子に共感を覚えた侑は自分の悩みを打ち明けるが……。電撃コミック大賞金賞作家が描く、ガールズラブストーリー。(https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_AM05000013010000_68/

 

 第1話を読むにあたって注意したいことが2点ある。第1に、予め視点を置いておくことである。評者による何かしらの視点なくして語られた評文に価値はまるでない。作品を一個よんでそれを徒然だらだらと語っただけの文章など誰が読むというのか。ある程度評者の視点をはっきりさせといて、それに従って書くことによって、読者は読みやすくなるだろうし、何より書いてる自分も書きやすくなる。そこで今回、次の3つの視点を予告しておくことにする。

①登場人物のコード

②漫画の巧さー七海燈子の人物像

③漫画の巧さー小糸侑の人物像と作品のテーマ

 注意点の2番めは、純粋に『やがて君になる』の第1話だけの特徴を語るに徹することである。自分の関心としては、第1話がどのような構造をしているか、どのような登場人物が登場してどのように語られるか、どう巧妙に描かれるかを分析したい。それゆえ他の回の参照や対応関係の分析はできるだけやらないことにした。ただ、テーマの分析にあたっては、第1話だけでは作品全体のテーマを理解するには情報が不十分である。なので第1話だけで語れることには限界があることを自覚し、それを超えることは禁ずることにする。

 

①登場人物のコード

 登場人物のコードとは、「その作品の属するジャンルにありがちな人物造形のこと」と規定しておこう。今や百合漫画の金字塔の名高い「やが君」であるが、ここではあえて「やが君」のゼロ度から読んでみたい。まず、表紙である。

やがて君になる(1) (電撃コミックスNEXT)

この表紙を見て何を思うだろうか。二人の少女が見つめ合っている。だが、一方は無表情で、他方は笑みを浮かべていて……などと表情や手付きから色々考察できるだろう。

だが、ここではもっと初歩的なところからはじめてみたい。

  • 左側の少女は黒髪ロングで、右の少女よりも背が高い。
  • 右側の少女はくせ毛気味で、髪がピンク色で、アホ毛がある。

単純に人物造形について分析してみた。それが何になるというのだろうかという読者もいるだろう。だが、作品に対し読者がまずまなざすことになるであろう「表紙」というから、この二人の人物の造形に注目することは、本作を読み解くうえで重要である。それというのも、この上記の人物特徴は、まさしく「百合」というジャンルの伝統に即するものだからである。それは、「お姉さまと私」というコードである。

 百合ジャンルの黎明と名高い今野緒雪作(イラスト:ひびき玲音)『マリア様がみてる』の主役である赤薔薇姉妹を思い出して欲しい。学園の生徒会長に相当する「ロザ・キネンシス」である小笠原祥子は、容姿端麗、成績優秀、家柄良好の自他に厳しく気高さに溢れた御仁である。他方でその擬似的な「妹」にあたる福沢祐巳中流家庭に生まれ、成績は平凡、容姿はどちらかというと気品あるというよりは可愛らしいタイプの、抜けたところのあるごく平凡な少女である。性格や出自に関してまるで逆の二人であるが、それを象徴するのが「髪」であるといってよい。鳥居江利子の言を借りると「こしがあって、サラサラで、真っ直ぐ」(第1巻 Kindle版、2734/2906)で長い髪をした祥子に対して、祐巳は結いやすい短い髪である。髪型も祥子は結うところのないロングであり、それに対して祐巳ツインテールにしている。黒髪の祥子に対して、祐巳の髪は栗色である。

 

 

 登場人物の髪がその人物の性格を象徴することは、キャラクター文化における基本的な文法といってよい。漫画における登場人物の髪の毛の色は主に黒と白の二項対立によって形成されている。それはもちろん、漫画という媒体が黒と白の2種類の色相で形成されているからだが、髪色の対比は有彩色の媒体にも受け継がれ、有彩色の髪のキャラクターと低彩度の髪のキャラクターでカップリングが形成されることが多くなる。比較文学者の四方田犬彦によると、この髪色は登場人物の性格をも象徴しているという(pp.229-232、『漫画原論』、1999)。

 

 

 髪色だけでなく、髪型も重要である。祥子は気品溢れるロングであり、彼女が髪を常に大切にケアをし、毎朝きちんと整えて登校していることを想像させる。祐巳ツインテールだけでなく後れ毛やくせ毛であり、そこからは快活さやおっちょこちょいな一面が垣間見られる。二人の登場人物の髪の色やセットが、そのまま二人の登場人物の性格を象徴し、対比になるのだ。

 登場人物の対比的な容貌の設定は、その人物らの受難をも運命づける。黒髪ロングの完璧なお姉さまが本当に「完璧」であれば、そもそもドジな祐巳と接点をもつことはないはずである。であればこの二人をどう接点をもたせるのか。「姉」に対して何かしらの精神的な苦難、それも傍から見ればまるで分からないような苦難を抱かせるのである。「レイニーブルー」の時点で祥子は何を祐巳に隠しているのか、普段の彼女と違いなぜ約束を破り続けるのかという「謎」があり、それで二人は仲違いしてしまった。それに対して周りの人たちに勇気づけられた祐巳は、祥子に寄り添うために真実を知ることを決心するのである。「妹」に対しても運命づけがなされていることがここで確認できよう。物語の主人公としての「妹」は、単に苦難を前に立ちすくんでいるだけでは物語を進展させることはできない。髪に象徴されるような明るさと快活さでもって真実のその先へ向かおうとするのである。

 

 こうした姉妹関係のコード化は、マリみて以降百合作品に定着していったといってよい。もっとも、80年代の少女漫画は白髪(金髪)は知的で聡明、黒髪は情熱的というコードがあったようであるが(pp. 230-231、『漫画原論』、1999)、百合作品では逆に、黒髪は知性や荘厳さ、白髪(有彩色の髪)は快活さを意味するようである。『アサルトリリィ』の白井夢結と一柳梨璃の姉妹はこのコードを忠実に再現している。マリみてブームを受けて実施されたメディアミックス作品である『Strawberry Panic』のメインとなる花園静馬と蒼井渚砂は、静馬は黒髪ロングではなくホワイトのカーリーヘアではあるが、むしろ本人の過去に伴われるような神秘性を醸し出して、ポニーテールの渚砂といい対照をなしている。

 

 話が非常に長くなってしまった。「お姉さまと私」のコードのまとめに入ろう。戦前のエス文化のリフレインであるとされるマリみての「スール」制度を実践する祥子と祐巳の姉妹は、黒髪ロングの高貴なお嬢様が栗毛の凡庸でドジなところのある庶民の祐巳を教導するという関係にある。しかしそれだけではない。祐巳は言われるがままに姉妹の契を交わすのでなく、祥子に対し対決を申し込んだり、祥子が抱える悩みを知り精神的に寄り添ったりと、積極的に行動を起こす。こうした姉から妹への「教導」、妹から姉への「解明・参与」は、「お姉さまと私」のコードのもとにある二人の登場人物の物語の軸となるものでもあり、後続の姉妹百合を展開する作品でも受け継がれているものなのだ。

 『やがて君になる』に戻ろう。上述のような百合漫画における「お約束」を踏まえて表紙をまなざせば、典型的な「あれ」だというイメージが湧くと思われる。とはいえ、「妹」に相当する方の右の少女には表情がまるでなく、読者は「快活さ」とはまるでかけ離れたこのイメージに疑問を抱くことになるのだが、ここが本作の肝となることは、本作を読みすすめるとすぐに分かる。

 

②漫画の巧さー七海燈子の人物像

 「この人物はどのような人物であるのか?」は表紙の時点でも、「百合作品のコード」を念頭に置くことである程度予測がついていた。だがもちろん、先入観だけでは登場人物のことは分からない。きちんと読み進めていくことが重要である。この二人はどういう人物なのかを読解していく。まず燈子からみていこう。

 七海燈子が初登場するのは8ページ目。男子から告白されている場面であり、侑がそれを垣間見た体で描かれている。彼女がその告白を断った後、侑と出会い、自己紹介する、という展開である。

 この8-13ページにおいて、実は燈子がどのような人物であるのかの叙述はほとんど存在していない。にもかかわらず、我々はこの七海燈子という人物がどのような人物であるのかについて多くを知ることができる。まず、男子から告白されている時点で、端正な顔立ちと長い黒髪も相まって、「この人物はモテる」ということが分かる。次に、告白を断る台詞である。

「ごめんね 君とは付き合わない」(p.9)。

「付き合えない」ではなくて「付き合ない」である。告白を断る原因が環境や相手の器量のためではなく、自分の意志にあることを明確に示す人物であることが、この言葉の使い方だけではっきり伝わってくる。さらに、「七海さんと俺じゃ全然釣り合わないし」と卑下する相手をたしなめ、付き合わない原因を彼の資格ではなく自分の自由意志にあることを示すことで、意志の強さが明確になるだけでなく、必要以上に相手が落ち込まないようにフォローすることができる人物であることが理解される。

「私はただ 誰に告白されても付き合うつもりないだけだから」(p.9-10)

初対面の侑に対する「今のは内緒にしといてね」というのも、自分に告白して振られたという噂が立たないための彼女なりの気遣いだろう(無論自分のためでもあろうが)。そして13ページ目において、彼女が生徒会の人間であることが自己紹介で明らかとなる。

 この時点では、侑が燈子のことをどのような人物だと思っているのかが明確でなく、せいぜい学年を指示するリボンの色から彼女が2年生であると判断するだけである。モノクロの漫画ではリボンの色はわかりづらいので、こうした台詞が必要とされるのである。あとは14ページ目、後の回想で「かっこいい先輩」だと思っていたことが判明するくらいである。

 以上のように、燈子の初登場のシーンでは彼女の人となりについては、「容姿端麗・成績優秀」というような紋切りの語り口が一切存在しない。そういうものがなくても、彼女がモテること、意志の強い人物であること、他人に気遣いのできる人物であること、生徒会の人間であること、2年生であることと、多くを知ることができる。人物の特徴を箇条書き調に並べ立てなくても、物語のシークエンスを追っていくだけでどのような人物かが分かる。これが本作の「漫画の巧さ」のひとつであると思われる。

 「気遣い」に関しては、28-9ページ目にも描かれている。侑が燈子に悩みを打ち明けるか逡巡する場面。そこで燈子はお茶を差し出す。18ページ目で侑がお茶を淹れていたのとは対照的だ。一般にお茶にはリラックス作用があると言われるが、何かを打ち明けたい表情を察した燈子は、お茶を出すと同時に話を聞く姿勢を差し出す。先輩でありながら後輩にお茶を出すという仕草にも彼女の気遣いの良さが現れている。

 ところが、この「かっこよくて面倒見のいい優しい先輩」のイメージが、終盤に瓦解する。侑が電話を終えた直後である(pp.41-46)。それまで励ますように手を握ってくれていた先輩の手が離れない。握られた手からは汗ばんだ感覚がする。44ページ目で燈子はいきなり侑の身体を自分の方に強引に引き寄せ、そして最後のページで決定的な言葉を告げる。

「だって私君のこと好きになりそう」

相手に対し心遣いの行き届いた先輩の姿はここにはいない。存在するのは、下級生の身体を支配し(ここには官能性すら見られる)、理解不能な言葉を告げる上級生の姿である。告白の言葉は透き通り輝くような吹き出しで彩られているにもかかわらず、恋する気持ちを理解できない侑にとってそれは濁った異物である。

 ここで、表紙の時点で浮かび上がった「お姉さまと私」のコードに亀裂が走ることが分かるだろう。燈子はここで「優れた上級生」の仮面を捨て、下級生の世界に対する異常な侵犯者となるのだ。

 

③漫画の巧さー小糸の人物像と本作のテーマ

 第1話だけ読むと、本作のテーマは「好きとはどういうことか」であろうことが読み取れる。それというのも、本話の34ページ目、さらには最初と最後のページで侑の口から「人を好きという気持ちが分からない」ことを何度も繰り返し語られるからである。人を好きになろうとしたけれどなれなかった少女が、そのうち「好き」という気持ちを理解していく話になるのだろうということが、本話から推測できる。

 ところでこのテーマに関連して、ある性的指向を思い出すことになる。「アロマンティック」である。「アロマンティック」とは他者に対して恋愛感情を抱かない性的指向のことである。これは正直あまり周知されているとはいいがたい概念である*2。「同性愛」なら百合漫画を読んでいる層にはお馴染みであろうが、「アロマンティック」はそうではない。それゆえこうした心理を作品で扱おうとすると、登場人物の気持ちが読者には理解できないのではないかという作劇上の困難がつきまとうことになる。とはいえ読者は本作で侑の「分からない」気持ちを分かることができる。彼女の気持ちが理解できるように、人々に訴えかける手法で工夫が凝らされているからである。

 まず、17ページ目。恋愛感情を知っている同中出身の友達二人に対する気持ちの距離を表現するのに、侑と二人の間で席が大きく離された1枚絵が提示される。「この二人と私は違う」ということが、シュルレアリスムめいた強烈な光景によってはっきりと印象付けられることになる。

 次に32-33ページ目。32ページ3コマ目と33ページ1コマ目とで、空想上の恋愛を知って浮かれ飛び跳ねるであろう自分と、恋愛感情が分からず地に足がついたままの自分とでコントラストが生まれている。侑は別に恋愛がしたくないわけではない。ただ、その気持ちが分からず、悩みを生じさせていることがよく理解できる。

 さらに34ページ目の台詞。地に足がついたまま連続して表示されるコマと同時に次の台詞が語られる。

「大丈夫わたしはきっと ほかの人より羽根の生えるのが遅いだけで きっと今に もうすぐ…」

これは、性別違和の人間が自身の身体感覚に対して抱く言明や、異性愛規範に自身の性的指向を合わせたいと思う人間の台詞と同じ言葉である。アロマンティックのことは知らなくても、いずれ自分が望む形になれたり、あるいは規範に沿う形になれたりするのではないかと考えを巡らせた経験のある人間にとっては、馴染みのある言葉ではないだろうか。

 我々は侑のともすれば理解不能性に陥りかねない心情を、明快な様式や馴染み深い語彙によって理解することができた。広く知られるとは言い難い心情を漫画的技術により理解可能に近づけることに成功していることに、本作の「漫画の巧さ」のいち側面をみることができる。

 

まとめ

 以上3つの視点から分析してみた第1話における登場人物像は、本作を読む前と読んだ後とで以下のように変遷を遂げることになる。

七海燈子

 百合漫画における黒髪ロングの優れたお姉さまという第一印象。事実彼女の優れた上級生としての側面が、モテ描写、気遣いの描写、生徒会役員という肩書の描写などから読み取れ、下級生の悩みを聞き行動を見守るという形で「教導」するところが描写された。それが終盤、下級生を力によって縛り付けるある種の野蛮性を見せ、「だって私君のこと好きになりそう」という「お姉さま」には相応しくない台詞をいきなり告げる。

小糸侑

 百合漫画におけるくせ毛気味の平凡な妹という第一印象。表情をしばしよく変えるところは「百面相」の福沢祐巳を想起させそうだが、第1話では凡庸さではなくむしろ「異端さ」「人に言えない悩み」に対する自覚が強調されており、従来の「妹」のコードから大きく外れていることに気付かされる。上級生から告白されても驚きはこそすれ、赤面などすることなく「この人が何を言っているのか わからない」と長方形の中で告げるに至る。

 かようにして、『やがて君になる』は百合漫画の姉妹の形式を一部拝借しながらも、そこから大きく外れることでその独自性を見せつけていることが、第1話から読み取れる。そこに我々は驚きを覚えるのだ。

*1:なお会は現時点で途中であり、会では表紙と第1話の2Pしか読んでいない。本稿で語るのはほとんどが筆者当人の先走りである。

*2:

もちろんある種の性的指向を物語のプロットに組み込むことは危険な行為でもある。性的指向を物語上「乗り越えるべき障害」であると規定することになってしまいかねないからである。そうなっていないかについては第1話だけでは判断できない。この件については本作を読みすすめるしか分析する術はないが、それは「第1話だけを読み解く」という本論の意図から離れることになるので、ひとまずここで差し置くことにする。

本件の問題系については、次の論考が参考になる。

松浦優「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向 : 仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から (特集 〈恋愛〉の現在 : 変わりゆく親密さのかたち)」(pp.70-82、『現代思想』2021年9月号)

準異邦的存在としての佐藤聖ーMarta Fanasca "Tales of lilies and girls’ love. The depiction of female/ female relationships in yuri manga"(2020)

 本稿(邦名:「百合物語とガールズ・ラブ。百合漫画における女/女関係の描写について」(拙訳))では、2000年代以降に発展した「百合漫画」ジャンルの間メディア性・間テクスト性の分析が行われる。つまり、「百合漫画」が戦前の吉屋信子エス文化などの少女文化や、1970年代にたくさん描かれた少女同士の恋愛を描いた少女漫画との関係を示している。

Firenze University Press - Università degli Studi di Firenze - Tales of lilies and girls’ love. The depiction of female/female relationships in yuri manga

 

 筆者は2000年代以降に現れた「百合」ジャンルの特徴として

①1970年代の漫画と違い同性愛認識が肯定的

②現実的なレズビアンの関係を描いたものではない 

という2つの点を挙げている。

 

 ①については、山岸凉子の「白い部屋の二人」や一条ゆかりの『摩耶の葬列』を読めば分かるとは思うが、1970年代の少女漫画では女性同性愛はたいてい悲恋で終わる。あるいは、同性愛的表現があるものの、結末としては異性との恋愛に向かうものもある。藤本由香里はこうした悲観的な描き方の原因を経済的要因に求め、女性同士で幸福を追求することが「リアル」とはみなされなかったと見る。しかし2000年代以降の百合作品では、社会的な判断が作品の結末に影響するということはあまりなくなったと筆者はみている。評者のなじみの言葉で言い換えると、1970年代のレズビアンを扱った少女漫画と、2000年代の百合漫画との間には「認識論的切断」がみられる、ということだろう。

 

 ②についてはマリみてが取り上げられる。マリみては戦前のエス関係というロマンチックな友情を再現したものだが、それがヘテロ規範から離れた女子校の在学期間だけの、閉鎖的な環境での純粋にプラトニックな感情を表現するという点も継承している。

 「佐藤聖がいるではないか」という反論も想定されるだろうが、本稿ではマリみてにおけるアノマリーとして佐藤聖に着目している。聖のロサ・ギガンティアであるにも関わらず非規範的な振る舞いや日本人離れした容姿は、彼女の本作における辺境的な立場を象徴する。佐藤聖はかつて下級生の同性の恋人をもつも駆け落ちの末に向こうが手を引くという悲恋を経験している。こうした彼女の経験は、エス関係でもヘテロ規範でもない、性的魅力に基づいた感情であり、本作にとり準異邦的な概念である。

 

 ①②は次のように言い換えられる。「百合漫画(特に2010年までに出版された作品)は、レズビアン関係を表しているのではなく、多かれ少なかれエス関係の概念と密接に結びついた少女と少女の恋愛物語なのである。このような理由から、百合物語は(1970 年代のマンガのように)ネガティブでダークな結末を迎えることはなく、女性の同性愛に対するスティグマの影響も受けない。」(p.61)

 

 とはいえ、百合漫画はレズビアンの現実を描かないのかというと、そういうわけでもなく、本論は2000年以降の百合作品を3つの段階で描写し、3つ目の段階でそれが描かれるようになったという。

1. マリみてなどのエスの継承。しかしレズビアン関係はむしろ辺境に置かれる

2. ストパニなど、ホモエロティック描写を取り込みながらのハッピーエンド展開を描くようになった作品。

3. Citruややが君など、物語の舞台が閉鎖的でなく、経験される感情が思春期特有のものとすることが否定され、レズビアンにとっての現実を描くようになった作品。

 

 結論部では現在の百合漫画を3つに分ける(先の段階分類とは微妙に対応していないので注意)

1 古典的百合。恋愛というより10代の憧憬感情を表現する。女子校という時空の枠に限定される。

2 過去の伝統や少女文化とのつながりを保ちつつも、キスやセックスなどの斬新な要素を取り入れ、少女たちの愛をより理想的に描き、レズビアンカップルの現実に近い問題を取り入れた作品。

3 少女文化の伝統はまったくなく、幅広い年齢層のキャラクターによる、レズビアンの個人やカップルが経験する問題をよりリアルに描いた作品。『Love my life』(やまじえびね 2006)、『さびしくてレズ風俗に生きてみましたレポ』(永田カビ 2016)など。LGBTQ+としてより明確に定義される。

 

コメント

 本論は「現実のレズビアン描写との関係」から、2000年代以降に確立してきた「百合漫画」という作品のジャンルを3つに分類する試みといえる。個人的には佐藤聖の扱いが興味深かった。佐藤聖レズビアンのキャラクターとして描かれるので、『マリア様がみてる』を百合作品とみなす際のひとつの傍証として扱われるのが多かったのだが、本作においては逆に例外的なものであり、本作に内在する規範性や閉鎖性を象徴すると解釈することも可能なのかと勉強にはなった。それを踏まえると、以下のサイトにおける「ガチンコ百合」としての佐藤聖に対する言及も、単なるギャグとは別様の意味をもつように思えてくる。

そんな祐巳をそっと影から見守るのは唯一ガチンコ百合を実践し純粋培養の女学生たちを喰い散らかす聖リリアン学院のハンニバルこと白薔薇さまだったのです!

www.mangaoh.co.jp

 

 とはいえ若干誤読も目立つ。佐藤聖アメリカ人というのは、幼少時の鳥居江利子が日本人離れした容姿を「アメリカ人」と呼んだだけで、確かアメリカ人の血が流れているとかそういう描写はなかったはずである。また佐藤聖は作中人物や読者にかなり人気があって、あまつさえ主人公福沢祐巳の精神的支柱にもなっている。佐藤聖は『マリみて』において結構重要な役割どころで、祐巳にちょっかいをかけてそれを祥子が咎めるというような形で祐巳と祥子の姉妹関係を撹乱する一方で、祐巳が祥子と仲違いした際はその相談相手になってくれたりもするのである。無論スールの藤堂志摩子との深い関係も、同僚の蓉子や江利子との気のおけない関係もある。それを踏まえると、久保栞との関係は本作における例外状態といえるとはいえ、佐藤聖本人は必ずしも本作におけるつながりのネットワークから孤立していたわけではないとはいえる。

 

 また『マリア様がみてる』と吉屋信子作品との関係を自明のものとするのは実はかなり警戒を必要とする。筆者の今野緒雪は実はマリみて執筆まで吉屋作品を読んだことがなかったからである(『ユリイカ 百合文化の現在』 2014, p.40)。無論「いばらの森」の執筆までに読んだ可能性はあるが、『花物語』の「黄薔薇」と関係があるのかどうかは果たして定かではない。だいたい佐藤聖白薔薇であり「黄薔薇」ではない。マリみての世界観は知り合いのBL作家たちのエスに対するイメージを取り入れてできたとみることもできるが、作者の女子校での経験をある程度盛り込んだものであるとみることもできる(ロマンティックな要素は想像であろうが)。マリみてエス文化とのつながりは言説的なものというよりは、どちらかというと「女子校」という空間に継承されていたのだと見ることができるのではないか。

 

 

 

(読書)『ジェンダー・トラブル』におけるフーコー批判ーエルキュリーヌ・バルバンをめぐって

※本論は『ジェンダー・トラブル』の邦訳旧版(1999)から引用

 エルキュリーヌ・バルバンは1838年に生まれてからフランスの修道院で育ち、1868年に自殺した人物です。この人物がなぜ注目されることになったのかというと、彼/女は出生時は女性として診断されるも、のちに半陰陽であることが分かり、医師や法律家によって強制的に男性へと法的変更を迫られたためです。彼/女の自殺の原因はまさしくこうした医学や法の抑圧によるものでした(エルキュリーヌは法的変更後の名前で、それ以前の名前は「アレクシナ」といいます)。バルバンによる自伝を哲学者ミシェル・フーコーが当時の医学や裁判の文献を調査するなかで発見し、序文をつけて英訳して出版したのです(1980)*1。彼/女の誕生日である11月8日は「インターセックスの日」という記念日となっています。

 

 

 この序文は「真のセックスは本当に必要だろうか?」という挑戦的な一文で始まり、既存の男女二元論のセックスのカテゴリーに当てはまらないエルキュリーヌの身体の多様な可能性を封じ、単なる「男性」へと彼/女を押し込め死に追いやった医学や法に対する痛烈な批判を繰り広げています。フーコーによると法的変更を迫られるまでのエルキュリーヌの生は「アイデンティティのない幸福な中間状態」であり、教師や恋人のサラを相手に既存のセクシュアリティには当てはまらない多様な快楽を享受することができたということです。

 

 しかし、両性具有に多様な快楽の場を夢想するフーコーの説に批判を唱えた人物がいました。アメリカの哲学者ジュディス・バトラーです。

 

 

 バトラーは自身の著書『ジェンダー・トラブル』(1990=1999)の第3章第2節(p.172-198)にて、フーコーの主著『性の歴史』の第一巻「知への意志」(1976)と、この序文とで明らかに主張が異なることを指摘しています。『知への意志』ではセックスは権力によって社会統制を行うセクシュアリティ装置の結果であり、性的快楽や性的欲望すらも装置によって形成されたものであるとされています。しかし「序文」ではセックスのカテゴリーの消失した世界には快楽の多様性があるとされています。カテゴリーを通じた抑圧がないおかげでそれに囚われない快楽の可能性があるというのです*2。この2つを並べると矛盾が生じているように見えますが、バトラーは後者に誤りを見出します。

 

 バトラーの議論は錯綜してて追いづらいので整理してみましょう。バトラーが批判したいフーコーの主張は下記のようになります。

①「性的アイデンティティ(私はこの性別である、こんな身体である、こんな性的指向である……など)」としてのセックスがエルキュリーヌ・バルバンの修道院時代には存在しない。

②セックスのカテゴリー以前の快楽が存在する。

③性的アイデンティティがないことは、同性愛の文脈で生産されるものであり、セックスのカテゴリーの打倒手段である。言い換えると、同性愛者にとって性的アイデンティティは快楽を差し金として抑圧をもたらすものなのだから、ないほうがよい。

 これらを主張はははたして妥当なのか、ということをバトラーは検討することになります。

 

 

①性的アイデンティティはある

 フーコーはエルキュリーヌの「アイデンティティのない幸福な中間状態(limbo=洗礼を受けずに亡くなった赤ん坊やキリストが生まれる以前に亡くなった善人が向かうところ)」は、ほとんど女しかいない排他的な空間に隔離されたために可能になったとほのめかします。この排他的な環境は規範によって修道女たちに「アイデンティティのない幸福なlimbo」を巧みに奨励していく構造をもちます。しかし、なんでアイデンティティがないのかというと、フーコーは修道女同士で身体が似通っているからだといいます。

 「この場合、信仰生活と学校生活で単一の性が保たれることによって、性的にアイデンティティがないがゆえに発見され導き出される優しい快楽を育む。それは、互いに似通った身体どうしの間では、性的アイデンティティが迷子になってしまうからである。」introduction

 ところがエルキュリーヌは自分を男性の「簒奪者」だと位置づけています。それは、彼/女が自分が拒否している男性性に参画していること、同時にそのカテゴリーが脱自然化されるトラブルが生じうることを意味します。その一例として、エルキュリーヌは恋人のサラと互いに身体が異なっていることを認識し、あまつさえ性交に際して彼女の身体を支配するというイメージを抱いています。アイデンティティがないというよりは、アイデンティティに参与しつつ撹乱している、というところでしょうか。

 

②快楽はすでに生産されている

「だが彼の読みが根本的に誤読していることは、このような快楽は、あまねく存在しているが分節化されない法のなかに、つねにすでに埋め込まれており、それが歯向かっているはずの法によって、実際には生産されていると言うことである。」(『ジェンダー・トラブル』、p.178)

 エルキュリーヌが味わっていた医学や法に裁かれる以前の快楽すら、そもそも彼/女が半陰陽として生を受けた最初から、その実法によって生産されていたものであるとバトラーは言います。どういうことか。エルキュリーヌの身体はまさしく既存の医学や法律に囚われない「二律背反」の身体であったわけですが、それは医学や法によって断罪されるあの地点だけでなく、教師や恋人と親密な関係を築いていた修道院時代にも効果を及ぼしています。「男性の簒奪者」としてのエルキュリーヌのアイデンティティは、明らかに男女二元論のセクシュアリティを前提とし、それを侵犯・撹乱するという形で築かれています。既存の性交様式に囚われない快楽も、結局は既存のセクシュアリティ装置を前提として成り立っているということです。

 

③性的アイデンティティは必要

 なぜフーコーは性的アイデンティティを拒否するのでしょうか。それも、手記のなかでは筆者が恋人との身体的違いを認めているのを無視してまで。

 フーコーは「恋人がタクシーで帰るとき」というインタビューで、ラディカルレズビアンによるゲイとレズビアンの違いを、特に対人関係の持ち方の違いを強調する姿勢を一笑に付しています。なんで笑ったのかというと、こうした差異はセックスの領域に「同一性」と「他者性」の二分法をを設定するからです。異性愛体制のなかで、ことさらに「自分たちはこういう性的アイデンティティである」ということを強調し(同一性)、「あの人たちはああいう性的アイデンティティだ」と判断して自分たちと区別を図ること(他者性)の間にある区別、これはいずれひとつにジンテーゼされてしまう弁証法を生み出す危険性があります。歴史から取りこぼされてしまったもの、社会の周縁にあるものを重視するフーコーはそれを危惧したのです。

 だがしかし、セックスの領域における同一性と他者性の弁証法は偽の二分法であるとバトラーは言います。イリガライを引用することで、そもそもセクシュアリティ装置において同一性は「男性主体」の同一性であること、さらには他者性とはその「男性主体」を構成するのを補助する差分であることを指摘します。この意味で、そこから外れる女性のセックスは「ひとつではない女の性」であるといえます。それは、セクシュアリティ装置によって女性は実体的なアイデンティティを付与されるのではなく、自分自身を不在のものとみなす機構(セクシュアリティ装置)とのあいだにつねに不決定な差異の関係しかもてないからです。女性やエルキュリーヌの快楽の複数性はまさにそこに起因するのです。

 しかしそれはエルキュリーヌが法の外にいることを意味しません。エルキュリーヌの「笑い」との関係は、第一に他者から笑われることへの恐怖であり、第二に医者が自分をうまく診断できなかったことに対する嘲笑です。これらはどちらも人を断罪する法に明らかに関連するものであります。そもそもエルキュリーヌの性的気質は最初から二律背反的で、それは修道院の義務と禁止と解釈できるような、セクシュアリティの生産構造の二律背反を反復したものであります。

 バトラーにとり、性的アイデンティティは運動当事者にとり必要なものです。しかしそれは同一性と他者性の弁証法を呼び込むものとしてではなく、偽りの二分法を生み出す男性主体中心のセクシュアリティ体制を撹乱するものとして必要なのです。

 

しまいに

 なぜバトラーはフーコーの性的アイデンティティを拒否する姿勢を批判するのでしょうか。『ジェンダー・トラブル』の序文によると、「性差に対する問題含みの無関心」(p.12)がフーコーの著作に見られることを指摘しています(③での議論ですね)。それどころかフーコーの批判それ自体が、彼の批判対象の医学実践をなぞっているとさえ言います。フーコーが医学実践をなぞっているのは、フーコーがセックスを単一的な、多様性を許さないカテゴリーとして捉えていることに起因します。セックスのカテゴリーをモノフォニー的、それ以前の快楽をポリフォニー的なものとみなすことで、フーコーは人工的な文化の法と自然な異種混淆性としての快楽の二分法を構築してしまっているというのです。これはフーコーが批判しているはずの抑圧的な医学言説(機能、感覚、欲動など……)の構造であり、観察言語を通じて自然のようにセックスを解剖する態度につながるものです。

 ある意味で、フーコー自身も徹底することのできなかった『知への意志』の主張をその奥まで推し進めたのが、バトラーの『ジェンダー・トラブル』であるということができます。

*1:邦訳はあるにはあるのですが、なぜか序文だけで手記本体の方は訳がありません。しかも邦訳もちょっと手に取りづらい状況にあります。英語版であればkindleで簡単に読めます。

*2:権力にとらわれていない狂気の原型を追求しようとする『狂気の歴史』の頃のフーコーに先祖返りしたのでしょうか?

こんな人生送りたくないなあ 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(ネタバレ注意)

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見た。本日これで2回目である。

 

 
 何度も見に行くということは何度も見る価値のある映画なのだろうと思うだろうが、実際その通りで、現実を超越したケレン味と派手に溢れた凄まじい映像の数々と華やかながら勇ましい音楽、そしてそれらに彩られた少女たちの関係性が個性あふれる形で押し寄せてくるので、とても1回見ただけでは消化しきれないし、何度見ても感動を覚える。
 とはいえ本作で扱ってるテーマは「若者の将来の進路」や「善き人生」と、実に普遍的で手に取りやすいものだ。本稿では本作の基本的な形式やテーマ、テーマに対する応答を整理して、「一体何が起こっているのか?」を簡単に整理してみる。当然ネタバレ注意。

 

 あらすじはこうである。テレビシリーズで第100回目の聖翔祭で『スタァライト』を演じ切った九九組は3年生となり、将来の進路を考える。ある者は歌劇団を目指し、ある者は留学し、ある者は大学進学を目指す。しかし『スタァライト』で「クレール」を演じた神楽ひかりは自主退学して再びロンドンに戻り、取り残された「フローラ」の愛城華恋は、『スタァライト』をひかりとやり切ったことに満足して将来の進路を決めかねていた。ところが、地下鉄を舞台に謎の演目『Wi(l)d スクリーン バロック』が突如開催され、九九組は再び戦う羽目になる(※この時点で何を言ってるのか分からないと思うが、要は殺陣が始まったのだ、と理解しとけばよい。実際突然の流血シーンでぎょっとすることはあるが、すぐに舞台装置によるものだと説明され、その虚構性が強調される)。一方華恋はひかりとの馴れ初めを思い出し、ひかりはWSBでまひるに迫られたことで目の前で輝く華恋のただのファンになってしまうことを恐れていたことを自答する。最後に華恋は舞台に生きることへの恐れをひかりと向き合うことで克服し、永遠に舞台に生き続けることを決意する。

 本作の百合的な見どころは、カプ三組と三角関係の三人とでさらけ出される感情や人生模様が多様なことだろう。単に何の目的もなく生きるのは生きた屍に等しいということを華恋とひかりのレヴューは直接に提示する。舞台で輝くことをテレビシリーズにて自分の目的とする決意を既に固めているまひるは、戸惑うひかりを華恋のもとへと送り届ける。純那は最初学を目指すも、突然始まった演技についてこれなかったりとその実座学に逃げている節があるのではないかとななに突きつけられる。香子は双葉が自分と別の進路をとったことへの不満をそのままレヴューで表現する(雰囲気はまるで違うがこの辺は『リズと青い鳥』っぽい)。クロディーヌは真矢のなかにある驕りを暴き、互いを引き立て役ではない「ライバル」として認め合う。
 このような多様な人間関係の激突が、連作レヴューという形式で矢継早に送り出されるので、まるで国際映画祭で名画を続けて見ているような気分になれる。とはいえ登場人物の上手と下手を固定したりなど舞台的な演出が徹底されているため見づらいということはなく、飽きや疲れを感じることなく楽しむことができる。

 

 本作は「人生」という普遍的なテーマを扱ってはいるが、それに対する答えはかなり極端でシビアである。楽曲 Star Divine に「舞台に生かされている」という歌詞が出てくるが、本当に人生は舞台そのものであるというのだ。WSBはあくまでも演目ではあり、舞台セットをわざと映したり名作名画のパロディをてんこ盛りに盛り込むなど過剰なまでに虚構性を織り込んでいるが、それを演じる少女たちの主張や熱情は紛れもなく本物である。それはむしろ「劇=虚構を通じて生の感情を表現する」というよりは、「劇=虚構と人生が一体化しすぎている」という印象すら抱かせる。

 そのうえ観客の目を初めて意識して演劇を恐怖した華恋は、なんと一度死んでしまう。生きる目的を失ったために事実上の死を迎えるというのは、「ただ生きるのではなく善く生きよ」というソクラテスの命法を極端にとらえたもので、「そこまでするか?」と思ってしまう。実際華恋はひかりの手によってポジションゼロの徴表を切りつけられることで、ひかりがいなくても「舞台に生きる」という目的を見失うことのない舞台少女として生まれ変わるのだ。


 本作は「ただ放埒に生きるのでなく確固たる目的をもって生きよ」という普遍的な命法を独特の映像で表現したものだといえるが、それは「演じ続ける」という目的を失えば、すなわち死だ、という危険極まりない人生を提示する極端なものでもある。そんな人生は三森すずこのような超人には実践できているようには思うが、個人的には送りたくはない。(そのうち自分も実践しなくてはいけないかもしれないが……)

書評:コダマナオコ 『親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。』(2018)

 『親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。』(2018、全1巻。以下、『偽装結婚』とする)は、昨今のラノベのごとくタイトルがその展開を物語っている。厳しい家庭環境に育てられた主人公の真知が、レズビアンの後輩の花の口車に載せられ、渋谷区で制度化されているパートナシップ制度を使って結婚を迫る両親を諦めさせようという作戦を展開する話である。仕事一筋で結婚に興味がなかった真知にとり、最初は見せかけだけの結婚生活ではあったのだが、共同生活をすすめるうちに互いのことを知り段々と心を近づけていく*1

 

 


 作者のコダマナオコは、自身の作品を「光のコダマナオコ」と「闇のコダマナオコ」のふたつに分類している。後者の代表は「不自由セカイ」とアニメ化もした「捏造トラップ」であろう。男性によるレイプやDVというショッキングな題材を扱っているので当然ではある。だが一方で明るくてほんのりエロスの混じる「光」のはずの作品であっても、どこか重たいものを感じることがある。『偽装結婚』は「光」ではあるが、描いているものは異性との結婚を迫る親の圧力であったり、どうせ寿退社するからと重要な案件を女性社員に任せられないという空気であったりと、現代日本社会にごく「ありふれた重圧」が当然のようにそこに存在している。何を当然のことを、という人もいるだろうが、コメディ系の百合漫画作品ではそうした強制的異性愛やそれに伴う女性差別は、読んでいて負担になることからあえて排除していることが多いため、こうしたありふれた重圧をごく当然のものとして描く百合漫画作品はむしろ結構珍しいのだ。

 個人的に興味深かったのはクライマックスのシーンである。親の言いなりだった真知が初めて親に啖呵を切るシーンこそが主人公の成長を示す本作の絶頂点である!……かと思ったのだが、その直後の花との会話ですれ違いが生じてしまう。なんのことはない、花との居心地のいい結婚生活を経て「結婚も悪くない」と口にしただけだったのだが、花はそれを異性との結婚のことだと捉えて勝手にショックに浸るのだ。かつて恋した相手にここぞとばかりに結婚を迫ったくせに、である。ここのところが妙にリアルで、抑圧からの解放に前向きに見せかけつつも、その実ふとした拍子に自らに内面化された抑圧に苦しんでしまうという展開には、社会や他人に対し傍若無人に振る舞う強さを保持できない生きづらさ、とでもいうようなものが表現されていたように思う。

 だが本作は「光」であることは忘れてはならない。親という障害やすれ違いを乗り越えて本当のカップルになっていくのだから。定番の展開ではあるが、現実の女性の生きづらさをあえて引き受けて表現し、最近の渋谷区のパートナシップ制度の制定といった2018年当時の出来事もうまく取り込むことで、現実的な障害を乗り越えて自分たちの生活を作っていこうという強い気概を感じることになる。重い現実をうまく乗り越えていこうという主人公二人の姿に、元気づけられる読者も多いのではないか。

*1:なお、パートナシップ制度は結婚制度と同一のものとみなすのは色々と問題があるのだが、ここではあえて同一のものとみなした。現実に制度化されているものを利用して現実に抵抗する、という点が本作を読む上で大事だと思ったからだ。もちろん同性同士の共同生活を「結婚」やそれに類する公共制度に取り込んでいいのか、という問題もあるのだが、ここではひとまず括弧にくくっておいた。

書評:『鬼頭明里1st写真集 Love Route』

名古屋の申し子

 鬼頭明里は2014年の7月にデビューしてからわずか5年で人気声優の座に君臨した。デビュー作の『六畳間の侵略者!?』にていきなり名前付きの役をもらい、2016年には往年の名作のリメイク作品『タイムボカン24』の主役に抜擢される。2017年9月からはラブライブシリーズの新企画『虹ヶ咲スクールアイドル同好会』のメンバー近江彼方を務め、2019年の1stライブと2020年のラブライブフェスで数万の観客の前で、穏やかながらも音程の正確な歌声と、彼方の魅力を存分に表現したダンスを披露することになった。評価を確立させたのは、アニメ『鬼滅の刃』において主人公の妹である竈門禰豆子を演じたことによる。少年ジャンプというブランドの期待を背負い、他のキャストは花江夏樹櫻井孝宏をはじめとする経歴の長い超豪華声優に囲まれたなかで、言葉を発することのできずうめき声や叫び声でしか表現することのできないという難しい役柄にもかかわらず、彼女はそれを見事に演じっ切ったのである。2019年は他にも『私に天使が舞い降りた!』や『まちカドまぞく』といったレギュラー作品が人気を得たという経緯もあり、「2019年に一番活躍したと思う女性声優」の第1位に選ばれた( https://animeanime.jp/article/2019/12/29/50657.html )。
 2019年の誕生日である10月16日には1stシングルが発売となり、また非常に高いイラストレーションの技術を時折披露しており、和泉つばすにその実力を認められるほどである( https://twitter.com/tsubasu_izumi/status/664802109057929216 )。このように声優だけでなく歌手やイラストにおける活動もさかんなあかりんであるが、2020年1月31日には初の写真集が発売された。本記事はその写真集についての書評である。
 
 ところで「声優が写真集を出す」ことについて奇妙に感じる人も多いかもしれない。確かに声優の本業はアニメやゲームに声をあてることであり、グラビア撮影は副次的でしかない。しかし、ここ近年の声優業界の盛り上がりとともに、配信やライブなどの形で声優の活動の幅が広がっており、写真集を出す声優が増えたことは事実である。例えば、逢田梨香子の写真集は2.8万部を超える発行部数の大ヒットを記録している( https://mantan-web.jp/article/20180725dog00m200042000c.html )。
 人気の高まりにつれてファンが写真集を望むようになったこと、声に限らない自己表現の手段として写真に訴えようという意識が高まっていったことが、声優による写真集の刊行増加の背景にあると考えられる。私としては声優本人の「自己表現」の手段として写真集をみなし、その観点から本書をレビューしてみたいと思う。
 

 

鬼頭明里1st写真集 Love Route

鬼頭明里1st写真集 Love Route

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 秋田書店
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 大型本
 

 

本人のスタンス

 まず、「自己表現」を分析するからには、あかりん自身がどのように自己規定しているか、それをちょっと調べてみよう。上述のようにめまぐるしい活躍をしている鬼頭明里であるが、彼女のモットーは「ゆるい感じで」である。これはツイッターのbioに書かれているものだが、彼女のフォロワー数が20万を超えたときも同じコメントをしていること、ラジオでも同じ言及があることからも、彼女自身の声優生活そのものの方針であると推測される。自身の仕事の多忙さと人気の高まりに反して、本人はどこかマイペースを貫きたいという願望がどこか感じ取れるようである。現にツイッター上では仲の良い和氣あず未春野杏と遊びに行った報告を何度も上げていたり、男性オタクからはあまり受けのよくなさそうな化粧品の写真を上げていたりしている。また、自己実現を図るために両親にたよることなく、自分でアルバイトをして資金を貯めて活動するなど、自分で考えて行動する責任感の強さもみられる。どこか自由な生き方と責任感の強さが彼女らしさであり、また魅力であるとも考えられる。
 

写真集の形式

 他方で、本人の意志と出版社の意向、読者の望むものは必ずしも一致しない。特に写真集にあたっては単にバラバラに写真を収めるのでなく、テーマを設定して書物としての統一感を出さなくてはならない。本書のテーマについてはインタビューのページに記述があり、「あかりんが住んでいた街から旅立ち、夢を追い、そして愛する人と結ばれる、という自分探しの旅」がテーマであることが分かる。サブタイトルには「ROUTE 16」というように日米の国道の名称が使用されており、(実際はすべて国内で撮影したものであるものの)旅する感じがよく表されている。「自分探しの旅」というのは、本人の自由気ままな生き方を表現するのになかなかよいテーマ設定であると考えられる。
 
 だが他方で、「愛する人と結ばれる」という、端的に「結婚」のモチーフも本書には出てくる。正直、これは「自分探しの旅」のイメージにまるで合う気がしない。「結婚」は一方で愛する人と結ばれる幸福とみなされる一方で、「結婚は人生の墓場」という言葉もあるように、己の自由を強く束縛してしまう制度的装置でもある。まして、現代日本の女性は依然家事や子育てを引き受けさせられることが統計的にも明らかである( https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000200711.html )。「結婚」は「自分探しの旅」の本義であるところの自由の発露を、まさに自由からの逃走のような形で溝に捨ててしまいかねないのである。
 なぜこのような表現が採用されたのかについてはまあ想像がつく。ウェディングドレスを見たい、着たいというファンや本人、編集者の願望である。実際ウェディングドレスを着ているあかりんの姿は大変美しかった。しかし、「ウェディングドレス」こそは、「美しさ」を根拠にすることで制度的強制を正当化する美学イデオロギーの典型である。本書にはこうした制度を撹乱するような表現があるわけではなく、「結婚こそ人生のクライマックスである」という、1960年代末までの少女漫画にありがちだった陳腐なロマンティック・ラブ・イデオロギーを打ち出してくるのはどこか虚しさが感じられる。ゆえに、写真集を鑑賞して楽しむのはいいにしても、表現のこうしたイデオロギー性について一定の留保をとらなくてはならない。
 

ツッコミどころ

 それぞれの写真をみていっても、どこかツッコミどころが多い。まず、最初のページで提示される写真は、横浜中華街でのチャイナ服である。これはいくらなんでも安直すぎる気がする。コスプレ写真集なら良いのかもしれないが、本作に出てくるコスプレ・非普段着はチャイナ服とウェディングドレス、それに最後の方のページの『声優パラダイスR』の未公開カット集だけで、大半は普段着である。本書は旅による自己表現がテーマであるにもかかわらず、旅の最初にチャイナ服、最後にウェディングドレスというのでは、先に述べた理由もあり、どこかちぐはぐに感じてしまう。
 とはいえ、あかりんの経歴を追っていくとチャイナ服にもそれなりの意味があるようである。あかりんの高校卒業後アルバイト先はラーメン屋であり、その経験をしばし語っている。「特技はラーメンの湯切り」という語りをすることもしばしばである。それを踏まえると活動初期を振り返るという意味で中華街でのチャイナ服にも意味が見いだせるとは思う。浮いている感じはどこか否めないが。
 
 また、アコースティックギターを弾いている場面もあるのだが、これは意図が謎である。インタビューでも述べているがあかりんはギターは弾けない。現に写真をみても左手指が弦がきちんと押さえていない。これもあかりんらしさを表現したものとはいえないと思われる。撮影するにしても弦をきちんと押さえるよう指導してよかったはずである。また、サブタイトルは「Route246:Another State-Lifework」となっている。あかりんにとりギターは特にライフワークではないというだけでなく、そもそも国道246号線の近くで撮影しているにもかかわらず「Another State」は明らかにおかしい。誤植であると思われる。
 
 本書に見られる違和感を払拭するには、「本書は鬼頭明里本人ではなく、鬼頭明里が誰かを演じた写真集である」と解釈すると整合がつく。例えば最初のチャイナのカットのサブタイトルは「ROUTE 16:Family Business[家業]」であるが、鬼頭家は別にラーメン屋ではない。あかりんが演じる横浜中華街生まれの誰かが太平洋の海岸線やアメリカを旅をして、やがて恋人にプロポーズされて結婚する、という話になっているとするのである。もちろんこうすると、本書は鬼頭明里の自己表現の書ではなくなってしまい、致命的である。ではどこにあかりんらしさを求めるべきであろうか。
 

鬼頭明里の自己表現

 先にも触れたように、あかりんはファンションに強い関心を抱いている。実際、選ばれた普段着のセレクションにそれが強く現れている。
 あかりんが特に気に入ってるのは、再度中華街のシーンに来たときに普段着として撮影した Lily Brown の花柄刺繍のネイビーのワンピースである。Lily Brown はあかりんのお気に入りのブランドで、撮影時には気分が上がったという。花は花びらや葉の形からしてアオイだろうか。アオイは太陽に向かって咲くことから「大望」の花言葉があるという。花言葉の恣意性を差し置いても、葉や花びらをうんと広げて咲くアオイのイメージはあかりんにとても良く似合う。2020年のトレンドカラーはクラシックブルーであり、それを意識しているのかもしれない。ネイビーの地にくっきりと浮き出る白の花模様は彼女の強い自己主張を思わせるようである。またタピオカドリンクを携帯しての撮影で、イマドキ感がとてもあかりんらしい。
 
 旅先をイメージした屋内でのメイクアップのシーンも彼女らしさをうかがわせる。あかりんは化粧品の写真をよく投稿しているが、連写のような形でメイクアップの様子を見られるのは写真集というメディアの形式ならではである。欲を言えば何のブランドを使っているかを知りたいものである。フラミンゴ柄の紺色のホットパンツやヴィヴィッドな赤色の可愛らしいノースリーブシャツは、旅先の宿泊部屋にて、慣れない土地に心浮かれながら部屋着でくつろぐ心情を表現しているようである。
 
 白色のワンピースの写真や、白色のパーカーを着ている写真は彼女の飾らないラフさがよく現れている。サイン会のレポートによると、白色のパーカーが参加者にとり一番人気があったという。男性ファンからはその素朴さが受けたのだと思われるが、あかりんのファッショナブルな側面を考慮すると先の Lily Brown のワンピースや部屋着の方が彼女の本質に迫っているとは思う。
 
 本書では赤2着、白3着(+ウェディングドレス)、紺2着と似たような色合いの服装がけっこう出てくるのだが、それにもかかわらず違うものを表現してみせているのは、彼女の魅力によるものか、スタイリストやカメラマンの腕によるものか。
 「自己表現」という観点からすると、巻末や裏表紙の彼女のイラストが載っていることもポイントが高いといえるだろう。
 

将来への望み

 総じて、形式面において色々とツッコミどころはあるものの、服飾のセンスに気を配ってみると、鬼頭明里の「自分らしさ」というものがよく垣間見えるように思われる。被写体は神の可愛らしさであり、また普段着のセレクトセンスがよい。鬼頭明里らしさを発見したり再確認したり、あるいはおしゃれな写真を鑑賞したりするには買って損はないと思われる。4000円と写真集にしては少々高いが。
 もし旅を自分で計画するとしたら「海外旅行に行きたい」というのが彼女の望みだそうだ。もし写真集の第二弾が出るとしたら、ぜひとも彼女の望みが実現されるような内容になって欲しいものだ
 

 

鬼頭明里2ndシングル「Desire Again」[初回限定盤]

鬼頭明里2ndシングル「Desire Again」[初回限定盤]

 

 

批評の意義とは何かー『やがて君になる』第5巻を参考に

   批評の意義とはなんだろうか?作品は作品だけあればよいのではないのか?そんな議題を本日9月4日、アニクリ編集者・寄稿者の方々たちと話し合ったので、個人的に思ったことを書いてみる。


   私としてはこの問題設定を聞いた時真っ先に、『やがて君になる』第5巻のワンシーンが思い浮かんだ。主人公の侑が劇脚本担当のこよみに、劇の結末の変更を申し出るシーンである。劇中劇のあらすじはこうである。記憶喪失の主人公が元の自分の手がかりを見つけるべく、かつて親しくしていたという三人の人物に話を訊くのだが、三人それぞれによる過去の自分の人物像がバラバラであるあまり、どれが本当の自分なのかわからなくなる…

   最初の結末では、主人公は三人のうち恋人のいう人物像を本物として選び取る、ということになっていた。だが、侑はそれに疑問を呈するのである。以下その部分の台詞の引用である。


あの主人公は…三つの自分の中にどれか一つ「正解」があると思ってる。正解を見つけてその自分になるべきなんだって。過去の自分について見舞い客から話を聞いて日記やメールを探して最後は答えとして恋人といることを選ぶ。

でもそれって今の主人公の意思じゃないんじゃない?昔の自分を基準に決めただけで今の彼女の選択じゃない。舞台の幕が上がって下りるまでの間観客が見てるのは今の主人公でしょ。記憶があったころの彼女じゃなく。なのに過去を基準にして結末を導くんじゃまるでこの劇の時間に意味がなかったみたいだ…(pp.21-23)

 

やがて君になる(5) (電撃コミックスNEXT)

やがて君になる(5) (電撃コミックスNEXT)

 


   物語は見る人間を変える力を持っている、とよくいわれる。もちろん変えない場合もあるだろうが、物語を見るものが望むのは、物語を見ることによって「楽しかった」と感じること、「泣いた」と感じること、「学んだ」と感じることを経験することである。物語に時間を費やすことによって、何かしらの意味が自分のなかで芽生えることを望んでいるのが普通であろう。しかし、見るものを変容させる意志がないような物語は、与えられた選択肢から一つを選ぶだけの結末は、果たしてわざわざ時間を割いて見る意味があるのだろうか?侑の指摘はもっともであるし、本編の物語内容と関連させて言うならば、劇を演じる燈子にもまた過去から与えられた選択肢にこだわらずに新しい自分を見つけて欲しい、という願いも込められている濃密なシーンなのである。


   「見る者を変容させる意志」、ここに創作の本質があるように思える。「見る者に影響を与える意志」といってもいい。「瞬間的な面白み」「葛藤を克服することによる満足」「物語の後も残るお土産」を見る者は求めているからだ。それを満足させられよう、物語は最適化される必要がある。もちろん見る者にも好みというものがあるから、「この物語は私には不満足だった」という感想も出てくることだろう。しかし、最初から見る者を満足させようとしないことと、見る者を満足させようと努力することとは違うことだ。話者は最初から諦めてはいけない。形式を知り、趣向を凝らして、自分の伝えたいを伝える意志はせめて示すべきなのだ。

(上述の物語の意義については、詳しくはヒグチ氏のブログがたいへん参考になった。

http://yokoline.hatenablog.com/entry/2014/08/09/174717 )

 

   批評もまた作品の一つとするなら、同様に侑の指摘は大変示唆的である。批評の意義は何かと訊かれたら、読者に対象作品に対する新しい視座を与え、対象作品に対する評者の熱い思いをぶつけることだ、と答えることだろう。作品そのもののうちで起こったことをただ語るだけでは「批評」という「作品」にはなりえない。せいぜい個人用のメモか、よくわからない人のための解説か、忙しい人のための概要か、背景が分からない人のための注釈にしかなりえない。解説、概要、注釈はもちろん需要はあるのだが、「その作品をみてあなたはどう変わったのか、あなたの文章によって私たちはどう変わりうるのか」が提示されることはない。読者にとっての変容のモデルとしての「評者自身」、これが実際に作品を見たことで変容したことの痕跡もまた「批評」になりうる。このとき、評者はひとつの作品を書いたことになるのだ。